第五十話 罪人が目を覚ます朝
決戦から、三日が過ぎた。
王都はまだ、夜明けを取り戻したばかりのような顔をしていた。
王宮北部の一帯は封鎖され、崩落した地下区画の調査が続いている。
石畳には亀裂が残り。
一部の建物には黒霧が通り抜けた痕跡が、煤のように刻まれていた。
けれど、空は青い。
市場には少しずつ人が戻り。
パン屋からは焼きたての香りが漂い。
道端では、子供たちが藍色の狼を描いて遊んでいる。
「夜の狼が、悪い霧を食べたんだって!」
「違うよ。銀狼公爵が神様になったんだよ」
「月華の聖女様と結婚して、王様になるんだって!」
公爵邸へ向かう馬車の中。
窓の外から聞こえた言葉に、リリアは咳き込んだ。
「け、結婚して王様に?」
向かいに座るレオンは、眉間へ深い皺を寄せている。
「訂正させる」
「どの部分をですか?」
「すべてだ」
「結婚も?」
「……そこは」
レオンは言葉を止めた。
リリアは首を傾げる。
「そこは?」
「今は噂の話をしている」
「はい」
「王になるつもりはない」
「結婚は否定しないんですね」
馬車の中に沈黙が落ちた。
レオンは窓の外へ顔を向ける。
耳が少し赤い。
リリアはそれ以上追及せず。
小さく笑った。
すると、足元の影から夜色の頭が現れた。
『人の噂とは奇妙だ』
ノクスである。
今は大型犬ほどの姿で、レオンの影を出入りしている。
決戦直後より力が戻ってきたらしく。
以前は輪郭が透けていた身体も、今では星空の毛並みがはっきり見える。
「どのあたりがですか?」
『我が霧を食べたという部分だ』
「食べてはいませんね」
『あれは痛みと記憶の残滓だ』
ノクスは不満そうに鼻を鳴らす。
『食物と同列に扱うな』
「子供には分かりやすいのかもしれません」
『我は食いしん坊ではない』
レオンが静かに言う。
「昨日、厨房から肉を持っていっただろう」
ノクスの黄金の瞳が細くなる。
『供物だ』
「料理長は盗み食いと言っていた」
『神への献上品だ』
「許可を得たのか」
『神が自ら取りに行った』
「それを盗み食いと言う」
『レオン』
ノクスの尾が馬車の床を叩く。
『汝は契約者への敬意が足りぬ』
「お前もだ」
「お二人とも」
リリアが間へ入る。
「今日の王宮では喧嘩をしないでくださいね」
『我はしない』
「こいつ次第だ」
同時に答え。
互いを睨む。
リリアはため息をついた。
決戦後。
人と神の新しい契約は順調かと問われれば。
答えは難しい。
力の循環は安定し始めている。
レオンの胸を侵していた黒い亀裂も、日に日に薄れている。
ノクスも深淵へ戻る兆候はない。
だが、性格の相性という問題は、どうやら契約術式では解決できないらしい。
「今日は大切な日です」
リリアは改めて言う。
「第一王子殿下が、王国へ真実を公表されます」
レオンの表情が引き締まる。
「ああ」
『人は信じるのか?』
ノクスが尋ねた。
その声には、以前よりも隠すことの少なくなった不安があった。
リリアは少し考える。
「全員が信じるわけではないと思います」
『やはりな』
「でも」
リリアはノクスへ手を伸ばす。
夜色の頭を撫でようとすると。
彼は一瞬だけ避けようとした。
けれど結局その場に留まった。
「信じない人に、すぐ信じてもらう必要はありません」
『なぜ?』
「少しずつ知ってもらえばいいからです」
『我には時間がある』
「はい。私たちにも」
そこまで言い。
リリアは僅かに言葉を止めた。
人には限られた時間しかない。
ノクスとは違う。
自分も。
レオンも。
いつか死ぬ。
その当たり前の事実が、急に胸へ落ちる。
ノクスは彼女を見上げた。
『リリア』
「はい」
『汝らの時が短いことは知っている』
黄金の瞳が静かに揺れる。
『だからこそ』
『我は覚える』
リリアは目を見開いた。
『汝らが歩いた道を』
『人が再び過ちを犯した時』
『名を呼ばれた者がいたことを』
『犠牲ではない答えを選んだ者がいたことを』
『我が伝える』
その言葉に胸が熱くなる。
「ありがとうございます」
『まだ死ぬな』
「もちろんです」
『レオンもだ』
「本人へ言ってください」
ノクスはレオンを見る。
『死ぬな』
「命令するな」
『契約者としての忠告だ』
「お前も消えるな」
今度はノクスが黙った。
レオンは窓の外を見たまま続ける。
「帰る場所を得たばかりだろう」
黄金の瞳が僅かに見開かれる。
『……ああ』
それだけ答え、ノクスは再びレオンの影へ沈んだ。
照れたのだとリリアには分かった。
◇
王宮前広場には、すでに大勢の民が集まっていた。
貴族。
商人。
職人。
兵士。
黒霧の被害を受けた人々。
