第四十八話 夜明けを選ぶ者たち
爆発は、音より先に光として訪れた。
赤。
黒。
そして、深淵の底を思わせる藍色。
三つの光が月蝕の間を呑み込み、天井も、祭壇も、黒い水面も、一瞬で見えなくなる。
「リリア!」
レオンの声。
次の瞬間、強い腕がリリアの身体を抱き寄せた。
背中へ回された腕。
胸元へ押しつけられる頬。
レオンの鼓動が、激しく響いている。
リリアは反射的に彼の軍服を掴んだ。
「レオン様!」
「俺から離れるな!」
「はい!」
爆風が二人を襲う。
熱ではない。
凍えるほど冷たい衝撃だった。
黒霧と深淵の残滓が、無数の刃となって広間を駆け抜けていく。
レオンの背後に、巨大な銀狼の影が現れた。
その輪郭を縁取るのは、夜空のような藍色の光。
ノクスの力。
銀狼は二人を覆うように身を伏せ、黒い刃を受け止める。
だが衝撃はそれだけでは終わらなかった。
床に刻まれた赤い魔法陣が次々と砕け、割れ目から黒い炎が噴き上がる。
円形の祭壇が大きく傾いた。
水中へ沈められていた人々の身体が、崩壊する術式へ引き込まれていく。
「人が沈んでいます!」
リリアが叫ぶ。
「先に防壁を!」
レオンは銀狼を維持したまま、剣を床へ突き立てた。
藍色の光が波紋のように広がる。
傾いた祭壇の縁で踏みとどまっていた第一王子も、剣を掲げた。
「全員、中央へ集まれ! 負傷者を優先しろ!」
直属騎士たちが黒い水へ飛び込み、意識を失った者を抱え上げる。
ユリウスは両手を床へ当て、崩落を防ぐ術式を展開していた。
「長くは持ちません!」
「地下全体の支柱が崩れています!」
「出口は!」
第一王子が叫ぶ。
「来た道は塞がれました!」
「転移術式も黒霧に乱されています!」
マルタが黒い水の中から一人の研究者を引き上げ、舌打ちする。
「逃げ道を探してる場合じゃないよ! こいつらを術式から切り離さなきゃ、崩壊に巻き込まれて魂ごと消える!」
黒い管。
水中の人々と核を繋いでいたそれは、核が砕けた今も残っていた。
むしろ行き場を失った力を吸い上げ、人々の身体を黒い水の底へ引きずり込んでいる。
「全部、切れますか?」
リリアが問う。
マルタは顔を歪めた。
「物理的には無理だ! 数が多すぎる!」
「月華なら?」
「一人で使えば、あんたの記憶が全部消える!」
マルタの声が怒鳴るように響く。
「分かってるだろう!」
リリアは唇を噛んだ。
目の前には、数え切れないほどの人々がいる。
このままでは助からない。
だが月華を最大まで使えば、これまで失わずに済んだ記憶まで、代償として奪われるかもしれない。
父と母の顔。
薬師として過ごした日々。
ミア。
グレイ。
マルタ。
そして――レオン。
怖い。
忘れたくない。
何一つ。
「リリア」
レオンが彼女の名を呼ぶ。
リリアは顔を上げた。
「俺を見ろ」
銀色と藍色が混ざった瞳。
深淵の呪いに苦しんでいた頃とは違う。
静かな夜の光を宿している。
「一人でやるな」
「ですが」
「俺たちの力は、もう二つではない」
レオンはリリアの手を取った。
触れ合った手の間に、淡い月光が生まれる。
その周囲へ銀色の輝きが重なり。
さらに藍色の光が巡った。
月華。
銀牙。
そしてノクス。
「ノクスの力を使うのですか?」
「ああ」
「でも、契約したばかりです」
「だからこそ、確かめる」
レオンは胸へ手を当てる。
「俺が器ではなく、ノクスが主でもなく、共に夜を歩く者なら力を押しつけ合うのではなく、分け合えるはずだ」
リリアは手の中の光を見る。
以前の共鳴とは違う。
月華がレオンを癒やすために流れているのではない。
銀牙がリリアを守るためだけに広がっているのでもない。
三つの力が円を描き。
互いの足りない部分を補っている。
「人々の記憶を、私が受け取るのではなく」
リリアは気づく。
「帰る道だけを照らす」
「ああ」
「そして黒い管は俺とノクスが断つ」
レオンの背後で銀狼が顔を上げる。
その隣に巨大な夜色の獣が現れた。
狼に似ている。
だが角を持ち身体には星空が広がっている。
ノクスの本来の姿の一部。
黄金色の瞳がリリアを見る。
