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月影の花嫁は銀狼公爵の運命を拒む  作者: 白石マサル


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第五十六話 幸せになるための準備

 求婚から一週間が過ぎた頃、公爵邸には、これまでとはまったく種類の違う慌ただしさが訪れていた。


 黒霧が現れたわけでもなければ、王宮から緊急の命令が届いたわけでもない。もちろん深淵が暴れたわけでも、忘却の海から異変の知らせが届いたわけでもなかった。それでも朝から使用人たちは屋敷中を行き交い、応接室では書類が積み上がり、廊下では仕立て職人や料理人、庭師たちが忙しそうに打ち合わせを続けている。


 その原因は、三か月後に予定されているリリアとレオンの婚礼だった。


「ですから、招待状の封蝋はヴァルハルト公爵家の銀狼紋で統一すべきです。正式な婚礼である以上、家格を示す意匠は外せません」


「銀狼紋だけではリリア様らしさがありません。月白花の意匠も入れてください」


「公爵家の正式文書ですので、あまり装飾を増やすのは――」


「格式だけで結婚するわけではないでしょう!」


 朝から応接室では、グレイとミアが真剣な顔で招待状の意匠について議論していた。


 大きなテーブルの上には十種類を超える見本が並べられており、銀狼、月、花、星、夜空といった意匠が、それぞれ少しずつ違う組み合わせで配置されている。その横の机には衣装用の布地や宝石、食器、装花の候補、引き出物の見本、料理の献立まで置かれ、さらに壁際には、いつ誰が用意したのか分からないほど巨大な婚礼準備表まで立てかけられていた。


 部屋の入口に立ったリリアは、その光景をしばらく眺めた後、思わず隣のレオンへ顔を向けた。


「……戦争の作戦会議みたいですね」


「王宮地下へ潜る時より複雑に見える」


「私もそう思います」


「聞こえておりますよ」


 グレイが振り返り、いつも通りの冷静な表情でレオンへ一礼した。


「旦那様、本日はまず招待状の意匠を――」


「まだ旦那様ではない」


 レオンが即座に訂正すると、グレイは一瞬も表情を崩さなかった。


「失礼いたしました。未来の旦那様」


「それもやめろ」


「では、いつも通り閣下とお呼びいたします」


「最初からそうしてくれ」


 その横で、ミアは待ちきれないようにリリアのところまで駆け寄ってきた。


「リリア様、今日はお衣装の仮縫いがあります。それから装花の確認、料理の試食、式次第の確認、招待客の座席、結婚証明書の署名者についても決めなければなりません」


 次々と並べられる予定を聞くうちに、リリアの笑顔が少しずつ引きつっていく。


「……それ、全部今日やるんですか?」


「はい。楽しみですね!」


 満面の笑みで言われ、リリアはテーブルいっぱいの資料へ視線を落とした。


「楽しみではあるんですけど、正直に言うと、黒霧と戦っている方が少しだけ気が楽だったかもしれません」


「それは同意する」


 レオンが迷わず頷いた。


 グレイの眉がゆっくりと持ち上がる。


「では、婚礼を延期いたしますか?」


「それは嫌です」


 二人の声が見事に重なった。


 短い沈黙の後、レオンとリリアは同時に顔を見合わせた。ミアの表情が一気に緩み、今にも何か言い出しそうになる。


「お二人とも――」


「今のは聞かなかったことにしろ」


「私もそうしてください」


 二人とも顔を赤くして言うと、グレイは淡々と手元の書類へ何かを書き込んだ。


「延期希望なし、と」


「それは記録しなくていいです!」


 リリアが思わず声を上げると、応接室の空気が少しだけ和らいだ。


     ◇


 婚礼は、公爵邸の庭園で行うことになっていた。


 王宮からは大聖堂を使った大規模な式典も提案されていたが、リリアはそれを断った。王国を巻き込むような華々しい式ではなく、自分たちが暮らしてきた場所で、大切な人たちに囲まれて誓いを交わしたいと思ったからだ。


