第五十五話 何度でも、あなたのもとへ
白月塔の最上階に開かれていた光の扉が、少しずつ細くなっていく。
その向こうに最後まで見えていたのは、かつて忘却の海と呼ばれていた場所だった。
誰にも迎えられず、名前を失い、帰る場所さえなくした無数の記憶が沈んでいた黒い海は、もう以前の姿をしていない。水面を覆っていた闇は静かな大地へ変わり始め、その上には月白花によく似た白い花が咲き、深い藍色の夜空には無数の星が浮かんでいた。
そして庭の中央では、小さな姿をしたメモリアが、離れていこうとするリリアたちを見つめている。
『リリア』
呼ばれて、リリアは扉をくぐる直前に振り返った。
「はい」
『また来る?』
その問いには、名前を得たばかりの存在が抱える不安が滲んでいた。
メモリアにとって、忘れられることは存在を失うこととほとんど同じ意味を持っていたのだろう。長い時間、誰にも名前を呼ばれず、帰る場所をなくした記憶たちと共にいたからこそ、誰かが自分のもとを去っていくことを、まだ素直に受け入れきれないのかもしれない。
リリアはそんなメモリアへ向けて、できるだけ安心させるように微笑んだ。
「もちろんです。また来ます」
『忘れない?』
その言葉に、リリアは一瞬だけ迷った。
以前なら、きっと「忘れない」と答えただろう。
大切なものを守るためには、何一つ失ってはいけないと思っていたし、忘れることそのものが裏切りのように感じられていた。
けれど今は、少し違う。
「もしかしたら、忘れることはあるかもしれません」
メモリアの表情がたちまち曇ったため、リリアは慌てずに続きを口にした。
「でも、もし忘れてしまったら、その時はまた思い出しに来ます。忘れないことだけが大切なんじゃなくて、忘れたあとでもう一度見つけることの方が大切な時もあるって、私たちはここで教えてもらいましたから」
メモリアはしばらく何も言わなかった。
やがて、その小さな顔にほんの少しだけ安堵が浮かぶ。
『分かった。待っている』
その隣へ、ノクスが静かに歩み寄った。
『我も時々来る』
メモリアの瞳が一気に明るくなる。
『本当?』
『ああ』
『名前も呼んでくれる?』
ノクスが黙る。
ほんの僅かな沈黙だったが、それだけで彼が困っていることは十分に分かった。
『……時々なら』
『毎回』
『なぜだ』
『忘れるかもしれないから』
ノクスが助けを求めるようにリリアを見る。
「呼んであげてください」
『汝は簡単に言うな』
「ノクスだって、自分の名前を呼んでもらった時は嬉しかったでしょう?」
ノクスは答えなかった。
けれど、答えないこと自体が何より分かりやすい答えだった。
隣に立っていたレオンが僅かに笑う。
「負けたな」
『レオン、汝は黙れ』
「今、自分から俺の名を呼んだぞ」
ノクスは完全に黙り込み、今度はリリアまで笑ってしまった。
つい先ほどまで、あらゆる記憶を飲み込もうとしていた忘却の海と向き合っていたとは思えないほど、穏やかな時間だった。
メモリアはそんな三人をじっと見つめていた。
その表情にはまだ寂しさがあったが、以前のように取り残されることだけを恐れている顔ではない。
『行ってらっしゃい』
初めて聞く言葉だった。
リリアの胸が熱くなる。
「行ってきます」
レオンも、ノクスも、それぞれメモリアへ頷いた。
そして光の扉は静かに閉じ、庭の景色は白い光の向こうへ消えていった。
◇
次の瞬間、足元へ固い石床の感触が戻ってきた。
「リリア!」
耳に飛び込んできた声に目を開けると、そこは白月塔の最上階だった。
見慣れた石壁の前には、まだ淡い光を残す月華の門があり、その周囲には予想していた以上の人々が集まっている。
マルタ、ユリウス、グレイ、王宮騎士、記録官、神官たち。
そして床や机の上には大量の紙が積み上げられ、その一枚一枚に誰かの名前が記されていた。
「戻った……」
リリアが呟いた瞬間、ミアが勢いよく飛びついてきた。
「リリア様!」
「ミア!」
あまりの勢いに身体が少しよろけたものの、リリアもすぐに腕を回した。
「よかった……本当によかったです……!」
ミアの声が涙で震えている。
「門が閉じかけてもお戻りにならなくて、何度呼んでも返事がなくて、もう帰ってこないんじゃないかと思って……」
