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月影の花嫁は銀狼公爵の運命を拒む  作者: 白石マサル


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第五十一話 許されない者の祈り

 決戦から七日が過ぎた朝。

 王宮西棟の一室では、一人の罪人が名前を読み続けていた。


「エドガー・ハインツ」


 掠れた声が、静かな部屋へ落ちる。


「北方第三鉱山、運搬員」


 紙をめくる。


「妻と、二人の子供……」


 セドリックはそこで言葉を止めた。

 名簿には、亡くなった者の名前だけではなく。


 年齢。

 職業。

 家族。

 行方不明になった日。

 遺体が発見された場所。


 判明している限りの情報が記されている。

 最初は、名前だけを覚えるつもりだった。

 けれど、名前の横に記された短い一文を読むたび。

 その者がただの数字ではなかったことを思い知らされる。


 エドガー・ハインツ。

 三十九歳。

 妻と子供を養うため。

 冬の間も鉱山へ入り続けていた男。

 黒鴉会の者たちに拉致され。

 術式の実験体として王都へ送られた。

 帰りを待っていた家族へ。

 遺体すら返らなかった。


 セドリックは震える指で、紙の端を掴む。


「……次を」


 向かいに立つ記録官が戸惑う。


「殿下」

「次を読め」

「しかし、すでに二刻以上」

「読め!」


 声を荒らげた瞬間。

 胸に激痛が走った。


「ぐっ……!」


 セドリックは身体を折り曲げる。

 包帯の下。

 胸元に残る黒い亀裂が明滅する。

 記録官が慌てて医師を呼ぼうとする。


「呼ぶな」

「ですが」

「この程度で止めれば」


 息を切らしながら。

 セドリックは名簿を見る。


「私はまた、逃げる」

「殿下はまだ治療中です」

「だから何だ」

「倒れてしまえば、裁判へも」

「倒れれば起こせ」


 冷たい言葉。

 かつてならそれは他者へ無理を強いる命令だった。

 今は違う。

 自分自身を罰するための言葉になっている。

 記録官は困り果てていた。

 その時、病室の扉が開いた。


「休め」


 低く。

 有無を言わせぬ声。

 セドリックの顔が強張る。

 レオンが入ってきた。

 その後ろにはリリアと第一王子。

 さらに薬箱を抱えたマルタが続く。


「銀狼公爵」


 セドリックは顔を背ける。


「見舞いなら必要ない」

「見舞いではない」


 レオンは名簿を取り上げた。


「返せ」

「断る」

「これは私が」

「お前が倒れるための道具ではない」


 セドリックの青い瞳が鋭くなる。


「私が苦しむことに、何か問題があるのか?」

「あります」


 答えたのはリリアだった。

 彼女は寝台の前へ進み。

 セドリックの顔を真っ直ぐ見た。


「あなたは今亡くなった方々の名を覚えたいのではなく、自分を傷つけるために読んでいます」

「何が違う」

「まったく違います」


 静かな声。

 だが一歩も引かない。


「罪を覚えることと、自分を壊すことは違います」

「私が壊れれば」


 セドリックは乾いた笑みを浮かべる。


「喜ぶ者は多い」

「そうかもしれません」


 リリアは否定しなかった。

 第一王子の表情が僅かに歪む。


「あなたを憎み苦しめばいいと思う方もいます」

「当然だ」

「はい」


 リリアは頷く。


「でも、あなたが自分を壊したところで亡くなった方は戻りません。残された方の生活も失われた記憶も、元には戻りません」


 セドリックは唇を噛む。


「では、何をしろと言う」

「裁かれてください」


 リリアの言葉に。

 病室が静まり返った。


「逃げずに被害を受けた方々の話を聞いて、何を求められるのかを知って、できる償いを探してください」

「許されないのに?」

「許されるためにするのではありません」


 リリアは言った。

 その瞳に迷いはなかった。


「謝れば許してもらえる、苦しめば同情してもらえる、命を差し出せば終わる。そんなことを期待しているなら、それもまた相手の心を、自分の望む形に動かそうとしているだけです」