北方から王都へ運ばれた者たち。
そして、王国各地から呼ばれた記録官や神官。
広場中央には、大きな演台が設けられている。
背後には王家の紋章。
その隣に銀狼公爵家の紋章と、新たに描かれた夜色の月の紋章が掲げられていた。
それを見たノクスが、レオンの影の中で呟く。
『我の紋章か』
「仮のものだそうです」
リリアが小声で答える。
『誰が決めた』
「第一王子殿下と記録局です」
『我へ聞け』
「今後、正式なものを作るそうです」
『星の数が少ない』
レオンが呟く。
「細かいな」
『我が夜空には、数え切れぬ星がある』
「紋章へ全部入れたら見えない」
『工夫しろ』
「後で殿下へ言え」
『汝が言え』
「なぜ俺が」
「お二人とも静かに」
リリアが囁く。
周囲には王宮騎士や高官がいる。
ノクスの姿は見えなくても。
レオンとリリアが小声で言い争っているように見えてしまう。
第一王子はすでに演台の横へ立っていた。
白と紺を基調とした正装。
三日前の疲労は、まだ顔に残っている。
それでも姿勢は真っ直ぐだった。
父王は今回の事件で体調を崩し。
公式の場へ出られる状態ではない。
そのため、王家を代表して真実を告げる役目は。
第一王子が担うことになった。
鐘が鳴る。
ざわめきが静まった。
第一王子は演台へ上がる。
広場を見渡し、ゆっくりと口を開いた。
「王国の民へ」
声は魔術によって広場全体へ届けられる。
「今日、王家は、長く隠し続けた罪を公表する」
群衆がざわつく。
第一王子は止まらない。
「王宮地下で発生した崩落」
「王都各地に現れた黒霧」
「北方で相次いだ失踪」
「白月塔で行われた研究」
「そのすべてに」
「王家と王宮研究局が、長い歴史の中で隠蔽してきた事実が関わっていた」
演台の下。
高官たちの中には、険しい顔をする者もいた。
王家の権威。
国の安定。
外交への影響。
隠した方がよいと主張した者は多い。
それでも第一王子は公表を選んだ。
「我が王国は」
「かつて人の痛みを受け入れていた神を捕らえ」
「その力を利用した」
群衆のざわめきが大きくなる。
「神は傷つき」
「怒りと悲しみの中で」
「深淵と呼ばれる存在へ変わった」
「そして王家は」
「自らが生み出した災厄を封じる役目を」
「銀狼公爵家へ押しつけた」
いくつもの視線がレオンへ向く。
銀狼公爵。
恐れられてきた男。
深淵の器。
これまで人々は。
ヴァルハルト家の力を畏れながら。
なぜその家が呪いを負わされたのかを知らなかった。
「何代にもわたり」
第一王子は続ける。
「ヴァルハルト家の者たちは」
「王国を守るために命を削り」
「人知れず深淵の侵食へ耐えた」
「王家はそれを知りながら」
「真実を隠した」
第一王子は演台の上で。
レオンへ向き直った。
そして。多くの民が見守る中――深く頭を下げた。
広場が静まり返る。
「王家を代表し」
「レオン・ヴァルハルト公爵へ」
「そして歴代の銀狼公爵家へ」
「謝罪する」
レオンは動かなかった。
無表情のまま。
頭を下げる第一王子を見ている。
リリアは隣で彼の手が僅かに震えたことへ気づいた。
恨んでいないわけではない。
簡単に許せるはずもない。
幼い頃からいつ深淵へ呑まれるか分からない恐怖の中で生きた。
家族も。
先祖も。
皆。
王家の秘密のために苦しんだ。
第一王子が顔を上げる。
レオンへ視線を向けたまま。
「謝罪で過去が消えるとは思っていない」
「許しを強制するつもりもない」
「王家は今後」
「深淵に関するすべての記録を公開する」
「銀狼公爵家へ課された封印の義務を廃止する」
「白月塔および王宮研究局に関する独立調査を行い」
「関係者を地位にかかわらず裁く」
広場の一角で。
一人の老人が声を上げた。
「第二王子は!」
空気が変わる。
「第二王子が民を攫ったのだろう!」
別の声。
「家族を返せ!」
「処刑しろ!」
「黒霧で何人死んだと思っている!」
怒号が次々と上がる。
北方から来た者たち。
家族を失った者。
記憶を奪われた者。
当然の怒りだった。
第一王子は逃げずに受け止める。
「第二王子セドリックは」
一度、呼吸を置く。
「今回の事件を主導した」
リリアの胸が重くなる。
「黒鴉会を利用し」
「民を拉致し」
「人体実験を命じ」
「人々の記憶と命を術式の供物にした」
「その責任は」
「王族であることを理由に免除されない」
「現在は意識不明だが」
「回復した場合」
「公開裁判へかける」
群衆の中から。
「死刑にしろ!」
という声が飛ぶ。
第一王子の顔が僅かに強張る。
だが声は揺れなかった。
「刑罰は裁判によって決める」