「ごめんなさい」
「謝らないでください!」
泣きながら怒られてしまい、リリアは苦笑しつつ、ミアの背中をそっと撫でた。
そのすぐ横で、再び月華の門が揺れた。
光の中からレオンが姿を現す。
「閣下!」
今度はグレイが駆け寄ろうとした。
けれど数歩進んだところで、その足が止まる。
銀色と藍色の瞳。
見慣れたレオンの顔。
それでも、グレイは何かを確かめるように慎重に口を開いた。
「閣下……?」
レオンはしばらく彼を見つめた。
やがて、静かに名前を呼ぶ。
「グレイ」
その瞬間、グレイの肩から目に見えるほど力が抜けた。
「私がお分かりになるのですか」
「ああ」
「では、リリア様とのことも……?」
グレイの視線がリリアへ移った。
つられるようにレオンも彼女を見る。
リリアの胸に、僅かな緊張が走った。
忘却の海の中で、レオンは自分の名前をもう一度覚えてくれた。
何も知らない状態から、改めて手を取ってくれた。
けれど、それまで二人が積み重ねてきた時間の多くは、まだ戻っていない。
「リリア」
レオンが呼ぶ。
「はい」
「俺の婚約者だ」
「はい」
「薬師で、月華の使い手でもある」
「はい」
少し間を置いてから、レオンは続けた。
「それから、かなり無茶をする」
「そこまで覚えたんですか?」
「ノクスが言っていた」
「本人の記憶ではないんですね」
「だが、正しいのだろう」
「……否定できません」
ミアとグレイは、泣けばいいのか笑えばいいのか分からないような顔で二人を見ていた。
「閣下」
グレイが慎重に尋ねる。
「リリア様とのこれまでについては、どこまで……」
レオンはほんの僅かに目を伏せた。
「まだ、ほとんど思い出していない」
ミアの目に再び涙が浮かぶ。
「そんな……」
「大丈夫です」
リリアがすぐに言った。
ミアがこちらを見る。
「でも、リリア様……」
「本当に大丈夫です」
今度は笑って答えた。
「レオン様は、何も覚えていない状態でもう一度私を選んでくれました。私が誰なのか分からないところから始まって、それでも私の手を取ってくれたんです」
レオンの視線が静かに向けられる。
「だから急がなくていいんです。思い出してくれたらもちろん嬉しいですけど、もし戻らない記憶があったとしても、それならその分はこれからもう一度作ればいいですから」
言葉にしてみると、それは自分自身へ向けた言葉でもあるように思えた。
忘れたくない。
失いたくない。
そう思う気持ちは今も変わらない。
けれど、一度失ったからといって、すべてが終わるわけではない。
それを自分たちは忘却の海で知ったのだ。
ミアは泣きながら何度も頷いた。
「……はい」
その時、月華の門からもう一つの光が飛び出した。
第一王子だった。
ほとんど転がるように床へ降り立ち、その場に膝をつく。
「殿下!」
ユリウスが駆け寄るより早く、第一王子は胸元へ手を差し入れた。
取り出したのは、白い木彫りの駒だった。
なくなっていない。
それを確認した彼の口から、真っ先に零れたのは弟の名前だった。
「セドリック……」
第一王子は立ち上がる。
「王宮へ戻る。すぐにセドリックのところへ行く」
◇
王宮西棟の病室の扉が勢いよく開いた。
寝台の上で身体を起こしていたセドリックは、その物音に顔を上げた。
彼の手には、青い木彫りの駒が握られている。
第一王子と目が合った。
二人とも、すぐには言葉を発しなかった。
「……兄上」
先に口を開いたのはセドリックだった。
その瞬間、第一王子の目から堪えていた涙が溢れた。
「覚えているか」
「何を」
「私をだ」
セドリックは呆れたような顔をした。
「忘れた方がよかったか?」
「馬鹿を言うな」
第一王子は寝台のそばまで歩み寄ると、勢いのまま弟を強く抱きしめた。
「兄上、痛い」
「我慢しろ」
「傷がまだ治っていないんだが」
「今だけは知るか」
「王族とは思えないな」
「今は王子ではなく兄だ」
セドリックは困ったように腕を宙へ浮かせたまま固まっていた。
けれど少ししてから、ゆっくりと兄の背へ腕を回す。
「……おかえり」
第一王子の肩が震えた。
「ただいま」
ようやく言えた言葉だった。