 セドリックの顔から表情が消えた。

 かつて彼は人から意思を奪った。


 選択を奪い。

 感情を利用し。

 自分の望む王国を作ろうとした。


 今、罪悪感に苦しむ自分を見せ。

 死を望むことで。

 無意識に。

 誰かから罰や許しを引き出そうとしている。


「……私は」


 セドリックの手が震えた。


「また」


 声が掠れる。


「人へ、何かを求めているのか」


 リリアはすぐには答えなかった。


「求めること自体が悪いわけではありません。誰かに生きてほしいと願うことも、そばにいてほしいと思うことも悪くありません」


 彼女は第一王子を見る。


「でも、相手が拒めないようにすることは違います」


 セドリックも兄を見る。

 第一王子は。

 何も言わず。

 ただ弟の視線を受け止めていた。


「兄上」

「何だ?」

「私が……」


 セドリックは言葉を探す。


「手を離すなと言えば」

「離さない」

「それは」

「私が望むからか?」


 第一王子は少し考えた。


「違う」


 セドリックの顔が僅かに強張る。


「私自身が」


 第一王子は続ける。


「お前の手を離したくないからだ。だが、公務へ行く時は離す。お前が一人で向き合うべき時も、そばに立たないことがある」

「……なぜ」

「お前の望みをすべて叶えることが愛ではないからだ」


 セドリックは俯く。

 その横顔は。

 王国を支配しようとした男ではなく。

 答えの分からない子供のようだった。


 ◇


 マルタが寝台の横へ立ち。

 セドリックの胸元の包帯を乱暴に剥がした。


「痛っ……!」

「我慢しな」

「もう少し丁寧に」


 第一王子が言う。


「甘やかすんじゃないよ」

「これは治療だぞ」

「患者が言うことを聞かないなら、痛い目に遭わせるのも治療のうちだ」

「違うと思います」


 リリアが小さく口を挟む。

 マルタは胸の亀裂へ薬を塗る。

 黒く焼けた皮膚の下。

 赤い光が脈打っている。

 王宮地下の術式と繋がっていた痕跡。

 大部分は切断されたものの。

 セドリックの魔力回路には。

 今も黒霧の根が残っている。


「悪化してるね」


 マルタが呟く。

 第一王子の顔色が変わる。


「なぜだ?」

「こいつが自分を痛めつけてるからだよ」

「黒霧は負の感情へ引かれる」

「罪悪感、自己嫌悪、死にたいって願い。そんなもんを毎日育ててりゃ残った根も元気になるさ」


 セドリックは冷たく笑う。


「私には相応しい」


 マルタは塗り薬の瓶で。

 彼の額を殴った。


「痛い!」

「次に同じことを言ったらもっと強くやる」

「患者へ暴力を」

「リリア」


 マルタが振り向く。


「何ですか?」

「こいつに月華を使うなよ」


 リリアは目を瞬かせる。


「なぜですか?」

「今、月華で傷を癒やしても、こいつ自身が死にたがってりゃすぐ黒霧が戻る」


 マルタはセドリックを見下ろす。


「月華は、ものを戻す力だ。こいつ自身が帰る場所を選ばない限り戻しようがない」

「帰る場所……」


 セドリックが呟く。

 ノクスが言った。

 名は帰る場所だと。

 けれど。

 自分には。

 帰っていい場所などあるのだろうか。


 王宮。

 王族。

 兄。


 そのすべてを。

 自ら壊そうとした。


「ない」


 セドリックは小さく言った。


「私には帰る場所などない」

「勝手に決めるな」


 第一王子の声。


「兄上」

「王宮へ戻る資格がないと思うなら、裁判の後相応しい場所を探す。牢でも、療養院でも辺境でも。お前が罪と向き合える場所を一緒に決める」


 セドリックは兄を見る。


「一緒に?」

「ああ」

「私に選ばせるのか」

「ああ」

「罪人へ」

「罪人にも意思はある」


 その言葉は。

 セドリックにとって。

 恐ろしいものだった。

 命令される方が簡単だ。

 罰を与えられ。

 苦しめと言われ。

 死ねと言われる方が。

 自分で選ばずに済む。


「私は」


 セドリックの声が震える。


「選び方が分からない」


 第一王子は。

 静かに答えた。


「なら、分かるまで待つ」

「ずっと?」

「必要なだけだ」

「王になる人間が罪人一人へ、そんな時間を使うのか?」

「王になるからこそだ」


 第一王子は弟の手を取る。


「選び方を知らない人間がお前だけだと思うな。この国にも選べないまま従ってきた者は多い。王がすべて決める国ではなく、一人一人が選び、責任を持てる国に変えたい。それをお前と共に学ぶ」