「私は兄として」
「弟に生きてほしいと願っている」
ざわめき。
批判。
怒り。
それでも第一王子は続けた。
「だからこそ」
「王族として」
「罪を隠さない」
「私情によって無罪にもしない」
「死によって逃がしもしない」
「生きて」
「自らがしたことへ向き合わせる」
その言葉に怒号が完全に消えたわけではない。
だが広場の空気は僅かに変わった。
誰かを処刑すれば。
すべてが終わるわけではない。
奪われたものは戻らない。
王国が犯した罪も消えない。
必要なのは、一人の悪人だけへ責任を押しつけることではなく。
なぜそれが起きたのか。
誰が黙認したのか。
何を変えなければならないのか。
すべてを明らかにすること。
「そして」
第一王子が言う。
「深淵と呼ばれてきた存在には」
「真の名がある」
レオンの影が揺れた。
『出る』
ノクスの声が響く。
レオンが小さく眉を動かす。
「今か」
『我の話だ』
「暴れるな」
『暴れぬ』
「本当か?」
『努力する』
リリアは小声で言う。
「大丈夫です」
『リリアがそう言うなら』
「俺の言葉は聞かないのか?」
『日頃の行いだ』
次の瞬間、レオンの影から藍色の光が広がった。
広場に集まった人々が息を呑む。
光は演台の前へ集まり。
巨大な夜色の獣の姿を作る。
公爵邸で見せていた小さな姿ではない。
月蝕の間で現れた。
角を持つ巨大な狼。
身体には無数の星。
黄金色の瞳。
その姿を見た瞬間。
群衆の一部が悲鳴を上げた。
逃げようとする者。
膝をつく者。
武器へ手を伸ばす兵士。
ノクスの瞳が僅かに冷える。
藍色の影が揺らいだ。
「ノクス」
リリアが呼ぶ。
黄金の瞳が彼女へ向く。
「大丈夫です」
『恐れている』
「はい」
『我を討とうとする者もいる』
「はい」
『それでも』
ノクスは人々を見る。
『待つのか』
「少しだけ」
リリアは微笑む。
「待ってあげてください」
長い沈黙。
やがて、ノクスは前脚を折り演台の横へ伏せた。
威圧する姿勢ではない。
自らの大きさを少しでも小さく見せるように。
群衆へ顔を向ける。
『我はノクス』
神の声が。
広場にいる全員の頭へ直接響く。
誰もが息を止めた。
『かつて』
『人は我を夜の神と呼んだ』
『我は人の痛みを受け取り』
『その夜が明けるまで』
『そばにいることを役目とした』
ノクスの身体に浮かぶ星が揺れる。
『だが』
『人は我を鎖へ繋ぎ』
『力を奪い』
『我は怒りと悲しみに沈んだ』
『深淵と呼ばれ』
『人を憎んだ』
群衆の中。
一人の女性が泣き始めた。
北方から救出された者。
黒い水の中で。
ノクスの悲しみへ触れた人なのかもしれない。
『我は』
ノクスが続ける。
『人を許していない』
広場が緊張に包まれる。
『許せぬことを』
『許したとは言わぬ』
『忘れぬ』
『我へしたことも』
『銀狼へしたことも』
『月華へ背負わせたことも』
夜色の尾が静かに動く。
『だが』
黄金の瞳がレオンとリリアを見る。
『我は再び選んだ』
『人を滅ぼさぬことを』
『恐れだけで裁かぬことを』
『この二人と共に』
『もう一度』
『人の夜を見ることを』
その時、群衆の中から小さな子供が出てきた。
母親が慌てて腕を掴もうとする。
しかし、子供は手をすり抜けノクスの前へ歩いていく。
「危ない!」
騎士が動こうとする。
レオンが片手で制した。
子供は震えていた。
怖くないわけではない。
それでも小さな手に何かを持っている。
白い花。
月白花。
公爵邸周辺で咲いているものを。
誰かから分けてもらったのだろう。
「これ」
子供は震える声で言う。
「夜の神様に」
ノクスが目を瞬かせる。
『我に?』
「お母さんを、帰してくれたから」
子供の後ろ。
女性が涙を流している。
黒い水から救出された母親。
まだ腕に包帯を巻いていた。
子供は花を差し出す。
「ありがとう」
ノクスは動かなかった。
何をすればよいのか。
分からないようだった。
リリアが小声で言う。
「受け取ってください」
『どうやって』
「近づけばいいんです」
『我は大きい』
「小さくなれませんか」
ノクスの身体が藍色に光る。
巨大な姿が縮んでいき。
大型犬ほどの大きさになる。
その瞬間、群衆から小さなどよめきが起きた。
子供は少し安心したように笑い。
ノクスの角へ花をかけた。
白い月白花。
夜色の毛並みによく映える。
ノクスは身動き一つしなかった。
『これは』
「贈り物です」
『供物ではないのか』
「違うよ」
子供が言う。
「お礼」
ノクスの黄金の瞳が揺れる。
長い間彼へ差し出されるものは恐怖による供物か。
力を求める取引だけだった。
