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月影の花嫁は銀狼公爵の運命を拒む  作者: 白石マサル


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第五十二話 忘却の海への扉

「次の敵は、私たちの記憶を消しに来る」


 王宮西棟の病室でセドリックがそう告げたのは、まだ夜が明ける前のことだった。


 第一王子から緊急の知らせを受け、公爵邸にいたリリアとレオンが急ぎ王宮へ戻った頃には、東の空がようやく白み始めていたが、王都に広がっている異変は夜明けとは正反対の不気味さを帯びていた。


 馬車が王宮へ向かう大通りへ差しかかった時、リリアは窓の外から聞こえてきた声に思わず顔を上げた。


「……すまないが、名前をもう一度教えてくれないか」


 道端の店先で、年配の男性が妻らしい女性を見つめていた。


 彼はひどく困惑した表情を浮かべている。


「顔は分かるんだ。大切な人だってことも分かっている。それなのに、名前だけがどうしても出てこない」


 男性の唇が震えた。


 女性は泣きそうな顔になりながらも、懸命に笑ってみせた。


「マリアよ」


「……そうだ、マリア」


 名前を口にした瞬間、男性の目から涙が落ちた。


「忘れたら、また言ってくれるか」


「何度でも言うわ」


「ああ」


「何度忘れても、何度でも」


 馬車はその二人の前をゆっくり通り過ぎていった。


 リリアは胸元へ手を当てた。


「もう始まっていますね」


「ああ」


 隣に座るレオンの声も硬い。


 今朝だけで、同じような報告がすでに何件も上がっていた。


 人の名前だけを忘れた者。


 昨日の出来事だけが抜け落ちた者。


 逆に、自分ではない誰かの記憶を夢として見た者。


 まだ王都全域を覆うほど大規模ではない。


 それでも、忘却の海が確実にこちら側の世界へ影響を及ぼし始めている。


 レオンの足元で影が揺れ、小さな夜色の姿をしたノクスが顔を出した。


『まだ浅い』


「何がですか」


『忘却との接続だ』


 ノクスは黄金色の瞳で窓の外を見た。


『今はまだ夢と、輪郭の弱い記憶を奪っているだけだ』


「今は、ということは……」


 リリアが尋ねると、ノクスは少し間を置いてから答えた。


『海が近づけば、最初に名から消えていく』


「名前から?」


『呼ばれなくなった記憶ほど先に失われる。次に、他者と共有していた記憶が消え、最後には自分自身の記憶まで侵される』


 リリアの背筋に冷たいものが走った。


「自分が誰なのかまで、分からなくなるんですか」


『ああ』


 その時、レオンが何も言わずにリリアの手を取った。


「まだそこまで進んでいない」


「はい」


「その前に止める」


 言葉そのものは簡潔だったが、握られた手の温度が、怖さを一人で抱えなくていいと教えてくれていた。


     ◇


 セドリックの病室へ入ると、彼はすでに寝台の上で身体を起こしていた。


 顔色は悪く、黒霧によって受けた傷もまだ完全には癒えていない。


 けれど、昨日までのような虚ろな目ではなかった。


 青い瞳には明確な緊張があり、寝台の脇には第一王子が立っている。


「来てくれたか」


 第一王子が言った。


「何を見たんですか」


 リリアは挨拶もそこそこに尋ねた。


 セドリックは一度彼女を見た。


 以前なら、その視線には計算や嘲笑があった。


 今あるのは警戒と、隠しきれないわずかな怯えだけだった。


「夢を見た」


「忘却の海の?」


「ああ」


 セドリックは手元の名簿へ視線を落とした。


 そこには被害者たちの名前が並んでいる。


 昨夜も読み続けていたのだろう。


 紙の端には何度も指で触れた跡が残り、少しだけ皺になっていた。


「私が読んでいた名前が、海に浮かんでいた」


 リリアの表情が変わる。


「名前そのものがですか」


「ああ。星のように見えた」


 セドリックはそこで首を振った。


「いや、星というより文字だった。何千、何万、それ以上の名前が空と海の境目が分からなくなるほど漂っていた」


 忘れられた人々。


 帰る場所を失った記憶。


 セドリックの指先が僅かに震えた。


「そして、そいつは私に言った」


 声が少し低くなる。


「忘れさせてやる、と。罪も、奪った命も、兄に愛されたことも、全部」


 第一王子の表情が僅かに歪んだ。


「私は、一瞬だけ全部忘れたいと思った」


 誰も責めなかった。


 セドリックは顔を上げない。


「名前を読むたびに、その人がどんな人生を生きていたのかを知るたびに、自分が何をしたのか分からなくなるほど苦しくなる。苦しいから、消えたいと思うこともある。だから全部忘れられるなら、どれほど楽だろうと思った」