 レオンもその希望には強く賛成していた。


 公爵邸の庭の中でも、月白花が最も美しく咲く場所が式場として選ばれ、庭師たちはすでに当日の開花時期まで計算しながら手入れを始めている。


「招待客は最小限でいい」


 名簿を手にしたレオンがそう言った時、リリアはそっとページをめくった。


「最小限のはずなのに、もう百人を超えています」


「誰が増やした」


「第一王子殿下です」


「減らす」


「たぶん無理です」


 王家の代表、北方領民の代表、黒霧事件で共に戦った者たち、月華の研究に関わった人々、公爵家の主要家臣、王都で世話になった知人たちまで、すでに名簿には多くの名前が並んでいる。


 さらに意外だったのは、事件の被害者側からも、婚礼へ参加したいという申し出がいくつか届いていることだった。


 もちろん、全員がそう思っているわけではない。


 リリアやレオンの姿を見ること自体がつらい人もいるだろうし、事件を思い出すから関わりたくないという人がいたとしても、それは当然のことだ。


 だから招待状は、あくまで参加を望む者にだけ送る方針になっていた。


「私たち、思っていたよりずっと多くの人と関わったんですね」


 リリアが名簿を見ながら言うと、レオンも隣から同じ紙へ目を落とした。


「そうだな」


 始まりは二人だった。


 偽りの婚約。


 互いの目的のために利用し合うだけの関係。


 そこへミアが加わり、グレイが加わり、マルタやユリウス、第一王子、ノクス、メモリアが加わった。北方の人々も、王宮研究局にいた者たちも、救出された者たちも、自分たちを敵として見ていた者さえ、今では二人が歩いてきた人生の一部になっている。


「レオン様」


「何だ」


「昔のレオン様だったら、百人以上の人が婚礼に来るなんて、絶対に嫌がりましたよね」


「今も嫌だ」


「即答ですね」


 リリアが笑うと、レオンは少しだけ名簿へ視線を落としたまま続けた。


「ただ、お前が彼らに祝ってもらいたいと思うなら我慢する」


「私だけですか?」


「俺は、静かな場所でお前と二人きりでいられるなら、それで十分だ」


 あまりにも平然と告げられたため、リリアの胸が一気に熱くなった。


「そういうことを普通の顔で言わないでください」


「なぜだ」


「心臓に悪いので」


 レオンは少し不思議そうな表情になる。


「月華で治せるのか」


「原因がレオン様なので、たぶん無理です」


「俺が原因なのか」


「はい」


 そう答えた瞬間、レオンがほんの少し身を屈めた。


「なら、もう少し悪化させても問題ないな」


「え?」


 問い返すより早く、額に柔らかな感触が触れた。


 ほんの一瞬の口づけだった。


 何をされたのか理解した途端、リリアの頬が熱くなる。


「レオン様、人がいます!」


 少し離れた場所では、庭師も騎士もミアもグレイも、全員が不自然なほど別の方向を見ていた。


「見ていない」


「見ないふりをしているんです!」


「同じだろう」


「違います!」


 リリアが抗議していると、足元の影からノクスが顔を出した。


『我には何が問題なのか、いまだによく分からぬ』


「ノクスは今出てこないでください!」


『なぜだ』


「余計に恥ずかしいからです!」


 夜色の獣は、本当に理解できないという顔で首を傾げた。


『夫婦になるのだろう』


「まだです!」


『あと三月だ』


「数えなくていいです!」


 しばらく考えるように空を見上げていたノクスが、やがてぽつりと言った。


『我は婚礼というものを見たことがない』


 その声にほんの少しだけ期待が混じっていることに気づき、リリアは怒るのをやめた。


「楽しみなんですか?」


『……興味はある』


「つまり楽しみなんですね」


『違う』


「では、当日は隅の方にいてもらいましょうか」


『それは困る』


「どうしてです?」


『我は重要な位置がよい』


 レオンが深くため息をついた。


「また始まったな」


 リリアは笑いながら、婚礼の日にはノクスにも何か役目を考えてあげようと心の中で決めた。


     ◇


 婚礼の準備が未来への喜ばしい一歩である一方、王国全体がすぐに祝福だけへ進めるわけではなかった。


 同日の午後、リリアとレオンは第二王子セドリックの公開裁判に向けた事前会議へ出席するため、王宮へ向かっていた。


 馬車の窓から王都を眺めながら、リリアは少しだけ表情を曇らせる。


 崩壊した建物の多くは修復され、人々の生活も少しずつ元へ戻り始めている。それでも街のあちこちには黒霧事件の傷跡が残っており、笑顔で歩いている人のすぐ隣を、大切な人を失った者が歩いていることもある。