二人の間では、白と青の木彫りの駒が静かに触れ合っていた。
◇
その日の夕方、王都全域へ新しい告知が出された。
忘却の異変によって生じた記憶の混線や、名前を思い出せなくなる症状を、王国はもう隠さないことを決めた。
同時に、それらの症状が出た者を「感染者」や「呪われた者」と呼ぶことも禁じられた。
月華研究局が急遽つけた仮称は「帰路障害」。
本来の持ち主へ帰ろうとした記憶が、途中で道を見失っている状態だと説明された。
恐れるべき存在ではなく、治療と支援の対象。
王都各地には臨時の記憶相談所が設けられ、名前を思い出せなくなった者、自分のものではない記憶を見てしまう者、過去の一部が欠けた者には、自分の名前、家族、故郷、好きなもの、大切な人について書いてもらうことになった。
白月塔でリリアたちが用いた、記憶の楔である。
それでも行き先を見つけられない記憶は、ノクスの夜と、メモリアがいる月華の庭で一時的に預かることになった。
もちろん、まだ完全な方法ではない。
けれど、以前のように理解できないものを恐れ、隠し、なかったことにするしかない世界ではなくなり始めていた。
◇
数日後、リリアは公爵邸の庭に立っていた。
月白花のそばには、新しくいくつもの薬草が植えられている。
「ずいぶん増えましたね」
「ああ」
隣に立つレオンは、以前と変わらないように見える。
けれど彼の中では、今も数か月分の記憶の一部が欠けていた。
リリアとの出会い。
偽りの婚約。
北方での出来事。
白月塔。
嫉妬。
告白。
どれも完全ではなく、ところどころが断片として戻っているだけだった。
「これは何だ」
レオンが一本の薬草を指差す。
「白露草です。鎮痛と解熱に使います」
「苦いか」
その問いに、リリアは思わず彼の顔をじっと見た。
「気になります?」
「なぜそんな顔をする」
「レオン様は苦い薬が嫌いなんです」
「俺が?」
「はい。かなり」
「そんな子供みたいなことを言うはずがない」
「では、試してみます?」
リリアはポケットから小さな薬瓶を取り出した。
レオンの目が明らかに警戒する。
「今飲む必要があるのか」
「軽い疲労回復薬ですし、昨日は契約の調整で胸が痛いと言っていたでしょう」
「あれは問題ない」
「ノクス」
リリアが呼ぶと、影から小さな夜色の獣が顔を出した。
『かなり痛がっていたぞ』
レオンの眉が動く。
「黙れ」
『息をするのも辛そうだった』
「ノクス」
『夜中まで眠れなかった』
「お前はどちらの味方なんだ」
『事実の味方だ』
リリアは笑いを堪えながら薬瓶を差し出した。
「どうぞ」
レオンは心底嫌そうな顔で瓶を受け取り、栓を開けて匂いを嗅いだ。
その瞬間、僅かに表情が歪む。
それだけで、リリアの胸が懐かしさでいっぱいになった。
「レオン様、ちゃんと飲んでください」
「……分かっている」
覚悟を決めるように一気に口へ流し込む。
直後、顔が完全に歪んだ。
「苦い」
リリアはとうとう声を上げて笑った。
「何がおかしい」
「同じなんです」
「何がだ」
「何もかもです」
「意味が分からない」
「それでいいんです」
笑っているはずなのに、いつの間にか涙まで浮かんでいた。
レオンが戸惑ったように見る。
「なぜ泣く」
「嬉しいんです」
「薬を飲んだだけだぞ」
「それが嬉しいんです」
「やはり理解できない」
「そのうち分かります」
「またそれか」
レオンは諦めたように息を吐いた。
それでも、彼はリリアの隣から離れなかった。
◇
庭の中央まで来たところで、レオンがふと足を止めた。
そこは以前、二人が月白花を眺めながら話した場所だった。
「ここを知っている気がする」
リリアの心臓が大きく鳴った。
「何を覚えています?」
レオンは花を見つめ、眉を寄せた。
「お前が、この花を綺麗だと言った」
「はい」
「俺は花を植えるくらいなら薬草を増やした方が役に立つと言った」
「はい……!」
思わず声が大きくなる。
レオンがこちらを見る。
「合っているか」
「全部合っています」
リリアの目に涙が浮かぶ。
「それからは?」
「それから……」
レオンは再び花へ目を向けた。
「俺は、この庭を残すと言った。お前が気に入っていたから」