『リリア』
頭の中へ声が響いた。
「ノクス」
『汝の光は』
『奪うためのものではない』
「はい」
『我の夜も』
『呑み込むためのものではない』
ノクスの声にほんの僅かだが迷いがあった。
何百年もの間彼は痛みを受け取り続けた。
最後には、それをすべて抱えたまま深淵へ堕ちた。
力の使い方を変えることは神である彼にとっても、容易ではないのだろう。
リリアは微笑んだ。
「一緒に練習しましょう」
ノクスの黄金の瞳が瞬く。
『練習』
「最初から上手にできる人はいません」
『我は神だ』
「神様でもです」
隣でレオンが小さく息を漏らした。
笑ったのだ。
この状況で。
ノクスは不満そうに目を細める。
『面倒な月華だ』
「レオン様にも言われました」
「事実だ」
「今は味方をしてください」
「ああ」
三人の力が重なる。
◇
リリアは両手を広げた。
月華の光が、黒い水面へ静かに降り注ぐ。
強くはない。
目を焼くほど眩しくもない。
夜道を照らす、小さな月明かり。
一人一人の胸に触れ。
失われかけた記憶へ、帰る道を示していく。
「あなたの記憶は、あなたのものです」
リリアは語りかけた。
「怖かったことも、悲しかったことも、嬉しかったことも、誰かに奪われていいものではありません」
水中に沈む人々の周囲へ、光景が浮かぶ。
幼い子を抱く母。
老夫婦が並んで歩く道。
雪の北方で囲んだ食卓。
研究室で仲間と交わした笑顔。
騎士が初めて剣を受け取った日。
黒鴉会へ入る前。
ただ家族の薬代を稼ぎたかった青年。
悪人と呼ばれた者にも。
罪を犯した者にも。
そこへ至るまでの記憶がある。
それを正当化することはできない。
だが、奪っていい理由にもならない。
「帰ってください」
リリアの声が月蝕の間へ広がる。
「あなた自身の中へ」
同時にレオンが剣を振るった。
銀色と藍色の斬撃。
水中へ伸びていた黒い管が、次々と断ち切られていく。
しかし、切られた管は生き物のように蠢き、再び人々へ絡みつこうとした。
『我が引き受ける』
ノクスの声。
夜色の獣が大きく口を開く。
黒い管から漏れ出した痛みや憎しみが、藍色の光となって吸い込まれていく。
「待ってください!」
リリアが叫ぶ。
ノクスの動きが止まる。
「全部、一人で受け取らないでください」
『だが』
「それでは前と同じです」
『この痛みを放置すれば』
「放置しません」
リリアは自分の胸へ手を当てる。
「私たちにも分けてください」
レオンも頷いた。
「俺にも寄越せ」
『人の身では耐えられぬ』
「全部を一度に寄越せとは言っていない」
レオンは剣を支えながら言う。
「耐えられるだけだ残りは……」
リリアが続ける。
「この人たち自身へ返します。痛みは、消すだけが救いではありません。誰かと分けたり、時間をかけて癒やしたり、それぞれが向き合うものです」
ノクスは沈黙した。
やがて吸い込んでいた藍色の光を、細い糸へ変える。
一本はレオンへ。
一本はリリアへ。
残りは人々の胸元へ。
痛みが流れ込む。
リリアの身体が震えた。
知らない者の恐怖。
暗い実験室。
何度も黒霧を注入された苦痛。
家族の名を忘れていく絶望。
涙が溢れる。
それでも――心が壊れるほどではない。
隣にはレオンがいる。
彼も苦痛に顔を歪めながら、立っている。
「大丈夫ですか?」
「お前こそ」
「大丈夫ではありません」
「俺もだ」
「でも」
「ああ」
二人は手を握り直す。
「耐えられる」
◇
黒い管が半分以上切れた頃。
祭壇の中央から声がした。
「やめろ……」
セドリック。
彼は赤く染まった魔法陣の中心で、膝をついていた。
全身に黒い亀裂が走っている。
最後の起爆核を握り潰したことで。
崩壊する術式の反動が、彼自身へ流れ込んでいた。
「それは……私の力だ」
誰も答えない。
「私が集めた、私が作った、私が……」
第一王子が弟へ向かって歩き出す。
床は崩れ。
黒い炎が噴き上がっている。
それでも、一歩ずつ。
「来るな」
セドリックが顔を上げる。
「兄上」
「来るな!」
黒い刃が放たれる。
第一王子は剣で弾いた。
手の甲が切れ、血が落ちる。
