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月影の花嫁は銀狼公爵の運命を拒む  作者: 白石マサル


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第五十九話 あなたが歩いてきた色

 王都の朝は、薄い雲を透かした柔らかな光に包まれていた。公爵邸の庭では、夜露を残した月白花が風に揺れ、白い花弁の先に小さな雫をきらめかせている。リリアは窓辺に立ったまま、その光景をしばらく眺めていた。


 今日は、婚礼衣装を最終的に決める日だった。


 最初に候補として用意された衣装は三十一着もあり、そこから十二着に絞り、さらに昨日ようやく三着まで減らした。数字だけを聞けば順調に進んでいるように思えるが、実際に何度も着替え、布地や刺繍を見比べ続けたリリアにとっては、すでに一つの大仕事を終えたような気分だった。


 どの衣装も美しかった。王都でも名の知られた職人たちが仕立てたものばかりで、布地も刺繍も装飾も文句のつけようがない。だからこそ、単純に一番豪華なものを選べばいいというわけではなく、最後まで迷ってしまったのだ。


 婚礼の日、自分はレオンの隣に立つ。


 そう考えた時、ただ美しいだけではなく、自分自身が納得できる一着を選びたいと思った。


「朝からずいぶん真剣な顔をしているな」


 背後から聞こえた声に振り返ると、レオンが扉のところに立っていた。すでに身支度を整えているが、髪はいつもより少しだけ無造作で、どうやら朝の書類仕事を切り上げてこちらへ来たらしい。


「そんな顔をしていました?」


「ああ。薬の配合を間違えた時と同じくらい深刻だった」


「それはかなり深刻ですね」


 リリアが苦笑すると、レオンは窓辺まで歩いてきた。


「衣装のことか」


「はい。今日こそ決めようと思って」


「昨日、三着まで減らしたと言っていただろう」


「三着だから迷ってるんです。どれも素敵なんですよ」


「俺には違いが分からない」


「見れば分かりますよ」


「本当に?」


 心から疑っているらしい顔をされ、リリアは少し頬を膨らませた。


「昨日だって、ちゃんと違いが分かっていたじゃないですか」


「全部白かった」


「婚礼衣装なんですから基本的には白です」


「なら、やはり難しい」


 真顔で言われてしまい、リリアはとうとう笑った。


 レオンにとって婚礼衣装の細かな違いなど、ほとんど未知の世界なのだろう。それでも忙しい公務の合間を縫って何度も付き合ってくれている。そう思えば、多少気のない反応をされても怒る気にはなれなかった。


「今日はノクスも来ますよ」


「なぜあいつまで」


「昨日から、最終決定には自分も立ち会うって言ってます」


「何の権限があるんだ」


「本人はあるつもりみたいです」


 レオンが小さくため息をついた、その直後だった。


『当然だ。我にも意見を述べる権利くらいある』


 扉の向こうから声が聞こえたかと思うと、小さな夜色の獣が当然のように室内へ入ってきた。ノクスはそのままリリアの足元まで来ると、窓辺に座り込む。


「聞いてたんですか?」


『扉が開いていた』


「盗み聞きではないと?」


『違う』


「それで、今日は何を主張するつもりなんです?」


『藍色の入ったものにしろ』


 間髪入れずに返され、リリアは肩を落とした。


「やっぱりそれですか」


『我の色だからな』


「理由がずっと変わりませんね」


「お前の婚礼ではないぞ」


 レオンが呆れたように言うと、ノクスは黄金色の目を細めた。


『我もここまで一緒に来ただろう。ならば少しくらい意見を言ってもよいはずだ』


 その言葉に、レオンはすぐには言い返さなかった。


 リリアも一瞬黙り、それから小さく笑った。


 確かにそうだった。


 深淵と恐れられていた存在と、銀狼公爵と、ただの薬師の娘だった自分が、今では同じ婚礼について意見を交わしている。以前なら想像すらできなかった光景なのに、今では妙に自然なものとして日常の中に収まっている。


