第四十九話 夜明けの代償
夜が明けても、公爵邸に静けさは戻らなかった。
庭園には救出された人々が横たわり、芝生の上へ白い布と毛布が敷き詰められていた。
兵士。
研究者。
北方の村人。
黒鴉会に属していた者。
王宮の使用人。
敵も味方も関係なく、意識のある者から順に治療を受けている。
屋敷の使用人たちは湯を沸かし続け、騎士たちは負傷者を運び、ミアは泣きそうな顔をしながら薬品と包帯の間を走り回っていた。
「こちらの方、脈が弱いです!」
「温めてください!」
「黒霧を吸い込んでいます!」
「水を飲ませないで。先に呼吸を整えます!」
リリアは芝生へ膝をつき、一人の少女の胸へ手を当てていた。
北方で行方不明になっていた村人の一人だ。
まだ十歳にも満たない。
冷え切った手。
青ざめた唇。
呼吸は浅い。
だが、胸の奥には確かに命が残っている。
「聞こえますか?」
少女の耳元で呼びかける。
反応はない。
リリアは指先へ月華を灯した。
淡い光が少女の胸へ沈んでいく。
以前のように、身体の中へ無理に入り込み、黒霧を自分へ引き受けることはしない。
黒い力がどこから入り。
どこへ帰ればいいのか。
ただ、その道を照らす。
少女の胸元から、細い黒霧が浮かび上がった。
それは空へ昇らず。
リリアの隣へ漂っていく。
そこに藍色の小さな光が現れた。
ノクスの力。
黒霧は夜色の光へ包まれ、静かに薄れていく。
消えたのではない。
痛みの形を失い。
夜の一部へ戻っていったのだ。
少女の身体が小さく震える。
「……お母、さん」
掠れた声。
リリアは息を吐いた。
「大丈夫です」
少女の手を握る。
「もう帰れますよ」
近くで待っていた女性が泣き崩れた。
「ルナ!」
母親だった。
彼女も救出された一人で、足を負傷しながら娘を探していた。
リリアは場所を譲る。
母親は娘を抱きしめ、何度も名前を呼んだ。
その声を聞きながら。
リリアはゆっくり立ち上がろうとした。
しかし、視界が揺れた。
「リリア様!」
ミアが駆け寄る。
倒れかけた身体を支えたのは、彼女ではなかった。
背後から伸びた腕が、リリアの腰をしっかり抱き止める。
「休め」
低い声。
レオンだった。
彼自身も満身創痍だった。
軍服は裂け。
首筋や腕には黒い痕が残り。
胸の新しい紋章も、時折不安定に明滅している。
それでも、彼は治療を受けようとせず、ずっとリリアの近くにいた。
「まだ治療が必要な方がいます」
「医師と薬師は他にもいる」
「でも月華でなければ」
「今のお前が倒れたら、残りの者も助けられない」
「あと一人だけ」
「さっきもそう言った」
「あと二人でした」
「増えている」
リリアは言葉に詰まる。
レオンは彼女を抱えたまま、ミアへ視線を向けた。
「部屋へ連れていく」
「はい!」
「自分で歩けます」
「信用しない」
「先ほど少し眩暈がしただけです」
「倒れた」
「倒れてはいません」
「俺が受け止めた」
「ですから、倒れる前です」
「同じだ」
レオンは有無を言わせず、リリアの身体を抱き上げた。
「レオン様!」
周囲の騎士や使用人たちの視線が集まる。
リリアの顔が熱くなる。
「下ろしてください!」
「断る」
「皆さんが見ています!」
「見せておけ」
「何をですか!」
「お前が休まないと、こうなるという見本だ」
「そんな見本はいりません!」
レオンは聞く耳を持たなかった。
そのまま屋敷へ向かって歩き始める。
ミアが慌てて後ろをついてきた。
庭園で治療を続けていたマルタは、その姿を見て鼻で笑う。
「ようやく薬師を止める人間ができたね」
「マルタさん!」
抗議したものの。
返ってきたのは愉快そうな笑い声だけだった。
◇