 セドリックは答えなかった。

 ただ。

 兄の手を。

 振り払わなかった。


 ◇


 病室を出た後。

 レオンとリリアは王宮の廊下を歩いていた。

 窓の外には。

 再建作業が続く中庭。

 壊れた石材を運ぶ兵士たち。

 炊き出しを行う使用人。

 被害状況を記録する役人。

 王宮は。

 かつての姿を取り戻そうとしている。

 しかし同じ王宮へ戻すだけではいけない。


 隠された地下。

 神を繋いだ鎖。

 人体実験。


 それらが存在した歴史ごと。

 作り直さなければならない。


「セドリック殿下」


 リリアが呟く。


「変われるでしょうか?」

「分からない」


 レオンは答える。


「変わるかもしれない。また同じことをするかもしれない」

「……はい」

「だから監視する」


 冷静な言葉。


「同情だけで自由にするつもりはない。力が戻れば再び危険になる可能性もある」

「そうですね」

「お前は」


 レオンが足を止める。


「助けたいと思っているのか?」


 リリアも立ち止まった。

 廊下には二人だけ。

 少し離れた場所に。

 王宮騎士が立っている。


「分かりません」


 正直に答えた。


「許せません。あなたを苦しめ、ノクスを利用し、多くの方を傷つけたことを今でも思い出すと怖いです」


 リリアは自分の腕を抱く。


 黒い鎖。

 母の幻影。

 記憶を奪われる感覚。


 もう終わったことではない。

 悪夢として。

 今も夜に現れる。


「でも」


 リリアは続ける。


「苦しんでいる人を見れば治療したいと思ってしまいます。それがセドリック殿下でも」

「医者としてか」

「分かりません」

「人として?」

「それも」


 答えが見つからない。


「もしかしたら、自分が優しい人間だと思いたいだけかもしれません」


 レオンの瞳が僅かに細くなる。


「お前は自分へ厳しすぎる」

「レオン様に言われたくありません」

「今はお前の話だ」

「ずるいです」

「何がだ」

「正論を言う時だけ自分のことを棚へ上げます」


 レオンは僅かに黙る。


「……それは認める」

「認めるんですね」

「だが」


 彼はリリアの手を取る。


「助けたいと思うことと、許すことは違う。治療することと罰を軽くすることも違う。お前が力を使いたいなら俺は止めない。ただし、自分を犠牲にしてまで救うことは許さない」

「はい」

「本当に分かっているか?」

「分かっています」

「目を逸らした」

「逸らしていません」

「逸らした」

「少し考えただけです」

「信用できない」

「ではレオン様が見張っていてください」


 そう言うと。

 レオンの顔から。

 僅かに険しさが消えた。


「最初からそのつもりだ」

「ずっとですか?」

「ああ」

「一生?」


 何気なく口にした言葉。

 レオンの足が止まる。

 リリアも。

 自分が何を言ったか気づき。

 顔が熱くなった。


「い、今のは――」

「一生だ」


 レオンが答える。


「え?」

「見張る。一生」


 銀色と藍色の瞳が。

 真っ直ぐリリアを見る。

 冗談ではない。


「嫌か?」

「嫌では……」


 声が小さくなる。


「ありません」

「なら決まりだ」

「そんな簡単に」

「お前が言った」

「言葉の勢いで」

「撤回は認めない」


 レオンは再び歩き出す。

 リリアの手を握ったまま。


「レオン様」

「何だ?」

「顔が少し赤いです」

「気のせいだ」

「耳も」

「見るな」


 リリアは笑った。

 胸の奥に。

 暖かなものが広がる。

 失われるかもしれない記憶。

 不確かな未来。

 それでも。

 また一つ。

 新しい約束が生まれた。


 ◇


 午後。

 リリアたちは公爵邸へ戻った。

 門をくぐった瞬間。

 ミアが慌てて駆け寄ってくる。


「リリア様!」


 顔色が悪い。


「どうしたの?」

「救出された方が突然苦しみ始めました」


 リリアとレオンの表情が変わる。

 公爵邸の一階。

 臨時治療室として使われている大広間へ向かう。

 中には月蝕の間から救出された人々が。

 今も数十名ほど収容されている。

 多くは意識を取り戻し。

 王宮の療養施設や家族の元へ移った。

 