「分かりました。ノクスの意見もちゃんと聞きます」


『当然だ』


「ただし、最終的に決めるのは私です」


『それでよい』


 妙に偉そうな返事だったが、リリアはもう気にしなかった。


 窓の外では、月白花の花びらが一枚、風に乗って静かに舞っていた。


     ◇


 王都でも格式の高い婚礼衣装店へ着くと、ミアと数人の仕立て職人がすでに待っていた。


「リリア様、お待ちしておりました!」


 姿を見つけた途端、ミアが弾むような声を上げる。


「今日は必ず決めましょうね」


「その言い方だと、私がずっと逃げていたみたいなんだけど」


「昨日、三着とも素敵だから決められないと言って帰ったじゃないですか」


「それは逃げたわけではありません」


「結果的には同じです」


「厳しいですね……」


 リリアが助けを求めるように振り返ると、レオンはすでに店内の長椅子に座っていた。


「頑張れ」


「他人事みたいに言わないでください。今日はレオン様にも選んでもらいます」


「聞いていない」


「今、言いました」


「後から増やすな」


『我は最初から選ぶつもりだったぞ』


「ノクスは黙っててください」


 そんなやり取りを聞いていた職人たちは、笑っていいのか困ったような顔をしていた。


 やがてミアが手を叩き、三着の衣装が順番に運び込まれる。


 一着目は、王宮の正式な婚礼にも十分通用するほど華やかなものだった。純白の生地に細かな銀糸が縫い込まれ、胸元から裾にかけて真珠が控えめに散りばめられている。照明を受けるたびに柔らかな光を返し、立っているだけで場の中心になれるような衣装だった。


 二着目は、それとは対照的に装飾を抑えた意匠だった。布地そのものの柔らかさが美しく、裾にだけ月白花を思わせる刺繍が施されている。派手さはないが、見ていると不思議と落ち着く。