リリアは口元を押さえた。
戻っている。
ほんの少しずつ。
誰かに教えられた記憶ではなく、彼自身の中から戻ってきている。
「それで、帰ってきたら……」
レオンの言葉が止まる。
リリアは急かさなかった。
自分が答えを教えてしまえば簡単だ。
けれど今は、彼自身に記憶への道を辿ってほしかった。
「花を増やそう」
その言葉が零れた瞬間、レオンの表情が変わった。
銀色の瞳が大きく揺れる。
過去と現在の景色が、彼の中で重なっていく。
夜の庭。
月白花。
怖いと言ったリリア。
自分も怖いと答えたこと。
繋いだ手。
約束。
「……離れない」
レオンが掠れた声で呟く。
リリアの呼吸が止まった。
「レオン様……」
「お前が、離れないでくれと言った」
記憶が一つ、また一つと帰ってくる。
「俺は、離れないと約束した」
「はい」
涙が頬を伝った。
「そうです。約束しました」
レオンがリリアを見る。
これまで彼の目の奥にあった、知らない人を見るような僅かな迷いが消えていく。
「リリア」
「はい」
「俺は……」
突然、彼が胸元を押さえた。
「レオン様!」
リリアが身体を支える。
「無理に思い出さなくていいです!」
「違う」
「でも……」
「これは苦しいんじゃない」
震える手で、レオンがリリアの腕を掴む。
銀色の瞳から、一筋の涙が落ちた。
リリアは息を呑んだ。
戦場でも、深淵を前にしても、あれほど感情を表へ出さなかった人が、今は隠そうともせず涙を流している。
「戻ってきた」
「何が……?」
「全部だ」
リリアは彼を支えたまま固まった。
「全部?」
「ああ」
「本当に?」
「ああ」
信じたい。
でも、嬉しさが大きすぎて怖い。
確かめるように、リリアは震える声で尋ねた。
「私に最初に会った時、何を言いました?」
レオンは一瞬だけ苦い顔をした。
「君を愛するつもりはない、と」
リリアの目から、今度こそ止められない涙が溢れた。
「最悪です」
「ああ」
「何でそんなことを言ったんですか」
「馬鹿だった」
「はい」
「そこは否定しろ」
「事実なので」
泣きながら笑うと、レオンも涙を拭わないまま、ほんの少しだけ笑った。
「リリア」
「はい」
「俺は、お前を――」
「待ってください」
リリアが慌てて止める。
レオンは少し驚いたように眉を上げた。
「何だ」
「忘却の海へ行く前に、帰ってきたら話したいことがあるって言いましたよね」
レオンの瞳が見開かれる。
「覚えている」
「では、今聞きます」
自分でも胸が高鳴っているのが分かる。
月白花と薬草に囲まれた庭。
少し離れた場所では、いつの間にかミアとグレイまでこちらを見ていた。
ノクスも影の中から顔を出している。
けれど、もう気にしないことにした。
レオンはしばらくリリアを見つめた後、ゆっくりと彼女の前へ片膝をついた。
「レオン様?」
彼が上着の内側から小さな箱を取り出す。
「それ……」
「忘却の海へ行く前に用意していた」
箱が開かれる。
中にあったのは、これまで婚約者として身につけていたものとは別の指輪だった。
細身の銀の輪の中央に、柔らかな月色の石が置かれ、その周囲を小さな藍色の石が夜空のように取り囲んでいる。
「リリア・エヴァレット」
レオンの声が僅かに震えていた。
銀狼公爵。
戦場で恐れられ、深淵を前にしても退かなかった男。
その人が、今は一人の女性へ言葉を伝えることに緊張している。
「俺はもう、偽りの婚約者ではいたくない」
リリアの頬を、また新しい涙が伝った。
「お前が月華を使えるからでも、俺を救えるからでもない。ヴァルハルト公爵家に公爵夫人が必要だからでもない」
レオンは、リリアという一人の人間だけを見ていた。
「お前と生きたい」
静かな言葉だった。
けれど、今のリリアにはどんな華やかな台詞よりも深く響いた。
「庭で薬草のことで言い合って、お前が無茶をすれば俺が怒って、俺が無茶をすればお前に怒られる。苦い薬を飲まされるのはできれば避けたいが、それでも朝になれば同じ食卓に座って、夜になれば同じ家へ帰りたい」
レオンは指輪を持ったまま続ける。
「そんな何でもない日々を、お前と一生続けたい」
リリアは口元を押さえた。
「だから、俺と結婚してくれ」
