第五十八話 幸せを選ぶということ
王都に穏やかな朝が訪れる頃、公爵邸の庭では、昨夜降った雨を含んだ月白花が柔らかな陽射しを受けていた。白い花弁の先に残った雫は風が吹くたびに小さく揺れ、そこへ朝の光が差し込むと、まるで花そのものが淡い光を宿しているように見える。リリアは窓辺に立ったままその景色を眺めていたが、やがて小さく息をつくと、机の上に広げた三枚の衣装画へ視線を戻した。
婚礼衣装の候補は、最初こそ三十一着もあった。それだけの数を前にした時には、さすがに多すぎるのではないかと思ったものの、ミアと仕立て職人たちは「一生に一度ですから」とまったく譲らなかった。その結果、十二着まで絞り込むだけで数日を費やし、昨日になってようやく三着まで候補を減らすことができたのだが、残った三着はどれも魅力的で、むしろここから一つに決める方が難しく思えてきた。
一着目は華やかなものだった。純白の生地に銀糸が細かく縫い込まれ、胸元や裾には控えめな真珠が散りばめられている。二着目は装飾を抑え、布そのものの柔らかさを生かした意匠で、月白花を模した刺繍が袖口から裾へ静かに続いていた。そして三着目は、白を基調にしながら銀と淡い藍色を取り入れたものだった。
視線は、どうしても最後の一着へ戻ってしまう。
婚礼衣装として考えれば、藍色が入っているものは少し珍しい。けれど、だから嫌なのではなく、むしろその色にだけ自分でも説明しづらい特別なものを感じていた。
「まだ決めていないのか」
背後から声をかけられ、リリアが振り返ると、いつの間にかレオンが部屋の入り口に立っていた。すでに朝の執務を始めていたのか、片手には数枚の書類があり、表情にはいつものように仕事の名残があった。
「三着まで減らしたんですけど、ここからが難しいんです」
「俺には全部同じに見える」
「それ、ミアの前で絶対に言わないでくださいね」
「なぜだ」
「怒られるからです」
リリアが真顔で答えると、レオンは納得できないような表情のまま机の前まで歩いてきた。三枚の衣装画を順番に見比べてはいるものの、どうやら本当に違いが分からないらしく、しばらくすると眉間に皺を寄せる。
「やはり全部白いな」
「婚礼衣装なんですから、基本は白ですよ。その先の刺繍とか形とか、色の重ね方を見てほしいんです」
「そこまで細かく見るものなのか」
「少なくとも私は見ます」
「なら、お前が一番好きなものにすればいい」
「それが簡単にできたら、朝からこんなに悩んでません」
リリアが苦笑すると、レオンは少しだけ肩をすくめた。婚礼衣装に関しては頼りにならないものの、忙しい中でもこうして付き合ってくれるだけで十分ありがたいと思う。もっとも、本人にそう言えば「付き合っているつもりはない」とでも返してきそうだった。
その時、開け放されたままだった扉の向こうから、小さな足音が近づいてきた。
『まだ決まらぬのか』
夜色の獣の姿をしたノクスが部屋へ入ってくると、そのまま机のそばまで歩いてきた。黄金色の瞳で三枚の衣装画を見比べる様子は妙に真剣だったが、リリアはすでに彼の意見を予想できている。
「ノクスはどれがいいと思います?」
『藍色が入っているものだ』
「やっぱり」
『我の色が入っているからな』
「理由が昨日から一歩も進んでませんね」
レオンが呆れたようにノクスを見る。
「お前の婚礼ではないぞ」
『我もここまで共に来ただろう。意見くらい言わせろ』
「意見というより、自分の色を推しているだけだろう」
『結果として一番よいものを選んでいるのだから問題ない』
ノクスが当然のように言い切ったので、リリアは思わず笑ってしまった。
かつて深淵と呼ばれて恐れられた存在と、銀狼公爵と呼ばれて人を寄せつけなかった男が、自分の婚礼衣装について言い合っている。それが不思議であると同時に、もう特別な光景ではなくなりつつあることが、何より嬉しかった。
リリアはもう一度三枚の衣装画へ視線を落とした。
