第五十四話 帰れなかった記憶たち
黒い波は、もはや海というより巨大な壁だった。
リリアとレオンの前で空を覆い尽くすほど高く盛り上がったその波の中には、数え切れないほどの声と記憶が混ざり合っている。誰にも名前を呼ばれず、思い出されることもなく、帰る場所を失ったまま長い時間を漂い続けてきたものたちが、怒りと悲しみを抱えて二人へ押し寄せていた。
「リリア、本当に戦わないのか」
レオンは剣を構えたまま、視線だけを彼女へ向けた。刃の上には銀色と藍色の光が重なり、迫り来る黒い海を迎え撃てるだけの力が満ちている。
「はい。少なくとも、最初から斬るつもりはありません」
答えながらも、リリアの身体は僅かに震えていた。
目の前の光景だけを見れば、逃げ出したいと思うのが当然だった。波に呑まれれば自分がどうなるのか分からず、月華の力でさえ耐えられる保証はない。
それでも、耳に届いてくるものを無視することができなかった。
『お母さん』
『帰りたい』
『寒い』
『痛い』
『僕の名前を、忘れないで』
それは敵が発する声ではなかった。
ずっと誰かに聞いてほしかった人たちの声だった。
「この人たちは、私たちを傷つけたいだけじゃないんです」
リリアは胸元へ手を当てた。
「ずっと誰かに聞いてほしかったんだと思います。自分がいたことを、知ってほしかったんです」
「それでも、お前を呑み込もうとしていることは変わらない」
「分かっています」
「なら――」
「だからこそ、もう一人で全部受け取ろうとはしません」
リリアはレオンの手を取った。
その言葉に、レオンの瞳が僅かに揺れる。
「話は聞きます。でも、全部を私の中へ入れるんじゃなくて、この人たちがそれぞれの記憶のままでいられる場所を作ります」
「そんなことができるのか」
「分かりません。でも、やってみます」
以前の自分なら、きっと「できます」と言い切っていただろう。
誰かを救うためなら、自分が壊れても構わないと思っていた。
けれど今は違う。
できるか分からないことを認めてもいい。
一人では無理なら、誰かの力を借りればいい。
そう思えるようになった。
次の瞬間、黒い波が頭上から落ちてきた。
「リリア!」
レオンが彼女を抱き寄せる。
世界が暗転し、直後には無数の声と景色が二人の意識を埋め尽くした。
◇
『私の名前はエリーゼ』
最初に見えたのは、若い女性だった。
白い服を着て、誰もいない病室の寝台に横たわっている。
『疫病で死んだの。家族も、村のみんなも死んだから、もう私を覚えている人はいない』
景色が変わる。
『俺はトーマス』
今度は泥と血にまみれた戦場だった。
『敵国で死んだ。遺体も帰らなかった。家には母がいたけど、母ももう死んだ』
さらに景色が変わる。
『私は……』
少女の声だけが残る。
けれど顔が見えない。
『名前が分からない』
リリアの胸が締めつけられた。
そこから先は、あまりにも多かった。
王家によって記録から存在そのものを消された者。
戦争で村ごと焼かれた民。
生まれてすぐ亡くなり、名前すら与えられなかった子供。
家族から存在を否定された娘。
研究施設で番号だけを与えられた者。
誰かの人生が、一つ終わるたびに次の人生が押し寄せてくる。
「……多すぎます」
リリアは涙を流しながら立っていた。
レオンも隣にいるが、その顔色は決してよくない。
「レオン様、大丈夫ですか」
「大丈夫だ」
「嘘ですね」
そう返すと、レオンはほんの少しだけ苦笑した。
「今回は、本当に大丈夫ではない」
思わずリリアも泣きながら笑う。
「正直になりましたね」
「お前に何度も怒られた気がする」
その言葉に、二人とも一瞬動きを止めた。
レオンはまだ、リリアと過ごしてきた時間の多くを思い出していない。
それなのに今、自然と「何度も怒られた」という言葉が口から出た。
「覚えているんですか?」
「分からない」
レオンは額を押さえた。
「ただ、そうだった気がする」
リリアの胸が強く鳴った。
「それでいいんです」
「何がだ」
「無理に思い出そうとしなくても、今そう感じたなら、それで十分です」
レオンはしばらく彼女を見つめた。
知らない女を見る目ではない。
