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月影の花嫁は銀狼公爵の運命を拒む  作者: 白石マサル


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第四十七話 忘れられた神の名

 黒い鎖が、闇を裂いた。

 空気も大地も存在しない深淵の内側で、それは雷鳴のような音を立てながらレオンへ襲いかかる。


「レオン様!」


 リリアが叫ぶ。

 レオンは一歩前へ出た。

 銀色の剣を両手で握り、振り下ろされる鎖を正面から受け止める。

 激しい衝撃。

 銀と黒の火花が弾け、深淵そのものが大きく揺れた。


「ぐっ……!」


 レオンの腕へ黒い筋が走る。

 鎖に触れた箇所から、深淵の力が身体へ流れ込んでいる。


「無理をしないでください!」

「これくらいで、無理とは言わない」


 そう答える声は強い。

 だが、リリアには分かった。

 レオンの中で何かが崩れ始めている。

 彼の胸に宿る銀狼の星印。

 そこへ黒い亀裂が入り、少しずつ広がっていた。

 セドリックは黒い鎖を引き戻し、冷たい笑みを浮かべる。


「まだ抵抗するのか。君は深淵を受け入れようとしている。その身体は、すでに人間の限界を越えつつある。あと少しだ、あと少しで、君は自分が誰だったのかさえ分からなくなる」


