第四十六話 王を生む供物
月蝕の間には、黒い水の匂いが満ちていた。
腐敗とも血とも違う。
冷たい鉄と、濡れた土と、古い墓所を混ぜたような匂い。
円形の広間を埋める黒い水面の下には、無数の人影が沈んでいる。
研究者。
兵士。
黒鴉会の者たち。
北方で行方不明になった村人たち。
誰もが目を閉じたまま、黒い管のような霧に繋がれていた。
管はすべて祭壇中央へ集まり、巨大な黒い結晶へ吸い込まれている。
どくん。
結晶が脈打つ。
そのたび、水中の人々の身体が小さく跳ねた。
「王を生むための供物だよ」
セドリックは穏やかに言った。
あまりにも平然と。
まるで、花壇へ水を与えているだけのような口調だった。
リリアの指先が震える。
「この人たちは生きています」
薬師として見れば分かった。
完全に死んではいない。
弱いが呼吸している。
胸が上下している者もいる。
黒霧に命を吸われながら、生かされている。
「ええ」
セドリックは微笑んだ。
「死者では役に立たないからね」
その言葉に、レオンの殺気が膨れ上がった。
銀色の瞳が冷たく細められる。
「今すぐ術式を止めろ」
「断る」
セドリックは即答した。
「ここまで準備するのに、随分時間がかかった。北方の黒霧拡大、黒鴉会の流通網、王宮研究局の実験、白月塔の魂縛、鐘楼の増幅術式」
彼は指を一本ずつ折りながら語る。
「すべては今日のためだ」
第一王子の顔が怒りで歪む。
「民を使ったのか、兄上」
セドリックは困ったように笑った。
「王国を変えるには犠牲が必要です」
「犠牲にされる者へ、その覚悟を求めたのか」
「必要ありません」
青い瞳が冷たく光る。
「選ぶのは、力を持つ者です。選ばれる側に意思など要らない」
リリアの胸に、激しい怒りが込み上げた。
「あなたは何も変えようとしていません」
セドリックの視線がリリアへ向く。
「ほう?」
「ただ、自分がすべてを支配したいだけです! 黒霧も、人の命も、レオン様も私も!」
リリアは一歩前へ出た。
レオンが止めようと腕を伸ばす。
けれど彼女は、その手を握った。
離れない。
そう伝えるように。
「あなたが作ろうとしている国には、人がいません。命令を聞く道具だけです」
セドリックはしばらく黙っていた。
そして、静かに笑う。
「君は優しいね。だから世界を正しく見られない。人は恐怖があるから争う、痛みがあるから憎む、喪失があるから奪う」
彼は黒い水面へ手を広げた。
「ならば恐怖も痛みも奪えばいい。私がすべてを管理する。誰も迷わない、誰も間違えない、完全な平和だ」
「それは平和ではありません」
リリアは首を横に振った。
「生きていないのと同じです」
セドリックの笑みが僅かに薄くなった。
◇
どくん。
深淵の核が大きく脈打った。
広間全体が震える。
レオンが胸を押さえ、僅かに身体を傾けた。
「レオン様!」
「大丈夫だ」
「嘘です」
「……痛む」
正直に言い直す。
だが、その痛みは先ほどまでとは比べものにならないらしい。
レオンの首筋に黒い筋が浮かび始めている。
祭壇の核と、彼の中の深淵が共鳴している。
セドリックは満足そうに目を細めた。
「もう始まっている。銀狼の器は、深淵の核へ引かれている。そして月華は、器を繋ぎ止めようとする。実に美しい仕組みだ」
レオンが剣を抜く。
「黙れ!」
銀色の斬撃が走った。
だが、セドリックの前へ黒い壁が立ち上がる。
剣は霧の壁へ深く食い込んだものの、彼まで届かない。
黒い水面から複数の影が立ち上がった。
兵士たち。
目は閉じたまま。
身体には黒い鎧のような結晶。
「操っている……!」