 だが黒霧の侵食が強かった者。

 記憶が混乱している者。

 身体の回復が遅い者は公爵邸へ残って治療を受けていた。


 その中央。

 一人の青年が寝台の上で暴れている。


「離せ!」

「頭の中に入ってくる!」


 騎士と医師が身体を押さえている。

 青年の胸から。

 黒ではない。

 淡い銀色の光が漏れていた。


「月華……?」


 リリアが息を呑む。

 彼は月華の使い手ではない。

 月蝕の間では。

 記憶を奪われていた供物の一人だった。


「リリア様!」


 医師が叫ぶ。


「突然、誰かの記憶を話し始めました!」

「誰かの?」


 青年が目を見開く。

 だがその瞳は目の前の景色を見ていない。


「白い花」


 掠れた声。


「銀色の狼」


 リリアの身体が固まる。


「庭で」


 青年は続ける。


「約束した」

「離れない」

「何度忘れても」

「また」


 レオンがリリアを見る。


「これは」


 リリアの胸が激しく鳴る。

 それは。

 彼女が失った記憶。

 庭園でレオンと交わした約束。

 思い出せなかった記憶。

 なぜこの青年が知っている。


「あなた」


 リリアは寝台へ近づく。


「その記憶をどこで見たんですか!」


 青年の身体が大きく震える。


「分からない」

「暗いところ」

「星が」

「たくさん」


 その言葉にレオンの影が揺れた。

 ノクスが姿を現す。

 黄金色の瞳が。

 青年の胸から漏れる銀光を見つめた。


『夜の中だ』

「ノクス?」

『リリアの記憶は』

『我の夜へ帰った』


 以前、ノクスは言った。

 強く結ばれた記憶は。

 星となって夜へ刻まれる。

 失われた記憶は。

 消えていない可能性があると。


「でも」


 リリアは青年を見る。


「なぜ、この方の中に」


 ノクスの黄金の瞳が細められる。


『月蝕の間で』

『多くの記憶が混ざり合った』

『本来の持ち主へ帰る途中』

『一部が』

『別の者へ流れ込んだのかもしれぬ』


 青年の胸の銀光が強くなる。

 彼は頭を抱え。

 叫ぶ。


「やめろ!」

「知らない人がいる!」

「知らない声が!」

「私の中で」


 声が変わる。

 