 そして三着目。


 白を基調に、銀糸と淡い藍色を組み合わせた衣装だった。


 腰から裾にかけて月白花と月の意匠が流れるように刺繍され、その間を銀の糸が細く走っている。藍色は前面に出ることなく、布が揺れた時にだけ夜の影のように姿を見せる。


 リリアは自然と、その三着目の前で足を止めた。


「やっぱり、これが気になりますか?」


 ミアの声に、リリアは苦笑した。


「そんなに分かりやすかった?」


「昨日も、この衣装だけ一番長く見てましたから」


「自覚なかったです」


「リリア様、思っているより顔に出ますよ」


 そう言われ、少し恥ずかしくなる。


 けれど、それでも昨日決められなかったのには理由があった。


「藍色が少し変わってますよね」


「気になります?」


「嫌という意味ではなくて……」


 リリアは布地にそっと触れた。


 白と銀なら、婚礼衣装として自然に思える。


 けれど藍色は、自分にとってただの色ではなかった。


 かつて恐れていた夜の色。


 深淵の色。


 ノクスの色。


 そして今では、安心できる夜の色でもある。


「着てみませんか?」


 ミアが優しく促す。


「見て決めた方が早いと思います」


 リリアは少し迷ってから頷いた。


     ◇


 着替えには時間がかかった。


 何層にも重なる布を整え、背中の紐を締め、裾の位置を合わせ、髪も簡単にまとめてもらう。仮の装飾までつけ終えた頃には、リリア自身が少し疲れていた。


「では、開けますね」


 ミアが試着室の幕に手をかける。


「ちょっと待って」


「どうしました?」


「少し緊張してきました」


 自分でも可笑しいと思う。


 まだ本番ではない。


 ただ衣装を試しているだけだ。


 けれど、これを着てレオンの前に立つと思うと、不思議なくらい胸が落ち着かない。


「今からそんなに緊張していたら、本番はもっと大変ですよ」


「分かっています」


「では、いきます」


 幕が開いた。


 店内の光が一気に視界へ入ってくる。


 まず目に入ったのはノクスだった。床に座り、いつになく真剣な顔でこちらを見ている。


 その後ろにはレオンがいた。


 リリアは自然と背筋を伸ばす。


「どうでしょう?」


 一瞬、誰も答えなかった。


 その沈黙が思ったより長く感じられ、リリアは少し不安になる。


「変ですか?」


『いや』


 最初に答えたのはノクスだった。


『よいと思う』


「本当ですか?」


『藍がある』


「そこ以外は?」


『全体も悪くない』


 ノクスにしては珍しく素直な評価だった。


 少し安心してから、リリアはレオンを見る。


 彼はまだ何も言わない。


「レオン様?」


「……」


「そんなに変です?」


「違う」


「じゃあ、何か言ってください」


 ようやくレオンが息を吐いた。


「綺麗だ」


 あまりにも真っ直ぐに言われたので、今度はリリアが黙る番だった。


「急にそんなこと言わないでください」


「聞いたのはお前だろう」


「そうなんですけど」


 頬が熱くなるのが分かる。


 横を見ると、ミアが口元を押さえながら満足そうに笑っていた。


「では、この衣装で決まりですね」


「まだ決めません」


「どうしてです?」


「他の二着もちゃんと着ます」


「ですが、今の反応を見る限り……」


「最後まで比べます」


 そう言い切ると、ミアは少し残念そうな顔をしながらも頷いた。


 その後、リリアは一着目と二着目も順番に試した。


 一着目は華やかで、鏡の中の自分がまるで王族の婚礼へ臨む花嫁のように見えた。レオンも似合うと言ってくれたし、ミアは何度も「素敵です」と繰り返した。


 二着目は柔らかく、自分自身の雰囲気には一番合っているようにも思えた。


 それでも、最後にもう一度三着目を着た時、リリアの中で何かが静かに定まった。


 鏡の前に立つ。


 白と銀。


 そして淡い藍。


 衣装そのものが美しいのではなく、その中にいる自分が一番自然に見えた。


 これを着て、レオンの隣へ歩いていく姿が想像できた。


「レオン様」


「何だ」


「三着の中なら、どれがいいと思います?」


「俺が決めるのか」


「決めるのは私です。でも、意見を聞きたいんです」


 レオンは三着を見比べた。


 すぐには答えず、本当に考えているらしい。


 やがて彼は、三着目の衣装を指した。


「これだな」


 リリアは思わず笑った。


「やっぱり?」


「ああ」


「理由も聞いていいです?」


「それを聞くのか」


「聞きます」


 少し面倒そうな顔をしながらも、レオンは逃げなかった。


「白は月華に見える」


 リリアは黙って聞く。


「銀は銀狼だ」


「はい」


「藍は……ノクスだろう」


『当然だ』


「お前は黙っていろ」


 レオンはノクスを一度睨み、それからもう一度リリアへ視線を戻した。