 レオンの銀色の瞳が、僅かに揺れた。

 その一瞬を。

 セドリックは見逃さなかった。

 黒い鎖が再び放たれる。

 今度はレオンではない。

 リリアへ向かって。


「っ!」


 リリアが月華の光を展開する。

 淡い銀色の膜が身体を包んだ。

 鎖が光へ衝突する。

 耳をつんざくような音。

 防いだ。

 しかし、鎖の先端から滲み出た黒い霧が、月華の膜を通り抜けた。

 そして、リリアの額へ触れる。


 ◇


 次の瞬間。

 リリアは薬房に立っていた。

 懐かしい香り。

 乾燥させた薬草。

 煮詰めた蜜。

 少し焦げた鍋。

 窓の外には、故郷の小さな町並みが見える。


「リリア」


 振り返る。

 父がいた。

 若い頃と変わらない姿で。

 穏やかに笑っている。

 その隣には母。

 亡くなる前の、元気だった頃の姿。


「お父様……お母様……」


 声が震える。


 これは幻だ。


 分かっている。

 北方水路で母の幻影を見たばかりだ。

 セドリックが作った偽物。

 それなのに、胸が締めつけられる。


「どうしたの?」


 母が優しく尋ねる。


「そんな怖い顔をして、こちらへいらっしゃい」


 両腕を広げる。


 幼い頃。

 眠れない夜に、何度も抱きしめてもらった。


 リリアの足が一歩動く。

 その時、誰かの声が聞こえた。


『リリア』


 遠い。

 けれど。

 確かに自分を呼んでいる。


『俺を見ろ』


 レオンの声。

 リリアは立ち止まった。

 母の笑顔が僅かに歪む。


「どうしたの? 帰ってきたのでしょう? もう怖いことは何もないわ」


 父も微笑んでいる。


「薬師として働かなくてもいい。誰かを救おうとしなくてもいい。ここで穏やかに暮らそう」


 一瞬、心が揺れる。

 ずっと欲しかったもの。

 失った家族。

 何も知らなかった頃の日々。


 黒霧も。

 王宮の陰謀も。

 月華の代償も。

 レオンの呪いもない。


 ここにいれば。

 誰も傷つかない。

 自分も、何も失わない。


「……違う」


 リリアは呟いた。

 母の表情が止まる。


「何が?」

「お父様も、お母様も」


 涙が頬を伝う。


「私に、救うことをやめろなんて言いません」


 父の笑顔が消えた。

 母の目が冷たくなる。


「疲れているのでしょう。忘れてしまえばいいのよ、レオンという男のことも」


 その言葉に。

 リリアの中で何かが強く反発した。


「嫌です」

「彼といると苦しむだけよ? 何度も傷つく。力を使えば、記憶を失う。最後には、彼の顔さえ分からなくなる」


 リリアは胸を押さえる。

 怖い。

 それは何度も考えた。

 いつかレオンの声を忘れるかもしれない。

 銀色の瞳も。

 不器用な優しさも。

 庭園で交わした約束も。

 すべて消えるかもしれない。


「それでも」


 リリアは顔を上げた。


「私は戻ります」

「なぜ? 苦しい未来なのに」

「だって……」


 涙を拭う。


「そこにレオン様がいます」


 父と母の姿が、黒い霧へ変わり始める。


「忘れてもいいの?」

「よくありません」

「なら戻るべきではない」

「違います」


 リリアは首を振った。


「忘れることが怖いから、忘れない未来を選ぶんじゃありません」


 胸に手を当てる。


「忘れても、また好きになると決めたんです」


 世界へ亀裂が走った。

 