見返りを求めない贈り物。
ただ、ありがとうと伝えるための花。
『……そうか』
ノクスは静かに答えた。
『受け取る』
子供の母親が頭を下げる。
それをきっかけに。
群衆の中で。
別の誰かが手を叩いた。
一度。
二度。
恐る恐る。
やがて。
拍手は少しずつ広がっていく。
全員ではない。
腕を組み。
険しい顔で見ている者もいる。
背を向ける者も。
恐怖から動けない者もいる。
それでいい。
今すぐ全員に受け入れられる必要はない。
ノクスは拍手の意味が分からないように。
リリアを見る。
「歓迎されているんです」
『我が?』
「はい」
『すべての者ではない』
「最初はそれで十分です」
ノクスは花を揺らしながら。
小さく頷いた。
◇
公表が終わったのは、正午を過ぎた頃だった。
第一王子はその後も。
被害者代表。
貴族。
神官。
記録官からの問いへ答え続けた。
レオンとリリアも。
深淵の内部で何を見たのか。
月華と銀牙に何が起きたのか。
可能な範囲で説明した。
すべてを終え。
王宮の控室へ戻った時。
リリアは椅子へ座り込んだ。
「疲れました……」
「だから休めと言った」
レオンが水を差し出す。
「公表の場で休むわけにはいきません」
「倒れれば公表どころではない」
「倒れていません」
「顔色が悪い」
「緊張しただけです」
リリアは水を受け取り。
ゆっくり飲む。
ノクスは窓辺へ座り。
角につけられた月白花を眺めていた。
『これは枯れるのか』
「花ですから」
『どのくらいで』
「そのままなら数日でしょうか」
ノクスの耳が伏せられる。
「保存しますか」
リリアが尋ねる。
『できるのか』
「乾燥させれば」
「完全に同じ姿では残りませんけど」
『記憶は残るか』
「はい」
「花を見れば」
「今日のことを思い出せます」
ノクスはしばらく考え。
花をリリアへ差し出した。
『頼む』
「大切に乾燥させます」
『我が預けたものだ』
「分かっています」
『薬草と混ぜるな』
「混ぜません」
レオンが言う。
「標本箱を作らせる」
『汝が?』
「花一つで何度も確認される方が面倒だ」
『善意ではないのか』
「結果が同じならいいだろう」
『素直ではない』
「お前に言われたくない」
また始まった。
リリアが止めようとした時。
扉が強く叩かれた。
「失礼いたします!」
王宮医師の声。
第一王子も続いて部屋へ入ってくる。
顔色が変わっていた。
「何があった」
レオンが立ち上がる。
医師は息を整え答える。
「第二王子殿下が」
リリアの手が止まる。
「意識を取り戻されました」
◇
セドリックが治療を受けているのは。
王宮西棟の特別病室だった。
窓には結界。
扉の外には王家直属騎士。
室内の魔術使用を封じる術式も刻まれている。
第一王子。
レオン。
リリア。
マルタ。
ユリウス。
五人が病室へ向かった。
ノクスはレオンの影へ隠れている。
セドリックを見た瞬間。
自分がどう反応するか分からない。
そう言って姿を見せることを拒んだ。
病室の前で第一王子の足が止まる。
扉へ手を伸ばしたまま動かない。
リリアは何も言わなかった。
弟が目覚めた。
喜び。
恐怖。
罪人として向き合わなければならない責任。
どんな状態なのか分からない不安。
すべてが第一王子の背中へ表れている。
やがて彼は扉を開いた。
室内は静かだった。
白い寝台。
窓から差し込む午後の日差し。
セドリックは上半身を起こしていた。
金色の髪は乱れ。
顔は青白い。
両腕には包帯。
首筋から胸元にかけて。
黒い亀裂が残っている。
青い瞳が。
ゆっくりと来訪者たちへ向いた。
「セドリック」
第一王子が名を呼ぶ。
彼は答えなかった。
視線が一人ずつ動く。
第一王子。
ユリウス。
マルタ。
リリア。
そして――レオン。
何も映していないような目。
「殿下」
王宮医師が慎重に尋ねる。
「ご自分のお名前は分かりますか?」
長い沈黙。
セドリックは自分の手を見る。
包帯の巻かれた指。
僅かに動かす。
「……セドリック」
掠れた声。
第一王子の肩が僅かに揺れる。
「セドリック・アルベルト」
王家の名を口にした。
記憶はある。
少なくとも。
自分が誰かは分かっている。
「ここがどこかは」
医師が続ける。
「王宮」
「何がありましたか?」
セドリックは窓へ目を向ける。
日差し。
青い空。
遠くから聞こえる人々の声。
「私は……」
言葉が止まる。
唇が震えた。
「何をした?」
誰も、すぐには答えられなかった。
第一王子が一歩進む。
「どこまで覚えている?」
「兄上」
セドリックの瞳が彼へ向く。
その呼び方に。
第一王子の表情が歪む。