庭が静まり返った。
その瞬間、少し離れた場所から何かが落ちる音がした。
振り向かなくても分かる。
おそらくミアだ。
『ようやくか』
ノクスの声だけは、静寂を気にする様子もなく響いた。
「ノクス」
レオンが睨む。
『遅いと言っただけだ』
「今は黙れ」
『我はもっと前から――』
「黙れ」
リリアは涙を流しながら、とうとう笑ってしまった。
「はい」
レオンがこちらを見る。
その顔には、戦場では絶対に見せなかった不安が浮かんでいた。
「……本当に?」
「どうしてそこで聞き返すんですか」
「いや、その……」
「もう一度言います」
リリアはレオンの前へ手を差し出した。
「はい。レオン・ヴァルハルト様、あなたと結婚します」
その瞬間、彼の表情から緊張がゆっくりと消えていった。
代わりに浮かんだのは、これまでほとんど見たことのないほど穏やかな笑顔だった。
指輪がリリアの指へ嵌められる。
あまりにぴったりだったため、リリアは思わず首を傾げた。
「サイズ、どうして分かったんです?」
「ミアに聞いた」
少し離れた場所を見ると、案の定ミアが泣きながら親指を立てている。
「ミア……」
「共犯だ」
「グレイさんもですか?」
グレイは静かに頭を下げた。
「一月ほど前から、閣下より準備を命じられておりました」
「一月前?」
リリアは驚いてレオンを見た。
「そんな前から考えていたんですか?」
「……ああ」
「では、忘却の海へ行く前から、帰ったら求婚するつもりだったんですね」
「ああ」
「どうして行く前に言わなかったんです?」
レオンは僅かに視線を逸らした。
「帰る理由を増やしたくなかった」
「どういう意味です?」
「もし帰れなかった時、お前を余計に苦しませると思った」
リリアの眉がゆっくり寄った。
「レオン様」
「何だ」
「それ、まだ一人で全部決めています」
レオンが黙った。
「成長したと思ったのに」
「……すまない」
「次からは言ってください」
「次?」
「何か大切なことを考えた時です。一人で勝手に決めずに、ちゃんと私にも話してください」
「ああ」
「約束ですよ」
「ああ、約束する」
リリアは指輪の嵌まった手を、レオンの手へ重ねた。
「もし今度忘れてしまったら、その時は私が何度でも言いますから」
月明かりの下で、銀と月色と藍色の光が柔らかく重なった。
◇
婚礼は、王宮の大聖堂ではなく、公爵邸の庭で行うことになった。
日取りは三か月後。
王都の復興が少し落ち着き、月白花が美しく咲く時期に合わせることになった。
「できれば小さな式がいいです」
リリアがそう言うと、レオンもすぐに頷いた。
「俺も賛成だ。お前が疲れない範囲にしろ」
ただし二人が思う「小さな式」と、周囲が考える「銀狼公爵の正式な婚礼」にはかなり大きな差がありそうだったが、それが明らかになるのはもう少し先の話になる。
ノクスだけは、日取りが決まった時点から自分の役割について強い関心を示していた。
『我も参加する』
「もちろんです」
『重要な位置へ置け』
「どこがいいんです?」
『新郎の隣』
「断る」
レオンが即答した。
『なぜだ』
「目立つ」
『我は神だぞ』
「だからだ」
『ではリリアの隣でよい』
「もっと駄目だ」
『なぜだ』
「俺の妻になる」
ノクスはしばらくレオンの顔を見つめた後、黄金色の瞳を細めた。
『嫉妬か』
「違う」
『嫉妬だな』
「黙れ」
リリアはそんな二人のやり取りを見ながら、声を上げて笑った。
奇跡のような力でもなく、誰かを救うための戦いでもなく、こうして大切な人たちと言葉を交わす時間こそ、自分がずっと欲しかったものなのかもしれない。
◇
その夜、リリアは自室の机へ向かい、久しぶりに日記を開いた。
新しいページへ、ゆっくりと今日の出来事を書き始める。
『今日、レオン様から正式に求婚された。返事は、はい。』
そこまで書いたところで、今さら頬が熱くなった。
それでもペンを止めず、続きを記す。
『今度は、忘れないように書いているわけではない。できるならずっと覚えていたいし、この日のことを失いたいとは思わない。でも、もし忘れてしまったとしても、この日記があり、レオン様がいて、ノクスがいて、メモリアがいて、私たちを知っている人たちがいる。だから、記憶を守ることだけが、愛を守ることではないのだと思う。』