 薬房が崩れる。

 町並みも。

 父も。

 母も。


 すべてが黒い欠片になって消えていく。

 最後に母の姿だけが残った。


 しかし、その表情はセドリックの冷たい笑みに変わっていた。


「その言葉が」


 彼の声が響く。


「いつまで続くかな」


 ◇


 リリアが目を開ける。


「リリア!」


 目の前にレオンがいた。

 肩を掴み、必死に呼びかけている。


「レオン……様」

「分かるか?」

「はい」

「俺が誰か」


 リリアは一瞬だけ息を止めた。


 レオンの顔。

 名前。

 出会い。

 思い出。


 すべてが残っている。


「レオン・ヴァルハルト様」


 そう答えると、レオンの肩から僅かに力が抜けた。


「……よかった」


 その声が。

 あまりにも切実で。

 リリアは胸が痛くなる。


「ごめんなさい」

「謝るな」

「でも」

「戻ってきた」


 レオンは彼女の頬へ触れる。


「それでいい」


 一方。

 セドリックは不満そうに目を細めていた。


「記憶を奪う鎖を受けても戻るか……月華の抵抗力だけではないな」


 視線が二人の繋いだ手へ落ちる。


「共鳴が、互いの記憶を繋ぎ止めている」


 リリアはその言葉に気づく。


 レオンの記憶。

 自分の記憶。


 共鳴によって。

 二人の間を巡っている。

 一人が忘れそうになっても。

 もう一人が覚えている。

 月華の代償を完全に消すことはできない。

 けれど、失われようとする記憶を、互いの心へ預けることはできるのかもしれない。


「レオン様」

「ああ」


 彼も同じことに気づいたらしい。


「私たちの記憶を二人で守れるかもしれません」

「試す価値はある」


 レオンは再び銀剣を構えた。

 その背後で、巨大な黄金色の瞳が、二人を見つめていた。


『記憶を』


 深淵の声が響く。


『分け合う』


 リリアが振り返る。

 黄金の瞳から、黒い涙が流れ続けている。


『かつて』

『我も』

『そうしたかった』


 その声は。

 怒りではなかった。

 遠い記憶を探すような。

 寂しい声だった。

 セレネの残影が、深淵へ手を伸ばしている。


「思い出してください」


 彼女は言う。


「あなたは、一人で痛みを受け入れる必要はなかった」


『だが』


 深淵の声が震える。


『我が受け取らなければ』

『人は痛みに潰れる』


「だからといって」


 リリアは黄金の瞳を見上げた。


「すべてを一人で抱える必要はありません」


『神は』

『人を救うものだ』


「神でも」


 リリアは静かに言った。


「苦しい時は、助けを求めていいんです」


 深淵が大きく揺れた。

 その言葉を。

 初めて聞いたかのように。


 ◇


「くだらない」


 セドリックの冷たい声が響く。


「神が助けを求める? 力を持つ者が弱さを見せる? だから世界は乱れるんだ」


 彼は両腕を広げた。

 黒い鎖が無数に増える。


 一本。

 十本。

 百本。


 闇の空間を埋め尽くすほどの鎖。

 そのすべてが深淵の黄金の瞳へ繋がっていた。


「力は支配されるべきだ! 感情など不要。意思など邪魔なだけだ! 神も王も民も。正しい者の命令に従えばいい」


 第一王子の弟として生まれ。

 王位継承権を持ち。

 人を駒のように使ってきた男。

 彼が望んでいるのは平和ではない。

 誰にも否定されない世界。

 自分だけが選ぶ側に立つ世界。


「正しい者?」


 レオンが冷たく問い返す。


「お前がか?」

「そうだ」


 セドリックは躊躇なく答えた。


「兄上は弱い、民の声を聞きすぎる。父上は古い、伝統へ縛られている。貴族は愚か、民衆は無知。誰も自分で正しい答えを選べない」


 青い瞳が狂信的な光を帯びる。


「だから私が選ぶ。何を残し、何を捨てるのか、すべてを」


 レオンは剣を握る手へ力を込めた。


「お前は、選べないんだ」

「何?」

「誰かに拒まれるのが怖い」


 セドリックの眉が動く。


「だから意思を奪う。誰かに間違いだと言われるのが怖い。だから自分以外を愚か者にする」

「黙れ!」

「支配したいんじゃない」


 レオンは一歩前へ進む。


「お前は……一人になるのが怖いだけだ」

「黙れ!」


 黒い鎖が一斉に襲いかかった。

 リリアは月華を展開する。

 レオンは銀牙を解放する。

 二つの光が重なり。

 巨大な銀色の狼の姿を作り出した。


 狼が吠える。


 深淵の闇全体が震えた。

 無数の黒い鎖と銀狼が激突する。

 鎖が牙へ絡みつく。

 銀狼の身体へ食い込む。

 レオンの腕や首筋にも、同じ傷が浮かぶ。


「レオン様!」

「構うな!」

「でも!」

「鎖の根元を探せ!」


 レオンは銀狼を操りながら叫ぶ。


「全部が深淵へ繋がっているように見える。だが、術式を維持している中心があるはずだ!」


 リリアは目を閉じる。

 視覚ではなく。

 月華の感覚へ意識を集中する。

 黒い鎖。

 その一本一本に。

 奪われた記憶が流れている。

 供物とされた人々の悲しみ。


 恐怖。

 怒り。

 