寝室へ運ばれたリリアは、寝台の上へ下ろされた。
「横になれ」
レオンが命じる。
「命令ですか?」
「懇願しても聞かないだろう」
「内容によります」
「休め」
「では聞けません」
「リリア」
低い声。
怒っている。
けれど、瞳の奥にあるのは怒りではなかった。
恐怖。
月蝕の間から戻った直後。
レオンは意識を失ったリリアを見ていた。
今も彼女が力を使うたび、また失うのではないかと怯えている。
「……分かりました」
リリアは大人しく枕へ身体を預けた。
レオンの表情が僅かに緩む。
「最初からそうしろ」
「レオン様も座ってください」
「俺は大丈夫だ」
「信用しません」
「倒れていない」
「先ほど胸を押さえていました」
「契約が馴染んでいないだけだ」
「それを大丈夫ではないと言います」
リリアは寝台の端を叩く。
「座ってください」
レオンは不満そうな顔をしたが、結局従った。
その瞬間、彼の身体が僅かに傾いた。
リリアはすぐに腕を掴む。
「ほら!」
「問題ない」
「今、倒れかけました」
「座ろうとしただけだ」
「私と同じ言い訳ですね」
「違う」
「同じです」
ミアが薬箱を抱えたまま、二人を交互に見る。
「あの……」
「何だ」
レオンが答える。
「お二人とも、患者様です」
部屋が静かになった。
ミアは緊張しながら続ける。
「マルタ様から……どちらかが治療を拒んだ場合、寝台へ縛りつけても構わないと」
レオンが眉を寄せる。
「誰に許可を得た」
「第一王子殿下です」
「なぜ殿下が」
「グレイ様も賛成されました」
「……」
「騎士団長も」
レオンは完全に黙った。
リリアは思わず笑ってしまう。
「味方がいませんね」
「お前も同じだ」
「私は大人しく横になっています」
「さっきまで拒んでいた」
「今は聞き分けのよい患者です」
「なら動くな」
「レオン様もです」
「分かった」
不承不承。
レオンは寝台の脇へ座ったまま、上着を脱いだ。
ミアが胸元の傷を確認する。
そこには新しい紋章が浮かんでいた。
銀の狼。
藍色の月。
そして、その二つを繋ぐ細い金色の線。
以前の黒い亀裂はほとんど消えている。
だが、紋章の周囲は熱を持ち、皮膚が赤く腫れていた。
「痛みますか?」
ミアが尋ねる。
「少し」
「本当ですか?」
「かなり」
リリアが口を挟む。
レオンが見る。
「なぜ分かる」
「顔を見れば」
「表情は変えていない」
「私には分かります」
言い切ると。
レオンは諦めたように目を伏せた。
「……かなり痛む」
「最初から正直に言ってください」
「心配させる」
「隠される方が心配します」
「分かった」
その返事は以前なら考えられないほど素直だった。
ミアは少しだけ笑いながら、薬を塗り始める。
◇
治療を終えた後。
リリアはレオンの手を取った。
「ノクス」
小さく呼びかける。
すぐには返事がなかった。
胸の紋章へ月華を触れさせる。
すると、部屋の隅に藍色の光が集まった。
狼に似た小さな影が姿を現す。
月蝕の間で見た巨大な夜の獣ではない。
大型犬ほどの大きさ。
全身に星空を宿し。
額には小さな金色の角がある。
黄金の瞳が眠そうに細められていた。
『呼んだか』
ミアが固まる。
手にしていた薬瓶を落としかけた。
「ノ、ノクス様……?」
夜色の獣がミアを見る。
『我を知るのか』
「先ほど、お話を聞きました」
『様は不要だ』
ミアは困ったようにリリアを見る。
「では、何とお呼びすれば?」
「ノクスでいいそうです」
『我は神だ』
「先ほど様はいらないと」
『敬意は必要だ』
「難しいですね」
リリアが苦笑する。
ノクスは不満そうに鼻を鳴らした。
レオンは胸を押さえながら問う。
「この痛みは何だ」