ユリウスが術式を展開する。
「皆、生きています!」
リリアが叫ぶ。
「急所を避けてください!」
「分かっている!」
第一王子と直属騎士たちが前へ出る。
剣と魔術がぶつかり合う。
月蝕の間に激しい音が響いた。
操られた兵士たちは痛みを感じない。
腕を斬られても。
骨を砕かれても。
なお立ち上がり続ける。
「術式の核を止めなければ終わらない!」
マルタが鞄から複数の薬瓶を取り出した。
「リリア!」
「はい!」
「黒い管を見な!」
リリアは水面の下へ目を凝らす。
供物とされた人々へ繋がる黒霧の管。
すべてが同じ太さではない。
いくつかだけ、銀色の光が混じっている。
「月華の力……?」
「違う!」
マルタが薬瓶を水面へ投げる。
瓶が割れ、青い薬液が広がった。
黒い管の一部が浮かび上がる。
「記憶だ! この連中から吸い上げた記憶を、核へ流してる!」
リリアの血の気が引いた。
「命だけではなく……深淵は人の痛みや悲しみを受け取る神だった」
マルタが叫ぶ。
「セドリックは、記憶と感情を餌にして目覚めさせてるんだ!」
黒い水の中。
眠る人々の口から、小さな泡が漏れる。
その泡の中に。
一瞬だけ景色が映った。
母親の笑顔。
故郷の畑。
子供を抱き上げる父親。
仲間と飲んだ夜。
愛した人の横顔。
大切な記憶。
それが次々と黒い核へ吸い込まれている。
「やめて……」
リリアの声が震えた。
あまりにも残酷だった。
生きる理由を。
その人をその人にしているものを。
すべて奪っている。
「止めます」
リリアの指先へ月華が集まる。
レオンがすぐに気づいた。
「待て」
「でも!」
「一人で使うな」
彼は苦痛を堪えながら、リリアの手を握った。
「俺もいる」
「レオン様は今、深淵に引かれています」
「だからだ」
銀色の瞳が真っ直ぐリリアを見る。
「お前だけで背負えば、また記憶を失う。俺だけで耐えれば、深淵になる」
「なら――」
レオンは強く手を握る。
「二人でやる」
リリアの胸が熱くなった。
怖い。
レオンの中の深淵は、これまでで最も強く反応している。
ここで共鳴すれば。
二人とも飲み込まれるかもしれない。
けれど、黒い水の中で、無数の人が記憶を奪われている。
「……はい」
リリアは頷いた。
「二人で」
◇
二人の手の間に、淡い銀色の光が生まれた。
月華。
銀牙。
二つの星印が同時に輝く。
光は以前のように激しく広がらなかった。
細く。
静かに。
二人の腕を巡る。
「リリア」
「はい」
「何か見えても、俺を見ろ」
「はい」
「何か聞こえても、俺の声を聞け」
「はい」
「忘れそうになったら」
「名前を呼んでください」
「ああ」
セドリックが祭壇の上で笑う。
「また共鳴か……だが、今回は白月塔とは違う」
彼は両手を上げた。
黒い核が激しく脈打つ。
「ここは深淵の心臓だ。君たちの絆など、すべて飲み込まれる」
黒い水が一斉に立ち上がった。
巨大な壁。
津波のような黒霧が二人へ襲いかかる。
レオンがリリアを庇う。
だがリリアは彼の隣から動かなかった。
「離れません!」
「分かっている!」
二人は同時に手を掲げる。
銀色の光が黒い波とぶつかった。
轟音。
視界が白と黒に塗り潰される。
リリアの意識へ、無数の記憶が流れ込んできた。
泣き声。
怒り。
恐怖。
喪失。
知らない人々の痛み。
母を失った子供。
戦場で仲間を失った兵士。
人体実験で名前を奪われた研究者。
家族を守れなかった父親。
苦しい。
多すぎる。
自分の心が壊れそうだった。
「……っ!」
「リリア!」
レオンの声が聞こえる。
遠い。
黒い記憶の波に埋もれている。
「戻れ!」