「地下」
セドリックが呟く。
「黒い水」
「鎖」
「深淵」
レオンの影が僅かに揺れた。
「私が」
セドリックの呼吸が速くなる。
「人を沈めた」
「記憶を奪った」
「王都を」
手が震え始める。
「消そうとした」
記憶がある。
断片的ではあるが。
自分が何をしたのか。
理解している。
「夢では」
セドリックはリリアを見る。
「ないのか」
「はい」
リリアは答えた。
優しく偽ることはできない。
「夢ではありません」
セドリックの顔から。
さらに血の気が引く。
「何人死んだ」
第一王子が口を開こうとする。
しかし声が出ない。
ユリウスが静かに答えた。
「現在確認されているだけで、北方と王都を合わせ」
具体的な人数を告げる。
病室の空気が凍る。
セドリックは瞬きもしなかった。
まるで数字の意味を理解するまで。
時間がかかっているようだった。
「私が?」
「あなたの命令によって亡くなった方も含まれます」
ユリウスの声は厳しい。
「白月塔での実験」
「黒鴉会による拉致」
「黒霧災害」
「すべてを含めた暫定の数字です」
セドリックの喉が動く。
「そうか」
それだけ。
あまりにも静かな反応。
第一王子が心配そうに近づく。
「セドリック」
「触るな!」
鋭い声。
第一王子の手が止まる。
「兄上に」
セドリックは顔を伏せる。
「選ばれたことも覚えている」
月蝕の間。
崩壊する術式の中。
第一王子は弟を抱きしめた。
王国より。
王位より。
お前を選ぶと告げた。
「なのに」
セドリックの肩が震える。
「嬉しかった」
絞り出すような声。
「私は……」
「すべてを壊そうとしていたのに」
「兄上に選ばれたことが」
「嬉しかった」
両手で顔を覆う。
「気持ち悪い」
「私は……」
「自分が気持ち悪い」
第一王子の顔が苦痛に歪む。
「セドリック……」
「何人も死なせた」
「家族を奪った」
「人の記憶を」
「玩具のように使った」
「それなのに」
「自分だけ」
声が途切れる。
「自分だけ」
「兄上に愛されて」
「生きたいと思った」
涙が包帯の上へ落ちる。
「そんな資格はない」
第一王子は。
今度こそ弟へ近づいた。
「資格で生きるのではない」
「来るな……」
「生きたいと思ったなら」
「来るな!」
セドリックが枕元の水差しを掴み。
投げつける。
第一王子の足元で割れた。
騎士が動こうとする。
レオンが止める。
セドリックは荒い呼吸を繰り返している。
「私を殺せ!」
誰へ向けた言葉なのか。
レオンを見る。
「銀狼公爵、私を殺せ!」
「断る」
即答だった。
セドリックの顔が歪む。
「私がお前に何をしたか覚えているだろう」
「ああ」
「彼女にも」
視線がリリアへ向く。
「記憶を奪おうとした」
「ああ」
「深淵を」
「ノクスだ」
レオンの声が冷たくなる。
「その名で呼べ」
セドリックは唇を噛む。
「ノクスを利用した」
「ああ」
「なら」
「殺す価値もない」
静かな言葉。
セドリックの瞳が見開かれる。
レオンは寝台へ近づく。
銀色と藍色の瞳で。
かつての敵を見下ろす。
「死ねば」
「お前はそれ以上、何も感じなくて済む。奪った者の名も、残された者の怒りも、裁判も、自分がしたことも、すべてから逃げられる」
「逃げるつもりは」
「死を望んでいる時点で逃げている」
セドリックの顔が引きつる。
レオンは容赦しない。
「生きろ。そしてお前が壊したものを見ろ。戻らないものを知れ。許さない者の言葉を聞け。何年かかろうと自分が何をしたのか忘れるな」
セドリックの瞳に怒りが浮かぶ。
「お前に分かるものか」
「分かる」
レオンの声が低くなる。
「俺も消えたいと思ったことがある」
リリアは彼を見る。
初めて聞く言葉ではない。
それでも。
胸が痛む。
「深淵へ呑まれるくらいなら」
「誰かを傷つける前に」
「自分で終わらせた方がいいと思った」
「だが――」
レオンはリリアへ視線を向ける。
「それを許さない者がいた」
リリアの目が熱くなる。
「勝手に一人で決めるなと。生きろと。隣で言い続けた」
セドリックは第一王子を見る。
兄は割れた水差しの破片を踏まないよう避けながら弟のそばに立っている。
「お前にもいる」
レオンが言う。
「それが救いになるか、苦しみになるかはお前が決めろ」
「だが」
「死んで逃げることは俺が許さない」
セドリックは俯いた。
長い沈黙。
「……憎い」
小さく呟く。
「お前が、リリア・エヴァレットが、ノクスが、兄上が全員憎い!」
「構わない」
第一王子が答える。
「憎んだままでいい。許せなくてもいい。ただ、生きろ」
「勝手だ」
「ああ」
「今さら兄のふりをするな」