ノクスの耳が僅かに伏せられる。
『契約が安定していない』
「いつ治る?」
『分からぬ』
「分からないんですか」
リリアが驚く。
『我は人と対等な契約を結んだことがない』
「初代銀狼公とは?」
『あれは封印だ』
ノクスの声が低くなる。
『互いの意思を尊重したものではない』
『我は鎖で繋がれ』
『彼は器となった』
『どちらも選べなかった』
一瞬、部屋の空気が重くなる。
ノクスの黄金の瞳に。
過去の痛みが浮かんだ。
リリアは手を伸ばす。
触れていいか迷ったが。
夜色の毛並みへ、そっと指先を乗せた。
柔らかい。
少し冷たい。
ノクスの身体が固まる。
『何をしている』
「撫でています」
『なぜ』
「苦しそうでしたから」
『我は神だ』
「神様も苦しい時は、助けを求めていいんです」
以前と同じ言葉。
ノクスはしばらく黙っていた。
やがて、ほんの少しだけ、リリアの手へ頭を預ける。
『少しだけだ』
レオンがそれを見て眉を寄せた。
「随分懐いたな」
『懐いていない』
「頭を預けている」
『これは契約の確認だ』
「俺にはしないのか」
『必要ない』
「なぜだ」
『汝は硬い』
リリアは吹き出した。
レオンが不満そうにノクスを見る。
「神にしては随分失礼だな」
『我は事実を言った』
「レオン様も撫でてみますか」
「いらない」
『我も断る』
「仲がいいですね」
「どこがだ」
『どこがだ』
声が重なる。
リリアとミアは顔を見合わせ。
同時に笑った。
◇
しかし、穏やかな時間は長く続かなかった。
扉が叩かれる。
「閣下」
グレイの声。
レオンが表情を戻す。
「入れ」
扉が開く。
グレイの後ろにはユリウスがいた。
二人とも疲労の色が濃い。
「第一王子殿下より、緊急会議の要請です」
「何があった」
「王宮地下の崩落は止まりました」
ユリウスが答える。
「ただし、地下魔力路の一部が地上へ露出しました」
「黒霧は?」
リリアが尋ねる。
「ほとんど消えています。深淵の核が失われたことで、これまで蓄積されていた黒霧も力を維持できなくなったようです」
「では……」
「しかし、別の問題が起きています」
ユリウスは窓の外へ視線を向けた。
「王都中で夜空のような光が目撃されています」
リリアたちは顔を見合わせる。
ノクスの藍色の光。
月蝕の間から公爵邸へ作った転移路。
それは王宮だけでなく、王都全体から見えていたらしい。
「市民の間では」
グレイが続ける。
「銀狼公爵が深淵を支配した」
「新たな魔王が誕生した」
「月華の聖女が神を降ろした」
「様々な噂が流れております」
レオンの顔が険しくなる。
「早いな」
「夜明けから数時間しか経っていません」
「人の口は術式より速いものです」
ユリウスが苦笑する。
「さらに」
その表情が重くなる。
「王宮側から、すでに公式発表を求める声が出ています」
「誰が」
「宰相派と一部の大貴族です」
「王宮地下が崩落し、第二王子殿下が重傷。第一王子殿下は公爵邸に滞在。銀狼公爵は未知の力を得た。これらを隠し続けることは困難です」
リリアはノクスを見る。
彼は静かに座っている。
だが、耳が少し伏せられていた。
『また』
低い声。
『人は我を恐れるか』
リリアはすぐに答えられなかった。
恐れるだろう。
深淵として何百年も伝えられてきた存在。
王国を滅ぼす災厄。
その正体が神だったと語っても。
誰もが信じるとは限らない。
「恐れる者はいると思います」
正直に答える。
ノクスの瞳が僅かに揺れる。
「でも」
リリアは続けた。
「名前を知ろうとする人もいます。何があったのか? なぜ深淵になったのか? 話を聞こうとする人も」
『もし』
ノクスの声が冷たくなる。
『再び我を鎖で繋ごうとするなら』