ほんの少し前まで、自分が何を着たいかなど考えている余裕はなかった。月華のこと、深淵のこと、王宮の地下に隠されたもの、セドリックの計画、忘却の海へ消えていった記憶。誰かを救うにはどうすればいいのか、何を犠牲にすれば被害を減らせるのか、そんなことばかりを考えていた。
けれど今、自分は「どの衣装を着たいか」ということで悩んでいる。
他人から見れば小さな悩みかもしれない。
それでも、リリアにとっては大きな意味を持っていた。
誰かに命じられたからでもなく、何かを守る義務があるからでもなく、自分が望む未来のために選ぶことができる。その事実を考えると、衣装一着を決めることさえ、以前の自分にはなかった贅沢のように思えた。
「今日は、もう一度三着とも着てきます」
「またか」
レオンが露骨に嫌そうな顔をする。
「レオン様にも付き合ってもらいます」
「仕事がある」
「グレイさんに確認しました。今日は午後まで急ぎの予定はないそうです」
「……あいつは何でも話すな」
『逃げ道を塞がれたな』
「お前は楽しそうだな」
『当然だ』
ノクスは満足そうに尻尾を揺らした。
◇
王都でも有数の婚礼衣装店へ到着すると、入り口にはすでにミアと数人の仕立て職人が待っていた。
「リリア様、お待ちしておりました!」
ミアは朝から妙に元気だった。その表情を見ただけで、今日も簡単には帰してもらえないだろうと分かる。
「今日は三着とも、もう一度着ていただきます」
「やっぱり全部なんですね」
「昨日と今日では印象が変わるかもしれませんから」
「衣装選びって、そこまで慎重にするものなんですか?」
「一生に一度ですから」
昨日と同じ返答が返ってきたので、リリアはそれ以上何も言わず、素直に試着室へ向かった。
最初に着たのは、一着目の華やかな衣装だった。細かな真珠と銀糸の刺繍が光を受け、裾を広げるだけで室内の雰囲気が一変するほど存在感がある。鏡に映る自分を見たリリアは、少しだけ落ち着かない気持ちになった。綺麗なのは間違いないのに、自分というより、誰か別の花嫁を見ているような感覚があった。
「いかがです?」
試着室の幕を開けると、ミアはすぐに満面の笑みを浮かべた。
「とても素敵です!」
「レオン様は?」
長椅子に座っていたレオンが顔を上げる。
「似合っている」
「他には?」
「十分だろう」
「感想としては不十分です」
リリアが不満そうに言うと、ノクスがしばらくこちらを見つめた後で口を開いた。
『衣装が目立ちすぎる』
「やっぱりそう思います?」
『お前より先に衣装へ目が行く』
「すごいですね、ノクスの方がちゃんと感想を言ってます」
「なぜ俺が比較される」
「具体性の差です」
レオンは少し不満そうだったが、反論できる材料がないらしく黙った。
二着目は、一着目とは対照的に柔らかな印象の衣装だった。装飾は少なく、袖口から裾へ流れる月白花の刺繍が中心で、着た瞬間から一着目よりも身体に馴染む感覚があった。
「これは好きです」
鏡を見ながらリリアが言うと、ミアも大きく頷いた。
「私も、この衣装はリリア様にとても似合うと思います。華やかすぎず、それでいて婚礼らしさがありますから」
レオンも先ほどより真剣にこちらを見る。
「俺もこっちの方がいい」
「本当ですか?」
「ああ」
「理由は?」
少し考えてから、レオンが答える。
「一着目より、お前に見える」
その言葉に、リリアは目を瞬いた。
「そういう感想も言えるじゃないですか」
「何の話だ」
「何でもありません」
自分に見える。
その言葉は思っていた以上に嬉しかった。
それでも最後の一着を着るまでは決められないと思い、リリアは再び試着室へ戻った。
三着目は、白を基調としながら、腰から裾へかけてごく淡い藍色を重ねた衣装だった。銀糸で描かれた月白花と月の意匠は華やかすぎず、それでいて近くで見ると非常に細かな仕事が施されている。動くたびに裾の内側から藍色が覗き、夜と月明かりが一枚の布の中で溶け合っているようだった。
鏡の前に立ったリリアは、しばらく自分の姿を見つめた。
白。
銀。
そして藍。