「でも、それだけじゃない」


「というと?」


「この三色を見ていると、お前がここまで歩いてきた道みたいに見える」


 リリアの胸が、ゆっくりと高鳴った。


「月華を持って生まれて、俺と関わって、深淵に巻き込まれて、王宮の地下へ行って、何度も危険な目に遭って、記憶まで失いかけた。それでも結局、お前はここまで来た」


 レオンの視線は衣装ではなく、リリア自身に向いている。


「昔なら、月華も銀狼も深淵も、全部別々のものだった。互いに傷つけ合う原因だったし、どれか一つでも間違えば誰かが犠牲になった」


 そうだった。


 月華は救いであると同時に、利用される力だった。


 銀狼は国を守る存在であると同時に、深淵を背負わされた犠牲でもあった。


 深淵は災厄と呼ばれ、ノクス自身の名前すら忘れられていた。


 それらが今、一着の衣装の中で自然に並んでいる。


「でも今は違う」


 レオンの声が少しだけ柔らかくなる。


「全部あって、それでもお前に見える」


 その言葉に、リリアは鏡の中の自分を見つめた。


 豪華だからではない。


 花嫁らしいからでもない。


 自分らしい。


 そう言ってもらえたことが、思っていた以上に嬉しかった。


「私らしい、ですか」


「ああ」


 それだけで、昨日まで迷っていた気持ちがほとんど消えてしまった。


『我も同じ意見だ』


 ノクスが静かに言う。


 珍しく冗談の気配がない。


『その衣装には夜がある』


 リリアはノクスへ目を向けた。


『昔のお前は、夜を恐れていたな』


「はい」


『今はどうだ』


 少し考える。


「好きですよ」


 ノクスの黄金の瞳が僅かに大きくなる。


「もちろん、真っ暗な場所が全部好きって意味じゃないです。でも、静かな夜とか、月が見える夜とか……ノクスがいる夜は、嫌いじゃありません」


 ノクスは何も言わず、少しだけ顔を逸らした。


 レオンはそれを見逃さなかった。


「照れているのか」


『違う』


「耳が動いたぞ」


『黙れ』


 二人のやり取りに、リリアは小さく笑った。


 目の奥が少しだけ熱い。


 悲しいわけではない。


 むしろ逆だった。


 ここまで来たのだと思った。


 自分も。


 レオンも。


 ノクスも。


 皆、同じ場所から始まったわけではない。


 傷つけ合ったこともある。


 誤解したこともある。


 それでも今は、同じ未来を見ている。


「決めました」


 リリアは鏡の中の自分を見つめたまま言った。


「この衣装にします」


 ミアの顔が一気に明るくなる。


「本当ですか!」


「はい」


「よかった……!」


「まだ本番じゃないですよ」


「分かっていますけど、ここまで長かったので!」


「長くしたのは誰ですか?」


「一生に一度なんですから仕方ありません!」


 ミアの目がすでに潤んでいる。


 リリアは苦笑しながらも、もう一度鏡を見る。


 白。


 銀。


 藍。


 それはただの色ではなかった。


 自分が歩いてきた時間そのものだった。


     ◇


 衣装を決めた後も、採寸や細かな調整、刺繍位置の確認などが続いた。


 婚礼衣装というものは、決めれば終わりだと思っていたリリアだったが、実際にはそこから先の作業の方が多いらしい。


 仕立て職人が裾の長さを測っている間、ノクスは完全に飽きた顔で床に伏せていた。


『まだ終わらないのか』


「もう少しです」


『さっきもそう言った』


「婚礼衣装は細かいんです」


『我の衣装はどうなる』


 リリアは思わずノクスを見る。


「ノクスも衣装を着るんですか?」


『当然だろう』


「何のために?」


『我にも役目があるはずだ』


「まだ決めてませんけど」


『早く決めろ』


 そこで、長椅子に座っていたレオンが何気なく口を開いた。


「指輪でも運ばせればいいだろう」


 リリアは目を瞬いた。


「それ、いいですね」


『何だ、それは』


「リングベアラーです。婚礼で指輪を運ぶ役ですよ」


 ノクスは少し考えるように首を傾げた。


『重要なのか』


「かなり重要です」


『ならやる』


 あまりにも即決で、リリアは笑ってしまった。


「決断が早いですね」


「扱いやすいな」


 レオンがぼそりと言う。


『お前よりはな』


「何だと」


「ではノクスの衣装は、藍と銀を基調にしましょうか」


『よい』


「すごく楽しみにしてますね」


『当然だ。我もここまで一緒に来たのだからな』


 その言葉に、リリアの胸が少しだけ温かくなる。


「そうですね。じゃあ、ちゃんと重要な役をお願いします」


『任せろ』


 レオンが横からため息をついた。


「俺より張り切っていないか」


『お前が張り切らなさすぎる』


「必要なことはしている」


『昨夜も誓約文を五回読んでいたな』


 レオンの動きが止まった。


 リリアがゆっくり彼を見る。