かといって以前の記憶をすべて持っていた頃の目とも違う。
今のレオン自身が、リリアを見ている。
「リリア」
「はい」
「俺は、お前を守りたい」
「……はい」
「なぜそう思うのかは、まだ分からない」
「それでもいいです」
レオンはリリアの手を強く握った。
「それでも、今そう思っているなら、十分です」
今度は、リリアの目から新しい涙が溢れた。
◇
黒い海から聞こえてくる声は、次第に激しくなっていった。
『聞いて』
『私を』
『俺も』
『こっちを見て』
『忘れないで』
一人が声を上げれば、それを押しのけるように別の声が重なる。
誰かより先に。
誰かより強く。
自分のことを見つけてほしい。
「待ってください!」
リリアが叫んでも、声は止まらない。
海面が激しく揺れ、その奥から巨大な影が現れた。
『また選ぶのか』
「違います!」
『誰を聞き、誰を捨てる。汝も人と同じだ』
「捨てません!」
『ならば全てを聞け』
その言葉と同時に、何万もの記憶が一気にリリアの中へ流れ込んだ。
声も出せなかった。
知らない人生。
知らない死。
知らない痛み。
それらが次々と意識の中へ入り込み、自分自身の記憶を埋めていく。
父の顔。
母の声。
薬草の匂い。
自分の名前。
レオン。
すべてが遠ざかる。
何が自分の記憶なのか分からなくなる。
「リリア!」
遠くから声が聞こえる。
誰の声なのか分からない。
『ほら』
忘却の声が囁いた。
『全てを救おうとすれば、汝自身が消える。我らと同じになる』
「リリア!」
今度は頬を掴まれ、無理やり顔を上げさせられた。
銀色と藍色の瞳が目の前にある。
「俺を見ろ!」
知らない。
けれど知っている。
胸の奥だけが、その人を知っている。
「名前を言え!」
「……」
「お前の名前だ!」
頭の中には知らない名前が溢れていた。
エリーゼ。
トーマス。
ミナ。
カイル。
セレネ。
ノクス。
違う。
それは自分ではない。
「リリア!」
その声を聞いた瞬間、胸の奥が強く鳴った。
「……リリア」
「そうだ!」
「リリア・エヴァレット……」
「そうだ。お前はリリア・エヴァレットだ。薬師で、月華を持っている」
「はい……」
「それから、無茶をする」
「そこは今言います?」
「今は否定するな」
「……はい」
涙が零れた。
少しずつ、自分が戻ってくる。
レオンは何かを思い出そうとするように一瞬黙った。
けれど、記憶は出てこないらしい。
それでも彼は、リリアを強く抱き寄せた。
「それから、お前は俺が離したくない人だ」
リリアの目が大きく開く。
「……はい」
「全部を受け取るな」
「はい」
「できることだけしろ。残りは、俺たち以外にも聞かせればいい」
その言葉で、リリアはようやく気づいた。
「私たち以外……」
なぜ自分一人が、すべての記憶を覚えなければならないと思っていたのだろう。
また同じことをしていた。
一人で背負う。
一人で救う。
それが正しいと思い込んでいた。
「ノクス!」
リリアは叫んだ。
返事はない。
けれど、遠くの空で星が一つ光った。
◇
ノクスは黒い海の別の場所にいた。
周囲には、名前を失った無数の記憶が漂っている。
その中で、彼は一輪の白い花を見つめていた。
月白花だった。
かつて子供からもらった花。
恐怖でも、崇拝でもなく、ただ「ありがとう」という気持ちで人間から贈られた最初のものだった。
『我は、ノクス』
そう呟いたはずなのに、名前の響きが薄くなる。
忘却の海にいる時間が長くなるほど、自分の輪郭が消えていく。
『ノ……』
一瞬、続きが出てこなかった。
黄金色の瞳が揺れる。
怖い。
また深淵へ戻るのか。
名を失い、自分が何者なのか分からなくなるのか。
その時、遠くから声が届いた。
「ノクス!」
リリアの声だった。
続いて、別の声も響く。
「ノクス!」
レオンだった。
その瞬間、消えかけていた名前が戻ってくる。
『ノクス』
身体に散っていた星が、再び一つずつ灯り始めた。
「聞こえますか!」
『聞こえる』
「力を貸してください!」
『何をする』
「この記憶たちを、一つずつ夜へ預けられませんか」
ノクスは黒い海を見渡した。
『それでは、以前の我と同じになる』
「違います!」
すぐに返事が返ってきた。