ただ綺麗だから惹かれているのではない。
その色の一つ一つが、自分にとって意味を持っているからなのだと、ようやく分かった。
「どうされました?」
ミアが後ろから尋ねる。
「この藍色を見ていたんです」
「気になりますか?」
「はい。でも、嫌だからじゃないんです」
リリアは裾に触れた。
「昔だったら、婚礼衣装に夜の色が入っているなんて考えもしなかったと思います。夜は暗くて、何が潜んでいるか分からなくて、深淵みたいで、ずっと怖いものだったから」
ノクスが少し近くへ歩いてきた。
『夜そのものが悪いわけではない』
「今なら分かります」
リリアはノクスへ目を向けた。
「ノクスに出会ったから、そう思えるようになったんだと思います」
『我のおかげか』
「すぐに全部自分の功績にしないでください」
『違うのか』
「半分くらいはそうです」
『半分か』
不満そうに言いながらも、ノクスの耳が少しだけ動いた。
リリアはもう一度鏡を見る。
月華を思わせる白。
銀狼を思わせる銀。
ノクスと、今では安心できる夜を思わせる藍。
自分がここまで歩いてきた道が、偶然一着の衣装の中へ集まっているようだった。
「今日はまだ決めないんですか?」
ミアが期待を込めて尋ねる。
リリアは少し考えてから頷いた。
「もう一日だけ考えたいです」
「三着まで絞ったのに?」
「だからこそです。最後は誰かに決めてもらうんじゃなくて、自分でちゃんと選びたいんです」
ミアは最初こそ残念そうな顔をしたものの、やがて柔らかく微笑んだ。
「分かりました。では明日、最終決定にしましょう」
「ありがとうございます」
その返事を聞いて、リリアは肩の力を抜いた。
◇
衣装店を出た後、リリアたちは王国公共記録院の建設地へ立ち寄った。
建物はすでにほとんど完成しており、職人たちが最後の内装作業を進めている。王宮の敷地からわざと距離を置いて建てられたその施設には、王家の紋章ではなく、開いた本と小さな光を組み合わせた新しい印が掲げられる予定だった。
入り口ではユリウスが待っていた。三人を見つけると軽く手を上げ、少し疲れた顔で笑う。
「遅かったですね」
「衣装選びです」
リリアが答えると、ユリウスはすぐに理解したような顔をした。
「ああ、例の三十一着ですね」
「どうしてユリウスさんまで知ってるんです?」
「ミアさんが話してました」
「広まりすぎですよ」
「公爵家の婚礼ですから、関係者が多いんですよ」
言われてみればその通りではある。
ユリウスに案内されて建物へ入ると、大きな閲覧室の向こうに無数の書架が見えた。まだ空いている棚も多いが、すでに王宮の研究記録、被害者の証言、黒鴉会に関する資料、地下施設から回収された文書などが少しずつ移され始めている。
「今日は、月華の庭との接続方法について相談したいんです」
ユリウスの言葉に、リリアは表情を引き締めた。
「やっぱり、そこが一番難しいですよね」
「はい。メモリアが協力してくれれば、失われた名前や記憶を探せる可能性はかなり高くなります。ただし、使い方を間違えると、記録院そのものが危険な場所になりかねません」
「誰でも好きな記憶を見られる場所にはできません」
リリアはすぐに答えた。
ユリウスも頷く。
「僕もそう思います」
その時、ノクスが低い声で言った。
『記憶を、ただの情報だと思うな』
ユリウスがノクスを見る。
『人間は記録という形にすると、すぐにそれを物のように扱う。だが、記憶の中には誰かが生きた時間が残っている。面白半分で覗くものではないし、国が自由に使ってよいものでもない』
いつになく真剣な口調だった。
ノクスは、自分の名前を失った。
記憶を失い、存在そのものを災厄としか認識されなくなった時間を知っている。
だからこそ、誰よりも記憶を扱うことの重さを理解しているのだろう。
「具体的には、どこまで制限するべきだと思います?」
ユリウスが尋ねると、ノクスは少し考えた。
『本人の同意が基本だ。本人がいない場合でも、家族だからという理由だけで好きに見てよいとは思わぬ。何を探すのか、なぜ必要なのかを決め、その範囲だけにしろ』