 第一王子が何か言おうとしたが、セドリックは小さく首を振った。


「だが、兄上のことまで忘れると言われた」


 青い瞳が兄へ向く。


「それは嫌だった」


 第一王子は何も言わなかった。


 ただ、その言葉を受け止めている。


「私がしたことも、兄上が私を選んだことも、どちらも消したくなかった」


 セドリックは拳を握った。


「だから断った」


「それで?」


 リリアが尋ねる。


「忘却は言った。ならば、汝が覚えようとする名の重さを知れ、と」


 セドリックはそこでリリアを見た。


「そして、お前を連れてこいと言った」


 室内の空気が一瞬で変わった。


 レオンの手が剣の柄へ触れる。


「リリアを?」


「正確には、帰す者を、月華を連れてこいと言った」


「罠だ」


「分かっている」


「なら行く必要はない」


「だが、私は場所を知っている」


 その言葉に、全員が黙った。


「忘却の海への入り口を見たんですね」


 リリアが尋ねると、セドリックは頷いた。


「王宮地下ではない」


 一拍置いてから、彼は言った。


「白月塔だ」


     ◇


 白月塔という名前が出た瞬間、リリアの胸の奥で何かが震えた。


 月華の記録。


 初代月華セレネ。


 魂縛の儀。


 これまで何度も、物語の始まりと終わりをつないできた場所だった。


「どうして白月塔なんだ」


 病室へ呼ばれていたユリウスが尋ねる。


「分からない」


 セドリックは正直に答えた。


「夢の中では塔の最上階に扉があった。現実には存在しないはずの扉だ。白い月と、その下に黒い海が描かれていた」


 その言葉を聞いたノクスが、レオンの影からゆっくり姿を現した。


『月華の門』


 リリアが振り向く。


「知っているんですか」


『名だけは』


「何のための門なんです?」


 ノクスはすぐには答えなかった。


 失われた記憶を探すように、黄金色の瞳を細める。


『昔、セレネが言っていた。月華が失ったものは月へ帰る、と』


「月へ……」


『だが、人の記憶が本当に空の月へ行くわけではない。帰る場所をなくした記憶を一時的に預けるための場所があった』


 リリアは息を呑んだ。


「それが忘却の海?」


 ノクスは首を横に振った。


『違う。本来は月華の庭と呼ばれていた』


「庭……」


『記憶が新しい帰る場所を見つけるまで、静かに眠るための場所だった』


 そこでノクスの毛並みに藍色の光が走った。


『だが、誰にも呼ばれない記憶が増えすぎた』


 戦争。


 疫病。


 王家が消した記録。


 名前を奪われた者。


 存在そのものを否定された者。


 帰る場所を待ち続けても、永遠に迎えが来なかった記憶。


『それらが積み重なり、庭を海へ変えた』


「つまり忘却は、元から誰か一人の存在だったわけではないということか」


 第一王子が低く尋ねた。


『おそらくな。帰れなかった記憶そのものが長い時間を経て、一つの意思を持ったのだ』


 リリアは以前、黒い針の中から聞こえた幼い声を思い出した。


 帰りたい。


 あの声。


 忘却は、ただすべてを消そうとしている存在ではない。


 その奥には、誰かに見つけてほしい記憶がある。


     ◇


「行きます」


 リリアが言うと、当然のようにレオンが反応した。


「まだ早い」


「でも、今も王都では――」


「行くなとは言っていない」


 リリアは口を閉じた。


 レオンは落ち着いた声で続ける。


「行くなら準備をする。忘却は記憶を奪う。今までの黒霧とは違って、剣で斬れば終わる相手ではない」


「はい」


「月華を使えば、お前自身が記憶を引き込まれる可能性もある」


「はい」


「だから、今日すぐには行かない」


 以前のリリアなら反論していたかもしれない。


 今この瞬間にも苦しんでいる人がいるのなら、一刻も早く走り出したいと思っただろう。


 けれど、もう何度も学んだ。


 一人で決めない。


 一人で背負わない。


 急ぐことと、無謀になることは同じではない。


「分かりました」


 素直に頷くと、レオンが僅かに目を見開いた。


「何ですか」


「素直だな」


「失礼です」


「いや」


