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月影の花嫁は銀狼公爵の運命を拒む  作者: 白石マサル


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第五十三話 名前のない恋

 最初に感じたのは、骨の奥まで染み込んでくるような冷たさだった。


 忘却の海へ落ちたはずなのに、服も髪も濡れてはいない。それでも身体の芯から熱だけを奪われていくような感覚があり、リリアは重い瞼をゆっくりと開いた。


 目の前には、どこまでも黒い海が広がっていた。


 空と水平線の境界すら分からず、上下も遠近も闇の中へ溶けている。その中で唯一はっきりと見えるのは、海面に浮かぶ無数の淡い光だった。


 星のようにも見えるそれらは、よく目を凝らせば一つずつ違う揺らぎ方をしている。


 誰かの名前。


 誰かの声。


 誰かが確かに生きていたという証。


 そんなものが光となり、黒い波に揺られながら、少しずつ海の底へ沈んでいく。


「……レオン様」


 リリアは身体を起こしながら呼びかけた。


 返事はない。


 胸の奥が急速に冷えていく。


「レオン様!」


 今度はもっと大きな声で呼んだものの、返ってくるのは遠い波音だけだった。


 第一王子も、ノクスもいない。


 忘却の海へ呑み込まれた瞬間、全員が別々の場所へ引き離されたのだろう。


 そして、最後に見たレオンの顔が脳裏へ蘇る。


『誰だ』


 たった一言だった。


 けれど、その言葉は胸の奥へ深く刺さったまま抜けない。


 忘却の力によって記憶を奪われただけだということは分かっている。レオンが自分の意思でリリアを忘れたわけではなく、まして彼の想いが嘘だったわけでもない。


 それでも怖かった。


 今までは、自分が忘れる側だった。


 記憶を失いかけるたびに、レオンが名前を呼び、自分が誰なのかを教えてくれた。


 戻ってこいと手を伸ばしてくれた。


 けれど今度は、レオンが忘れた。


 ならば、自分がしなければならないことは一つしかない。


「今度は、私が呼ぶ番ですね」


 リリアは自分の胸元へ手を当て、そう呟いた。


 その言葉に応えるように、黒い海が僅かに波打った。


     ◇


 同じ頃、レオンは白い砂浜に立っていた。


 目の前にあるのは黒い海ではなく、穏やかな青い海だった。空は晴れ、風は柔らかく、遠くでは白い鳥が羽ばたいている。


「……ここは」


 見覚えのない場所だった。


 いや、そう思った直後、どこかで知っているような気もしてくる。


 胸の奥に鈍い痛みが走った。


 自分の名前は分かる。


 レオン・ヴァルハルト。


 北方公爵であり、銀狼と呼ばれる男。


 ノクスと契約を結び、王宮地下で何か大きな戦いをしたことも覚えている。


 それなのに、何かが決定的に欠けている。


 胸の中心だけを丸ごと抉り取られたような感覚があった。


「……誰だ」


 自分が先ほど口にした言葉を思い出す。


 黒い海の中に、一人の女性がいた。


 淡い髪。


 泣きそうな瞳。


 自分を「レオン様」と呼んだ声。


 それを思い出した瞬間、胸の奥が強く痛んだ。


「くっ……」


 レオンは胸元を押さえた。


 そこには銀狼と藍色の月を重ねた契約紋がある。その二つを結ぶ金色の線から、微かな熱が流れてくる。


「ノクス」


 呼んでみる。


 返事はなかった。


「……お前までいないのか」


 完全に一人になったのだと理解した瞬間、強烈な違和感が押し寄せた。


 自分は、一人でいることをこんなにも不安に感じる人間だっただろうか。


 以前なら、誰かが傍にいることの方を煩わしく思っていたはずだ。


 それなのに今は、隣に誰もいないことが恐ろしい。


「俺は、誰を探している」


 答えは出ない。


 ただ、手のひらだけが、誰かの温度を覚えていた。