「利用目的を限定して、事前の承認を必須にするということですね」
『それから、見つけた記憶だけで事実だと決めるな。記憶は変わることがある』
リリアも頷いた。
「そこは大事です。人は勘違いもしますし、時間が経てば記憶の形が変わることもあります。月華の庭で見つかった内容は、あくまで手がかりとして扱って、必ず現実の記録と照合するべきだと思います」
ユリウスは手元の紙へ素早く書き込んでいった。
「本人の同意、利用目的の限定、閲覧範囲の設定、現実記録との照合、そして記憶単体を証拠として確定させない。かなり厳しくなりますね」
『厳しくてよい』
ノクスは迷わず言った。
『人の中身を扱うのだから、それくらいで丁度よい』
その言葉に、リリアも同意した。
「便利だからって、何でも見られるようにしたら駄目ですよね」
「はい。記録院は真実を守るために作るのであって、人の秘密を奪うために作るわけじゃありませんから」
ユリウスの返事を聞き、リリアは少し安心した。
記録院はまだ完成していない。
制度も、運用も、これから何度も見直す必要があるだろう。
それでも、王家が都合の悪い記録を封じ込めてきた過去とは、確実に違う方向へ進み始めている。
◇
記録院の奥へ進むと、被害者と行方不明者の資料を集めた部屋へ案内された。
机の上には、いくつもの箱と厚い名簿が並んでいる。
「これは?」
リリアが一冊を指す。
「研究局、黒鴉会、王宮地下施設などで被害に遭った可能性のある人たちをまとめた仮の統合記録です」
ユリウスが答える。
「全員、名前まで分かっているんですか?」
「いいえ。むしろ、分からない人の方が多いです」
ユリウスは名簿を開いた。
そこには名前のある者もいれば、性別と推定年齢しか書かれていない者もいる。番号だけ残っている者もいれば、何一つ分からず「身元不明」と記された者までいた。
リリアはページをめくりながら胸が痛くなるのを感じた。
「こんなに……」
「まだ増えると思います」
「分からない人たちは、どうするんですか?」
「分からないまま残します」
リリアは顔を上げた。
「そのまま?」
「はい。無理に答えを作らないためです」
ユリウスは静かに説明した。
「名前が分からないからといって、誰か適当な名前を当てるわけにはいきませんし、記録が足りない部分を推測で埋めれば、それも別の形でその人を消すことになります。だから、分からないものは分からないと残しておいて、後から新しい資料が見つかった時に結びつけられるようにするんです」
リリアはゆっくり頷いた。
分からないことを認める。
それは簡単なようで、とても大切なことなのだろう。
人は空白があると、そこを何かで埋めたくなる。
けれど本当の名前を探すためには、嘘の答えを急いで作らないことも必要なのだ。
『名前がなくても、その者が存在しなかったことにはならぬ』
ノクスが名簿を見ながら言った。
『我もそうだった。名を失っても、消えたわけではなかった』
リリアはノクスを見た。
何か言おうと思ったが、安易な慰めを口にする気にはなれなかった。代わりに手を伸ばしかけると、ノクスがすぐにこちらを見る。
『撫でるな』
「まだ触ってません」
『触ろうとしただろう』
「よく分かりましたね」
『お前は分かりやすい』
ユリウスが少し笑い、部屋の空気が僅かに和らいだ。
◇
記録院を出た頃には、すでに昼を少し過ぎていた。
「お腹が空きました」
リリアがそう言うと、レオンは懐中時計を確認した。
「もうそんな時間か」
「気づいてなかったんですか?」
「ああ」
『二人とも似ているな』
ノクスの言葉に、レオンとリリアが同時に振り返る。
「どこがだ」
『仕事を始めると食事を忘れるところだ』
「私は忘れてません」
『昨日の昼は?』
リリアが黙る。
レオンがすぐに反応した。
「昨日、昼を食べなかったのか」
「食べなかったわけじゃありません。夕方にちゃんと食べました」
「それは昼食とは言わない」