「ああ」
「私は……」
セドリックの声が震える。
「お前を殺そうとした」
「分かっている」
「また殺そうとするかもしれない」
「その時は止める」
「牢へ入れられる」
「ああ」
「裁かれる」
「ああ」
「民に石を投げられる」
「私がすべて防ぐとは言わない」
第一王子の声は苦しかった。
「お前の罪だからだ。だが一人にはしない」
セドリックの目から。
また涙が落ちる。
「……なぜ」
「弟だからだ」
「それだけか」
「それだけで十分だ」
セドリックは目を閉じた。
泣いている顔を。
誰にも見られたくないように。
◇
その時。
レオンの影が揺れた。
『我も話す』
ノクスの声。
セドリックの身体が強張る。
「ノクス」
リリアが呼ぶ。
『分かっている』
夜色の光が床へ広がる。
小さな獣の姿で。
ノクスが現れた。
セドリックは目を開ける。
その姿を見た瞬間。
顔が恐怖に染まる。
「来るな」
ノクスは止まった。
『恐れるか』
「当たり前だ」
『我を利用した時は』
『恐れていなかった』
「力だと思っていた」
セドリックの唇が震える。
「意思などないと」
『今も』
ノクスの声が低くなる。
『我を力と思うか』
セドリックは答えられない。
ノクスの黄金の瞳に。
怒りが浮かぶ。
深淵の内部で。
奪われた記憶。
鎖。
名前を忘れた苦しみ。
それらが消えたわけではない。
リリアは動かなかった。
止めもしない。
怒る権利はノクスにある。
『我は』
夜色の毛並みから藍色の炎が滲む。
『汝を許さぬ』
セドリックの顔が青ざめる。
『汝は我の記憶を奪った』
『我の怒りを利用した』
『我を再び鎖へ繋いだ』
『人の痛みを』
『我へ押しつけた』
病室の空気が冷えていく。
『我は』
ノクスの牙が僅かに見える。
『汝を憎んでいる』
第一王子が弟の前へ出ようとする。
しかし、セドリックが腕を伸ばした。
震えながら兄を止める。
ノクスを見ている。
「……そうか」
掠れた声。
「なら……殺せ」
『断る』
セドリックが目を見開く。
ノクスは黄金の瞳で。
彼を真っ直ぐ見つめる。
『汝の死は』
『我の記憶を返さぬ』
『我の痛みを消さぬ』
『死者を戻さぬ』
一歩、ノクスが近づく。
セドリックは逃げない。
『生きろ』
神の声が響く。
『我を憎んだままでも』
『我に怯えたままでも』
『自らの罪と共に』
『生きろ』
「それが……」
セドリックの声が震える。
「お前の復讐か」
『違う』
ノクスは静かに答える。
『我は』
一度、言葉を探す。
『汝に』
『選ばせる』
セドリックの瞳が揺れる。
『我を利用した汝は』
『他者から選択を奪った』
『ゆえに』
『今度は汝自身が選べ』
『罪を見ながら生きるか』
『再び逃げようとするか』
『我は見届ける』
怒りによる裁きではない。
許しでもない。
セドリックへ。
選択を返す。
それがノクスの出した答えだった。
セドリックは長い間。
何も言わなかった。
やがて布団の上で拳を握る。
「私は……」
声が掠れる。
「生きたい……」
第一王子が息を呑む。
セドリック自身も。
口にした言葉へ驚いたようだった。
「生きたくない死にたい消えたい! でも……」
涙が落ちる。
「兄上に、一人にしないと言われた。それを……」
顔が歪む。
「信じたいと思っている。そんな自分が……醜い」
第一王子は首を横に振る。
「生きたいと願うことは罪ではない」
「私には罪だ」
「違う」
「私が生きれば苦しむ者がいる」
「それでも」
第一王子は弟の手を取る。
今度はセドリックも振り払わなかった。
「生きなければ償うこともできない」
長い沈黙。
やがて、セドリックは小さく頷いた。
一度だけ。
「……裁判を」
皆が彼を見る。
「公開で行え」
第一王子の手が強くなる。
「本当にいいのか?」
「隠すな」
セドリックは目を閉じる。
「私がしたことを、何も隠すな」
「分かった」
「それと」
「何だ?」
「被害者の名を」
セドリックの声が震える。
「全員分私へ教えろ」
第一王子はすぐに答えなかった。
それがどれほど重い願いか理解したからだ。
一人一人の名前。
失われた命。
壊された人生。
自分が命令した結果。
「覚える」
セドリックは続ける。
「忘れたくなっても、全員覚える」
ノクスの黄金の瞳が僅かに揺れる。
『名は』
静かな声。
『帰る場所だ』
セドリックが彼を見る。
『死者の名を覚えることは』
『汝の罪を軽くせぬ』
『だが』
『忘れぬことはできる』
セドリックは俯く。
「……ノクス」
初めて、深淵ではなく名を呼んだ。
ノクスの身体が僅かに固まる。
「すまなかった」
病室が静まり返る。