 青年自身の声。

 女性の声。

 老人の声。

 子供の声。


 いくつもの声が。

 重なって聞こえた。


「記憶が混線している」


 マルタが大広間へ駆け込んでくる。


「全員下がりな!」


 薬瓶を床へ投げる。

 青い煙が広がる。

 青年の暴れ方が少し弱まる。


 だが胸の銀光は消えない。


「どうすれば?」


 リリアが尋ねる。


「月華で引き出せますか?」

「無理に引けば」


 マルタは厳しい顔で答える。


「こいつ自身の記憶まで持っていかれる」

「では」

「まず境目を探す。この青年の記憶と入り込んだ記憶の境目を」


 リリアは青年の手を握る。

 冷たい。

 震えている。


「お名前は?」

「……カイル」

「カイルさん、聞いてください。あなたの名前はカイルです。あなたの記憶はあなたのものです」


 月華を使う前に言葉で繋ぐ。


「生まれた場所は?」

「北方の……村」

「村の名前は?」

「レイナス」

「ご家族は?」

「母と妹」

「名前は?」

「エレン」

「妹は、エレン」


 震えが少しずつ弱まる。


 自分の名前。

 故郷。

 家族。

 帰る場所。


 それを一つずつ確かめる。


「カイルさん」


 リリアは月華を指先へ灯す。


「あなたではない記憶を無理に捨てる必要はありません。でも、誰のものか一緒に探しましょう」

「怖い」


 カイルの目から涙が流れる。


「自分が誰か分からなくなる」


 その言葉はリリア自身の恐怖でもあった。

 記憶を失い。

 自分が誰か分からなくなる。

 愛した人を忘れ。

 大切な約束を失う。


「大丈夫です」


 リリアは手を強く握る。


「私も同じことが怖いです」


 カイルの焦点が。

 僅かにリリアへ合う。


「あなたも?」

「はい。私は力を使うたび記憶を失います。でも」


 レオンがリリアの肩へ手を置く。


「覚えていてくれる人がいます。だから一人で全部を守ろうとしなくていいんです」


 リリアはレオンを見る。

 彼の瞳が。

 確かに自分を映している。


「カイルさんにも、あなたを知っている方がいます。お母様、妹さん、あなたの名を呼ぶ人が必ずいます」


 カイルの呼吸が。

 ゆっくりになる。


「エレン」


 妹の名を呟く。

 その瞬間、胸の銀光が二つへ分かれた。

 一つは暖かな黄色。

 カイル自身の記憶。

 もう一つは。

 月白色。

 リリアから失われた記憶。


「見えました」


 リリアが息を呑む。


「境目です」

『待て』


 ノクスが低く言う。


「どうしました?」

『それだけではない』


 黄金の瞳が。

 銀光の奥を見る。

 月白色の記憶の中。

 さらに黒い影がある。

 小さな。

 針のような闇。

 マルタの顔色が変わる。


「これ、黒霧の種だ」

「黒霧は消えたのでは?」


 ミアが尋ねる。


「深淵の核は消えた」


 マルタが答える。


「でも、人の中に残った記憶を巣にして別の形で生き延びようとしてる」

「記憶を巣に……」


 リリアの背筋が冷える。

 救出された人々。

 返された記憶。

 その中に黒霧の種が潜んでいるのだとすれば。


「他の方々も……」

「ああ」


 マルタが大広間を見渡す。


「同じ状態になる可能性がある。王都へ戻った者も北方へ帰った者も」


 ユリウスが。

 遅れて入ってきた。

 その言葉を聞き。

 顔を青ざめさせる。


「すぐに全員の所在を確認します」

「待ってください!」


 リリアが言う。


「広く知らせれば黒霧に感染したと恐れられます。救出された方々が隔離や迫害を受けるかもしれません」


 黒霧。

 深淵。

 未知の力。

 人は恐れる。

 決戦後。


 ようやく家族の元へ戻った人々が。

 今度は災厄の種を持つ者として扱われるかもしれない。


「公表は慎重にすべきだ」


 レオンが言う。


「だが放置もできない。症状が出る条件を調べる。カイルが最初だとは限らない」

「はい」


 リリアはカイルへ向き直る。

 まず目の前の人を助ける。


「ノクス」

『何だ』

「この黒霧の種を夜へ戻せますか?」


 ノクスは黒い影を見つめる。


『戻せる』

「では」

『だが』


 低い声。


『これは』

『我から生まれた黒霧ではない』


 全員が固まる。


「どういう意味だ?」


 レオンが問う。

 ノクスの身体に。

 星空が揺らめく。


『我が深淵であった頃の残滓ではない』