「全部背負わないでください!」
『ならば、どうする』
「場所だけ貸してください!」
ノクスの瞳がゆっくりと見開かれる。
「覚えるのはノクスだけじゃありません。私も、レオン様も、第一王子殿下も、外にいる人たちも、みんなで覚えるんです」
『人が、知らぬ者の記憶を覚えるのか』
「全部じゃなくていいんです。名前を一つ、物語を一つ、誰か一人が一つずつ覚えればいいんです!」
ノクスは長いあいだ答えなかった。
やがて、星のない黒い空を見上げる。
『ならば、貸そう』
夜の神の身体がゆっくりと空へ浮かび上がる。
翼などない。
それでも、彼そのものが巨大な夜へ変わっていった。
次の瞬間、黒い空に藍色の亀裂が走り、その奥から無数の星が現れた。
ノクスの夜だった。
◇
第一王子も、その光を見ていた。
手には、弟と幼い頃に遊んだ白い木彫りの駒を握っている。
「セドリック」
名前を口にする。
現実では、弟が自分を待っている。
帰らなければならない。
そう思って歩き出した時、周囲から低い声が響いた。
『王よ』
『我々をなかったことにした王家よ』
第一王子は足を止めた。
目の前には、無数の人影が立っている。
王家の命令によって記録から消された者たち。
反逆者。
実験体。
名もない兵士。
失敗した政策の犠牲者。
その多くは、自分が生まれるより何百年も前に生きていた人々だった。
自分自身が彼らを消したわけではない。
けれど、王家が消した。
その事実から逃げることはできない。
「私は、あなたたち全員を覚えることはできません」
第一王子は膝をついた。
人影がざわめく。
『ならば――』
「でも、記録します」
彼は顔を上げた。
「名前が分かる者は名前を残します。名前が分からないなら、その人が生きていた証を残します。王家がしたことも、都合が悪いからといって隠しません」
人影たちが静かに揺れる。
「私一人がすべてを覚えるのではなく、国に覚えさせます」
『国に?』
「はい。王家から独立した記録局を作ります。王が都合よく消せない場所を」
『また王が嘘をつけば』
第一王子は苦く笑った。
「その時は、民に倒される王になればいい」
今度こそ、人影たちが静かになった。
「王が国の記憶を所有してはいけないんです。国の記憶は、そこに生きる人々のものです」
その言葉と同時に、ノクスの夜が頭上へ広がった。
人影の一つが光へ変わり、星となって夜空へ昇っていく。
続いて、また一つ。
そして、また一つ。
◇
現実の白月塔でも異変が起きていた。
月華の門を維持していたマルタとユリウスは、黒かった扉の隙間から藍色の光が漏れ始めたことに気づいた。
「反応が変わりました!」
「何が起きてるんだい!」
マルタが魔力測定器を覗き込み、次の瞬間に目を見開いた。
「記憶が、こっちへ来てる!」
「どういう意味ですか?」
「分からないけど、来てるんだよ!」
扉の前に置かれていた記憶の楔が一斉に光り始めた。
手紙。
指輪。
押し花。
木彫りの駒。
そして、どこからともなく声が響く。
『エリーゼ』
ユリウスが振り返る。
誰もいない。
再び聞こえた。
『エリーゼ』
「名前……?」
マルタが息を呑んだ。
「向こうから名前を送ってるんだ。受け取れ!」
「何をすれば?」
「書くんだよ!」
記録紙を投げるように渡され、ユリウスが慌ててペンを取る。
「エリーゼ!」
『トーマス』
「トーマス!」
『ミナ』
「ミナ!」
『名はない』
ユリウスの手が止まりかける。
「名前、不明。記憶は?」
『赤い布』
『母の歌』
ユリウスはすぐに書き込んだ。
赤い布。
母の歌。
名前が分からなくても、その人が存在した証を残す。
「人を呼べ!」
マルタが叫んだ。
「記録官でも騎士でも誰でもいい。名前を受け取らせるんだ!」
白月塔へ次々と人が集まり始める。
一人が一つの名前を書く。
別の者がその名前を口にする。
誰かが覚える。
一人で全部を抱えるのではない。
それでも一つずつなら、人は覚えることができる。
◇
王宮西棟の病室で、セドリックは突然胸を押さえた。
「……っ」
見知らぬ名前が頭へ流れ込んでくる。
『レナ・フォルク』
知らない。
けれど、すぐに理解した。