 それらが鎖を通じてセドリックへ集まり。

 彼から深淵へ送り込まれている。


 しかし……一本だけ。

 流れの向きが違う鎖があった。

 深淵から、セドリックへ。


 力ではない。

 記憶。

 とても古い記憶が流れている。


「見つけました!」


 リリアが叫ぶ。


「セドリック殿下の右手!」


 彼の右手首。

 黒い鎖が皮膚へ埋め込まれている。

 他の鎖を操るための核。

 同時に深淵の記憶を奪うための道。

 レオンは即座に動いた。

 銀狼が鎖を引きちぎりながら突進する。


「させるか!」


 セドリックが左手を振る。


 黒い壁。


 しかしリリアの月華が先に届いた。


「照らして!」


 月光が黒い壁を包む。

 浄化ではない。

 黒い力を消すのではなく。

 本来の姿を照らし出す。

 壁に刻まれた術式。

 僅かな綻び。


「右上です!」


 レオンの剣が走る。

 銀色の斬撃が綻びを貫いた。

 黒い壁が砕ける。


「何……!」


 レオンはセドリックの懐へ踏み込む。

 剣を振り下ろす。

 セドリックは身体を捻った。

 刃は胸ではなく、右腕を掠める。

 黒い血が散る。

 同時に手首へ埋め込まれていた鎖が切断された。


 世界が止まった。


 ◇


 鎖が落ちる。

 金属音ではない。

 悲鳴のような音を立てて。

 闇へ沈んだ。

 深淵へ繋がっていた無数の鎖が、一斉に緩む。

 黄金色の瞳が大きく開かれた。


『返せ』


 低い声。

 これまでとは違う。

 深淵の怒りが。

 初めてセドリックだけへ向けられる。


『我の記憶を』


 セドリックの顔が歪む。

 右腕を押さえながら後退する。


「お前の記憶? 忘れたからこそ、扱いやすかったんだ。怒りだけを残し、悲しみだけを増やした。神だった頃の記憶など必要ない!」


 その言葉に。

 リリアは息を呑んだ。

 セドリックは知っている。

 深淵の本当の名を。

 神だった頃の記憶を。


「あなたが奪ったんですね」


 リリアが問いかける。


「深淵が名前を思い出せないのは封印のせいだけではない。あなたが記憶を奪い続けたから」


 セドリックは笑った。

 追い詰められてなお。

 勝ち誇るように。


「今さら返すものか。名を取り戻せばこいつは深淵ではなくなる」


『我が名』


 黄金の瞳が揺れる。


『知っているのか』

「知っているとも」


 セドリックは右手を胸へ当てた。

 皮膚の下で。

 金色の光が瞬く。

 深淵から奪った記憶。

 その中に、名がある。


「欲しいか?」

『返せ』

「ならば……」


 セドリックはレオンを見る。

 歪んだ笑み。


「器を壊せ」


 リリアの身体が強張る。


「何を……」

「レオンの中には、初代銀狼公が封じた深淵の欠片がある。その欠片には、お前が失った記憶の最後の部分が残されている。本当の名を取り戻すには器を壊し、欠片を回収しなければならない」


 黄金の瞳が。

 ゆっくりとレオンへ向く。

 深淵の闇がざわめく。

 レオンの胸の星印が強く光る。

 リリアは彼の前へ立った。


「駄目です」

『月華』

「レオン様を傷つけても、あなたの名は戻りません」

『だが』

「セドリック殿下の言葉を信じるんですか」


 黄金の瞳が揺れる。


「あなたを苦しめ、記憶を奪い、怒りを利用した人の言葉を」

『……』

「レオン様の中に記憶があるなら」


 リリアは自分の胸へ手を当てる。


「壊さなくても、繋がる方法を探します」


 セドリックが嘲笑する。


「また理想論か」

「違います」


 リリアは彼を見据えた。


「もう、繋がっています」


 レオンの手を取る。

 月華と銀牙の光が巡る。

 その瞬間、黄金の瞳とレオンの胸の間に。

 一本の銀色の糸が現れた。

 

 黒い鎖ではない。

 縛るためのものではない。

 記憶を分け合うための光。

 深淵が息を呑んだように。


 世界が震えた。


『これは』

「レオン様の中の欠片も」


 リリアは言う。


「あなたの一部なら奪い返すのではなく、話を聞いてください」


 レオンが胸へ手を当てる。

 苦痛に顔を歪めながら。

 それでも逃げなかった。


「来い」


 彼は深淵へ言った。


「俺の中にある記憶を見せる」


 リリアが彼を見る。


「レオン様」

「大丈夫だ」

「でも」

「一人ではない」


 レオンはリリアの手を強く握る。


「お前がいる」


 その言葉と同時に。

 銀色の糸が強く輝いた。


 ◇


 新たな記憶が世界へ広がる。

 