『別の意思がある』

「別の……」


 リリアは黒い針を見つめる。

 それはリリアの月華へ反応するように。

 僅かに動いた。

 まるで彼女を見つけたように。

 黒い針が突然カイルの胸から飛び出した。


「リリア!」


 レオンが彼女を抱き寄せる。

 銀色の剣が閃く。

 だが、黒い針は刃を避けリリアの額へ向かう。

 ノクスが咆哮した。

 藍色の夜が大広間を包む。

 黒い針はリリアへ届く直前で夜色の壁へ閉じ込められた。

 その中から声がした。

 小さい。

 けれどはっきりと。


『見つけた』


 リリアの身体が凍る。

 誰の声でもない。

 男とも女とも分からない。

 複数の声が重なったような。

 不気味な音。


『帰す者』

『月華』


 レオンが剣を向ける。


「何者だ」


 黒い針が蠢く。

 笑った。


『我らは』

『帰れなかった者』


 夜色の壁へ。

 無数の黒い手の影が浮かぶ。


「帰れなかった……」


 リリアは息を呑む。

 月華はすべてを帰るべき場所へ返す力。

 だが帰る場所を失った記憶。

 名を忘れられた者。

 持ち主が死に。

 誰からも覚えられなくなった思い。

 それらはどこへ帰るのか。


『名を失い』

『身体を失い』

『誰にも呼ばれず』

『夜にも入れず』

『光にも戻れず』


 黒い声が重なる。


『我らは』

『忘却』


 ノクスの黄金の瞳が大きく見開かれた。


『あり得ぬ』


 初めて。

 神の声に明確な恐怖が混じる。


「知っているのですか?」


 リリアが問う。

 ノクスは黒い針から目を逸らさない。


『神が生まれる前から』

『存在するもの』

『記憶が完全に帰る場所を失った時』

『生まれる空白』

『名を持たず』

『姿を持たず』

『ただ』

『すべてを忘れさせるもの』


 黒い針が夜色の壁へ突き刺さる。

 小さな亀裂。

 ノクスの光が揺れる。


『我が深淵へ堕ちた時も』

『遠くから見ていた』

『我が名を失うのを』

『待っていた』


 レオンがリリアをさらに強く抱き寄せる。


「こいつの目的は?」

『月華だ』


 ノクスが答える。


『帰す力を喰らい』

『すべての記憶から』

『帰る場所を奪うつもりだ』


 リリアの胸が冷たくなる。

 月華を使うたび。

 失われた記憶。

 それは消えたのではなく。

 どこかへ帰っていた。

 だがその途中で、この忘却と呼ばれる存在に触れていたのだとすれば。


「私が失った記憶は」


 リリアの声が震える。


「この中にあるのですか?」


 黒い針が動きを止める。

 そして再び声が響いた。

 今度はよく知る声で。


『リリア』


 母の声。

 リリアの呼吸が止まる。


『薬草は』


 父の声。


『根を傷つけないように抜くんだよ』


 故郷の薬房。

 両親の声。

 続いて。

 レオンの声。


『離れない』


 失った約束。

 覚えていない言葉。

 すべてが黒い針の奥から聞こえてくる。


「返して」


 リリアは一歩前へ出ようとする。

 レオンが腕を掴む。


「行くな」

「でも」

「あれはお前を誘っている」

『返してほしいか』


 忘却が笑う。


『母の声』

『父の顔』

『恋した夜』

『失ったすべてを』


 リリアの目から涙が落ちる。

 欲しい。

 取り戻したい。

 忘れてしまった記憶。

 もう一度レオンと出会った瞬間から。

 すべて――。


「リリア」


 レオンが名を呼ぶ。


「俺を見ろ」


 リリアは。

 黒い針から目を離す。

 銀色と藍色の瞳。

 今ここにいるレオン。


「過去がなくても」


 彼は言う。


「俺はここにいる」

「でも」

「取り戻すなとは言わない。ただ」


 手を握る。


「一人で行くな」


 以前と同じ。

 何度も繰り返した言葉。

 リリアは涙を拭う。


「はい」


 忘却へ向き直る。


「返してもらいます」

『来い』

「でも」


 月華を灯す。


「あなたの望む方法ではありません」

『何』

「奪い合いません。あなたたちにも帰る場所を探します」


 黒い針が激しく震えた。


『我らに』

『帰る場所はない』

「だから」


 リリアは言う。


「作ります」


 忘却の声が止まる。

 かつて深淵にも帰る場所はないと言われた。

 けれど、ノクスは自ら選んだ場所へ帰った。

 なら、忘れられた記憶にも。

 名を失った思いにも。