     ◇


 気がつくと、砂浜の上に一軒の家が建っていた。


 白い壁に大きな窓があり、その周囲には庭が広がっている。


 庭には月白花と薬草が植えられていた。


 もっとも、花より薬草の方が明らかに多い。


 それを見た途端、レオンは理由もなく眉を寄せた。


「……半分どころではないな」


 なぜそんなことが気になるのか、自分でも分からない。


 その時、玄関の扉が開いた。


 一人の女性が出てくる。


 銀白色に近い淡い髪。


 優しい顔立ち。


 先ほど黒い海で見た女性と、よく似ていた。


「おかえりなさい」


 女性が笑った。


 その瞬間、胸が痛いほど大きく鳴った。


「……誰だ」


 レオンが尋ねると、女性は笑顔のまま答えた。


「あなたの妻です」


「妻?」


「はい」


 記憶を探る。


 確かに、自分には婚約者がいたような気がする。


 けれど名前が出てこない。


 顔も思い出せない。


「お前が、その女なのか」


「そうです」


 女性はゆっくりと近づいてきた。


「もう何も考えなくていいんですよ。深淵のことも、王宮のことも、戦いのことも、全部終わりました」


 優しい声だった。


「これからは、ここで二人で暮らしましょう」


 女性が手を差し出す。


 その指には銀色の指輪があった。


 見覚えがある。


 レオンも無意識に自分の左手を見る。


 同じ意匠の指輪が嵌まっていた。


「……そうか」


 記憶はない。


 それでも証拠はある。


 この女性が婚約者であり、未来の妻なのかもしれない。


 そう考えながら、レオンはゆっくり手を伸ばした。


 指先が触れる直前、胸の奥から声が聞こえた。


『苦い薬が嫌い』


 レオンの手が止まる。


「……何だ」


 女性は笑みを深くした。


「どうしました?」


 今度は別の声がした。


『レオン様、顔色が悪いです』


『嘘をつくと怒りますよ』


『あなたは深淵ではありません』


『レオン・ヴァルハルトです』


 頭の奥が激しく痛んだ。


「誰だ……」


 声は目の前の女性と似ている。


 けれど、何かが違う。


 決定的な何かが。


 女性が一歩近づいた。


「考えなくていいんです。思い出さなくても、私がいますから」


 レオンはその顔をじっと見つめた。


「なら、なぜだ」


「何がです?」


「なぜ俺は、お前を見ても帰ってきたと思えない」


 女性の笑顔が、ほんの僅かに歪んだ。


     ◇


 リリアは黒い海の上を歩いていた。


 足元には水があるはずなのに、沈むことはない。


 一歩進むたび、周囲から記憶が浮かび上がってくる。


 母の膝の上で眠る幼い自分。


 父と一緒に薬草を乾かしていた日。


 初めて月華を使った時。


 記憶を失ったことに気づき、一人で泣いた夜。


「……覚えてる」


 そう呟いてから、すぐに気づいた。


 違う。


 覚えていたのではない。


 今、この海が返しているのだ。


『欲しかっただろう』


 声が響く。


 顔のない巨大な影が、黒い海の上へ立っていた。


「忘却……」


『汝が捨てた記憶だ』


「捨ててなんていません」


『失ったのなら同じことだ』


 影が手を広げる。


 すると海面から、さらに記憶が浮かび上がった。


 レオンとの初対面。


 冷たい表情。


 銀色の髪。


『君を愛するつもりはない』


 あまりにも懐かしく、思わずリリアは笑った。


「本当に最悪でしたね」


 次の記憶が現れる。


 発作に苦しむレオンが、初めて「死にたくない」と言った夜。


 王宮でセドリックに嫉妬した時。


 苦い薬を嫌がって露骨に顔をしかめた姿。


 白月塔で、自分を呼び戻した声。


『戻ってこい』


 さらに記憶が変わる。


 日記へ向かう自分自身。