 白い砂浜。

 頭上には二つの月。

 一つは空に。

 もう一つは、海のように大地の下で輝いている。


 そこに立つ一人の青年。


 黒い髪。

 金色の瞳。

 深淵ではない。


 人に近い姿をした神。

 青年の前には、幼い頃のセレネがいた。


「お名前は?」


 少女が尋ねる。

 青年は困ったように笑った。


「神に名などない」

「それでは呼べません」

「呼ぶ必要はない」

「あります」


 幼いセレネは頬を膨らませた。


「私は、あなたとお友達になりたいです」


 青年は目を瞬かせる。


「友?」

「はい」

「友には、名前が必要なのか」

「もちろんです」


 セレネは胸を張る。

 そして。

 空の月と。

 大地の下で輝く月を見比べた。


「では」


 少女は笑う。


「あなたは、ノクスです」


 青年が首を傾げる。


「ノクス?」

「夜を守る人という意味です。私は月の光を持っています。あなたは夜を守る神様。だから、ノクス」


 青年はしばらく黙っていた。

 やがて、初めて名を与えられた子供のように嬉しそうに笑った。


「ノクス」


 自分で繰り返す。


「悪くない」


 記憶が光へ変わる。

 深淵の世界へ。

 名が響く。


「ノクス」


 リリアが呼ぶ。

 黄金の瞳が大きく見開かれる。


『ノクス』


 レオンも呼んだ。


「それがお前の名だ」

『我は』


 深淵の声が震える。

 黒い涙が、銀色へ変わっていく。


『ノクス』


 失われた神の名。

 忘れられ。

 奪われ。

 何百年もの間。

 誰にも呼ばれなかった名。


 セレネの残影が微笑む。


「おかえりなさい」


 黄金の瞳から。

 まばゆい光が溢れた。

 深淵を覆っていた黒い闇に。

 無数の亀裂が走る。

 その奥から、夜空のように美しい藍色の光が現れる。

 セドリックの顔から血の気が引いた。


「やめろ、思い出すな! お前は深淵だ! 王国を滅ぼす災厄だ!」


 しかし、黄金の瞳はもう彼を見ていなかった。


 ノクスは。

 セレネを見ていた。

 レオンを。

 リリアを。

 自分の名を呼んだ者たちを。


『我は』


 深淵の声が。

 神の声へ変わる。


『深淵ではない』


 無数の黒い鎖が砕けた。


『我は、夜の神ノクス』


 光が爆発する。

 セドリックの身体が吹き飛ばされる。


「ぐあっ!」


 闇の彼方へ転がり。

 それでも彼は立ち上がろうとした。

 右手を胸へ突き立てる。


「まだだ……」


 皮膚の下に残る金色の記憶。

 ノクスから奪った最後の欠片。

 それを掴み。

 黒い力へ変えようとしている。


「神ならば」


 セドリックは血を吐きながら笑う。


「もう一度、堕ちればいい」


 胸元から。

 黒く染まった金色の結晶を引き抜く。

 