それでも足を止めない。
「セドリック」
「その名で呼ぶな!」
「お前はセドリックだ」
「違う!」
「私を捨てた者が!」
セドリックの顔が歪む。
「今さら兄の顔をするな!」
第一王子の足が止まった。
「……捨てた?」
「覚えていないだろう」
セドリックは笑う。
涙の跡が残る頬で。
「いつもそうだ。父上も、母上も、臣下も皆、兄上しか見ていなかった。私は王子でありながら誰にも必要とされなかった」
第一王子は何も言えなかった。
否定できない。
彼自身が意図していなくても。
弟がそう感じていたことは事実なのだ。
「だから力を求めたのか」
「力があれば、誰も私を無視できない。恐れれば、誰も離れない。命令すれば、誰も拒まない」
「それは……」
第一王子の声が震える。
「一人ではないと言えるのか?」
セドリックの表情が止まる。
「恐れて従う者は、お前を見ていない。王子という地位を、黒霧の力を、逆らえば殺される未来を見ているだけだ」
「黙れ」
「お前が欲しかったのは」
第一王子はさらに一歩近づく。
「王座ではなかったはずだ」
「黙れ!」
「誰かにセドリックと呼ばれることだったんじゃないのか?」
黒い炎が揺らぐ。
セドリックの青い瞳が震えた。
ほんの僅かに幼い少年の表情が浮かぶ。
だがすぐに憎悪が覆い隠した。
「今さら遅い」
彼は赤い魔法陣へ手を触れる。
「もう止められない。術式は王宮地下の全魔力路と繋がった。ここが崩れれば」
笑みが歪む。
「王宮も、王都もすべて沈む」
ユリウスが顔を青ざめさせる。
「殿下! 地上の結界柱へ崩壊が伝播しています!」
「どれほど持つ?」
「数分もありません!」
第一王子はセドリックへ手を伸ばす。
「止め方を言え」
「ない」
「嘘をつくな」
「本当にない」
セドリックは静かに笑う。
「私が死ねば止まるかもしれない。だが、術式は私の命と深淵の核を繋いでいる。今の深淵はもう存在しない。つまり――」
マルタが呟く。
「代わりに術式が、セドリック本人を核にし始めてる」
セドリックの身体から黒い根が伸びていた。
床へ。
壁へ。
王宮地下の魔力路へ。
彼はもはや術式を動かしているのではない。
術式そのものへ変わり始めている。
「切り離せますか?」
リリアが問う。
マルタは首を横に振る。
「普通なら無理だ。本人の心が術式を拒まなきゃね」
全員の視線がセドリックへ向く。
「拒む?」
第一王子が問う。
「最後の核は、こいつの意思だ」
マルタは厳しい声で言った。
「すべて消えろって願いが、術式を動かしてる。なら本人が生きたいと思わなきゃ止まらない」
セドリックが笑う。
「無駄だ。私は生きたいなどと思わない。誰も私を選ばない世界に残る価値などない」
第一王子の顔が歪んだ。
そして彼は剣を捨てた。
金属音が広間へ響く。
「殿下!」
直属騎士が叫ぶ。
第一王子は武器を持たないまま、赤い魔法陣へ足を踏み入れた。
黒い炎が衣服を焼く。
腕へ亀裂が走る。
それでも弟の前へ進む。
「何をしている」
セドリックが後退しようとする。
しかし黒い根に繋がれ、動けない。
「来るな」
「セドリック」
「来るな!」
「私はお前を選ぶ」
その言葉に。
月蝕の間が静まり返った。
セドリックの瞳が大きく見開かれる。
「……何を」
「王子だからではない! 術式を止めるためだけでもない!」
第一王子は弟の前へ膝をついた。
「お前が私の弟だからだ」
「嘘だ」
「嘘ではない」
「なら、なぜ……」
セドリックの声が幼くなる。
「なぜ、あの時私を見なかった!」
第一王子は目を伏せた。
「気づかなかった」
「兄上はいつもそうだ!」
「ああ」
「私が何をしても!」
「ああ」
「誰より優れようとしても!」
「分かっている」
「分かっていない!」
セドリックが第一王子の胸を殴った。
弱い拳。
黒い亀裂に侵され。
力もほとんど残っていない。
「何も分かっていない!」
「お前が苦しんでいたことに、私は気づかなかった」
第一王子は弟の腕を掴まない。
ただ、殴られるままにしている。
「謝って済むとは思っていない。許してくれとも言わない」