自分の命令によって黒霧の研究へ使われた人間だ。
「レナ・フォルク」
声に出して名前を呼ぶ。
次の名前が来る。
『ディル・モール』
「ディル・モール」
そして次。
『名前がない』
映像の中にいるのは、番号だけで管理されていた若い男だった。
実験体二十七。
家族も分からない。
セドリックの目から涙が落ちた。
「実験体二十七……あなたは、生きていた」
名前がないからといって、存在までなかったことにはできない。
セドリックは手の中の青い木彫りの駒を握り締めた。
「兄上、聞こえているか」
返事はない。
それでも駒は淡く光っている。
「私は覚える」
自分一人ですべては無理だ。
それでも、自分が関わった者だけでも。
できる限り。
もう一度消さないために。
◇
忘却の海では、黒い水面から無数の光が空へ昇り始めていた。
『何をした』
巨大な忘却の影が震える。
リリアはレオンの手を握ったまま答えた。
「帰る場所を作っています」
『これは何だ』
「ノクスの夜です。でも、ノクス一人のものではありません」
空に一つ星が灯る。
『エリーゼ』
遠くの現実世界で誰かがその名を呼び、星が輝く。
『トーマス』
別の声が名前を受け取る。
『ミナ』
また星が増える。
『実験体二十七』
名前ではなくても、光になる。
『赤い布を持っていた子』
『母の歌を覚えていた少女』
一つずつ。
物語として夜へ預けられていく。
「誰か一人が全部を覚える必要はないんです」
リリアは黒い海へ向けて言った。
「誰かが一つずつ覚えればいい。誰かが名前を覚えて、誰かがその人の物語を記録して、それを次の誰かへ渡せばいいんです」
『そんなもの、また忘れる!』
「はい」
『人は死ぬ!』
「はい」
『記録も失われる!』
「そうかもしれません」
『ならば同じだ!』
「同じではありません!」
リリアの声が海全体へ響く。
「忘れたら、また探せばいいんです。失ったら、また書けばいい。名前が消えても、残った物や言葉から、その人がいたことをもう一度思い出せます」
『永遠ではない』
「永遠じゃなくていいんです!」
涙を流しながら、それでもリリアは笑った。
「永遠に覚えていられなくても、今ここで誰かがあなたたちを見つけた。そのことが最初の帰る場所になるんです」
黒い海の奥から、小さな泣き声が聞こえた。
『……本当に?』
以前、忘却の中心で見た子供の声だった。
『我らを捨てない?』
「捨てません」
『でも、名がない』
リリアはゆっくりと手を伸ばした。
「では、あなたから名前を決めませんか」
巨大な影が止まった。
『我に、名を?』
「はい」
その時、夜空からノクスが降りてきた。
『かつて我も名を持たなかった』
低い声が海へ響く。
忘却の影がノクスを見る。
『夜の神』
『我はノクスだ。名をもらい、一度失い、それでもまた呼ばれた』
黄金色の瞳が、リリアとレオンへ向く。
『名は鎖ではない。帰るための灯だ』
その言葉を聞いた瞬間、黒い海から一人の小さな人影が現れた。
男か女かも分からない。
年齢も、顔立ちもはっきりしない。
ただ裸足の子供が、海の上に立っている。
『我に、名前を』
リリアはその子を見つめた。
なぜか、一つの言葉が胸へ浮かんだ。
「メモリア」
子供の瞳が初めてはっきりと見えた。
薄い灰銀色だった。
『メモリア』
「記憶、という意味です」
『我は、忘却ではなく?』
「はい」
リリアは微笑んだ。
「あなたは忘却そのものじゃありません。帰れなかった記憶を、ずっと預かっていた人です。だから、メモリア」
子供はその名前を何度も口にした。
『メモリア』
もう一度。
『メモリア』
そして、少し震える声で確かめる。
『我は、メモリア』
「はい」
その瞬間、黒い海全体へ巨大な亀裂が走った。
◇
レオンがリリアの手を強く握った。
「何か来る」
「はい。でも、たぶん怖いものじゃありません」
黒い海が割れていく。
その下から、無数の光が現れた。
名前。
記憶。
物語。
それらが一斉に星へ変わっていく。
巨大だった忘却の影も形を失い始めた。
「消えてしまうんですか?」
リリアがメモリアへ尋ねる。
子供は首を横に振った。
『我らは多すぎる。一つには戻れない』