書き終えてから、窓の向こうへ目を向けた。
庭には月白花と薬草が並び、その間ではレオンとノクスが何かを言い争っている。
おそらく婚礼の席順か、厨房の肉に関する話だろう。
リリアは少しだけ笑うと、再び日記へ向かった。
『何度忘れても、私はきっと、またあの人を好きになる。』
最後の一文を書いたところで、扉が叩かれた。
「リリア」
「はい」
扉を開けると、レオンが立っていた。
「どうしました?」
「ノクスが厨房へ行こうとしている」
その言葉と同時に、足元の影から声がする。
『我ではない』
「お前しかいない」
『結婚祝いの供物について料理長へ相談しようとしただけだ』
「式は三か月後ですよ」
『準備は早い方がよい』
リリアは思わず吹き出した。
「分かりました。明日、ちゃんと料理長さんと相談しましょう」
『今では駄目か』
「もう寝る時間です」
『神は眠らぬ』
「私たちは眠ります」
『ならばレオンだけ起きていろ』
「断る」
『契約者だろう』
「関係ない」
『冷たいな』
ノクスは不満そうに影へ沈んでいった。
リリアはまだ笑いながら、レオンを見た。
「レオン様」
「何だ」
「少しだけ、庭を歩きませんか」
「今から?」
「はい。少しだけでいいんです」
レオンは窓の外を見た。
静かな夜。
月。
咲き始めた月白花。
「分かった」
二人は庭へ出た。
手を繋ぎ、ゆっくり歩く。
夜風が花の香りを運び、遠くの王都には復興途中の街の灯が点々と浮かんでいる。
その上には無数の星があった。
どこかに、ノクスの夜がある。
そのさらに向こうには、メモリアが待つ庭があるような気がした。
「レオン様」
「何だ」
「おかえりなさい」
突然告げると、レオンが僅かに驚いた。
「今か?」
「はい」
「忘却の海から戻って数日経っているぞ」
「でも、ちゃんと言ってなかったので」
リリアは繋いだ手に少し力を込めた。
「おかえりなさい、レオン様」
彼はしばらくリリアを見つめていた。
それから、穏やかな声で答える。
「ただいま、リリア」
胸の奥が温かくなる。
けれど、レオンはそこで終わらなかった。
リリアの左手を取り、今日贈ったばかりの指輪の上へ自分の手を重ねる。
「お前も、おかえり」
リリアは一瞬だけ目を見開いた。
そして、笑った。
「ただいま」
二人の間に、それ以上の説明は必要なかった。
失っても、また見つければいい。
忘れても、また名前を呼べばいい。
離れてしまっても、帰る場所を知っているなら、もう一度そこへ向かえばいい。
月華の本当の力とは、何かを永遠に失わないための力ではなく、失ったものがもう一度帰るべき場所へ辿り着くための力なのかもしれない。
リリアにとって、その帰る場所はもう決まっていた。
銀色の髪と、不器用な優しさを持ち、苦い薬を心底嫌がりながら、それでも誰より彼女を守ろうとする人。
「レオン様」
「何だ」
「好きです」
隣を歩いていたレオンの足が僅かに止まった。
すべての記憶を取り戻したのに、この言葉に慣れていないところだけは何も変わっていない。
「……俺もだ」
「聞こえません」
「リリア」
少し低くなった声に笑いかけた瞬間、手を引かれた。
月明かりの下で、レオンが額へ優しく口づける。
「愛している」
今度ははっきりと聞こえた。
リリアは目を閉じ、その言葉を胸の奥へ大切に受け取った。
「私もです」
忘れないと誓うのではない。
永遠に何一つ失わないと約束するのでもない。
ただ、今ここにある気持ちを大切にする。
もし未来のどこかで記憶を失うことがあったとしても、その時はまた名前を呼び、もう一度互いを知り、何度でも同じ人を選び直せばいい。
夜空では星が静かに瞬いていた。
そして遥か遠く、月華の庭では、待つことを覚え始めた小さなメモリアが、誰にも聞こえない声で二人の名前を呼んでいた。
『リリア』
『レオン』
それは忘れないための名前ではなく、いつか再び帰ってくる人を迎えるための名前だった。
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