第五十七話 罪の名前を呼ぶ日
公開裁判の日、王都には朝から冷たい雨が降り続いていた。
強く地面を叩きつけるような雨ではなく、細く静かな雨だった。それでも途切れる気配はなく、石畳を濡らし、王宮の屋根を灰色に染め、中央司法院の前に集まった人々の肩にも容赦なく降り注いでいる。その景色は、まるで王国が長いあいだ隠し続けてきた罪を、今日という一日をかけて洗い流そうとしているようにも見えた。
もっとも、どれほど雨が降ったところで、起きたことそのものを消せるわけではない。
王宮に隣接する中央司法院の前には、夜が明けるより前から大勢の人々が集まっていた。北方で黒霧事件に巻き込まれた者、王宮研究局による実験の犠牲者やその家族、黒鴉会に大切な者を奪われた者、そして王国で本当は何が行われていたのかを自分の目で確かめようとする民衆まで、その顔ぶれはさまざまだった。
誰一人として晴れやかな顔をしていない。
怒りを隠そうともしない者がいれば、何年も泣き続けてきたのだろうと思わせるほど疲れた顔をした者もいる。自分でも何を感じればいいのか分からず、ただ司法院の建物を見上げている者もいた。
馬車の窓越しにその光景を見つめながら、リリアは膝の上で両手を重ね、指先へ無意識に力を込めていた。
「……すごい人ですね」
「ああ」
隣に座るレオンが短く答えた。
今日は普段の黒い軍服ではなく、銀狼公爵として正式に証言台へ立つための濃紺の礼装を身につけている。胸元にはヴァルハルト公爵家の紋章があり、その下には銀狼と藍色の月を重ねた小さな飾りがつけられていた。
それは、かつて深淵と呼ばれていたノクスとの新しい契約を示す意匠だった。
王国が長く恐れ、銀狼公爵家が代々その身に封じ込めるしかなかった存在を、今のレオンは隠そうとはしていない。それもまた、今日ここで語られるべき歴史の一部なのだろう。
「怖いか」
レオンに尋ねられ、リリアは少し考えてから頷いた。
「はい。正直に言えば、かなり怖いです」
「セドリックの裁判だからか」
「それもあります。でも、今日はセドリック殿下だけが裁かれる日ではないと思うんです」
リリアは再び窓の外へ目を向けた。
「王家が何をしてきたのか、王宮が何を隠してきたのか、その中で私たちが何を見て、何を選んだのか、それまで全部が公の記録として残ります。今日一度記録されたことは、これまでみたいに、王の都合だけで簡単に消せなくなるはずです」
忘却の海で、第一王子が約束したことを思い出す。
王の都合で歴史を消さないこと。
都合の悪い記録を封じ込めないこと。
罪を、最初から存在しなかったことにしないこと。
「だから必要な日だと思っています。でも、必要だから怖くないわけじゃありません」
リリアがそう言うと、レオンは静かに頷いた。
「俺も同じだ」
「レオン様も証言が怖いんですか?」
「違う」
「では何が?」
レオンは僅かに視線を逸らした。
「裁判が終わったあと、お前がまた全部を抱え込むんじゃないかと思っている」
思いがけない答えに、リリアは眉を寄せた。
「そこなんですか?」
「ああ」
「今日は大丈夫です」
「信用していない」
「ひどいです」
「実績がある」
あまりにも真顔で言われ、リリアは反論しかけたものの、最近の自分の行動を思い返して口をつぐんだ。
その時、足元の影が小さく揺れ、夜色の耳がひょこりと姿を現した。
『我も信用していない』
「ノクスまで?」
『昨日も証言内容を確認すると言って夜遅くまで起きていただろう。ミアに寝ろと言われたのに寝なかった』
「必要な確認でした」
『その言葉を使えば何をしてもよいと思っているな』
「今日は雨ですね」
「話を逸らすな」
『逸らしたな』
レオンとノクスがほとんど同時に指摘する。
リリアは思わず二人を見比べた。
「最近、本当に息が合っていますね」
「合っていない」
『合っていない』
また同時だった。
張りつめていた胸の奥が、少しだけ緩む。
今日という日がどれほど重くても、こういう時間がなくなったわけではない。その事実が、今のリリアにはありがたかった。