「なら何をしに来た!」
「お前と生きるためだ」
セドリックの拳が止まる。
第一王子は手を伸ばした。
幼い弟へそうするはずだったように。
その身体を抱きしめる。
「離せ」
「離さない」
「気持ち悪い」
「そうか」
「憎い」
「ああ」
「兄上など死ねばいい」
「それでもいい」
第一王子の声が震えた。
「だが、お前は生きろ」
セドリックの顔が歪む。
怒り。
悲しみ。
困惑。
拒絶。
そのすべてが混ざる。
「勝手だ」
「ああ」
「今さら」
「ああ」
「遅すぎる」
「それでも」
第一王子は弟を強く抱きしめる。
「今、選ぶ。王国よりも、王位よりも、お前を」
セドリックの瞳から、涙が溢れた。
「……嘘だ」
「何度でも言う」
「嘘だ」
「セドリック」
「呼ぶな」
「生きろ」
「呼ぶな……」
「一緒に帰るぞ」
「……兄上」
その一言が。
ほとんど聞こえないほど小さく漏れた。
赤い魔法陣の光が揺らいだ。
◇
「今です!」
リリアが叫ぶ。
セドリックの心が術式を拒み始めた。
黒い根が緩む。
レオンが剣を両手で握る。
「ノクス!」
『分かっている』
夜色の獣が咆哮する。
藍色の光が広間全体を包み。
王宮地下へ伸びた黒い根を浮かび上がらせる。
「リリア!」
「はい!」
月華が根の内側を照らす。
そこにはセドリックの記憶が流れていた。
孤独。
嫉妬。
憎しみ。
王への執着。
だがその奥に今、生まれたばかりの小さな願い。
生きたい。
本当に僅かで今にも消えそうな光。
「見つけました!」
「そこを切る!」
「いいえ!」
リリアは首を横に振る。
「黒い部分だけを! 光まで切れば、セドリック殿下が死にます!」
「簡単に言うな」
レオンは苦く笑う。
「ですが、できます」
「なぜそう思う」
「レオン様だからです」
迷いなく答える。
レオンは一瞬黙り。
やがて剣を構え直した。
「失敗したら」
「一緒に怒られます」
「誰にだ」
「第一王子殿下に」
「それは避けたい」
「では成功させましょう」
「ああ」
レオンは目を閉じた。
銀牙の力。
ノクスの夜。
二つを刃へ集める。
破壊のためではない。
夜の闇から。
一筋の光だけを残すために。
「行くぞ」
「はい!」
リリアの月華が、黒い根の境目を示す。
レオンが剣を振るう。
一閃。
音はしなかった。
黒い根が。
一斉に停止する。
次の瞬間セドリックの身体から、無数の黒い破片が剥がれ落ちた。
第一王子は弟を抱いたまま、強く目を閉じる。
赤い魔法陣が砕ける。
地下へ伸びていた根が光となって消えていく。
「止まった……?」
ユリウスが呟く。
だがマルタが天井を見上げた。
「いや!」
巨大な亀裂。
すでに崩壊は始まっている。
「術式は止まった! でも建物は戻らない!」
天井の一部が落下する。
直属騎士たちが防壁を張る。
「全員を連れて逃げるには時間が足りません!」
ユリウスが叫ぶ。
黒い水の中には、まだ多くの人がいる。
意識を取り戻した者もいるが。
歩けない者ばかりだ。
「出口を作ります」
リリアが言った。
レオンが彼女を見る。
「月華で?」
「いいえ」
リリアは藍色の光を見る。
「ノクス」
黄金の瞳が浮かぶ。
『何だ』
「夜には、必ず朝が来るんですよね?」
ノクスが沈黙する。
『人は、そう信じている』
「なら」
リリアは崩れる天井の先を見上げる。
「夜明けまでの道を作ってください」
『我に』
ノクスの声が僅かに揺れる。
『救いの道を作れと』
「はい」
『我は長く』
『人を呑み込む深淵だった』
「でも今は」
リリアは微笑む。
「夜の神ノクスです」
静寂。
そのあと。
深く。
穏やかな声が響いた。
『よかろう』
夜色の獣が頭を上げる。
身体に浮かぶ星々が、次々と輝き始めた。
藍色の光が一本の道となり。
月蝕の間から上空へ伸びる。
天井を壊すのではない。
夜そのものを開き。
別の場所へ繋げる道。
道の先公爵邸の庭園が見えた。
一斉に咲いた月白花。
白み始めた空。
「転移路だ!」
ユリウスが驚く。
『長くは保たぬ』
ノクスの声。
『急げ』
「騎士たち!」
第一王子が命じる。