部屋の温度が下がった。
レオンの胸の紋章が光る。
藍色の影が壁へ広がる。
グレイとユリウスが身構えた。
「ノクス」
レオンが低く呼ぶ。
『何だ』
「俺を見ろ」
黄金の瞳がレオンへ向く。
「契約を忘れるな、お前は一人ではない。鎖で繋がれそうになれば、俺たちが止める」
『だが』
「その代わり」
レオンは静かに続ける。
「お前も、勝手に人を裁くな」
長い沈黙。
ノクスの星空が揺れる。
『我を傷つける者でもか』
「守る必要はない。だが、恐れただけの者まで敵にするな」
『難しい』
「だから練習するんだろう」
以前リリアが言った言葉。
ノクスは目を細める。
やがて広がっていた夜色の影が、ゆっくり消えた。
『分かった』
「本当に?」
リリアが尋ねる。
『努力する』
「十分です」
「甘い」
レオンが言う。
「最初から完璧を求めないでください」
「相手は神だ」
「神様でもです」
ノクスが鼻を鳴らす。
『リリアの方が分かっている』
「誰と契約したと思っている」
『後悔している』
「今すぐ解約してもいい」
『断る』
「なぜだ」
『帰る場所を得たばかりだ』
その言葉にレオンは黙った。
リリアの胸も熱くなる。
ノクスにとってレオンの中は、もう器ではない。
帰る場所。
初めて自ら選んだ場所なのだ。
「では」
ユリウスが静かに口を開く。
「なおさら、王国へ真実を伝える必要があります」
◇
会議は公爵邸の応接室で行われた。
第一王子。
レオン。
リリア。
ユリウス。
マルタ。
グレイ。
王宮から避難してきた数名の高官。
そして――ノクス。
ただし、彼は人前へ姿を現すことを拒んだため、レオンの影の中に潜んでいる。
窓の外では今も救護が続いていた。
第一王子の顔には疲労が刻まれている。
衣服も着替えていない。
袖には弟の血が残っていた。
「セドリック殿下の容態は」
リリアが尋ねる。
「命は取り留めた」
第一王子が答える。
「意識はまだ戻らない」
「黒霧の侵食は?」
「身体の半分近くに残っている。マルタ殿と宮廷医師が診ているが……」
マルタが腕を組む。
「黒霧だけなら何とかなる。厄介なのは術式との融合だ。セドリックの魔力回路が、王宮地下の術式と繋がったままになってる」
「切り離したのでは?」
ユリウスが問う。
「大部分はね。でも完全じゃない。下手に全部外せば、本人の魔力回路も壊れる」
「目覚める可能性は?」
第一王子の声が僅かに震えた。
マルタは彼を見る。
「ある。だが以前と同じ状態では戻らないかもしれない」
「記憶ですか」
リリアが問う。
「ああ」
マルタは重く頷いた。
「人から奪った記憶は返された。でも本人の記憶も、術式の中で随分傷ついてる。目を覚ましても、王子だったこと、黒鴉会を作ったこと、兄を憎んだこと、何を覚えているかは分からない」
第一王子は目を伏せた。
誰も言葉をかけられなかった。
セドリックが犯した罪は消えない。
多くの者を傷つけ。
命を奪い。
人々の記憶を道具にした。
たとえ記憶を失っても。
罪がなかったことにはならない。
「処遇は」
高官の一人が尋ねる。
「意識が戻り次第、王族会議と王国裁判へ」
第一王子が答える。
「ただし、治療を最優先する」
高官たちがざわめく。
「殿下」
「第二王子は反逆者です」
「王宮を破壊し」
「民を供物にした」
「即刻処刑すべきでは」
「生きて裁きを受けさせる」
第一王子の声は静かだった。
だが、揺るがなかった。
「死なせて終わらせることはしない」
「それは弟君だからでは?」
鋭い問い。
第一王子は少しだけ黙った。
「弟だから、救いたいと思っている」
正直に答える。