「五回?」


「確認していただけだ」


『五回もか』


「ノクス」


『事実だ』


 リリアは笑いを堪えられなかった。


「そんなに楽しみにしてるんですね」


「悪いか」


「いいえ。むしろ嬉しいです」


 レオンは少しだけ視線を逸らした。


「俺だって結婚するんだから、確認くらいする」


「はいはい」


「その言い方は何だ」


「別に何でもありません」


 そんな会話をしているうちに、仕立て職人がようやく採寸の終了を告げた。


 リリアは長く息を吐く。


 これで衣装は正式に決まった。


 そう思うと、婚礼が急に現実のものとして近づいてきた。


     ◇


 店を出る頃には、王都の街並みが夕暮れの色に染まっていた。


 リリアとレオンは並んで歩き、少し前をノクスが軽い足取りで進んでいる。


「今日はありがとうございました」


 リリアが言うと、レオンが横を見る。


「何がだ」


「衣装です。ちゃんと意見を言ってくれたでしょう」


「聞かれたから答えただけだ」


「それでもです」


 少し照れながら、リリアは続けた。


「私らしいって言ってくれたの、嬉しかったです」


「本当のことを言っただけだ」


「そういう言い方、ずるいですよね」


「何が」


「分からないならいいです」


 レオンは少し不満そうな顔をしたが、追及はしなかった。


 しばらく歩いてから、リリアはふと自分の手を見つめた。


「私、昔は自分が何者なのか、よく分からなくなることがあったんです」


 レオンは何も言わず、続きを促すように歩調を合わせた。


「薬師の娘で、月華の使い手で、レオン様の婚約者で、王国に必要な人間だって言われて。いろんな役目や呼び方が増えるたびに、本当の私はどれなんだろうって思ってました」


「今は違うのか」


「はい」


 リリアは少しだけ笑った。


「全部、私なんだと思えるようになりました」


 薬師である自分。


 月華を持っている自分。


 レオンを愛している自分。


 ノクスと友人になった自分。


『友人?』


 少し前を歩いていたノクスが振り返る。


「違うんですか?」


『……嫌ではない』


「じゃあ友達です」


『勝手だな』


「お互い様です」


 ノクスは何か言いたそうな顔をしたものの、結局前を向いた。


 リリアは笑いながら話を続ける。


「誰かに呼ばれた名前だけで決められるんじゃなくて、自分で選んできたものも全部、自分の一部なんだと思うんです」


「そうか」


「だから今日の衣装も好きなんです。月華も、銀狼も、ノクスも、全部隠さなくていい気がするから」


 レオンはしばらく黙っていたが、やがて穏やかな声で言った。


「なら、それを選んで正解だったな」


「はい」


 リリアは素直に頷いた。


     ◇


 その日の夕方、王宮では別の未来が静かに動き始めていた。


 第一王子が国王の執務室へ呼ばれると、机の上には数枚の書類が置かれていた。


「父上、これは……」


 書類の内容を一目見て、第一王子の表情が固くなる。


「退位に関する正式な書類だ」


 国王は淡々と答えた。


「セドリックの裁判が終わり、公共記録院の設立手続きが一定の段階まで進んだ時点で、私は退く」


「急すぎます」


「むしろ遅すぎた」


「ですが、国政の引き継ぎもあります。まだ整っていないものも多い」


「だから今日から準備する」


 国王は息子を真っ直ぐに見た。


「ただし、一つだけ確認しておく」


「何でしょう」


「お前が嫌なら断っていい」


 第一王子は耳を疑った。


「……王位を?」


「ああ」


「私が?」


「そうだ」


 そんな選択肢を示されたことは、今まで一度もなかった。


 第一王子として生まれた以上、父の後を継ぐのは当然のことだと思っていた。


「私はお前を王にするために育ててきた」


 国王は静かに言う。


「だが、だからといって、お前の人生まで私が決めてよい理由にはならない」


 第一王子は何も言えなかった。


 その言葉が、不思議なほど胸に残った。


「時間は多くない」


「でしょうね」


「だが考えろ。第一王子だからではなく、お前自身が王になるのかどうかを」


 第一王子はしばらく書類を見つめていた。


 王冠がどれほど重いのか、まだ本当には分からない。


 国を背負うことがどれほど苦しいのかも。


 ただ一つ分かるのは、以前なら「決まっていることだから」と受け入れていたということだった。


 今は違う。


「……分かりました」


 第一王子は書類を手に取る。


「自分で考えます」


「そうしろ」


 国王はそれだけ答えた。


 部屋を出た第一王子は、長い廊下を歩きながら手元の書類を見つめた。


 紙は軽い。


 それなのに、指に感じる重さは、これまで手にしたどんな書類とも違っていた。


     ◇


 その夜、公爵邸へ戻ったリリアは、寝室の机に小さな布片を置いていた。