「では、どうするんです?」
『ここを、海ではなく庭へ戻せる』
月華の庭。
本来ここは、帰る場所を一時的に失った記憶が休むための場所だったのだ。
それが長い年月の中で、誰にも迎えられない記憶ばかりが溜まり、やがて黒い海へ変わってしまった。
「一緒にやりましょう」
リリアが手を差し出す。
メモリアは恐る恐る、その手へ触れた。
冷たい。
それでも、触れられる。
「レオン様、力を貸してください」
「ああ」
「ノクス」
『ここにいる』
「第一王子殿下!」
遠くから声が返る。
「聞こえている!」
白月塔も、王宮も、公爵邸も、王都も、すべてが今この場所へつながっている。
名前を呼ぶ人がいる。
記録を書く人がいる。
思い出そうとする人がいる。
「月華は、帰る道を照らします」
リリアの身体から銀白色の光が広がる。
「銀牙は、その道を繋ぐ」
レオンが剣を立てると、銀色と藍色の光が交わった。
『我の夜は、記憶を預かる』
ノクスが夜空をさらに広げ、無数の星を受け止める。
最後に、メモリアが小さな声で言った。
『我は、帰れぬ記憶を待つ』
誰か一人が全部をするのではない。
それぞれに役割がある。
だからこそ続けられる。
「お願いします」
リリアは目を閉じた。
月華の光が海面へ広がっていく。
「帰ってください」
一つずつ、記憶がそれぞれの場所へ向かい始めた。
持ち主が生きている記憶は、その人のもとへ。
家族が待っているなら、その家族へ。
記録に残ることができるなら、記録へ。
それでも帰る相手がいないものは、ノクスの夜とメモリアの庭へ。
忘れられないためではない。
いつかまた誰かに見つけてもらえるように。
◇
その時、リリアの目の前へ一つの光が浮かんだ。
自分の記憶だった。
日記へ思いを書いた夜。
『私はたぶん、レオン様が好きなのだと思う』
別の記憶へ変わる。
庭で手を繋いだ時。
『離れない』
そして、自分が初めてはっきりと恋を自覚した瞬間。
すべてが戻ろうとしている。
手を伸ばせば、すぐに受け取れる。
リリアは途中で手を止めた。
「リリア?」
レオンが尋ねる。
「戻ってきました」
「何が」
「私の記憶です」
レオンの表情が少し強張った。
「受け取らないのか」
「受け取ります。でも、その前に言っておきたいことがあるんです」
リリアは今のレオンを見た。
自分との過去をほとんど覚えていないまま、それでももう一度手を取ってくれた人。
「昔の私がレオン様を好きになった記憶は、とても大切です」
「ああ」
「でも、今の私もレオン様が好きです」
レオンの瞳が揺れた。
「記憶が戻ったから好きなのではなくて、何も覚えていないレオン様ともう一度出会って、私はまた好きになりました」
「意味がよく分からない」
「簡単ですよ」
リリアは笑った。
「私は二回、レオン様を好きになったんです」
レオンが完全に黙り込んだ。
耳が少し赤い。
「……そうか」
「はい」
「それは、得なのか」
「得?」
「普通は一度だろう」
リリアは思わず笑ってしまった。
「では、得だったことにします」
レオンの口元も、ほんの少し緩んだ。
リリアは改めて光へ手を伸ばす。
記憶が優しく戻ってきた。
頭を壊すような勢いではなく、昔読んだ本をもう一度開くように、一つずつ。
泣いた自分。
恋をした自分。
忘れてしまった自分。
もう一度恋をした自分。
そのすべてが今の自分につながっている。
「レオン様」
「何だ」
「思い出しました」
レオンの顔に僅かな緊張が走る。
「全部か」
「はい」
「俺のことも?」
「はい。最初からほとんど全部」
「……そうか」
その返事が少しだけ寂しそうに聞こえ、リリアは首を傾げた。
「どうしました?」
「何でもない」
「もしかして、今のレオン様だけ置いていかれたような気がしました?」
「違う」
即答だった。
「顔がそう言っています」
「顔は何も言わない」
「かなり言っています」
リリアは笑って彼の手を取った。
「大丈夫です。今度は私が待ちます」
レオンがこちらを見る。
「レオン様の記憶だって、きっと帰ってきます」
「戻らなくても構わない」
「え?」
「お前を、今から知っていけばいい」
握られた手が温かい。