「だが、王族だから罪を軽くするつもりはない。記憶を失っても、身体が壊れても、セドリックが生きる限り犯したことと向き合わせる」
リリアは第一王子を見る。
あの月蝕の間で。
彼は王国より弟を選ぶと言った。
けれど今、王になる者として。
弟を守るだけではなく、罪を背負わせようとしている。
それもまた一つの愛なのかもしれない。
「次に」
第一王子はレオンへ視線を向けた。
「深淵についてだ」
室内の空気が変わる。
「正確には」
リリアが言う。
「夜の神ノクスです」
高官たちの表情が揺れる。
一人が恐る恐る問う。
「本当に、神なのですか?」
レオンの影が動いた。
藍色の光。
小さな夜色の獣が姿を現す。
高官たちは一斉に椅子から立ち上がった。
ある者は剣へ手を伸ばし。
ある者は祈りの印を結び。
ある者は後退した。
ノクスの黄金の瞳が冷える。
『恐れるか』
声が直接、全員の頭へ響く。
一人の高官が顔を青ざめさせる。
「深淵……」
『その名で呼ぶな』
夜色の影が広がりかける。
リリアはすぐにノクスの前へしゃがんだ。
「ノクス」
『我は』
「怖がる時間をあげてください」
『なぜ』
「私たちは、あなたが誰か知っています」
「でも皆さんは今、初めて会いました」
『名を告げた』
「名前だけでは分からないこともあります」
ノクスは不満そうに高官たちを見る。
レオンが付け加える。
「お前も俺たちを最初から信じたわけではないだろう」
『……』
「同じだ」
しばらくノクスは黙っていた。
やがて広がりかけた影を収める。
『我はノクス』
重い声。
『かつて夜を司り』
『人の痛みを受け取った神』
『人に鎖で繋がれ』
『深淵と呼ばれた者』
高官たちは息を呑む。
『我は人を許していない』
緊張が走る。
『だが』
ノクスはリリアとレオンを見る。
『人を滅ぼすことも選ばぬ』
『我は』
僅かに言葉を探す。
『この二人と共に』
『もう一度、人を見る』
それは神が人へ与えた猶予ではない。
ノクス自身が再び世界へ関わることを選んだ言葉だった。
第一王子が椅子から立ち上がる。
そしてノクスへ頭を下げた。
「王家を代表し、あなたへ謝罪する」
高官たちが驚く。
「殿下!」
「建国以来」
第一王子は続ける。
「王家は銀狼公爵家へ封印の役割を負わせ、あなたを災厄として扱い、真実を隠し続けた。過去の罪を、今の私一人が償えるとは思わない。あなたが許さないことも理解している。それでも」
深く頭を下げる。
「王国は、あなたを再び鎖で繋がないと誓う」
ノクスは第一王子を見つめた。
『王の言葉は』
『何度も我を裏切った』
「ならば」
第一王子は顔を上げる。
「言葉ではなく、行動で示す。深淵に関する記録を公開する。銀狼公爵家へ課されてきた役目を廃止する。王家が隠した人体実験も、白月塔の真実もすべて」
高官たちがざわめく。
「殿下、それでは王家の権威が!」
「権威を守るために」
第一王子は彼らを見る。
「再び真実を埋めるのか?」
誰も答えられない。
「それこそ何百年も繰り返してきた過ちだ」
ノクスの黄金の瞳が僅かに細められる。
『見届ける』
「はい」
『裏切れば』
藍色の炎が一瞬だけ揺れる。
『我は怒る』
高官たちが震える。
第一王子は頷いた。
「当然だ」
「ですが」
リリアが口を挟む。
「怒る前に、話してくださいね」
『なぜ今それを言う』
「大切だからです」
『我は神だ』
「神様も話し合いが必要です」
ノクスは深く息を吐いた。
獣の姿で。
『面倒だ』
しかしその影から殺気は消えていた。
◇
会議が終わった頃。
すでに空は完全に明るくなっていた。
リリアはレオンと共に庭園へ戻る。
治療は続いている。
だが夜明け直後の混乱は、少しずつ落ち着き始めていた。