 口元が僅かに緩む。


「成長したと思っただけだ」


「レオン様もです」


「俺が?」


「今、私を屋敷へ閉じ込めるとは言いませんでした」


 レオンが黙った。


「成長しましたね」


「……そうか」


 ノクスが鼻を鳴らす。


『二人とも以前は随分面倒だったのだな』


「今も十分面倒だぞ」


 第一王子が言った。


「殿下」


 リリアが抗議すると、第一王子は久しぶりに少しだけ笑った。


「冗談だ」


「半分は本気ですよね」


 病室の空気に、ほんの少しだけ人間らしい温度が戻った。


     ◇


 問題は、忘却の海へ誰が入るかだった。


「俺とリリアは行く」


 レオンが言う。


『我も行く』


 ノクスも続いた。


「私も行く」


 セドリックが言った瞬間、全員の視線が一斉に彼へ向けられた。


「駄目だ」


 真っ先に反対したのは第一王子だった。


「兄上」


「お前はまだ歩くことさえまともにできないだろう」


「歩ける」


 セドリックは寝台から足を下ろし、立ち上がろうとした。


 次の瞬間、膝から力が抜けた。


 第一王子がすぐに身体を支える。


「これで?」


「……少しだけ失敗した」


「少し?」


「かなり」


 リリアは思わずレオンと顔を見合わせた。


 似たようなやり取りに心当たりがありすぎる。


「何だ」


 セドリックが不機嫌そうにこちらを見る。


「いえ」


 リリアは目を逸らした。


「少し既視感があっただけです」


「何の話だ」


「こちらの話です」


 第一王子は弟を寝台へ戻した。


「同行は認めない。ただし、お前が忘却に呼ばれた理由は調べる。夢で見たものは全部記録しろ」


「それならいい」


 セドリックは不満そうだったが、意外にもそれ以上は食い下がらなかった。


「ただし、私が行く」


 第一王子が続ける。


 今度はセドリックが即座に反対した。


「駄目だ」


「なぜだ」


「兄上まで記憶を失ったら……」


 言葉が止まる。


 第一王子は黙って弟を見る。


 セドリックは視線を逸らした。


「王国が困る」


「それだけか」


「それだけだ」


「そうか」


 第一王子は追及しなかった。


「だが、忘却の中には王家が消した記憶もあるはずだ」


「……」


「それと向き合うことは、王家の責任でもある」


 声には、すでに次代を担う者としての決意があった。


 セドリックは何も言えなくなった。


     ◇


 その日の午後、公爵邸へ戻ったリリアたちは、忘却の海へ入るための準備を始めた。


 必要なのは物理的な武器だけではない。


 むしろ重要なのは、自分が誰なのかを忘れないためのものだった。


 グレイの提案で大広間には長い机が用意され、一人ずつ、自分自身を現実へ繋ぎ止める品を並べていく。


 レオンが選んだのは、銀色の婚約指輪、リリアが最初に彼へ調合した薬の空瓶、北方で拾った小さな白石、そして一通の手紙だった。


 封筒には、自分の字でこう書かれている。


『俺が忘れた時のために』


 リリアは日記と、母の形見の髪飾り、父から譲られた薬匙、レオンから贈られた月白花の押し花を置いた。


 さらに、『未来の私へ』と記した手紙も添える。


 第一王子が持ってきたものは、王家の紋章でも王冠でもなかった。


 子供の頃、セドリックと遊んだ時に使っていた小さな木彫りの駒だった。


 白と青。


 一対になっている。


「まだ持っていたんですか」


 車椅子で大広間まで来ていたセドリックが、驚いたように尋ねた。


「偶然残っていただけだ」


 第一王子が答える。


「嘘だ」


「なぜ分かる」


「兄上は昔から、どうでもいいものほど捨てられなかった」


 セドリックは木の駒を見つめた。


「私が折った木剣も、ずっと持っていただろう」


「……あったな」


「まさか、まだあるのか」


「倉庫にある」


 セドリックは信じられないものを見るような顔をした。


「気持ち悪い」


「お前に言われたくない」


 ほんの一瞬だけ、昔の兄弟へ戻ったような会話だった。


 リリアはその空気を壊さないよう、静かに笑った。


 一方、ノクスは机の前で長いこと悩んでいた。


『我は何を置けばいい』