「レオン様には言われたくありません」
『似た者同士だ』
ノクスが呆れたように言う。
リリアは話を打ち切るためにも、三人で昼食を取ることを提案した。
「今日はちゃんと食べますから、三人で何か食べましょう」
『肉がよい』
「また肉ですか」
『昼ならよいだろう』
「まあ……昼なら」
『決まりだ』
ノクスが満足そうに歩き出す。
レオンはその後ろ姿を見ながら、小さく笑った。
「完全にあいつ中心だな」
「レオン様が薬をちゃんと飲めば、少しは発言力が上がるかもしれませんよ」
「関係ないだろう」
「あります」
◇
午後、公爵邸へ戻ったリリアを待っていたのは、婚礼の招待客を確認する作業だった。
机の上には多くの名前が並んでいる。王族や貴族、白月塔の関係者、騎士、公爵家に長く仕えてきた者、故郷の薬師や知人たち。大きな婚礼になることは覚悟していたが、こうして一覧にすると改めて驚かされる。
「被害者の方々については、どうなっていますか?」
リリアが尋ねると、ミアは別の紙を取り出した。
「希望される方にだけ招待状をお送りする予定です。もちろん、断っても何の不利益もないことや、返事をしなくても問題ないことも、きちんと添えるよう王宮側と話をつけています」
その説明に、リリアは安堵した。
「よかった」
自分たちの婚礼は、自分たちにとっては祝うべき日だ。
けれど、それをすべての人に同じように祝ってほしいとは思わない。
事件で大切な人を失った者もいる。
今も眠れない夜を抱えている者もいる。
その人たちに「幸せな自分たちを見て祝ってほしい」と求めることは、どこか違う気がしていた。
「無理に来てほしくないんです」
「はい。その点は大丈夫です」
ミアが穏やかに答える。
リリアは招待客の一覧をゆっくり見ていき、ふと一つのことに気づいた。
そこに、セドリックの名前はない。
当然だった。
彼はまだ裁判を受けている。
判決が出ていない今の時点で、婚礼への出席など考えられる立場ではない。
それでも、名前がないことを確認した瞬間、胸に小さな複雑さが残った。
「リリア様?」
ミアに呼ばれ、リリアは顔を上げた。
「何でもありません」
そう答えながら、自分の中にある感情を静かに整理する。
セドリックを許してはいない。
それでも死んでほしいとも思わない。
彼がしたことのすべてを憎みながら、変わろうとしている部分まで否定したいとは思わない。
感謝できることがあったとしても、それは友人になったという意味ではないし、婚礼を祝ってほしいという気持ちとも違う。
矛盾しているように見えても、そのすべてが今の自分の本心なのだろう。
以前なら、一つの感情だけを正しいものにしようとして苦しんだかもしれない。
今は、いくつもの感情が同時に存在していてもいいのだと思えるようになっていた。
◇
夕方になり、一人になったリリアは久しぶりに古い日記を取り出した。
何気なく開いた最初の方のページには、今では少し恥ずかしくなるような文章が並んでいる。
『今日もレオン様は愛想がない。あの人は本当に人と話す気があるのだろうか。』
思わず笑ってしまう。
「ひどいこと書いてるなあ……」
さらに数ページめくる。
『薬が苦いと言って逃げた。銀狼公爵なのに、どうして薬一つでこんなに面倒なのだろう。』
「これは今も変わってないですね」
思わず声に出してしまった。
さらに昔へ戻ると、婚約したばかりの頃の記述も出てきた。
『銀狼公爵は怖い。婚約なんてしたくなかった。できるなら早く解消したい。』
文字を見ながら、リリアはしばらく黙った。
当時は本気だった。
レオンが何を考えているのか分からず、近づけば傷つけられるような気がしていた。
けれど一緒に過ごすうちに、少しずつ彼のことを知った。
冷たいのではなく、人との距離の取り方を知らなかったこと。
自分よりも他人を優先しすぎるところ。
何でも一人で背負おうとするところ。
薬が苦いと本気で嫌がるところ。
そして、自分を何度も守ってくれたこと。