『私はたぶん、レオン様が好きなのだと思う』


 涙が溢れた。


「……こんな顔をしていたんですね」


 照れながら日記へ文字を書く自分。


 忘れていた。


 けれど、確かに自分だった。


『すべて返そう』


 忘却の声が響く。


『汝が望むなら、母の声も、父との日々も、恋を自覚した瞬間も、失った約束も、すべて返す』


 海全体が淡く光った。


 自分一人だけでも、これほど多くの記憶が沈んでいたのだ。


『その代わり、ここへ残れ』


 リリアは影を見上げた。


「私が?」


『汝は帰す者だ。汝が我らの器になれば、誰の記憶も二度と失われない』


 胸が揺れた。


 誰も記憶を失わない世界。


 自分も。


 レオンも。


 これから救われる人々も。


 他人の記憶に苦しんだ者たちも。


「代償は?」


『ない』


 忘却はそう答えた。


『汝がここに残ること以外は』


 リリアは目を閉じた。


 やはり同じだった。


 これまで何度も突きつけられてきた選択。


 誰かを救うか。


 自分を犠牲にするか。


 深淵か、月華か。


 レオンか、自分か。


 今度は世界中の記憶か、自分の未来か。


「……嫌です」


 忘却が揺れた。


『何?』


「どちらも嫌です」


『欲深い』


「はい」


 リリアは涙を拭った。


「もう、欲張ることに決めたんです」


 誰かを救うために自分を捨てる。


 その選択を美しいとは、もう思わない。


 生きたまま救う方法を探す。


 自分の未来も、他人の未来も諦めない。


 それが今のリリアの答えだった。


     ◇


 第一王子は、王宮の謁見室に立っていた。


 玉座には父王が座り、その左右には貴族たちが並んでいる。


 けれど、誰も第一王子を見ていない。


 すべての視線が、その隣へ向けられていた。


 そこにいたのは、まだ幼い頃のセドリックだった。


 金色の髪と青い瞳。


 父王が少年へ王冠を差し出す。


「次の王はセドリックだ」


 第一王子は息を呑んだ。


 おかしい。


 こんな記憶はない。


「兄上」


 幼いセドリックが振り返る。


「もういらないんだって」


 にこりと笑った。


「兄上は失敗したから」


「違う」


 第一王子は即座に答えた。


「これは記憶ではない」


『ならば、汝が恐れる未来か』


 忘却の声が王宮全体から響いた。


『弟を選べば王を失い、王を選べば弟を失う』


 第一王子は一瞬黙った後、小さく笑った。


「また同じだな」


『何がだ』


「二つしかないと言う」


 王か、弟か。


 国か、家族か。


 どちらか一つを選べと迫る。


「もう、その問いには答えない」


 第一王子は王冠を持つ少年へ歩み寄った。


 幼いセドリックの顔に不安が浮かぶ。


「兄上?」


「王になるかどうかを、お前が決めるわけではない」


「なら、父上が――」


「父上でもない」


 第一王子は少年の前へしゃがんだ。


「私が決める」


 少年が目を見開く。


「私は王である前にお前の兄だし、兄である前に私自身だ。どれか一つを捨てなければ生きられないなどという話には、もう従わない」


 幼いセドリックの目から涙が落ちた。


「……置いていかない?」


 胸が痛んだ。


 過去に本当に弟がそう言ったことがあるのか、それとも忘却が作り出した言葉なのかは分からない。


 それでも、答えだけは決まっていた。


「置いていかない」


 第一王子は少年を抱きしめた。


「ただし、お前も自分の足で歩け。私がずっと背負うつもりはない」


 その瞬間、謁見室が音を立てて砕け散った。


     ◇


 ノクスは、星の一つもない夜の中にいた。


 完全な闇だった。


 自分の身体すら見えない。


「ノクス」


 懐かしい声がした。


 振り返る。


 そこにセレネが立っていた。