◇
中央司法院は、王国でもっとも大きな裁判所だった。
普段は貴族間の領地紛争や大規模な商取引、国家反逆に関わる事件などを扱う場所だが、今日ほど多くの人間がこの建物へ集まった日はないだろう。
広い法廷の傍聴席は満席で、入りきれなかった人々のために別室まで用意され、審理内容は記録官によって逐一書き残されることになっていた。
法廷中央の被告席へ、一人の男が騎士たちに伴われて入ってくる。
セドリック・アルベルト。
かつて王国第二王子と呼ばれた男だった。
金色の髪は以前より短く整えられ、身につけているものも王族らしい華美な衣装ではない。白いシャツの上に簡素な黒い上着を重ねただけで、そこに王家の紋章はなかった。
両手には魔術封印用の銀色の拘束具がつけられ、黒霧によって傷ついた身体も完全には回復していないらしく、歩みには僅かなぎこちなさが残っている。
それでも、セドリックは自分の足で法廷へ入ってきた。
その姿が現れた瞬間、傍聴席から怒号が飛んだ。
「人殺し!」
「娘を返せ!」
「どうしてお前だけ生きている!」
騎士たちが一斉に身構える。
けれど裁判長は、すぐには静粛を命じなかった。
人々の怒りも、この裁判の一部だと理解しているのだろう。
セドリックも足を止めず、一歩ずつ被告席へ向かった。
途中、一人の女性が泣き声に近い叫びを上げた。
「どうして生きてるの!」
その言葉だけは、セドリックの歩みをほんの僅かに止めた。
王族席ではなく、事件関係者のために設けられた席に座っていた第一王子が、その姿をじっと見ていた。
兄として駆け寄ることも、弟を庇うこともできない。
今ここで弟を特別扱いすれば、今日の裁判そのものを壊すことになる。
セドリックは女性の方を振り向かなかった。
ただ、誰に聞かせるでもなく、掠れるような声で謝罪を口にすると、そのまま被告席へ着いた。
やがて裁判長が木槌を鳴らし、法廷の空気を切り替える。
「これより、元王国第二王子セドリック・アルベルトに対する公開裁判を開始する」
国家反逆、違法魔術研究、誘拐、殺人、人体実験、記憶侵害、王都破壊未遂をはじめとする多数の罪状が読み上げられていく。
元第二王子。
その呼称が、法廷に重く響いた。
王族資格は裁判開始と同時に暫定停止されており、今後の判決によっては永久に剥奪される。
「被告人、名を」
裁判長に問われ、セドリックは立ち上がった。
「セドリック・アルベルトです」
「身分は」
ほんの一瞬、沈黙が落ちた。
「現在、身分はありません。元王国第二王子であり、今は被告人です」
傍聴席が小さくざわめいた。
第一王子の表情も僅かに揺れたが、何も言わなかった。
「起訴内容を理解しているか」
「はい」
「否認するものはあるか」
セドリックは机に置かれた長い起訴状を見下ろした。
何十枚もの紙の中に、自分が行ってきたことが一つずつ事実として並んでいる。
「ありません」
法廷に再びざわめきが広がった。
法務官が顔を上げる。
「すべて認めるということですか」
「はい」
「共犯者の証言とあなたの供述が一部食い違っている箇所もあります。それについて、自分に有利な証言を行う意思は?」
「ありません。食い違う部分については、私の言葉ではなく証拠に従ってください」
「なぜですか」
セドリックは一度目を閉じた。
「私は、許されるためにここへ来たのではありません」
そう言ってから、傍聴席を見た。
そこには怒りがあり、涙があり、長く行き場を失っていた憎しみがある。
「自分が何をしたのか、それを記録として残すために来ました」
◇
最初に証言台へ立ったのは、北方から来た三十九歳の女性だった。
名をアンナ・モートンという。
彼女が失った夫の名は、エドガー・ハインツ。
セドリックが拘束された後、被害者名簿を初めて渡された時、最初に覚えようとした名前の一つでもあった。
アンナは証言台へ立ったものの、両手の震えを止めることができなかった。それでも逃げずに前を向き、ゆっくりと口を開いた。