「緊張しているのか」


 レオンに尋ねられ、リリアは素直に頷いた。


「少しだけ」


「判決を決めるのは俺たちではない。証言を求められたら、見たことと経験したことをそのまま話せばいい」


「分かっています」


 分かってはいても、感情まで簡単に整理できるわけではなかった。


 セドリックはレオンを苦しめ、ノクスを利用し、大勢の人間を儀式の供物にしようとした。実際に命を失った者もいるし、リリア自身も何度となく命と記憶を奪われかけた。


 許せるはずがない。


 それでも、拘束された後のセドリックが毎日被害者の名前を読み、自分が何をしたのかを記録し続けていることも知っている。


 彼は死ぬことで逃げる道を選ばず、公開の場で裁かれることを自ら望んだ。


「リリア」


 レオンの声に、物思いから引き戻される。


「はい」


「迷うなら、迷ったままでいい」


「え?」


「証言する時、許しているように振る舞う必要もなければ、憎しみだけを見せる必要もない。お前が今感じていることを、そのまま言えばいい」


 銀色と藍色を宿した瞳が、静かにリリアを見ている。


「矛盾していてもいいんですか?」


「ああ」


「怖いと思っているのに、生きてほしいと思っても?」


「ああ」


「許せないのに、変わってほしいと思っても?」


「問題ない」


 レオンは迷わなかった。


「人は、一つの感情だけでできているわけじゃない」


 その言葉を聞いて、リリアは少しだけ笑った。


「覚えているんですね」


「ああ」


 忘却の海で一度失われたレオンの記憶は、今ではほとんど戻っている。


 けれど、すべてを思い出したからといって、彼が単純に以前の状態へ戻ったわけではなかった。


 一度忘れた。


 何も知らない状態から、もう一度リリアを選んだ。


 その経験も、新しい記憶としてレオンの中に残っている。


「俺は、お前を最初に好きになった俺も、何も覚えていない状態でもう一度好きになった俺も、どちらも自分だと思っている」


 リリアの胸が温かくなった。


「私は、レオン様のことを二回好きになった気でいました」


「俺は何回だ」


「三回くらいでしょうか」


「そんなにか」


「たぶんです」


「曖昧だな」


「でも、回数なんてもうどうでもいいですよ」


 リリアはレオンの手を取った。


「今、好きなので」


 今度はレオンの耳が少し赤くなった。


「……そういうことを普通の顔で言うな」


 リリアは目を丸くした後、意味を理解して笑った。


「さっきの仕返しです」


     ◇


 王宮の会議室には、第一王子をはじめ、宰相、法務官、王国裁判所長、被害者代表、北方代表、王宮研究局の生存者代表が集まっていた。


 机の中央には、何十枚にも及ぶセドリックの起訴内容が並べられている。


 王国への反逆、王宮研究局を利用した人体実験、黒鴉会への指示、違法魔術研究、民間人拉致、殺人、記憶操作、深淵への干渉、王都破壊未遂。


 それだけでも到底一人の人間が背負えるとは思えないほどの罪だった。


「刑罰については、現在も死刑を求める声が圧倒的多数です」


 法務官が説明すると、第一王子は表情を変えずに頷いた。


「当然だろう」


「殿下」


「私も、弟だから刑を軽くしろと言うつもりはありません」


 被害者代表の男が、確認するように第一王子を見た。


「本当にですか。たとえ、死刑という判決が出ても?」


 室内が静まり返った。


 机の下で第一王子の手が僅かに握られるのを、リリアは見逃さなかった。


 それでも、王太子としての声は揺れなかった。


「裁判所が法と証拠に基づいてそう判断したなら、私は兄として止めたいと思うでしょう。ですが、王太子として判決へ介入するつもりはありません」


 口にするだけでも、どれほど苦しいのか分かる。


 被害者代表は長いあいだ第一王子を見つめ、それから静かに口を開いた。


「分かりました。ただ、私たちの中には死刑を求めない者もいます」


 室内に小さなざわめきが起きた。


「理由を聞いても?」


 法務官が尋ねる。


 男は目を伏せた。


「私の娘は黒鴉会に攫われました。戻ってはきましたが、三年分の記憶を失っています。妻のことも、弟のことも、半分ほど覚えていない」


 男の拳が震えている。


「私は今でも、セドリック殿下を殺したいほど憎んでいます。でも、死ねばそれで終わる。あの人が死んだからといって娘の三年が戻るわけでもないし、娘の記憶を失わせた記録が整理されるわけでもありません」