謝罪。
それで許されるはずはない。
セドリック自身も。
分かっている。
ノクスは長い間。
何も答えなかった。
やがて背を向ける。
『許さぬ』
「分かっている」
『だが』
ノクスは影へ戻る直前。
振り返らずに言った。
『名を呼んだことは』
『覚えておく』
藍色の光が消える。
レオンの影へ。
ノクスは戻った。
それは許しではない。
けれど完全な拒絶でもなかった。
◇
病室を出た後。
長い廊下で。
リリアは立ち止まった。
窓の外。
王都の空には、夕暮れが近づいている。
「リリア」
レオンが隣へ来る。
「大丈夫か?」
「はい」
答えたものの。
胸の奥には複雑な感情があった。
セドリックは罪人だ。
許せないことをした。
リリア自身。
記憶を奪われかけ。
レオンを失いかけた。
今でも恐怖は残っている。
それでも、泣きながら生きたいと告げた姿を見て。
何も感じないことはできなかった。
「私は」
リリアは窓の外を見たまま言う。
「甘いのでしょうか?」
「なぜだ」
「セドリック殿下が生きたいと言った時、よかったと思いました」
「殺されずに済んでよかったと」
「それは」
「亡くなった方々へ失礼ではないでしょうか」
レオンはすぐに答えなかった。
しばらく同じ空を見る。
「俺も」
低い声。
「セドリックが生きると言った時、安心した」
リリアが彼を見る。
「許したわけではない」
レオンは続ける。
「憎しみが消えたわけでもない。だが、死ななくてよかったと思った」
「矛盾していますね」
「ああ」
「人の心は」
リリアは小さく笑う。
「一つだけではないんですね。憎みながら生きてほしいと思う。許せなくても、苦しんでいる姿を見れば、手を伸ばしたくなる」
レオンはリリアを見る。
「お前は手を伸ばしすぎる」
「レオン様もですよ」
「俺は違う」
「セドリック殿下へ、生きろと言いました」
「死なせたくなかっただけだ」
「同じです」
レオンは反論しようとした。
しかし、諦めたように息を吐く。
「……そうかもしれない」
その時、第一王子が病室から出てきた。
目元が赤い。
けれど、泣いたことを隠そうとはしていなかった。
「殿下」
リリアが声をかける。
第一王子は二人の前で立ち止まる。
「眠った」
「セドリック殿下が?」
「ああ。ずっと手を握っていろと言われた」
少し困ったように笑う。
「本人は口にしていないが、離そうとすると掴まれた」
幼い頃、一人で眠っていた少年。
本当は誰かの手を求めていたのかもしれない。
「これからが大変ですね」
リリアが言う。
「ああ」
第一王子の顔が王族のものへ戻る。
「裁判」
「被害者への補償」
「王宮改革」
「父上との話し合い」
「王位継承も」
一度目を閉じる。
「今日公表したことで、私を王太子から外せという声も出るだろう。王家の罪を明らかにしすぎたと」
「後悔していますか?」
レオンが尋ねる。
第一王子は目を開く。
「していない」
迷いはなかった。
「王になる資格を失うとしても、真実を再び隠すよりいい。それに……」
病室の扉を見る。
「弟が罪から逃げないと決めた。なら、私も逃げられない」
レオンは静かに頷いた。
「必要なら力を貸します」
第一王子が少し驚く。
「王家を許したのか」
「許していません」
即答。
第一王子は苦笑する。
「そうか」
「だが」
レオンは続ける。
「あなた個人まで王家の過去だけで判断するつもりはない。これからの行動を見ます」
ノクスと同じ。
許さない。
忘れない。
それでも。
これからを見届ける。
第一王子は深く頭を下げた。
「ありがとう」
「礼は結果を出してからにしてください」
「厳しいな」
「当然です」
「ですが」
リリアが微笑む。
「一人で背負わないでくださいね」
第一王子は顔を上げる。
「君まで、そう言うのか」
「皆さん、一人で背負おうとするので」
「一番言われたくない相手だな」
レオンが言う。
「どういう意味ですか」
「そのままの意味だ」
「私は最近きちんと休んでいます」
「昨日、夜中まで薬を調合していた」
「なぜ知っているんですか」
「ミアから報告が来た」
「ミア……」
第一王子が笑った。
三日前、地下で死を覚悟した者たちが今、こうして廊下で言葉を交わしている。
すべてが解決したわけではない。
むしろこれから始まることの方が多い。
それでももう、誰か一人だけへ未来を背負わせる必要はない。
◇
公爵邸へ戻った頃。
空は夕暮れに染まっていた。
リリアは庭園へ向かう。
月白花は。
決戦前よりも数を増やしている。
藍色の転移路が開いた時。
ノクスの力へ反応して。