「……レオン、様」
「そうだ!」
強く手を引かれる。
「俺を見ろ!」
リリアは目を開けた。
銀色の瞳。
苦しそうに歪んだ顔。
それでも、自分を見ている。
「ここに、います」
「俺もいる」
「はい」
「他人の痛みを全部背負うな」
「でも」
「助けることと、背負うことは違う」
その言葉が胸へ届く。
マルタが以前言った。
月華は一人で使うから危険なのだと。
人の痛みをすべて自分へ入れる必要はない。
帰る場所を教える光。
なら、奪われた記憶を、自分が抱えるのではなく。
本人へ返せばいい。
「……返します」
リリアは呟いた。
「何を」
「記憶を」
月華の光の流れを変える。
黒い核へ向かっていた無数の記憶。
それを引き戻すのではない。
それぞれの持ち主へ繋ぐ。
「皆さんの記憶は」
リリアは黒い水面へ手を伸ばす。
「誰のものでもありません。あなたのものでも」
セドリックを見据える。
「深淵のものでもない!」
銀色の光が枝分かれした。
無数の糸。
それぞれが水中に沈む人々へ伸びていく。
光が胸へ触れた瞬間。
人々の身体が震えた。
「お母さん……」
幼い声。
「帰りたい……」
「ミーナ……」
「隊長……」
名前。
思い出。
願い。
黒い水の中で失われかけていたものが、少しずつ本人へ戻っていく。
セドリックの顔から、初めて余裕が消えた。
「何をした」
「返したんです」
リリアは息を切らしながら答える。
「奪ったものを持ち主へ」
「やめろ!」
セドリックが黒い魔力を放つ。
レオンが前へ出る。
銀の剣が魔力を斬り裂いた。
「お前の相手は俺だ」
「レオン」
セドリックの青い瞳が冷える。
「まだ分からないのか! 彼女を守ろうとするほど、君の中の深淵は目覚める」
「なら、目覚めさせればいい」
リリアの胸が止まりそうになる。
「レオン様?」
彼はセドリックを見たまま、静かに続ける。
「俺は逃げない。深淵を拒んで、暴走することも、リリアへ押しつけることも、もうしない」
胸の紋様が強く光る。
黒と銀。
二つの力が混ざり始める。
「俺が受け入れる」
「駄目です!」
リリアが叫ぶ。
セレネの言葉。
深淵を受け入れなければ器は壊れる。
けれど失敗すれば、人ではなくなる。
「一人ではしない」
レオンが振り返る。
銀色の瞳。
その奥に黒い光が揺れている。
「お前も来い」
「え……」
「俺と深淵の間に立て。繋ぎ止めてくれ」
リリアは息を呑んだ。
レオンは一人で選ぼうとしていない。
彼女へ犠牲を求めてもいない。
一緒に。
二人で。
深淵と向き合おうとしている。
「……怖いです」
正直に言う。
「俺もだ」
「戻れないかもしれません」
「戻る」
「断言できますか?」
「ああ」
レオンは手を差し出す。
「お前が呼ぶから」
リリアの目に涙が滲む。
それでも笑った。
「何度でも呼びます」
その手を取る。
「だから」
リリアは強く握り返す。
「必ず戻ってきてください」
「ああ」
二人の力が、再び一つになる。
今度は黒い水面ではなく。
地下深く。
深淵そのものへ向かって。
◇
その瞬間。
月蝕の間が消えた。
音も。
光も。
黒い水も。
すべて。
リリアが目を開けると。
そこは広大な夜だった。
地面も空もない。
星ひとつない闇。
隣にはレオンがいる。
手を繋いだまま。
だが第一王子たちの姿はない。
セドリックも。
「ここは……」
「深淵の内側だ」
レオンが答える。
彼には分かるらしい。
遠く。
闇の中に黄金色の瞳が浮かぶ。
以前見たものよりも巨大だった。
けれど今度は、怒りも敵意も感じない。
ただ、深い悲しみがある。
『来たか』