「負傷者を運べ!」
次々と人々が藍色の道へ運び込まれる。
研究者。
兵士。
北方の民。
黒鴉会の者。
敵味方を分けている余裕はない。
生きている者を。
一人でも多く。
グレイの指揮で、公爵邸側に待機していた使用人や騎士たちも救助へ加わる。
道の向こうからミアの声がした。
「リリア様!」
「こちらは任せてください!」
「ミア!」
その声に帰る場所が確かにあるのだと感じた。
◇
最後の負傷者が運ばれた時。
月蝕の間に残ったのは。
リリア。
レオン。
第一王子。
意識を失ったセドリック。
ユリウス。
マルタ。
そして数名の騎士だけだった。
「先へ行ってください!」
リリアが叫ぶ。
「お前たちが先だ!」
第一王子が返す。
「セドリック殿下を!」
「連れている!」
第一王子は弟を背負っていた。
セドリックの腕が、力なく兄の肩から下がっている。
ユリウスとマルタも藍色の道へ飛び込む。
騎士たちが続く。
残ったのはレオンとリリア。
天井が完全に崩れ始めた。
ノクスの道も揺らいでいる。
『急げ』
「ノクスは?」
リリアが問う。
『我はレオンと共にある』
「なら一緒ですね」
『ああ』
レオンがリリアの手を取る。
「行くぞ」
「はい」
二人は藍色の道へ走り出す。
背後で祭壇が崩れる。
黒い水が巨大な渦となって追いかけてくる。
道の出口。
月白花の庭園。
あと少し。
しかし突然、レオンの足が止まった。
「レオン様?」
彼の胸の紋章が激しく明滅している。
「どうしました?」
「ノクスの力が」
レオンは苦しそうに胸を押さえた。
「道を維持するために、俺の身体から離れない」
『レオン』
ノクスの声にも焦りがあった。
『契約が安定していない』
「どうすれば」
『どちらかが』
一瞬の沈黙。
『ここへ残り、道を閉じる必要がある』
リリアの血の気が引く。
「駄目です」
「リリア」
「絶対に駄目です」
レオンの表情を見て。
何を考えたのか分かった。
「俺が残る」
「嫌です!」
「ノクスと契約しているのは俺だ」
「二人で帰ると約束しました!」
「このままでは二人とも」
「それでも!」
リリアはレオンの腕へしがみつく。
「一人で残ることだけは許しません!」
背後から崩壊が迫る。
時間がない。
レオンは苦しそうに目を閉じた。
そしてリリアの頬へ手を当てる。
「すまない」
その言葉で。
彼女は理解した。
「嫌……レオン様」
「お前は帰れ」
「嫌です!」
「リリア」
「忘れても、また好きになると言いました!」
涙が溢れる。
「でも、いなくなったら、好きになることもできないじゃないですか!」
レオンの瞳が揺れる。
「だから」
リリアは彼の手を両手で掴む。
「一緒に方法を探してください! 最後まで! 諦めるなら、二人で諦めます! 勝手に私だけ助けないでください!」
ノクスの声が響いた。
『待て』
二人が顔を上げる。
夜の道の周囲。
無数の星が明滅している。
『一人が残る必要はない』
「でも先ほど」
『我は』
ノクスは僅かに間を置く。
『古い方法しか知らなかった』
リリアは息を呑む。
かつて誰か一人が犠牲になることで、封印も契約も救いも成り立っていた。
ノクス自身も。
セレネも。
初代銀狼公も。
その方法しか知らなかった。
『だが』
ノクスの声に、少しだけ呆れたような響きが混じる。
『汝らは』
『どちらも選ばぬのであったな』
レオンが顔を上げる。
「別の方法があるのか?」
『作る』
「今から?」
リリアが驚く。
『神でも』
ノクスは重々しく言った。
『最初から上手にできる者はいないのであろう』
リリアの目が大きくなる。
先ほど自分が言った言葉。
ノクスは覚えていた。
「はい」
涙の中で笑う。
「一緒に練習しましょう」
『ならば』
ノクスの星空が広がる。
『三人で道を閉じる』
「どうすればいい」
『互いの名を呼べ』
リリアはレオンを見る。
レオンも彼女を見る。
繋いだ手へ力を込める。
「リリア」
「レオン様」
『ノクス』
三つの名が。
崩れゆく夜へ響く。
月華が道の出口を照らす。
銀牙が崩壊を斬り離す。
ノクスの夜が、二人を包んで運ぶ。