「夫は、普通の人でした」
その声は震えていたが、法廷の隅まで届いた。
「特別な魔術なんて使えませんでしたし、身分だって何もありません。毎朝鉱山へ行って、夕方になれば家へ戻って、子供たちと食事をして、疲れたって言いながら次の日も働くような人でした」
セドリックは俯かなかった。
彼女の言葉を受け止めるように、その顔を見ていた。
「ある日、帰ってこなかったんです」
アンナの声が揺れる。
「何日も探しました。王宮にも役所にも行きました。でも何も教えてもらえなかった。事故かもしれない、家出かもしれないって言われました。でも本当は、あなたたちが攫っていた」
セドリックの指が僅かに動いた。
「夫は、実験体だったんですよね?」
法務官が被告へ確認する。
「はい」
「どこで?」
「王宮研究局第五地下区画です。当時の記録では、被験番号百十二とされています」
その瞬間、アンナの表情が激しく歪んだ。
「番号で呼ばないで!」
セドリックの身体が強張る。
「夫には名前があった!」
「……はい」
「エドガーです。エドガー・ハインツです!」
「はい」
「あなたは夫から名前を奪った。人間じゃなくした!」
「……はい」
アンナの頬を涙が伝った。
「どうして夫だったんですか」
セドリックは答えられなかった。
いや、正確には答えがなかった。
魔力適性。
年齢。
身体条件。
当時の自分にとって、それだけだった。
エドガー・ハインツという一人の人間の人生を見て選んだわけではない。
「答えてください」
アンナの声が震える。
セドリックはゆっくり息を吸った。
「理由はありません」
法廷が静まり返った。
「あなたの夫でなければ、条件に合う別の誰かを使っていたと思います。私は当時、人を人として見ていませんでした。だから、エドガー・ハインツさんだった理由はありません」
アンナの顔に浮かんだのは、怒りだけではなかった。
どうしてそんな理由で夫が死ななければならなかったのかという、深い絶望だった。
「それが、もっとも許されないことだと今は思っています」
セドリックの声も僅かに掠れた。
「謝ったところで、あなたの夫が戻らないことは分かっています。ですから、許してくださいとは言いません」
セドリックは深く頭を下げた。
「私がエドガー・ハインツさんを殺しました。申し訳ありませんでした」
アンナは長いあいだ彼を見つめていた。
「許しません」
「はい」
「一生、許しません」
「はい」
アンナは涙を拭わなかった。
「でも、夫の名前を忘れないで」
その言葉に、セドリックの目が揺れた。
「番号じゃなくて、名前を覚えていてください」
「はい」
「エドガー・ハインツ」
セドリックは、今度ははっきりとその名を口にした。
「覚えています」
アンナはそれ以上何も言わなかった。
誰かが謝ったから、傷が消えるわけではない。
誰かが罪を認めたから、許しが生まれるわけでもない。
それでも今日、エドガー・ハインツという名前は、この国の正式な裁判記録の中へ残された。
◇
その後も、証人は一人ずつ法廷へ立った。
娘の記憶を失った父親。
妹を研究局に奪われた姉。
黒鴉会へ引き込まれ、自分も犯罪へ加担した青年。
命令へ逆らう勇気を持てず、人体実験を手伝った研究者。
誰も同じ傷を持ってはいなかった。
それでも、その傷のどこかには必ずセドリックの行動がつながっていた。
「この命令書へ署名したのはあなたですか」
「私です」
「北方での薬物散布計画を許可したのは?」
「私です」
「研究局長へ成果を急ぐよう命じた記録があります」
「命じました」
「実験に耐えられなくなった者を処分せよと指示したのも、あなたですか」
その質問だけは、セドリックの返事が遅れた。
傍聴席から誰かが「答えろ」と叫ぶ。
セドリックは目を閉じ、それから低い声で答えた。
「……私です」
第一王子の手が膝の上で強く握られているのを、リリアは見た。
それでも止めない。
セドリック自身が望んだ裁判だった。
誰かに都合の悪い箇所だけを削ってもらうためではなく、すべてを記録するための裁判だった。