 銀色の髪。


 優しい顔。


 自分へ初めて名前を与えた少女。


『セレネ』


 胸が痛んだ。


 神である自分に人間のような胸など必要なかったはずなのに、彼女を見ると、今でも痛みがある。


「ごめんなさい」


 セレネが言った。


『何を謝る』


「あなたを裏切ったこと」


 ノクスは答えなかった。


「でも、もう忘れてください」


 彼女は微笑んだ。


「私を忘れれば痛くありません。あなたが深淵になったことも、人間を憎んだことも、全部夜へ沈めてしまえば、きっと楽になれます」


 セレネが手を差し出す。


 かつて何度も欲しかった手だった。


 裏切りを知る前。


 名を与えられた頃。


 神ではなく、ただノクスと呼んでくれた少女。


 忘れれば、確かに楽になるかもしれない。


 彼女を憎む必要もなくなる。


 許せない自分自身を責める必要もない。


『……違う』


 ノクスが静かに言った。


 セレネの表情が止まる。


『我は汝を忘れない』


「苦しいのに?」


『ああ』


「許せないのに?」


『ああ』


「では、どうして?」


 ノクスは少しだけ言葉を探した。


『汝が我に名をくれた。その記憶まで捨てたくない』


 セレネの目から涙が落ちる。


「ノクス」


『忘れぬ。憎しみも、喜びも、どちらも我の夜だ』


 セレネの姿が白い光へ変わり、ノクスの闇の中へ一つの星が生まれた。


     ◇


「お前は誰だ」


 レオンは、目の前の女性へ改めて問いかけた。


「あなたの妻です」


「名前は」


 女性の笑顔が一瞬止まる。


「……リリア」


 その名前を聞いた瞬間、胸が大きく鳴った。


 リリア。


 聞いたことがある。


 いや、何度も何度も呼んだような気がする。


「リリア」


 自分の口でその名を呼ぶと、胸の奥に痛みと温かさが同時に広がった。


「そうです。私がリリアです」


 女性が嬉しそうに手を伸ばしてくる。


 けれどレオンは、その手を取らなかった。


「違う」


 女性の顔が歪んだ。


「なぜです?」


「名前を聞けば胸が痛む。それでも、お前ではない」


「私がリリアなのに?」


「なら、一つ聞く」


 レオンは左手の指輪を外した。


「これを見て、お前は何を思う」


 女性は答えない。


「俺には分かる」


 レオンは指輪を見つめた。


「これは、誰かと忘れないために結んだものだ」


 記憶はない。


 それでも、そう感じる。


「お前ではない」


 女性の顔が黒く歪んだ。


『名前も忘れたのに、なぜ分かる』


 声が変わる。


 忘却そのものの声だった。


 レオンは剣を抜いた。


「知らん」


『何?』


「理由は思い出せない」


 剣へ銀色と藍色の光が宿る。


「それでも、俺の中の何かがお前ではないと言っている」


『記憶がなくても選べるというのか』


「選ぶ」


 レオンは迷わず答えた。


「名前がなくても、思い出がなくても、今の俺が違うと思うなら、それが俺の答えだ」


 剣が振るわれる。


 銀と藍色の光が幻影を切り裂いた。


 その向こうに黒い海が現れる。


 そして遠くには、一人の女性が立っていた。


 本物のリリアだった。


 けれど今のレオンには、まだ誰なのか分からない。


 それでも彼女を見た瞬間、胸が強く痛んだ。


     ◇


 リリアも遠くにレオンの姿を見つけた。


「レオン様!」


 黒い海の上を走る。


 一歩。


 また一歩。


 レオンもこちらを見ている。


 けれど、その瞳はまだ知らない人を見る目だった。


 胸が締めつけられる。


 それでも足は止めなかった。


「レオン様!」


 ようやく目の前まで辿り着く。


 レオンは剣を構えてはいないが、こちらへ手を伸ばそうともしなかった。


「あなたは、レオン・ヴァルハルト様です」