「自分を思い出せるものがいいと思います」


 リリアが答える。


『我の記憶はレオンの中にもある』


「そういう意味ではなくて、自分がノクスだと思い出せるものです」


 しばらく考えた後、ノクスは耳元に飾っていた乾燥した月白花を外した。


 公表の日、子供からもらった花。


 すでにリリアが乾燥させ、形を残していたものだった。


「それにするんですね」


『我が初めて、恐れ以外の理由で人間からもらったものだ』


 リリアは微笑んだ。


「きっと強い楔になります」


 ノクスは花を机へ置き、しばらくそれを見つめた。


『もし我が自分を忘れても、これを見ればノクスへ戻れるか』


「戻れます」


 リリアは迷わず答えた。


「何度でも」


     ◇


「次は、互いのことを書きな」


 マルタが紙の束を机へ置いた。


 リリアは首を傾げる。


「前にも未来の自分へ手紙を書きましたよ」


「今回は違う。自分のためじゃなくて、相手のためだ」


「相手のため?」


「もしリリアがレオンを忘れたら、レオンが自分のことを説明できる。でも、レオンが自分自身を忘れたらどうする」


 その問いに、リリアは息を呑んだ。


「その時は、リリアがレオンという人間を教えるんだ」


 マルタは続ける。


「名前だけじゃ駄目だよ。好きなもの、嫌いなもの、どんな時に怒るのか、どんな時に笑うのか、何を怖がって、何を大切にするのか。相手を外側から見た記録を書いておきな」


 つまり、互いが互いの記憶になる。


「分かりました」


 リリアはペンを取り、レオンも向かいの席へ座った。


 最初に書いたのは名前だった。


『レオン・ヴァルハルト』


 その下に、少し考えてから続ける。


『銀狼公爵と呼ばれると、ほんの少し嫌そうな顔をする。』


 向かいでレオンが眉を寄せた。


「何を書いた」


「まだ秘密です」


「嫌な予感がする」


「大丈夫です」


「信用できない」


 リリアはさらに書き足す。


『苦い薬が嫌い。』


「リリア」


「見ないでください!」


「絶対に薬のことを書いただろう」


「どうして分かるんです?」


「お前の顔だ」


「大切な情報ですよ」


「不要だ」


「記憶を失ったレオン様が薬を見て嫌そうな顔をしたら、ご本人だとすぐ分かります」


「他にも確認方法はある」


「でも、一番分かりやすいです」


 レオンは額を押さえた。


 その隣では、ノクスが机の上の紙へ前脚を乗せようとしている。


「何をしているんですか」


『我も書く』


「字を書けるんですか?」


『神を何だと思っている』


 特殊な魔力筆を用意すると、ノクスは夜色の光で紙へ大きく文字を書いた。


『リリア』


 その下へ、迷いなく続ける。


『無茶をする。薬師。月華。すぐ他人を助けようとする。休めと言われても休まぬ。』


「ノクス」


『事実だ』


「もう少し他にありません?」


 ノクスは少し考えた。


 やがて、先ほどまでよりゆっくりと文字を書く。


『我の名を呼ぶ者。』


 リリアは黙った。


 その下へさらに続く。


『花を保存した。帰る場所を作ると言った。』


 ノクスの筆が止まる。


 黄金色の瞳がリリアへ向けられた。


『我が忘れても、これを読めば思い出すだろう』


 リリアの胸がじんわりと温かくなった。


「はい。きっと思い出します」


     ◇


 それぞれの記憶の楔が完成したのは、夕方になってからだった。


 リリアがレオンについて書いた紙は五枚を超え、レオンの方もなぜか同じくらいの枚数になっている。


「何を書いたんですか」


「秘密だ」


「私のは読もうとしたのに」


「していない」


「しました」


「見えただけだ」


「同じです」


 言い合いになりかけたところで、マルタが手を叩いた。


「はいはい、夫婦喧嘩は帰ってからにしな」


 二人は同時に答えた。


「まだ夫婦ではありません」


 室内が妙な静けさに包まれる。


 グレイは目を伏せ、ミアは口元を押さえていた。


 第一王子まで何とも言えない顔をしている。


 唯一ノクスだけが本気で不思議そうに首を傾げた。


『ならば、いつ夫婦になる』


「ノクス!」