地中に眠っていた種が一斉に芽吹いたらしい。
白い花の中を歩き。
あの日。
レオンと約束を交わした場所へ立つ。
「何をしている」
背後から声。
レオンが来た。
「確認です」
「何を」
「庭の半分を薬草畑にする場所を」
「半分ではない」
「まだ言いますか」
「三分の一だ」
「減っています」
「庭師が譲らない」
「では四割で」
「交渉するな」
リリアは笑う。
レオンが隣へ立つ。
二人で夕暮れの庭を見る。
「セドリック殿下」
リリアが呟く。
「これからどうなるのでしょう」
「分からない」
「裁判で、最も重い刑になるかもしれない」
「ああ」
「それでも」
「生きると決めた」
レオンは静かに答える。
「なら、最後まで見届けるしかない」
影からノクスが姿を現す。
角にはまだ月白花が飾られている。
『人は』
夜色の神が呟く。
『過ちを犯した後』
『変われるのか』
リリアは少し考えた。
「変われると断言はできません」
『なぜ』
「変わると言いながら、同じことを繰り返す人もいます。罪悪感に耐えられず、また誰かを傷つける人も」
『なら』
「でも」
リリアはノクスを見る。
「変わろうとすることはできます。一度で無理なら何度でも選び直すことも。変わったかどうかは言葉ではなく、その人がこれからどう生きるかで分かります」
ノクスは夕焼けを見上げる。
『我も』
「はい」
『変わろうとしている途中か』
「もちろんです」
『神である我が?』
「神様でもです」
『またそれか』
「大切なことなので」
レオンが口を挟む。
「こいつは最近、厨房の肉を盗まないよう努力している」
『供物だ』
「許可を取るようになっただけ進歩だ」
『料理長が自ら差し出した』
「お前が毎晩、厨房の前へ座っていたからだ」
『祈りを待っていた』
「物欲しそうに見ていたそうだ」
『レオン』
ノクスの毛が逆立つ。
リリアは笑いながら。
二人の間へ入る。
「明日から薬草を植える準備を始めましょう」
「休め」
レオンが言う。
『休め』
ノクスも続く。
「二人とも、そこだけは息が合いますね」
「当然だ」
『当然だ』
また重なる。
夕暮れの庭に。
リリアの笑い声が響いた。
◇
その夜。
王宮西棟。
セドリックは眠りから目を覚ました。
部屋は暗い。
窓の外には。
静かな夜空。
寝台の横。
第一王子が椅子へ座ったまま眠っていた。
手はまだセドリックの手を握っている。
離さないと言った言葉を本当に守っていた。
セドリックは兄の寝顔を見つめる。
幼い頃、何度もこの人が憎かった。
皆に選ばれる兄。
誰からも愛される兄。
自分にないものをすべて持っていると思っていた。
けれど、今の兄の顔は疲れ切っている。
王族でも。
未来の王でもない。
ただ、弟を失いたくないと願った一人の人間。
「……兄上」
小さく呼ぶ。
第一王子は起きない。
セドリックは握られた手を見る。
そして、反対の手で枕元に置かれた紙を取った。
被害者名簿。
まだ暫定。
最初の一枚だけ。
第一王子が用意させたものだった。
そこに多くの名前が並んでいる。
セドリックは一番上の名を読む。
声に出して。
「アレン・モートン」
次。
「シア・レーベン」
次。
「ヨハン・クレイ」
一人。
また一人。
失われた命を。
文字ではなく。
名として覚えるために。
途中で声が震える。
涙が落ち。
紙を濡らす。
それでも読むことをやめなかった。
「エマ・ローディス」
「ハロルド・ヴェイン」
「ミナ・フェル」
夜は長い。
名前は。
あまりにも多い。
すべて読み終えるまで。
何日かかるか分からない。
覚えられるかも。
分からない。
それでもセドリックは次の名を呼んだ。
忘れないために。
逃げないために。
自分が奪った者たちへ。
初めて一人の人間として向き合うために。
窓の外。
深い夜空で。
一つの星が瞬いた。
それは許しの光ではない。
救済でもない。
ただ罪人が初めて歩き始めたことを。
静かに見届ける。
夜の神の瞳だった。
そして、公爵邸の庭園では、リリアとレオンが交わした新しい約束が。
もう一つの星となって同じ夜空へ灯っていた。
誰もがすぐに正しい道を歩けるわけではない。
過ちを犯し。
傷つけ。
失って。
二度と戻らない場所へ立つこともある。
それでも生きている限り、次の一歩を自ら選ぶことはできる。
長い夜の中で一人ずつ名を呼びながら。
セドリックは初めて王になるためではなく、一人の人間として生きる道を選び始めていた。
読んでいただきありがとうございます。
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