「帰ります!」
「ああ!」
『共に』
三つの光が一つになった。
背後の夜が閉じる。
黒い水も。
崩れた祭壇も。
月蝕の間も。
すべてが藍色の闇へ沈んでいく。
そして最後の一歩を踏み出した瞬間。
二人の身体は、月白花の庭園へ投げ出された。
◇
柔らかな土。
花の香り。
誰かの泣き声。
「リリア様!」
ミアが駆け寄ってくる。
リリアは地面へ倒れたまま、空を見上げた。
月は欠けている。
けれど東の空が明るくなり始めていた。
夜明け。
本当に。
帰ってきた。
「レオン様……」
隣を見る。
レオンも倒れている。
目を閉じたまま動かない。
「レオン様!」
リリアは這うように近づき、彼の胸へ手を当てる。
鼓動。
ある。
弱いが。
確かに。
「よかった……」
涙が一気に溢れた。
その時レオンの瞼が僅かに動く。
ゆっくりと目が開く。
銀色と藍色が混ざった瞳。
「……リリア」
「はい」
「帰ったか」
「はい」
リリアは泣きながら笑った。
「二人で」
胸の奥に。
ノクスの声が響く。
『三人だ』
リリアは涙を拭いながら答える。
「そうでした」
レオンも僅かに笑う。
「忘れるな」
「忘れません。私たちは」
リリアはレオンの手を握る。
「三人で帰ってきました」
月白花が朝の風に揺れる。
庭園には、救い出された人々が横たわり。
騎士や使用人たちが懸命に手当てをしている。
第一王子は少し離れた場所で。
意識を失ったセドリックの手を握っていた。
弟の胸もかすかに上下している。
誰もが傷ついていた。
何もかもが元通りになったわけではない。
失われた命も。
奪われた時間も。
犯した罪も。
簡単には消えない。
それでも生きている。
選び直すことができる。
東の空から朝日が昇る。
欠けた月の光と新しい日の光が同時に庭園へ降り注いだ。
レオンはリリアの手を握ったまま、静かに言う。
「庭の花を増やす約束」
リリアは目を瞬かせた。
「覚えていたんですか」
「ああ」
「薬草も半分」
「半分とは言っていない」
「言いました」
「記憶違いだ」
「月華を使った私より、レオン様の方が忘れていますね」
「……半分でいい」
リリアは笑った。
涙で濡れたまま。
心から。
「約束ですよ」
「ああ」
「今度こそ」
「ああ」
レオンは空を見上げる。
長い夜が明ける。
深淵の呪いに縛られ。
月華の代償に怯え。
誰かが犠牲になる未来しかないと思っていた二人。
けれど彼らは選ばなかった。
深淵か。
月華か。
愛する者か。
自分自身か。
誰かに与えられた二つの道ではなく。
共に生きるための、新しい道を作った。
その道が正しかったのかは。
まだ分からない。
ノクスとの契約が、何をもたらすのか。
セドリックが目覚めた時、罪とどう向き合うのか。
王国が黒霧の真実を知れば、何が起きるのか。
戦いは終わった。
けれど物語はまだ終わっていない。
リリアは朝日へ手を伸ばした。
指先に月華が灯る。
以前よりも穏やかで。
暖かい光。
そこへレオンの銀色の光が重なる。
さらに夜の名残のような藍色が、二人を包む。
朝の中に夜がある。
夜の中にも朝がある。
片方を消す必要はない。
どちらもあって。
初めて世界は巡っていく。
「帰りましょう」
リリアが言った。
レオンは彼女の手を取り、ゆっくりと起き上がる。
「どこへ」
「私たちの家へ」
公爵邸は、すぐそこにある。
けれどリリアが言った家とは、建物のことだけではなかった。
帰りを待つ人々。
名前を呼んでくれる人。
失っても。
迷っても。
何度でも戻ろうと思える場所。
レオンはその意味を理解したように。
静かに頷いた。
「ああ」
二人は支え合いながら歩き出す。
その背後を見えない夜色の狼がゆっくりとついていった。
新しい契約を結んだ神と。
呪われた運命を破った銀狼と。
何度忘れても、愛することを選ぶ月華。
三人が迎えた初めての朝は。
これまでのどの夜明けよりも。
眩しく。
優しく。
王都を照らしていた。
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