◇
午後になり、リリアの名が呼ばれた。
席を立とうとした瞬間、自分の足が僅かに震えていることに気づく。
「行ってきます」
「ああ」
「思っていたより緊張しています」
「見れば分かる」
「それは言わなくていいです」
苦笑したリリアに、レオンが静かに告げた。
「俺を見ろ」
顔を上げる。
銀と藍色を宿した瞳が、まっすぐこちらを見ていた。
「何を言っても、俺はここにいる」
胸の奥に張りついていたものが、少しだけほどける。
「はい」
リリアは証言台へ向かった。
「名を」
「リリア・エヴァレットです」
「職業は」
「薬師です。また、月華の力を持っています」
「被告との関係は」
一瞬だけ考えた。
「事件関係者です。私自身も被害を受けています」
それから、起きたことを一つずつ話した。
月華を狙われたこと。
精神へ干渉されたこと。
誘拐されかけたこと。
記憶を奪われかけたこと。
白月塔。
黒霧。
月蝕の間。
セドリックがレオンへ、深淵か月華かという選択を迫ったこと。
大量の人間を供物にしようとしたこと。
すべてを話し終えた頃には、口の中が乾いていた。
「あなたは、被告人を憎んでいますか」
法務官の問いに、法廷が静かになった。
リリアはセドリックを見る。
かつて恐ろしく見えた青い瞳は、今は逃げずにこちらを見ていた。
「はい」
リリアはそう答えた。
傍聴席が小さくざわめく。
「今でも怖いです。思い出すと眠れない夜があります。私はレオン様を失うところでしたし、自分自身も記憶を失って、自分が誰なのか分からなくなるところでした」
セドリックが僅かに目を伏せた。
「ですから、私はセドリック殿下を許してはいません」
一度息を整える。
「ただ、生きてほしいとも思っています」
今度は、先ほどより大きなざわめきが起きた。
傍聴席のどこかから「なぜ」と叫ぶ声が飛ぶ。
裁判長が木槌を鳴らした。
「静粛に」
リリアは逃げずに、声の聞こえた方向へ目を向けた。
「なぜそう思うのか、自分でも完全には分かりません。もしかしたら、優しい人間だと思われたいだけかもしれませんし、薬師だから苦しんでいる人を放っておけないだけかもしれません」
そこで一度、セドリックを見る。
「でも、それだけでもないと思っています」
法廷は静かだった。
「この人が、自分の罪から逃げないで生きると決めたことを、私は無意味だとは思いたくありません。許すことと、生きてほしいと思うことは同じではありませんし、傷を治療することと、その人が犯した罪を軽くすることも同じではありません」
アンナの顔が、ふと視界に入る。
彼女の苦しみを、自分の気持ちで上書きしてはいけない。
「私はこの人を許せません。でも、死んで終わってほしいとも思えません。生きて、自分が壊したものを見て、それでもできることを続けてほしいと思っています」
少しだけ声が震えた。
「それが、今の私の正直な気持ちです」
◇
証言台を降りると、張りつめていた力が抜けたのか、足元が少しだけ頼りなくなった。
レオンがすぐに立ち上がる。
「大丈夫か」
「はい」
「本当か」
「今は本当です」
それを聞いて、レオンの表情から少しだけ硬さが消えた。
「よく言った」
「正しかったでしょうか」
「知らん」
あまりにも早い返答に、リリアは思わず目を丸くした。
「そこは肯定してください」
「お前の言葉が誰にとっても正しいかどうかなんて、俺には決められない」
レオンはリリアの手を取った。
「でも、お前自身の言葉だった。それでいい」
リリアはしばらく彼を見つめた後、静かに頷いた。
◇
最後に証言台へ呼ばれたのは、レオンだった。
銀狼公爵として。
そして、何世代にもわたって深淵の器という役目を背負わされた一族の当主として。
「被告人は、あなたを深淵の王へ変えようとしましたね」
「はい」
「あなたの婚約者も儀式へ利用しようとした」
「はい」
法務官は少し間を置いた。
「あなたは、被告人にどのような刑を望みますか」
法廷中の視線がレオンへ集まった。