 男は顔を上げた。


「それなら生かして働かせたい。王家が隠した資料をすべて整理させ、被害者のために残りの人生を使わせたいと思っています」


 その声は震えていたが、言葉そのものには迷いがなかった。


「私はそれを赦しだとは思っていません。罰だと思っています。生きて、毎日自分がしたことを見続けることが、私の望む刑です」


 すぐに答えられる者はいなかった。


 死刑。


 終身刑。


 王族資格の剥奪。


 被害補償。


 記録整理への従事。


 どれか一つだけが正しい答えではない。


 人によって求めるものは違う。


 第一王子が、やがて静かに口を開いた。


「公開裁判では、すべての意見を記録しましょう。死刑を求める声も、生かして償わせるべきだという声も、都合が悪いからといって削除しない」


 そして、机を囲む者たちを見回した。


「判決は王家ではなく、独立した裁判所へ委ねます」


 それは小さな一言だった。


 けれど、この国で王族を裁く権利を王家自身が手放すという意味では、大きな一歩だった。


     ◇


 会議が終わった後、リリアとレオンは王宮西棟へ向かった。


 セドリックがいるのは以前と同じ病室だったが、扉の前に立つ騎士の役割は変わっている。


 以前は第二王子を守るための護衛だった。


 今は被告人を監視するための騎士だ。


 部屋へ入ると、セドリックは机へ向かっていた。


「何をしているんです?」


 リリアが尋ねると、セドリックは筆を止めずに答えた。


「手紙を書いている」


「誰に?」


「被害者へ」


 机の上には、書きかけの紙が山のように積まれていた。


「謝罪の手紙ですか」


「ああ」


「返事を求めるつもりはあります?」


「ない」


 セドリックは迷わず答えた。


「読まなくてもいい。破いても、燃やしても構わない。それぞれの人間に同じ文章を送るのも違うと思ったから、分かる範囲で名前と、何が起きたのか、私の命令がどう関わったのかを書いている」


 レオンが一枚を手に取る。


 そこには名前があり、事件の内容があり、自分の命令がその人の人生をどのように壊したのかが書かれていた。


 言い訳はなかった。


「随分変わったな」


 レオンが言うと、セドリックの手が止まった。


「褒めているのか」


「違う。ただの観察だ」


「そうか」


 セドリックは再び筆を動かし始めた。


「裁判の日が決まるらしいな」


「三週間後です」


 リリアが答える。


「そうか」


「怖いですか?」


 問いかけると、セドリックは長いあいだ何も言わなかった。


 以前の彼なら、恐怖を口にすることなどなかっただろう。


 弱さを見せれば負けだと思っていた。


 けれど今は違った。


「……怖い」


 静かな声だった。


「死ぬのが?」


「それも怖い。でも、一番怖いのは、被害者の前に立った時、自分が何を言えばいいのか分からないことだ」


 リリアは少し考えた。


「言い訳をしなければ、それでいいと思います」


「それだけか」


「はい。許してほしいと言わなくてもいいですし、簡単に『必ず償う』と約束しなくてもいいと思います。ただ、その人が何を言いたいのかを聞いてください」


「罵倒されても?」


「はい」


「殺したいと言われても?」


「はい」


「死ねと言われても?」


 その問いだけは、少し考えてから答えた。


「聞いてください。でも、だから死ぬと決める必要はありません」


 セドリックの青い瞳が揺れた。


「相手の怒りを受け止めることと、相手が望むすべてをそのまま実行することは違います。生きるかどうかも、これからどう向き合うのかも、最後はあなた自身が選ばなければならないと思います」