意識を取り戻した者。
家族と再会した者。
失った記憶を確かめるように泣く者。
記憶が完全には戻らず。
名前すら思い出せない者もいる。
すべてが救われたわけではない。
完全に元へ戻ったわけでもない。
「代償は残りましたね」
リリアが呟く。
「ああ」
レオンが隣で答える。
「皆さんを助けられたと思っていました」
「助かった者は多い」
「でも」
「全部は戻らない」
レオンは淡々と言う。
残酷なほど正直に。
けれど,その手はリリアの手を握っていた。
「俺たちも同じだ」
「え?」
「深淵を救った,黒霧を止めた。だが」
胸の紋章へ手を触れる。
「契約の影響は分からない。お前の月華も記憶を失う代償が完全に消えたわけではない」
リリアは自分の指先を見る。
今も月華は灯る。
以前より穏やかに。
だが力を使うたび心の奥から何かが僅かに抜け落ちる感覚は残っている。
今回何かを忘れてはいないだろうか。
父の顔。
母の声。
故郷の薬房。
ミア。
マルタ。
グレイ。
レオン。
一つずつ確かめる。
すべて覚えている。
そう思った時。
胸に小さな違和感が生まれた。
「……あれ」
レオンがすぐに気づく。
「どうした」
「思い出せないことがあります」
彼の顔が強張る。
「何だ?」
リリアは目を閉じる。
決戦の前。
何か約束をした。
庭園で。
月白花を見ながら。
レオンと話した。
花を増やす。
薬草を植える。
それは覚えている。
だが、その前。
レオンが何か言った。
自分も答えた。
大切な言葉。
「何を忘れた」
レオンの声が低くなる。
リリアは記憶を辿る。
庭の花。
夜風。
繋いだ手。
彼の声。
『帰ってきたら』
その続き。
「……」
出てこない。
胸が冷える。
また……失った。
「リリア」
レオンが両肩を掴む。
「俺を見ろ」
銀色と藍色の瞳。
「何を思い出せない?」
「昨夜」
声が震える。
「庭園で交わした約束です」
「花を増やす」
「それは覚えています」
「薬草も植える」
「はい」
「半分ではない」
「半分です」
そこまで言って。
二人は一瞬黙る。
レオンの表情が僅かに緩んだ。
「覚えているじゃないか」
「違います」
リリアは首を振る。
「その前です」
「何か……もっと大切なことを言われた気がして」
レオンは彼女を見つめた。
そして静かに尋ねる。
「離れないと言ったことか?」
胸が鳴る。
その言葉が。
空白へ落ちる。
しかし記憶は戻らない。
「……言ったんですか?」
「ああ」
「私が?」
「お前が、離れないでくれと言った」
「俺は離れないと答えた」
リリアの目に涙が滲む。
覚えていない。
そんな大切な瞬間を。
「ごめんなさい」
「謝るな」
「でも」
「俺が覚えている」
レオンはリリアの頬へ触れる。
「だからいい」
「よくありません」
「なら」
少しだけ屈み。
額を重ねる。
「もう一度言う」
近い。
銀色の瞳。
声。
温度。
今度こそ。
忘れないように。
心へ刻みつける。
「離れない」
レオンはゆっくり言った。
「何があっても、お前が忘れても、俺が覚えている」
涙が頬を伝う。
「レオン様が忘れたら」
「お前が覚えていろ」
「二人とも忘れたら」
一瞬、レオンは考えた。
その背後、影の中からノクスが顔を出す。
『我が覚える』
リリアは目を見開く。
ノクスは当然のように続ける。
『契約した者の記憶は』
『我の夜にも残る』
レオンが彼を見る。
「本当か」
『すべてではない』
『だが』
黄金の瞳が二人を映す。
『強く結ばれた記憶は星となる』
『夜へ刻まれる』
リリアは息を呑んだ。
「では」
「失った記憶も?」
『消えてはいない可能性がある』
『月華は記憶を破壊するのではなく』
『光へ変え』