低い声が世界全体へ響く。
レオンが一歩前へ出る。
「来た」
『器よ』
「俺は器ではない」
レオンははっきり言った。
「レオン・ヴァルハルトだ」
黄金の瞳が細くなる。
『名など意味はない』
「俺にはある」
レオンはリリアの手を握る。
「この女が呼ぶ名だ」
リリアの胸が熱くなる。
深淵の視線が彼女へ向く。
『月華』
「リリア・エヴァレットです」
彼女も答える。
「私にも名前があります」
長い沈黙。
闇が揺れる。
『名』
深淵は、その言葉を確かめるように繰り返した。
『我にも』
一瞬。
声が止まる。
『かつて、名があった』
リリアは息を呑む。
「その名を思い出してください」
黄金の瞳から黒い涙が流れた。
『忘れた』
「なら、一緒に探します」
『なぜ』
「帰る場所を見つけるためです」
『我に帰る場所はない』
エルバート卿の言葉。
深淵は捨てられた。
帰る場所などない。
けれどリリアは首を横に振った。
「場所ではなくてもいいんです。誰かが名前を覚えていること、誰かが帰りを待っていること、それも、帰る場所です」
深淵の瞳が揺れる。
『待つ者など』
『もういない』
その時。
暗闇の奥から、白い光が現れた。
銀色の髪の女性。
初代月華セレネ。
幻影。
記憶。
あるいは、残された魂。
彼女は深淵を見上げ、涙を流していた。
「います」
セレネは言った。
「ずっと」
黄金の瞳が大きく見開かれる。
『セレネ』
初めて。
深淵が名を呼んだ。
悲しみに満ちた声で。
「ごめんなさい」
セレネは泣きながら微笑む。
「遅くなりました。あなたの名を、私は忘れてしまった」
深淵の闇が震える。
『違う』
『忘れたのは我も同じ』
「思い出しましょう」
セレネが手を伸ばす。
「今度こそ」
その光景に、リリアの胸が締めつけられた。
過去の二人。
裏切り。
封印。
忘却。
すべてが、今ここで向き合おうとしている。
だが、突然闇の中へ金色の光が差し込んだ。
「感動的だ」
セドリックの声。
彼の姿が現れる。
現実の月蝕の間から、術式を通じて侵入してきたのだ。
「だが、昔話はもう十分だ」
その手には黒い鎖。
鎖の先は、深淵の瞳へ繋がっている。
「名など必要ない。神であった過去も、帰る場所も、すべて忘れればいい」
セドリックは笑う。
「お前は力だ。私の王国を作るための力」
鎖を強く引く。
深淵が苦しそうに揺れる。
セレネの姿が歪む。
レオンの胸にも激痛が走った。
「ぐっ!」
「レオン様!」
彼を支える。
セドリックは満足そうに微笑んだ。
「さあ、選べ。月華を差し出せば、深淵を解放してやる。深淵を受け入れれば、月華の記憶は守ってやる。どちらを残す?」
レオンは苦しそうに顔を上げた。
「どちらも選ばない」
「まだ言うか」
「ああ」
レオンは剣を構える。
深淵の中でも。
銀色の刃が形を成す。
「お前を倒す」
セドリックの笑みが消える。
リリアもレオンの隣へ立った。
「私たちは、あなたの選択肢には従いません」
二人の手が重なる。
月華と銀牙の光が再び巡る。
その後ろでは。
セレネが深淵へ手を伸ばしている。
過去と現在。
銀狼と月華。
人と神。
すべての運命が、深淵の内側で重なった。
セドリックが黒い鎖を振り上げる。
「ならば」
青い瞳が狂気に染まる。
「二人とも失え!」
黒い鎖が闇を裂く。
レオンの銀剣が迎え撃つ。
リリアの月光が二人を包む。
月蝕の間で始まった儀式は。
ついに、深淵そのものを巡る最後の戦いへ変わろうとしていた。
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