 帰る場所を作ることができるかもしれない。


『愚かな』


 忘却の声が低くなる。


『帰れぬから』

『我らになった』

「それでも」

『我らは』

「名前がないなら」


 リリアは胸へ手を当てる。


「これから見つけます。誰かに覚えられる場所を一緒に探します」


 黒い針の亀裂から無数の悲鳴が漏れる。


 怒り。

 悲しみ。

 羨望。


 長い間。

 誰にも見つけてもらえなかった記憶たち。

 だが、その悲鳴の奥で一瞬だけ泣き声が聞こえた。

 幼い子供のような声。


『帰りたい』


 リリアの目が揺れる。

 しかし次の瞬間、忘却は激しく膨れ上がった。


『黙れ!』


 夜色の壁が砕ける。

 黒い霧が大広間へ広がる。


「全員伏せろ!」


 レオンの銀牙が解放される。

 ノクスが巨大な姿へ変わる。


『リリアを守れ!』

「お前に言われるまでもない!」


 銀と藍色の光が。

 黒い霧を押し返す。

 リリアはカイルの手を離さない。


「カイルさん! 妹さんの名前を!」

「エレン!」

「もう一度!」

「エレン!」


 自分の記憶へ繋ぎ止める。

 月華の光がカイルの胸にある黄色い記憶を包む。


「あなたはカイルです! レイナス村で生まれて、お母様と妹さんが待っています!」

「俺は……」


 カイルの目に光が戻る。


「カイル」

「そうです!」

「俺は……帰りたい」


 その言葉と同時彼の胸から黒い種が完全に抜け落ちた。

 忘却の霧が悲鳴を上げる。

 ノクスが前脚で押さえ込む。


『今だ!』


 レオンの剣が閃く。

 黒い種を。

 銀色の刃が貫いた。

 だが種は砕けなかった。

 無数の黒い欠片となり。


 窓。

 扉。

 床の隙間へ。

 一斉に逃げていく。


「逃がすな!」


 ユリウスが結界を展開する。

 いくつかの欠片は捕らえられた。

 しかしすべてではない。

 一つ。

 また一つ。

 公爵邸の外へ飛び出す。


 王都へ。

 空へ。

 広がっていく。


『遅い』


 忘却の声が。

 遠くから響く。


『すでに』

『我らは』

『多くの記憶へ宿った』


 リリアの顔から血の気が引く。

 救出された人々。

 王都。

 北方。

 数え切れない記憶の中に。

 忘却の種が潜んでいる。


『帰す者よ』

『すべてを取り戻したくば』

『夜の果てへ来い』


 声が遠ざかる。


『忘却の海へ』


 最後の黒い欠片が消えた。

 大広間に静寂が戻る。

 カイルは意識を失っている。

 だが呼吸は安定していた。

 胸の銀光も消えている。

 リリアは彼の手を握ったまま。

 動けなかった。


 失った記憶。

 帰れない思い。

 忘却の海。


 決戦は終わったと思っていた。

 深淵を救い。

 黒霧を止め。

 長い夜が明けたと。

 けれど、夜のさらに奥に誰にも知られず忘れられたものがいた。

 レオンがリリアの肩を抱く。


「行くつもりか?」

「はい」


 即答だった。


「私の記憶だけではありません。カイルさんのような方が他にもいるなら助けなければ」

「一人では行かせない」

「はい」


 リリアはレオンを見る。


「一緒に来てください」

「ああ」


 ノクスが二人の前へ立つ。

 黄金の瞳には。

 深い警戒と。

 僅かな恐怖。

 それでも逃げる意思はなかった。


『忘却の海は』

『神すら名を失う場所だ』

「怖いですか?」


 リリアが尋ねる。


『怖い』


 ノクスは正直に答えた。

 以前なら神としての誇りがそう言うことを許さなかっただろう。


『再び』

『ノクスという名を失うことが』

「なら」


 リリアは夜色の毛並みへ手を置く。


「私たちが呼びます。何度でも」


 レオンもノクスを見る。


「俺が忘れたらリリアが呼ぶ。リリアが忘れたら俺が呼ぶ」

『二人とも忘れたら』


 ノクスが問う。

 リリアは少し考えた。

 そしてカイルを見る。

 先ほどまで他人の記憶に呑まれながら妹の名を呼び、自分を取り戻した青年。


「私たちが助けた人たちに呼んでもらいます。名前は一人だけで守るものではないから」


 ノクスの黄金の瞳が揺れる。


『そうか』


 レオンがリリアの手を握る。


「まずは調査だ。忘却の海がどこにあるか、どう行くのか、種が誰へ宿っているのか」

「はい」

「それと」


 レオンの声が低くなる。


「お前は休む」

「今ですか?」

「今だ」