 リリアは息を整えながら、できるだけ笑ってみせた。


「北方公爵で、銀狼で、苦い薬が嫌いで、無茶をするとすぐ一人で抱え込んで、それなのに誰より優しい人です」


 言葉を重ねるうちに涙が溢れた。


「私はリリア・エヴァレットといいます。薬師で、月華を持っています」


 一度息を吸った。


「そして、あなたの婚約者です」


「……婚約者」


「はい」


 レオンは左手の指輪を見る。


「俺は、お前を……」


 言葉が止まる。


 リリアは無理に続きを言わせなかった。


「覚えていなくていいです」


 レオンが顔を上げる。


「今は覚えていなくてもいいんです。私が覚えていますから、何度でも話します」


 涙を拭いながら笑う。


「初めて会った日のことも、あなたが最悪だったことも」


 レオンの眉がほんの少し動いた。


「最悪?」


「はい。かなりひどかったです」


「……そうか」


「私を愛するつもりはないって言いました」


「俺が?」


「はい。見る目がありませんでしたね」


 レオンの口元が僅かに動く。


 笑いそうになった。


 それだけで、リリアの胸が熱くなった。


「それから苦い薬が嫌いです」


「それは……」


 レオンが無意識に顔をしかめる。


 リリアは泣きながら笑った。


「ほら、レオン様です」


「意味が分からない」


「分からなくてもいいんです」


 リリアはそっと手を伸ばした。


 けれど、無理には触れない。


 彼の前で、掌を上へ向ける。


「私は、あなたに思い出してほしいです」


 レオンは黙って聞いている。


「でも、もし思い出せなくても、今のあなたにもう一度私を選んでもらいたい」


 黒い海が静かになった。


 レオンは差し出された手を見つめた。


 知らない女だった。


 自分の過去を知っている。


 癖も。


 弱さも。


 何もかも。


 けれど自分は、彼女のことを何一つ覚えていない。


 それなのに怖かった。


 この手を取らなければ、二度と戻れない気がした。


「……名前を」


「はい?」


「もう一度教えてくれ」


 リリアの目から、また涙が落ちる。


「リリアです。リリア・エヴァレット」


 レオンはゆっくりと、その名前を繰り返した。


「リリア」


「はい」


 その返事を聞いた瞬間、胸の奥で何かが強く鳴った。


 知らないはずの声なのに。


 なぜか、ずっと待っていたような気がした。


 レオンは手を伸ばした。


 リリアの指先へ、自分の指が触れる。


 温かい。


 その瞬間、無数の記憶が頭の中へ流れ込もうとした。


 レオンは目を閉じた。


「待て」


 リリアが驚く。


「思い出すのは後でいい」


「え?」


「今は、これでいい」


 レオンはリリアの手を強く握った。


「どうして……」


「分からない」


 レオンは自分でも答えを探しながら、それでも正直に言った。


「この手を離したくない」


 それだけだった。


 記憶ではない。


 過去でもない。


 今この瞬間に、そう思った。


 リリアは堪えきれず、声を上げて泣いた。


「……ずるいです」


「何がだ」


「何も覚えていないのに、そんなことを言うなんて」


「悪い」


「謝らないでください」


「なら泣くな」


「無理です」


「どうすればいい」


「抱きしめてください」


 レオンが固まった。


「俺が?」


「はい」


「ほとんど知らない女を?」


「婚約者です!」


「覚えていない」


「今、選んだでしょう!」


「それとこれは――」


「早くしてください!」


 レオンは困ったように息を吐いた。


「……分かった」


 ぎこちなく、まるで本当に初めて触れる相手のように、レオンはリリアを抱きしめた。


 リリアはその胸へ顔を埋める。


 聞こえてくる鼓動は、何も変わらない。