第一王子も。
セドリックも。
リリアも。
レオンはすぐには答えなかった。
「私刑でよいのなら」
やがて、低い声が響く。
「以前の俺なら殺していました」
セドリックの表情が僅かに強張る。
「迷わず剣を振ったと思います」
「では今は」
「裁判に任せます」
「理由は?」
「俺一人が、奴の生死を決める権利を持っているわけではないからです」
それからレオンは、まっすぐセドリックを見た。
「ただし、個人的な望みならあります」
「それは?」
「生きろ」
法廷が静まり返った。
「被害者がお前を許さなくても、王族でなくなっても、兄に会える時間を奪われても、自分の人生に耐えられなくなる日が来ても、それでも生きろ」
セドリックの瞳が揺れた。
「俺はお前を許していないし、今後も許さないかもしれない。それでも、お前が死ねば、お前の人生はお前が犯した罪だけで終わることになる」
レオンの声には、怒りが消えていなかった。
それでも、怒りだけではなかった。
「それが気に入らない。だから生きて、自分が壊したものの後に何が残るのかを見ろ。お前を許さない人間が生き続けることも、名前を取り戻す者がいることも、失ったものが戻らないことも全部見ろ。その上で、お前自身もその後を作れ」
セドリックは何も答えなかった。
ただ、その言葉を受け止めるように目を閉じた。
◇
判決はその日のうちには出されなかった。
事件の規模があまりにも大きかったからだ。
セドリック個人の罪だけでなく、共犯者の責任、王宮研究局の制度的な問題、王家が長年黙認してきた行為まで整理しなければならない。
裁判長は、一か月後に最終判決を言い渡すと告げた。
それまでセドリックは王宮監視棟へ拘束され、魔術の使用は禁止される。被害者との接触も、裁判所を通じて正式に許可された場合に限られる。
木槌が鳴った。
人々が立ち上がる。
泣いている者もいた。
怒りを抱えたままの者もいた。
何も言えずに座り続ける者もいる。
今日一日で救われた人など、きっとほとんどいない。
けれど、それでいいのだとリリアは思った。
裁判は救いを演出するための場所ではない。
起きたことを起きたこととして残し、誰が何をしたのかを明らかにし、その上で次にどうするのかを決めていくための場所なのだろう。
騎士に連れられ、法廷を出ようとしたセドリックが、ふと第一王子を見る。
二人の視線が重なった。
第一王子は近づかなかった。
セドリックも何も求めなかった。
ただ、ほんの僅かに唇が動いた。
声は聞こえなかった。
それでも兄には意味が分かったらしい。
――怖かった。
第一王子もまた、声を出さずに答えた。
――知っている。
セドリックの唇がもう一度動く。
――逃げなかった。
第一王子の目が僅かに細くなる。
――ああ。よくやった。
その瞬間だけ、セドリックの表情が幼い弟のように歪んだ。
けれど、すぐに前を向く。
そして騎士に伴われ、法廷の扉の向こうへ消えていった。
第一王子は、その姿が完全に見えなくなるまで立ったままだった。
◇
公爵邸へ戻った頃には、すでに夜になっていた。
朝から降り続いていた雨もようやく止み、庭の月白花には無数の水滴が残っている。リリアは花壇のそばへしゃがみ込み、その一つへそっと指先を近づけた。
「疲れたか」
後ろからレオンが尋ねる。
「はい。今日は正直に言います」
「珍しいな」
「学びました」
『本当か』
ノクスの声が横から飛んできた。
「ノクスは黙っていてください」
『疑問を口にしただけだ』
リリアは苦笑した。
「今日の裁判、これでよかったのでしょうか」
レオンが隣へ立つ。
「分からない」
「またそれですか」
「判決すら出ていないんだ。今の俺たちが全部分かる必要はない」
リリアはしばらく月白花を見つめた。
「そうですね」
「ただ、今日一つだけ確実に変わったことはある」
「何ですか?」
「記録された」
レオンは雨上がりの庭を見た。
「セドリックの罪も、王家が隠してきたことも、被害者の声も、公の記録に残った。もう簡単には消せない」