 リリアの顔が一気に熱くなった。


『婚約者なのだろう』


「そうですけど」


『互いを愛している』


「なっ……」


 ノクスは今度はレオンを見る。


『違うのか』


 レオンは少しだけ沈黙した。


 それから、静かに答えた。


「違わない」


 リリアの顔がさらに赤くなる。


『ならば何が問題だ』


「順番というものがあります!」


『人は面倒だ』


「あなたに言われたくありません!」


 ノクスは本当に理解できないという顔をしている。


 レオンは珍しく、そのやり取りを見ながら笑っていた。


「レオン様まで!」


「悪い」


「絶対に笑っています」


「ああ」


「ひどいです」


 けれど、その笑みはすぐに消えた。


 レオンはリリアの手を取る。


「帰ってきたら、話したいことがある」


 真剣な表情だった。


 リリアの心臓が大きく鳴る。


 何を話したいのかとは、聞けなかった。


 聞かなくても、少しだけ分かるような気がしたからだ。


「……はい」


 声が自然と小さくなる。


「帰ってきたら、聞きます」


「ああ」


 忘却の海へ向かう前に、また一つ帰る理由が増えた。


     ◇


 夜。


 白月塔の最上階には、かつて存在しなかった古い扉が現れていた。


 魂縛の儀が行われた床は修復されていたが、その中央の壁から浮かび上がるように、白い石で作られた扉が存在している。


 表面には大きな白い月。


 その下には黒い波。


 セドリックが夢で見たものと同じだった。


「本当にあった……」


 ユリウスが息を呑む。


「いつ現れた?」


 第一王子が尋ねる。


「一刻ほど前です。突然、壁から浮かび上がるように」


 塔を監視していた騎士が答えた。


 ノクスは扉の前へ進んだ。


『月華の門』


 その声には、珍しく隠しきれない恐怖が混じっていた。


「ノクス」


『何だ』


「戻れなくなる可能性はありますか」


 ノクスは誤魔化さなかった。


『ある』


 すぐに、レオンの手がリリアの手へ重なった。


「それでも行くか」


「はい」


 リリアは答えた。


「でも、今度は一人ではありません」


「俺がいる」


『我もいる』


 第一王子も頷く。


「私もだ」


 忘却の海へ入るのは、リリア、レオン、ノクス、第一王子の四人。


 ユリウスは門の外に残り、現実世界との接続を維持する。


 マルタも塔に残り、誰かが戻ってきた時、すぐ治療できるよう備える。


 セドリックは王宮に残された。


 ただし、忘却への入り口を見つけた者として、彼にも役割があった。


 第一王子が持っていた木彫りの駒のうち、青い方をセドリックが持つ。


 白い駒は第一王子が胸元へ収めた。


 互いを現実へ繋ぐための楔だ。


「兄上」


 出発前、セドリックが呼んだ。


「何だ」


「もし忘れたら……」


「何を」


「私を」


 第一王子は少しだけ笑った。


「お前の方が先に忘れそうだ」


「私は行かない」


「忘却は距離に関係なく侵食するんだろう」


 セドリックが黙る。


 第一王子は青い駒を握る弟の手に、自分の手を重ねた。


「忘れない」


「……そうか」


「お前もだ」


「何を」


「私を忘れるな」


「努力する」


「そこは約束しろ」


 セドリックがほんの僅かに笑った。


「兄上は昔から命令ばかりだ」


「兄だからな」


「昔から嫌いだった」


「知っている」


「今も嫌いだ」


「それでもいい」


 第一王子は弟の手を離した。


「行ってくる」


 セドリックは小さく頷いた。


「……行ってらっしゃい」


 その一言に、第一王子の表情が僅かに揺れた。


「帰ったら、ただいまと言う」


「別にいらない」


「言う」


「勝手にしろ」


 兄弟はそこで別れた。


     ◇


 白月塔最上階。


 リリアは月華の門の前へ立った。


 右手にはレオン。


 左には夜色の姿をしたノクス。


 少し後ろには第一王子がいる。


「開けます」


 リリアは月華の光を灯し、扉に刻まれた白い月の紋章へ触れた。


 扉は音もなく開いた。


 その向こうに階段も廊下もない。


 ただ、果ての見えない黒い海が広がっていた。