 セドリックは苦い笑みを浮かべた。


「選べ、か。お前たちは本当にそればかりだな」


「大切なので」


 その時、壁際の影が揺れ、ノクスが小さな獣の姿で顔を出した。


『我もそう思う』


 セドリックの身体が僅かに強張った。


 過去にあれほど利用しようとした相手だからこそ、今でもノクスを前にすると緊張するのだろう。


『手紙か』


「ああ」


 セドリックが答える。


「お前にも必要か?」


 ノクスは少し考えた後、静かに首を振った。


『不要だ。我は汝の謝罪をすでに聞いたし、今も許していない』


「ああ」


『だが、他の者には汝自身の言葉で伝えろ。誰か一人に謝ったことで、すべてへ謝ったつもりになるな』


「分かった」


 それだけ言うと、ノクスは影の中へ戻っていった。


 ほんのわずかなやり取りだったが、セドリックの肩から少しだけ力が抜けたように見えた。


     ◇


 王宮から公爵邸へ戻る馬車の中で、リリアは夕暮れに染まる王都を眺めていた。


 再建された家がある。


 まだ崩れたままの建物もある。


 笑っている人がいれば、大切な人を失った傷を抱えたまま歩いている人もいる。


 復興と喪失が、同じ街の中に並んでいた。


「レオン様」


「何だ」


「幸せになるって、少し難しいですね」


 レオンがこちらを見る。


「なぜそう思う」


「私たちが結婚の準備をしている間にも、セドリック殿下の裁判があって、被害者の方たちはまだ苦しんでいて、王国だって完全に元へ戻ったわけではありません。そんな中で、自分だけ幸せになっていいのかなって思ってしまうんです」


 最後の方は、少し声が小さくなった。


 レオンはすぐには答えなかった。


 やがて、そっとリリアの手を取る。


「以前のお前ならどうしていた」


「え?」


「誰かが苦しんでいると知ったら、自分の幸せを全部後回しにしただろう」


「……はい」


「今は?」


 リリアは少し考えた。


「後回しには、したくありません」


「なら、それが答えだ」


「でも……」


「幸せになることと、誰かの苦しみを軽く扱うことは別だ」


 レオンは握った手に少しだけ力を込めた。


「お前が笑ったからといって、誰かの傷が増えるわけじゃない。むしろ俺なら、自分を助けてくれた人間が、そのせいで一生苦しそうな顔をして生きている方が嫌だ」


 リリアは目を瞬いた。


「助けた人たちが?」


「ああ。もし自分が救われた代わりに、お前が幸せになることを諦めたと知ったら、どう思う」


 リリアは想像してみた。


 自分が救った誰かが、自分のせいでリリアが笑えなくなったと知ったら。


 きっと嬉しくはない。


「……悲しいと思います」


「そういうことだ」


 その言葉が、静かに胸へ落ちていく。


「だから、幸せになることも、生き残った者がするべきことの一つなのかもしれない」


 リリアは少し泣きそうになりながら、レオンを見た。


「今の言葉、日記に書いていいですか?」


「なぜだ」


「忘れたくないので」


「……好きにしろ」


「ありがとうございます」


「ただし、俺が言ったとは書くな」


「どうしてです?」


「恥ずかしい」


 真面目な顔で言われ、リリアはとうとう笑った。


「書きます」


「消せ」


「無理です」


「リリア」


「大切な記憶なので」


 その言葉を聞くと、レオンは何も言い返せなくなった。


     ◇


 その夜、公爵邸の庭で、レオンは一人月白花の前に立っていた。


 手には指輪の注文書がある。


 求婚は終わった。


 婚礼の日程も決まった。


 ずっと望んでいた未来へ進んでいるはずなのに、胸の奥には説明しづらい不安が残っていた。


『何を悩んでいる』


 影から現れたノクスが隣へ座る。


「別に何もない」


『嘘だな』


「お前までそういうことを言うのか」


『リリアから学んだ』


「余計なことを」


 ノクスは月白花を見上げた。


『婚礼が怖いのか』


 レオンは少し迷った後、誤魔化すのをやめた。


「……少しだけな」


『なぜだ』


 レオンは夜空を見上げた。


「幸せすぎるからだ」


 ノクスは黙った。


「昔から、良いことの後には悪いことが起きた。何かを手に入れれば、その代わりに何かを失うのが普通だった。だから全部がうまくいき始めると、その次には全部を失うんじゃないかと思ってしまう」