忘却の海で学んだことを、リリアは思い出した。
記憶は、一人では守りきれない。
だから記録する。
だから語る。
だから名前を呼ぶ。
「それだけでも、今日は意味があったんですね」
「ああ。最初はそれで十分だ」
リリアが微笑んだ、その時だった。
「リリア様!」
屋敷の方からミアが駆けてくる。
息を切らしている姿を見た瞬間、レオンの表情が変わった。
「何があった」
「王宮ですか?」
「黒霧?」
ノクスまで警戒する。
しかしミアは激しく首を振った。
「違います!」
「では何だ」
ミアは一枚の紙を差し出した。
「結婚式の招待客が、さらに百五十人増えました!」
リリアは紙を見る。
レオンも見る。
ノクスも覗き込む。
合計二百五十人。
さすがのレオンも表情を引きつらせた。
「減らせ」
「無理です!」
ミアが即答した。
「北方からもぜひ祝いたいという方が来ていますし、王宮騎士団からも希望が出ています。救出された方の中にも参加したいと申し出てくださった方がいて、研究局の協力者からも問い合わせが届いています」
「どうして戦争より結婚式の方が敵が多いんだ」
レオンが低く呟く。
今日一日、あれほど張りつめていたにもかかわらず、リリアはとうとう笑ってしまった。
「敵じゃありません。招待客です」
『二百五十人か』
ノクスが考え込むように呟く。
『ならば我の席は――』
「増やさない」
レオンが即座に遮る。
『まだ何も言っていない』
「分かる」
『神官席の中央がよい』
「断る」
『では王家席でもよい』
「もっと駄目だ」
「ノクス」
リリアは笑いながら、夜色の頭へそっと手を置いた。
「席のことは明日一緒に考えましょう」
『本当か』
「はい。ちゃんと重要な場所を考えます」
ノクスは満足そうにレオンを見る。
『聞いたか』
「……好きにしろ」
『勝った』
「何にだ」
ノクスの尾が嬉しそうに揺れる。
雨上がりの庭へ、小さな笑い声が広がった。
長く重い一日の終わりに、こうした何でもない時間が残っていることを、リリアはありがたいと思った。
空を見上げると、雲の切れ間から星が一つだけ覗いている。
裁きは終わりではない。
許しも、救いも、一日ですべて完成するものではない。
セドリックにはこれから判決があり、その先には自分が犯したことと向き合い続ける時間がある。第一王子には王国を変えていく責任があり、ノクスには人間というものを見続けていく未来がある。メモリアには、いつか誰かが思い出しに来るまで記憶を待つ庭がある。
そして自分とレオンには、もうすぐ婚礼がある。
その先にはきっと、今日のような大きな出来事ばかりではなく、薬を飲む飲まないで言い合ったり、食事を忘れて叱られたり、ノクスの席順に頭を悩ませたりするような日々が続いていくのだろう。
リリアは隣に立つレオンを見上げた。
「レオン様」
「何だ」
「幸せになる準備って、思っていたより大変なんですね」
レオンは二百五十人分の招待客一覧を見ながら、深く息を吐いた。
「そうだな」
「でも、逃げませんよね」
レオンは少しだけ口元を緩めた。
「裁判からも、深淵からも、忘却からも逃げなかったんだ。結婚式くらい耐える」
「耐えるものなんですか?」
「今のところはな」
リリアは声を上げて笑った。
月白花に残った雨粒が月明かりを受け、小さな星のようにきらめいている。
過去は消えない。
今日名前を呼ばれた人たちの苦しみも、セドリックが犯した罪も、誰かが都合よく忘れてよいものではない。
それでも未来まで過去に決められているわけではない。
どれだけ傷を抱えていても、その先で何を選ぶかは、それぞれの手に残されている。
だからリリアも、もう自分の未来を後回しにはしない。
罪を忘れず、傷を軽く扱わず、それでもレオンと共に幸せになる。
その選択もまた、今日この国に残された多くの名前と同じように、自分自身の人生へ刻んでいけばいいのだと思った。
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