気づいた時には、嫌だったはずの婚約を失いたくないと思うようになっていた。
さらにページをめくると、別の文章で手が止まった。
『幸せになりたい。でも、全部が終わってからでいい。誰も傷つかなくなって、全部解決して、その時まだ私に未来が残っていたら、少しくらい自分のことを考えてもいいと思う。』
その文章を読んだ瞬間、リリアは少し胸が苦しくなった。
いつ書いたのか思い出せないほど前のものだった。
けれど、書いた時の気持ちはよく分かる。
自分の幸福は後回しにしていいと思っていた。
全部の問題がなくなるまで。
誰も泣かなくなるまで。
誰も傷つかなくなるまで。
けれど今なら分かる。
そんな日は来ない。
セドリックがどれほど罪と向き合っても、亡くなった人は戻らない。
被害を受けた人たちの傷がすべて消えることもない。
レオンが深淵を背負ってきた過去も、ノクスが名前を奪われていた時間も、なかったことにはできない。
もしすべての痛みが消えてから幸せになろうと待ち続けるなら、自分はきっと永遠に幸せになることを許せないままだろう。
リリアは新しいページを開いた。
少し迷ってからペンを取る。
『幸せになるということは、過去を忘れることではない。痛くなくなるまで待つことでもない。痛いものが残っていても、今日笑っていいと自分に許すことなのかもしれない。』
書いてから、少しだけ恥ずかしくなった。
けれど消さなかった。
その下にもう一行続ける。
『私は幸せになりたい。レオン様と一緒に。』
文字を書き終えると、不思議なくらい胸が軽くなった。
◇
同じ頃、レオンは執務室でグレイから婚礼準備の進捗報告を受けていた。
「こちらが招待客の最終確認、こちらが料理、花、音楽、席次、当日の警備、それから雨天時の代替案となります」
机の上へ次々と書類を置かれ、レオンは露骨に眉を寄せた。
「まだあるのか」
「ございます」
「婚礼一つに、なぜこれほど書類が必要なんだ」
「公爵家の婚礼ですので」
「戦争の準備より多くないか」
「種類によっては、項目だけなら婚礼の方が多い場合もございます」
「本気で言っているのか」
「比喩でございます」
グレイが真顔で答える。
レオンは机の上へ視線を落とした。
「少しくらい減らせないのか」
「減らせる項目はすでに減らしております」
「逃げたいな」
「北へ向かわれますか。それとも西でしょうか」
「冗談だ」
「承知しております」
「なら、なぜそんなに真剣に返す」
「万一に備えるのも職務ですので」
そこへ、ちょうどリリアが入ってきた。
「何の話ですか?」
「何でもない」
レオンが即答する。
しかしグレイは平然と答えた。
「レオン様が婚礼準備から逃げたいとおっしゃっていました」
「グレイ」
「冗談だと言っただろう」
リリアはしばらくレオンを見つめ、それから笑った。
「逃げないでくださいね」
「逃げない」
「本当に?」
「本当だ」
少し不満そうに答えるレオンへ、リリアは一枚の紙を差し出した。
「じゃあ、これもお願いします」
「何だ」
「誓約文の候補です」
「また増えたのか」
「増やしてません。減らしてます」
「どこが違う」
「読めば分かります」
レオンはため息をつきながらも、きちんと紙を受け取った。
文句を言いながらも真剣に読み始めた姿を見て、リリアは少しだけ嬉しくなる。
◇
夜になってから、リリアとレオンは庭を歩いた。
昼間まで降っていた雲はすっかり消え、月がはっきりと見えている。少し前ではノクスが月白花の間を歩き、時折何かを見つけて立ち止まっている。
「レオン様」
「何だ」
「私、この屋敷に初めて来た時、すごく怖かったんですよ」
「知っている」
即答され、リリアは驚いた。
「分かってたんですか?」
「あれだけ顔に出ていれば分かる」
「そんなに分かりやすかったです?」
「ああ」
「だって、屋敷は静かすぎるし、使用人の皆さんも緊張してるし、レオン様は怖いし」
「最後は余計だ」
「当時は本当にそう思ってたんです」
リリアは笑いながら屋敷を振り返った。