リリアの胸も同じように温かくなった。
「はい。でも、もし思い出したら、最悪だった初対面についてはちゃんと謝ってくださいね」
「そんなに酷かったのか」
「かなりです」
「……それは、今謝っておく」
「まだ記憶がないのに?」
「とりあえずだ」
リリアは笑った。
「では、仮の謝罪として受け取ります」
◇
黒い海は、ゆっくりと姿を変えていった。
水は浅くなり、その底から白い花が芽吹き始める。
月白花に似ているが、少しだけ違う花だった。
帰れない記憶が、一時的に休む場所。
記憶の庭。
メモリアはその中央に立っていた。
もう巨大な影ではない。
小さな一人の子供だった。
『リリア』
「はい」
『我は、ここにいていい?』
「もちろんです」
メモリアは今度はノクスを見る。
『ノクス』
『何だ』
『時々、名前を呼んで』
ノクスは少しだけ目を細めた。
『メモリア』
子供の顔に、初めてはっきりと笑顔が浮かんだ。
『もう一度』
『メモリア』
『もう一度』
『メモリア』
『……ありがとう』
ノクスは困ったような顔をする。
『毎回は言わぬぞ』
「言ってあげてください」
『甘やかすな』
そこへレオンまで口を挟む。
「最初くらいいいだろう。お前だって名前を何度も呼んでもらったんじゃないのか」
ノクスは完全に黙った。
『……好きにしろ』
メモリアはまた嬉しそうに笑った。
その時、遠くに白い光が現れた。
白月塔へつながる出口だった。
「帰れます」
リリアが言う。
レオンは光の扉を見つめた。
「帰る場所、分かりますか?」
問いかけると、彼はしばらく扉を見た後、リリアへ視線を戻した。
「今は、お前がいる方だ」
記憶はまだ戻っていない。
それでも、その言葉だけで十分だった。
「では、一緒に帰りましょう」
「ああ」
遠くから第一王子も歩いてくる。
ノクスがいて、メモリアがいて、その頭上には無数の星が輝いていた。
かつて忘却の海と呼ばれた場所で、帰れなかった記憶たちは初めて、待つための場所を得た。
いつか誰かに名前を呼ばれるまで。
誰かがその物語を見つけるまで。
存在を消されずにいられる場所を。
光の扉へ向かう前に、リリアは一度だけ振り返った。
「また来ます」
メモリアが首を傾げる。
『なぜ?』
「ここを、忘れられた人だけの場所にしたくないからです」
『では、何の場所?』
「思い出しに来る場所です」
メモリアは不思議そうに聞いている。
「人は忘れます。だからこそ、忘れないことだけを誓うより、忘れたあとにもう一度思い出しに来られる場所が必要なんだと思います」
メモリアはその言葉を、大切なもののように繰り返した。
『思い出しに来る場所』
「はい」
月華の庭は、もう悲しみだけの場所ではない。
忘れても、また会える場所になる。
リリアはレオンの手を握った。
「帰りましょう」
「リリア」
「はい?」
レオンが少し言いにくそうな顔をしている。
「どうしました?」
「さっきの話だ」
「何の話です?」
「俺は、お前を……」
そこで言葉が止まった。
リリアは急かさず待つ。
やがてレオンは小さく息を吐いた。
「いや」
「言ってください」
「まだ確信がない」
「何にです?」
「記憶はない。だが……」
レオンの手に力が入った。
銀色と藍色の瞳が、まっすぐリリアを見る。
「お前を、好きになり始めている気がする」
リリアは数秒、完全に動けなくなった。
それから一気に顔が熱くなる。
「……三回目」
「何?」
「何でもありません!」
「今、何か言っただろう」
「帰ってから話します!」
「また帰ってからか」
「はい!」
レオンがほんの少し笑った。
その笑顔を見て、リリアは思った。
もし、また忘れることがあったとしても、きっと大丈夫だ。
この人とは何度でも出会える。
何度でも名前を呼べる。
そして、何度でも恋を始められる。
二人は手を繋いだまま光の扉へ向かって歩き出した。
その背後では、新しく生まれた記憶の庭に、星が一つ、また一つと灯り続けていた。
読んでいただきありがとうございます。
評価や感想を貰えると執筆のモチベーションがアップするので
どんどん評価や感想をください!
ブクマもお願いします!
お待ちしております(*^-^*)