『どこかへ帰している』
「帰る場所……」
月華は。
帰る場所を教える光。
記憶もまた。
完全に消えるのではなく。
どこかへ帰っているのかもしれない。
「探せますか?」
『今は無理だ』
希望が生まれた直後。
ノクスは容赦なく答えた。
『我も力を失っている』
『レオンとの契約も不安定だ』
『だが』
夜色の尾が静かに揺れる。
『道があるなら』
『いつか辿れる』
リリアは胸へ手を当てる。
失われた記憶。
恋に落ちた瞬間。
母の声。
これから失うかもしれないもの。
すべてが戻るとは限らない。
けれど、どこかに残っているのなら。
探すことができる。
「また新しい目標ができましたね」
リリアが笑う。
レオンは小さく息を吐く。
「休む目標を先にしろ」
「両方です」
「一つにしろ」
「嫌です」
『面倒だ』
ノクスが呟く。
リリアは彼を見る。
「一緒に探してくださるんですよね」
『契約したからな』
「ありがとうございます」
『礼は』
ノクスは言葉を止める。
レオンが眉を上げる。
「どうした」
『何でもない』
「礼は何だ」
『不要だ』
「今、何か求めようとしたな」
『していない』
リリアはノクスの視線の先を見る。
そこには――月白花。
朝露を乗せて揺れている。
「もしかして」
一本摘み。
ノクスの前へ差し出す。
「これが欲しいんですか」
『花など不要だ』
「では戻します」
『待て』
即答だった。
レオンが笑いを堪えるように顔を逸らす。
ノクスは不満そうに黄金の瞳を細める。
『契約の確認に必要だ』
「花が?」
『必要だ』
「ではどうぞ」
リリアが花を差し出す。
ノクスは口で受け取らず。
額の金色の角へ触れさせた。
月白花は藍色の光に包まれ。
夜色の獣の耳元へ飾られる。
白い花。
星空の毛並み。
思いのほか似合っていた。
「可愛いですね」
『取り消せ』
「よく似合っています」
『我は夜の神だ』
「可愛い夜の神ですね」
『レオン』
「俺を見るな」
『止めろ』
「無理だ」
レオンはついに小さく笑った。
ノクスの尾が不満そうに地面を叩く。
その光景を見て、リリアも笑った。
◇
遠く。
王宮の鐘が鳴る。
一度。
二度。
崩落で壊れた鐘楼ではない。
王都へ緊急事態の終息を知らせる、小さな鐘。
庭園にいた人々が空を見上げる。
朝の光。
欠け終わった月は、薄い影となって消えようとしている。
長い夜は終わった。
けれど夜がなくなったわけではない。
ノクスはレオンの影へ戻り。
月華の代償も残り。
セドリックはまだ目覚めない。
王国はこれから隠されてきた真実と向き合わなければならない。
リリアはレオンの隣へ立つ。
手を繋ぐ。
「これから大変ですね」
「ああ」
「王国への説明」
「ああ」
「救出された方々の治療」
「ああ」
「ノクスとの契約の研究」
「お前は休め」
「それも含めてです」
「含まれていない」
「含めます」
レオンは呆れたように息を吐く。
それでも手は離さなかった。
「リリア」
「はい」
「失った約束を」
彼は空を見ながら言った。
「また一つずつ作ればいい」
胸が温かくなる。
「はい」
「忘れたら」
「また作ります」
「何度でも」
「はい」
リリアは彼の肩へ頭を預けた。
レオンの背後、見えない夜の中でノクスが静かに目を閉じる。
三人の記憶が夜空へ小さな星となって灯った。
それはまだ誰にも見えないほど淡い光。
けれどたとえ記憶が失われても、名前を呼ぶ者がいる限り、帰る場所は消えない。
そう告げるように。
朝の空の片隅で。
一つの星が。
最後まで光り続けていた。
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