 長いあいだ、ノクスは何も言わなかった。


 やがて、低い声で呟く。


『我も、名を取り戻した時は怖かった』


 レオンが横を見る。


『また失うのではないかと思って、何度も心の中で自分の名を呼んだ』


「お前が?」


『悪いか』


「いや」


 ノクスは再び空を見た。


『だが、今は少し違う』


「何がだ」


『我が忘れても、呼ぶ者がいる』


 黄金色の瞳がレオンへ向けられる。


『汝も同じだろう。リリアがいる。我がいる。グレイもミアも、王子も、多くの者が汝の名を知っている。何かを失ったとしても、もう以前のように一人ではない』


 レオンはしばらく黙った後、僅かに口元を緩めた。


「神に慰められる日が来るとは思わなかった」


『不満か』


「いや。悪くない」


 ノクスも少しだけ目を細めた。


『なら、もう一つ重要な話がある』


「何だ」


『婚礼では、我を新郎の近くに置け』


「断る」


『まだ最後まで言っていない』


「内容は分かる」


『契約者として重要な位置に――』


「断る」


『レオン』


「新郎の隣はリリアの場所だ」


 ノクスの耳がぴくりと動く。


『では、その隣でよい』


「もっと駄目だ」


『狭量だな』


「何とでも言え」


 二人が婚礼の席順について言い争っている様子を、少し離れた寝室の窓からリリアは見ていた。


 声までは聞こえない。


 それでも何を話しているのかは、なんとなく想像できる。


「どうせノクスの席の話でしょうね」


 小さく笑いながら机へ戻り、日記の新しいページを開いた。


 そして今日、レオンから言われた言葉を書き残す。


『幸せになることも、生き残った人の役目かもしれないと、レオン様が言った。』


 少し考え、その下へ続きを書いた。


『だから私は、遠慮せず幸せになることにする。誰かの苦しみを忘れるためではなく、その人たちの痛みを知ったままでも、自分の未来を選ぶために。』


 ペンを置き、左手を見る。


 そこにはレオンから贈られた婚約指輪がある。


 窓の外へ視線を向けると、ちょうどレオンもこちらを見上げた。


 目が合う。


 リリアが笑って手を振ると、レオンも少しだけ手を上げた。


 ただそれだけのやり取りなのに、胸の奥が柔らかく温かくなる。


 これからも、やらなければならないことはたくさん残っている。


 セドリックの公開裁判。


 王国の改革。


 被害者への補償。


 王国公共記録院の設立。


 月華の庭とメモリアのこれから。


 ノクスとの新しい関係。


 そして三か月後には、自分たちの婚礼が待っている。


 未来には、まだ苦しいこともあるだろう。


 すべてが綺麗に解決するわけでもない。


 それでも、苦しみだけを未来と呼ぶ必要はないのだと、リリアは思った。


 喜びも、笑顔も、恋も、家族も、自分で選んでいい。


 誰かを救ったからといって、自分の人生を犠牲にし続けなくていい。


 そう思えるようになったこと自体が、以前の自分からすれば大きな変化だった。


 一方その頃、王宮西棟では、セドリックが公開裁判の日付を記した書面を前にしていた。


 手は震えていた。


 これから自分が何を言われるのかも、どのような判決を受けるのかも分からない。


 それでも、彼は筆を取った。


 逃げないために。


 自分がしてきたことを、公の記録から消さないために。


 震える手で、自らの名を書く。


 セドリック・アルベルト。


 かつて第二王子だった男は、その名を最後まで書き終えると、しばらく署名を見つめた。


 リリアも、レオンも、ノクスも、第一王子も、そしてセドリックも、それぞれ違う場所に立っている。


 選ぼうとしている未来も同じではない。


 それでも全員が、過去から逃げるのではなく、その先へ自分の足で進もうとしていた。


 公爵邸の庭では、月白花が夜風の中で静かに揺れている。


 三か月後、その花が咲く場所でリリアとレオンは夫婦になる。


 その未来を思いながら、リリアは日記を閉じた。


 幸せは、誰かから許可されるまで待つものではない。


 傷が完全に消える日を待つものでもない。


 自分がこれまで見てきたものを忘れず、それでも明日を選ぶことができるなら、その選択の積み重ねの先に、きっと自分たちが望んでいた人生がある。


 リリアはもう一度窓の向こうにいるレオンを見つめ、穏やかに微笑んだ。


 そしてその夜、王都では、それぞれの人間がそれぞれの場所で、次の一歩を選び始めていた。

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