 婚礼衣装と同じ布を使った見本で、仕立て職人が記念にと渡してくれたものだった。


 白い生地の中に銀糸が走り、その端には淡い藍色が重なっている。


 指先で触れながら、リリアは小さく笑った。


「本当に決まったんだ」


 これまで婚礼の準備はいくつも進んできた。


 日程。


 招待客。


 会場。


 料理。


 花。


 それでも、どこか現実味が薄かった。


 今日、自分の衣装を選んだことで、初めて「自分は本当にレオンと結婚するのだ」という実感が胸に落ちてきた気がする。


 扉が控えめに叩かれた。


「はい」


 入ってきたのはレオンだった。


「まだ起きていたのか」


「もう少ししたら寝ます」


 レオンは机の上の布片に気づく。


「それは今日の?」


「はい。衣装と同じ布です」


 リリアはそれを持ち上げた。


「触ります?」


「ああ」


 レオンは差し出された布を指先で確かめる。


「思ったより軽いな」


「これだけなら軽いです。刺繍や装飾が全部入ると、もっと重くなると思います」


「一日着るのか」


「その予定です」


「大変だな」


「今さらですか?」


 リリアが笑う。


 それから少しだけ真剣な顔になった。


「今日、鏡を見た時、初めて実感したんです」


「何を」


「本当に結婚するんだなって」


 レオンがこちらを見る。


「今までは実感がなかったのか」


「なかったわけじゃないです。でも、どこか物語みたいで……」


 婚約から始まった。


 最初は本当の気持ちではなかった。


 むしろ嫌だった。


 それなのに今、自分の意思で同じ人との婚礼を待っている。


「不思議ですね」


「何が」


「最初は婚約なんてしたくなかったのに」


「ああ」


「否定しないんですね」


「事実だからな」


 リリアは少し笑い、それから静かに言った。


「でも今は、早くその日が来ればいいと思っています」


 レオンの目が僅かに柔らかくなる。


「俺もだ」


 それだけの言葉だったが、今のリリアには十分だった。


「レオン様」


「何だ」


「私、幸せです」


 自分でも少し唐突だと思った。


 けれど、言いたくなった。


 レオンは一瞬だけ驚いたような顔をした後、静かに答える。


「俺もだ」


 リリアはその返事を聞いて、自然と笑った。


 窓の外では、月白花が夜風に揺れている。


 月の光を受けた白い花。


 レオンを思わせる銀色の光。


 その向こうに広がる夜の藍。


 今日選んだ衣装と同じ色が、庭の中にすべて揃っている。


 リリアは窓辺へ視線を向けながら、これまで歩いてきた道を思った。


 最初から美しいものばかりではなかった。


 傷ついた。


 怖かった。


 何度も迷った。


 大切なものを失いかけたこともある。


 けれど、今となっては、そのすべてを消してしまいたいとは思わない。


 痛みそのものを肯定したいわけではない。


 ただ、その中で誰と出会い、何を選び、どうやってここまで歩いてきたのかまで消してしまえば、今の自分はいなくなるからだ。


 白も、銀も、藍も、全部あっていい。


 過去のすべてを綺麗なものに変える必要はない。


 それでも、その先にある未来を、自分の意思で選ぶことはできる。


「そろそろ寝ろ」


 レオンの声で、リリアは現実へ戻った。


「はい」


「明日も予定があるだろう」


「あります」


「なら休め」


「レオン様もですよ」


「分かっている」


「薬も忘れないでくださいね」


「……分かっている」


 返事が少し遅れたので、リリアは目を細めた。


「本当に?」


「お前は最近疑いすぎだ」


「実績がありますから」


「ノクスが余計なことを言うせいだ」


「ノクスが言わなくても分かります」


 レオンは諦めたように息を吐いた。


「おやすみ、リリア」


「おやすみなさい、レオン様」


 レオンが部屋を出た後、リリアはもう一度だけ布片へ触れた。


 王都では、国王の退位へ向けた動きが静かに始まり、第一王子もまた自分が王になるかどうかを、自らの意思で選ぼうとしている。セドリックの裁判も終わりへ近づき、その先には王国公共記録院の開院が待っていた。


 誰もが、それぞれの過去を抱えたまま未来を選ぼうとしている。


 リリアも同じだった。


 誰かから与えられた役目ではなく、自分が望む人生を選ぶ。


 その未来の中にレオンがいて、ノクスがいて、仲間たちがいる。


 そしてもうすぐ、自分は今日選んだ白と銀と藍の衣装を身にまとい、自分の足でレオンのもとへ歩いていく。


 そう思うと、不思議と怖さはなかった。


 リリアは布片を大切に箱の中へしまうと、静かに灯りを落とした。


 窓の向こうでは、月白花が夜の色に包まれながら、それでも白く咲いていた。

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