 その中にはセレネがノクスを人間の王たちへ引き合わせた記憶。

 実験台として鎖に繋がれた記憶。

 痛みを訴えても、誰にも助けてもらえなかった記憶。

 裏切られた瞬間、最も暗い記憶が封じられていた。


「これを見れば」


 セドリックは狂ったように笑う。


「お前は再び人間を憎む!」


 結晶を砕く。

 黒い記憶がノクスへ襲いかかった。

 セレネが息を呑む。

 レオンが剣を構える。

 リリアは――


 月華の光を胸へ集めた。


「させません」


 ノクスが思い出したのは。

 優しい名だけではない。

 これから最も残酷な裏切りも思い出す。

 それでも今度は一人ではない。


「ノクス」


 リリアは神の名を呼ぶ。


「全部、一緒に見ましょう」


 黒い記憶の波が迫る。


「痛かったことも、悲しかったことも、許せないことも」


 レオンが彼女の隣へ立つ。


「逃げなくていい」


 銀剣を構える。


「だが、飲み込まれる必要もない」


 ノクスの黄金の瞳が二人へ向く。


『我を』

『恐れないのか』


 リリアは微笑んだ。


「怖いです」


 正直に答える。


「でも」


 手を伸ばす。


「怖いからこそ、一緒にいます」


 レオンも手を伸ばした。


「選べ、セドリックに決められた答えではなく、お前自身の答えを」


 黒い記憶が世界を覆う。

 ノクスの瞳に怒りと悲しみが蘇る。

 そして――


 月華と銀牙の光が。

 神の手へ届いた。


 過去を消すためではない。

 憎しみを否定するためでもない。

 ただその痛みを、一人だけのものにしないために。

 ノクスの巨大な瞳が閉じられる。


『我は』


 低い声が響く。


『人を許せない』


 リリアは頷いた。


「はい」

『セレネを』

『すぐには許せない』


 セレネは涙を流しながら頭を下げる。


「はい」

『それでも』


 ノクスは目を開いた。

 黄金と藍色が混ざった瞳。


『もう一度』

『自ら選びたい』


 深淵の闇が。

 夜空へ変わった。

 無数の星が灯る。

 セドリックが作った黒い記憶の波は。

 星々の中へ溶けていく。

 消えたわけではない。

 忘れられたわけでもない。

 ただ夜の一部として。

 そこに存在していた。

 セドリックは立ち尽くす。


「なぜだ……なぜ憎まない! 人間にあれほど傷つけられたのに」


 ノクスの瞳が彼へ向く。


『憎んでいる』


 冷たい声。


『だが』

『我の憎しみを』

『お前に使わせはしない』


 セドリックの身体へ。

 砕けた黒い鎖が一斉に巻きついた。


「何を……!」

『返してもらう』

「やめろ!」

『奪った記憶を』

「私は王だ!」

『お前は』


 ノクスの声が深淵全体へ響く。


『何者の王でもない』


 鎖が強く締まる。

 セドリックの胸から。

 無数の光が引き出され始めた。


 人々から奪った記憶。

 研究者の記憶。

 兵士の記憶。

 北方の民の記憶。


 そして――ノクス自身の記憶。


 セドリックは絶叫した。


「やめろ! それは私の力だ!」

「違います」


 リリアが静かに言う。


「最初からあなたのものではありません」


 光は次々と夜空へ昇る。

 星となり、それぞれの持ち主へ帰る道を探し始める。

 しかし、セドリックの胸の奥から小さな赤い光が現れた。

 他の記憶とは違う。

 