 記憶を失っても、この人はこの人だった。


「レオン様」


「何だ」


「おかえりなさい」


 レオンは返事に迷った。


 それでも、なぜか言うべき言葉だけは分かった。


「……ただいま」


 その瞬間、黒い海の上に一つの星が生まれた。


     ◇


 遠く離れた場所で、ノクスの夜にも新しい星が瞬いた。


『……リリア。レオン』


 二人の名前は忘れていない。


 ノクスはその星を目指して歩き始めた。


 第一王子も、砕けた謁見室を後にして、遠くに見える光へ向かった。


 四人はそれぞれ忘却から問いを突きつけられた。


 リリアは、世界か自分かという二択を拒んだ。


 第一王子は、王か兄かという二択を拒んだ。


 ノクスは、苦しい記憶だからこそ捨てないことを選んだ。


 そしてレオンは、過去の記憶を失っても、現在の自分自身の意志でリリアを選んだ。


 しかし、忘却の海は静まらなかった。


 海の底で、巨大な何かがゆっくりと目を開いていく。


『なぜ』


 忘却の声が変わっていた。


 そこにあるのは怒りだけではない。


 理解できないものに対する困惑と、もっと深い悲しみが混ざっている。


『なぜ、名を失っても、記憶を失っても、汝らは帰れる』


 リリアはレオンに抱きしめられたまま、黒い海へ目を向けた。


「帰る場所は、記憶だけじゃないからです」


『嘘だ』


「嘘ではありません」


『ならば、我らにはなぜ帰る場所がなかった』


 海底から無数の手が伸びてきた。


 その問いを聞いた瞬間、リリアの表情が変わった。


 忘却は怒っているのではない。


 泣いている。


『我らも誰かに呼んでほしかった』


 黒い海が一斉に盛り上がった。


 レオンは反射的にリリアの前へ立った。


 彼女を守るという記憶など残っていないはずなのに、身体が自然とそう動いた。


「来るぞ」


「はい」


「どうする」


 リリアは海の向こうを見つめた。


 そこにあるのは、何千、何万、あるいは何百万もの、帰る場所を失った記憶だった。


「戦いません」


 レオンが振り返る。


「何?」


「この人たちの話を聞きます」


「全部か」


「全部を私一人で受け止められるかは分かりません。でも、少なくとも、敵だから消すというやり方だけはしたくありません」


 黒い波が目前まで迫ってくる。


「リリア」


 名前を呼ばれ、彼女は振り返った。


 ほんの少し驚く。


「今、私の名前を覚えていてくれたんですね」


 レオンも自分で気づいたように目を瞬いた。


 それから、確かめるようにもう一度口にする。


「リリア」


「はい」


 失った過去は、まだ戻っていない。


 それでも、その瞳には確かな意志があった。


「忘れない」


 リリアは涙を拭った。


 その言葉を聞いて嬉しくないわけではない。


 けれど今なら、その先にある答えも分かる。


「はい。でも、もし忘れてしまっても、その時はまた呼んでください」


 レオンは一瞬黙った後、握った手に力を込めた。


「ああ」


「私も、何度でもあなたの名前を呼びます」


 二人は手を繋いだまま、迫り来る黒い海へ向き直った。


 忘却を倒すためではない。


 誰にも聞かれず、誰にも名前を呼ばれず、帰る場所を失った無数の記憶が何を求めていたのかを、初めて聞くために。


 黒い波が二人の頭上へ届こうとしていた。


 その奥から、数え切れないほどの声が聞こえてくる。


 それは憎しみだけではなく、長いあいだ誰にも届かなかった救いを求める声だった。


 リリアはレオンの手を握ったまま、逃げずにその声へ向き合った。


 自分一人ですべてを背負うためではない。


 忘れられたものたちにも、帰る場所を見つけるために。

読んでいただきありがとうございます。

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