 空も黒い。


 海も黒い。


 それでも、その中には無数の光が浮かんでいる。


 最初は星かと思った。


 けれど違う。


 名前。


 記憶。


 誰かが生きた証。


 一つ一つの光が海面へ浮かび、ゆっくりと沈んでいる。


 泣き声が聞こえる。


 笑い声が聞こえる。


 愛を告げる声。


 名前を呼ぶ声。


 助けを求める声。


 謝罪。


 祈り。


 後悔。


 数え切れない人生の声だった。


 リリアの目から、理由もなく涙が落ちた。


「こんなに……」


 帰れなかった記憶が、これほど多くある。


『ようこそ』


 海の向こうから声がした。


 顔のない人影が立っている。


 一つではない。


 何百、何千もの黒い人影が少しずつ重なり合い、やがて巨大な一人の姿へ変わっていった。


『帰す者』


 影がリリアを見る。


『夜の神』


 ノクスを見る。


『銀狼』


 レオンを見る。


 最後に第一王子へ向き直った。


『そして、忘れた王の子』


 第一王子の顔が強張った。


『待っていた』


 リリアは一歩前へ出た。


「あなたが、忘却ですか」


 巨大な影は、顔などないのに笑ったように見えた。


『忘却。それは、汝らが我らへ与えた名だ』


「では、本当の名前は?」


『我らに名などない』


「なら、話を聞かせてください」


『話?』


「どうしてここから出ようとしているのか、人の記憶を奪うのか、その理由を知りたいんです」


 巨大な影が僅かに揺れた。


『聞いて、どうする』


「帰る方法を探します」


 その瞬間、海が完全に静止した。


 波も。


 声も。


 何も動かない。


 やがて忘却が、低く静かな声で言った。


『ならば最初に、汝自身が何を失ったか、すべて思い出せ』


 黒い海が大きく割れた。


 その底から無数の光が浮かび上がる。


 リリア自身の記憶だった。


 幼い頃、母の腕の中で眠った日。


 父の薬房。


 初めて月華を使った時。


 レオンとの最悪の初対面。


 彼が初めて死にたくないと口にした夜。


 苦い薬を嫌がった顔。


 嫉妬。


 北方。


 白月塔。


 告白。


 初めて恋を自覚した瞬間。


 失ったはずのすべてが、一度に目の前へ戻ってくる。


「……っ!」


 リリアは頭を押さえた。


「リリア!」


 レオンがすぐに身体を支える。


 けれど、その手が途中で止まった。


「……?」


 リリアは顔を上げた。


 レオンの表情がおかしい。


 こちらを見ている。


 けれど、その目には明確な戸惑いがあった。


「レオン様?」


 返事がない。


「どうしました?」


 レオンの唇が動く。


「……誰だ」


 世界が止まった。


 リリアは一瞬、その言葉の意味を理解できなかった。


「え……?」


 レオンは彼女の肩から手を離し、警戒するように一歩後退した。


 右手が剣の柄へ伸びる。


「お前は誰だ」


 銀色と藍色の瞳。


 そこに、リリアを知る光がない。


 忘却の海に笑い声が響いた。


『始めよう』


 黒い波が四人の周囲で一斉に立ち上がる。


『汝らが名を失っても、記憶を失っても、それでも互いを選べるか』


 波がそれぞれ別の方向から押し寄せる。


「レオン様!」


 リリアは手を伸ばした。


「離れないで!」


 レオンは、知らない女を見る目で彼女を見ていた。


 それでも、黒い波に呑み込まれる直前、なぜか反射的にリリアへ手を伸ばした。


 指先がほんの一瞬だけ触れる。


 名前も分からない。


 関係も覚えていない。


 愛した記憶も、約束も、何も残っていない。


 それなのに、身体だけが彼女を離すことを拒んでいる。


 忘却の海は二人の手を容赦なく引き離した。


「レオン様――!」


 リリアの叫びが黒い波の中へ消える。


 そしてレオン・ヴァルハルトは、愛した女性の名前を完全に忘れた。


 それでも胸の奥には、誰を失ったのかさえ分からないまま、理由のない痛みだけが確かに残っていた。

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