「カイルさんの様子を」

「医師がいる」

「でも」

「一生見張ると言った」


 リリアは言葉に詰まる。

 先ほど王宮の廊下で交わした約束。

 すでに使われている。


「約束を都合よく使っていませんか?」

「使えるものは使う」

『レオンに同意する』


 ノクスまで頷く。


「ノクスもですか」

『忘却の海へ行く前に』

『汝が倒れては困る』

「……分かりました」


 不満はある。

 けれど二人の顔を見れば本気で心配していると分かる。


「一刻だけです」

「二刻だ」

「一刻半」

「二刻」

『三刻』


「増やさないでください」

「二刻で決まりだ」


 レオンはリリアを抱き上げようとする。

 彼女は慌てて後退した。


「歩けます!」

「さっき眩暈がした」

「していません」

「顔色が悪い」

「緊張しただけです」

「信用しない」

「王宮でも同じ会話をしました!」

「なら学べ」

「レオン様がです!」


 言い争う二人を。

 ミアと医師たちが見つめる。

 先ほどまで忘却という新たな脅威に凍りついていた大広間。

 そこへほんの僅かに人の温度が戻った。

 マルタは黒い種の欠片を瓶へ封じながら。

 小さく笑う。


「まったく、神だろうが忘却だろうが、あの二人の痴話喧嘩までは消せないみたいだね」


 ◇


 その夜。

 王都のいくつもの場所で。

 人々が夢を見た。

 忘れたはずの母の顔。

 亡くした子供の声。

 行ったことのない場所。

 知らない誰かの人生。

 夢の中。

 黒い海が広がっている。

 水面には。

 数え切れない星。

 一つ一つが。

 誰かに忘れられた記憶。

 海の中央。

 顔のない人影が立っている。

 その影は。

 王都に眠る人々へ。

 同時に囁いた。


『名を捨てろ』

『痛みを忘れろ』

『愛したことも』

『失ったことも』

『すべて忘れれば』

『苦しまずに済む』


 そして。

 王宮西棟。

 セドリックも。

 同じ夢を見ていた。

 黒い海。

 無数の名。

 彼が奪った命。

 忘れたい罪。


『忘れさせてやる』


 顔のない影が。

 彼へ手を差し出す。


『すべて』

『なかったことに』


 セドリックは震える手を上げる。

 忘れたい。

 名前を読み続けるたび。

 胸が裂ける。

 彼らの人生を知るたび。

 自分が何を壊したのか。

 理解してしまう。

 忘れれば。

 楽になれる。

 もう苦しまなくていい。

 手が。

 影へ近づく。

 

 その時、現実の病室。寝台の横で眠る第一王子の手がセドリックの指へ触れた。

 温かい。

 月蝕の間で。

 自分を選んだ手。


『兄上に愛されたことも』


 忘却が囁く。


『忘れればいい』


 セドリックの手が止まる。


「……嫌だ」

『何』

「それは」


 声が震える。


「忘れたくない」

『ならば』

『罪も残る』

「分かっている」

『苦しみ続ける』

「それでも」


 セドリックは。

 差し出しかけた手を自分の胸へ戻す。


「忘れない。私が奪った名も、兄上が私を選んだことも、どちらも私の記憶だ」


 黒い海が波立つ。

 顔のない影が。

 怒りに歪む。


『罪人が』

『記憶を選ぶか』

「そうだ」


 セドリックは顔を上げる。

 青い瞳に。

 恐怖を残したまま。


「私は忘れないことを選ぶ」


 夢の世界へ。

 細い光が差し込んだ。

 夜色の星。

 ノクスの瞳。

 遠くで誰かが見届けている。

 忘却の影はゆっくりと闇へ沈む。


『ならば来い』

『罪人』

『忘却の海へ』

『汝が覚えようとする名が』

『どれほど脆いか』

『教えてやる』


 セドリックは目を覚ました。

 激しい呼吸。

 汗に濡れた身体。

 隣では第一王子が目を覚まし配そうに彼を見ている。


「セドリック?」


 弟は兄の手を強く握った。


「兄上」

「どうした」

「公爵を。リリア・エヴァレットを呼べ」

「何があった?」


 セドリックは窓の外の夜を見る。

 その向こう誰にも見えない黒い海が王都へ近づいている。


「次の敵は」


 掠れた声で言う。


「私たちの記憶を消しに来る」


 王都の夜空から。

 一つ。

 星が消えた。

 続いて。

 もう一つ。

 また一つ。

 忘却の海が。

 静かに。

 世界を呑み始めていた。

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