夜の公爵邸にはいくつもの明かりが灯っている。廊下を歩く使用人たちの姿が窓越しに見え、遠くからは誰かの笑い声まで聞こえてきた。
昔は冷たく感じた場所だった。
けれど今は違う。
「今は、ここが家だと思います」
リリアがそう言うと、レオンの足が止まった。
「そうか」
「はい。ちょっと騒がしいですけど」
「誰のせいだ」
「ノクスとか、ミアとか、グレイさんとか、レオン様とか」
「俺も入るのか」
「薬を飲まない時はかなり面倒です」
『その通りだ』
少し前を歩いていたノクスが振り返る。
「お前は黙っていろ」
『事実を言っただけだ』
二人のやり取りに、リリアは笑った。
それから、少しだけ声を落とす。
「でも、好きです」
レオンがこちらを見る。
「屋敷が?」
「それもです」
リリアは少し照れながら続けた。
「ここにいる人たちが好きです。ミアも、グレイさんも、ノクスも……もちろんレオン様も」
ノクスが足を止めた。
『我もか』
「はい」
『当然だな』
「聞かなくてもよかったんじゃないですか?」
『確認しただけだ』
ノクスは満足そうに前を向いた。
レオンはそんなノクスを見てから、静かにリリアの手を取った。
「俺もここを家だと思うようになった」
その言葉に、リリアは少し驚く。
「昔は違ったんですか?」
「昔は、ただの役目を果たす場所だった」
レオンは屋敷を見た。
「公爵家を維持する場所で、深淵を抱えたまま生きる場所で、それ以上でもそれ以下でもなかった」
「今は?」
レオンは握った手に少しだけ力を込めた。
「帰る場所だ」
胸がじんわりと温かくなる。
同じ場所に住んでいても、そこを家だと思えるかどうかはまったく違う。
自分たちは、いつの間にか同じ場所へ帰るようになっていた。
◇
その夜遅く、リリアは寝室へ戻ると、もう一度日記を開いた。
新しく書いた文章を静かに読み返す。
『幸せになるということは、過去を忘れることではない。痛くなくなるまで待つことでもない。痛いものが残っていても、今日笑っていいと自分に許すことなのかもしれない。私は幸せになりたい。レオン様と一緒に。』
読み終えたリリアは、少しだけ笑った。
明日は婚礼衣装を最終的に決める。
おそらく心の中では、もう答えが決まっているのだと思う。
白と銀と、淡い藍。
月華と銀狼と夜。
自分がここまで歩いてきたものを隠すのではなく、そのすべてを抱えて未来へ進む衣装。
それを自分の意思で選びたい。
窓を開けると、夜の庭が見えた。
月白花の白。
月明かりの銀。
そして、それらを包む夜空の深い藍。
今日何度も見た三つの色が、庭にもそのまま揃っている。
過去に受けた傷が消えなくても、そこに新しい幸福を重ねることはできる。誰かがまだ苦しんでいるからといって、自分まで笑うことを禁じる必要はないし、自分が幸せになることで過去の痛みが軽く扱われるわけでもない。
忘れないことと、幸せになること。
誰かの悲しみを尊重することと、自分の人生を選ぶこと。
どちらか一方だけを選ばなくてもいいのだと、今なら思える。
リリアは日記を閉じると、大切に引き出しへしまった。
王都ではセドリックの裁判が終盤を迎え、第一王子の即位に向けた話も少しずつ具体的になり、王国公共記録院では失われた名前と記憶を未来へつなぐための準備が進んでいる。どれもまだ途中で、これから解決しなければならない問題も決して少なくない。
それでもリリアは、すべてが終わる日を待ってから人生を始めようとは、もう思わなかった。
明日は自分の婚礼衣装を選び、その先にはレオンとの婚礼が待っている。
過去を消したからそこへ進めるのではなく、過去を抱えたままでも未来を選べると知ったからこそ、その場所へ進んでいける。
窓の外では、月白花が夜の風に静かに揺れていた。
リリアはその景色をしばらく眺めた後、穏やかな気持ちで灯りを消した。
読んでいただきありがとうございます。
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