 幼い子供の記憶。

 王宮の暗い部屋。

 扉の向こうでは。

 父王と第一王子が話している。

 幼いセドリックは。

 一人で床に座っていた。

 誰にも呼ばれず。

 誰にも抱きしめられず。

 ただ兄へ向けられる賞賛の声を聞いている。


『兄上だけが必要なのだ』


 幼い声。


『なら』

『僕は』

『誰にも捨てられない者になる』


 リリアは息を呑む。

 これがセドリックの最も古い記憶。

 支配を望む前。

 選ぶ側に立とうとする前。

 ただ一人になることを恐れていた少年。

 セドリック自身も、その記憶を見ていた。

 顔が凍りついている。


「消せ」


 掠れた声。


「それを見せるな」


 ノクスは答えない。


「消せ!」


 セドリックが叫ぶ。


「そんなものは私ではない!」


 赤い記憶は。

 彼の目の前へゆっくり降りていく。

 拒絶しようと手を振る。

 だが、黒い鎖が彼を動けなくしている。


「私は弱くない! 捨てられてなどいない! 私は選ばれた王だ!」


 赤い光が。

 セドリックの胸へ戻る。

 その瞬間、彼の絶叫が止まった。

 青い瞳から一筋の涙が落ちる。

 本人さえ忘れていた、最初の痛み。

 誰にも必要とされないと思った幼い日の孤独。


「……違う」


 セドリックは小さく呟いた。


「私は……私は……」


 彼の身体が崩れ落ちる。

 だが戦いは終わっていなかった。

 現実の月蝕の間から巨大な振動が伝わってくる。


 黒い水面。

 供物の術式。

 深淵の核。


 セドリックが意識を失ったことで制御を失った儀式が暴走を始めたのだ。

 夜空に亀裂が走る。

 レオンの身体が透け始める。

 リリアも足元から光へ変わっていく。


「現実へ戻される」


 レオンが言う。

 ノクスの瞳が彼を見る。


『器よ』

「レオンだ」

『レオン』


 初めてノクスが彼の名を呼んだ。


『我を受け入れる覚悟はあるか』


 レオンは答えようとする。

 しかしリリアが先に口を開いた。


「受け入れるだけでは駄目です」


 ノクスの視線が彼女へ向く。


「あなたも、レオン様を受け入れてください」

『我が』

「彼を器にしないで」

「王にも、神にも変えないで、レオン・ヴァルハルトのまま力を分けてください」


 ノクスは沈黙する。

 やがて僅かに目を細めた。


『月華よ』

「リリアです」

『リリア』


 ノクスはその名を呼んだ。


『汝らは』

『どこまでも面倒だ』


 レオンが僅かに笑う。


「よく言われる」


 リリアも笑った。


「私はあまり言われません」

「いや、言われている」

「誰にですか」

「俺に」

「初めて聞きました」


 崩れゆく世界で。

 二人はほんの一瞬。

 いつものように言葉を交わした。

 ノクスの瞳に柔らかな光が宿る。


『ならば』


 神の声が響く。


『契約を結ぼう』


 藍色と黄金の光が。

 レオンの胸へ向かう。

 同時に月白色の光がリリアへ届く。


『器ではなく』

『主でもなく』

『共に夜を歩く者として』


 光が二人を包む。


『我が名を忘れるな』


 リリアは頷く。


「ノクス」


 レオンも答える。


「忘れない」

『なら』

『我も』


 神の声が初めて穏やかに響いた。


『汝らの名を忘れない』


 世界が白く染まる。

 深淵の内側が崩壊し。

 現実へ戻る直前。

 リリアはセレネを見た。

 彼女はノクスの光の前に立ち。

 静かに微笑んでいる。


「セレネ様!」


 リリアが手を伸ばす。


「あなたも一緒に!」


 けれどセレネは首を横に振った。


「私は記憶です。彼が取り戻すべき、過去の欠片」

「そんな……」

「大丈夫」


 セレネはノクスを見上げる。


「今度は」


 涙を流しながら。

 心から安心したように笑った。


「私を忘れてもらえます」


 ノクスの光が揺れる。


『忘れない』


 セレネは目を見開く。


『許せなくとも』

『悲しくとも』

『汝を忘れない』


 彼女の頬を涙が伝う。


「……はい」


 セレネは静かに目を閉じた。

 白い光へ変わりノクスの夜空へ溶けていく。

 最後に彼女の声だけが残った。


「二人で帰って」


 ◇


 リリアが目を開けた。


 黒い水。

 円形の祭壇。

 月蝕の間。


 現実へ戻った。

 すぐ隣にレオンがいる。

 手も繋がっている。


 第一王子。

 ユリウス。

 マルタ。

 騎士たち。


 全員がまだ戦っていた。

 時間はほとんど進んでいない。

 祭壇中央では。

 セドリックが膝をついている。


 そして黒い核が音を立てて崩れ始めていた。


「戻ったか!」


 第一王子が叫ぶ。


「説明はあとです!」


 リリアは周囲を見る。

 黒い水の中。

 供物にされた人々へ繋がる管が暴走している。

 記憶は戻り始めている。

 だが術式そのものが崩壊し。

 全員を巻き込もうとしていた。

 レオンの胸にはこれまでとは違う紋章が浮かんでいる。

 

 銀の狼。

 その背後に藍色の月。


 黒い呪いではない。

 ノクスと結んだ新たな契約。

 レオンは剣を握る。

 刃も変化していた。

 銀色だけではない。

 夜空のような藍色の光が流れている。


「リリア」

「はい」

「全員を帰す」


 彼の視線が黒い水へ向く。

 リリアは月華を両手へ集めた。


「はい」

「一人も残さず」


 崩壊する核から。

 巨大な黒い柱が噴き上がる。

 天井を貫き王宮全体を震わせた。

 水中の人々が、一斉に沈み始める。

 マルタが叫ぶ。


「急ぎな! 術式が全部飲み込むよ!」


 レオンとリリアは並んで立つ。


 月華。

 銀牙。

 そして――夜の神ノクスの力。


 三つの光が重なる。

 だがその時、祭壇に倒れていたセドリックが、ゆっくり顔を上げた。


 青い瞳に涙の跡を残したまま。

 それでも冷たい殺意を宿している。


「……誰も」


 彼は掠れた声で呟く。


「私を選ばないのなら」


 袖の中から。

 小さな黒い結晶を取り出す。

 最後の起爆核。

 第一王子が気づく。


「セドリック、やめろ!」


 弟は兄を見た。

 ほんの一瞬。

 幼い少年のような顔をした。

 しかし、すぐに歪んだ笑みへ変わる。


「ならば」


 黒い結晶を握り潰す。


「すべて消えてしまえばいい」


 月蝕の間の床に刻まれた魔法陣が。

 血のような赤へ染まった。

 レオンがリリアを抱き寄せる。

 第一王子が弟へ手を伸ばす。

 黒い核が完全に砕ける。

 そして王宮地下に封じられていた力がすべてを巻き込み爆発した。

読んでいただきありがとうございます。

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