第四十五話 月蝕前夜の侵入者
夜明け前の公爵邸に、慌ただしい足音が響いた。
まだ空は暗い。
東の地平線が、わずかに白み始めたばかりだった。
グレイは長い廊下を急ぎ、レオンの私室の扉を叩く。
「閣下」
返事を待つ間もなかった。
中からすぐに低い声が返る。
「入れ」
扉を開けると、レオンはすでに起きていた。
黒いシャツの上から上着を羽織り、腰へ剣を帯びようとしている。
まるで、何かが起きることを予感していたかのようだった。
「第一王子殿下より、至急のご連絡です」
グレイは伝書を差し出した。
レオンは封を切り、短い文へ目を通す。
その表情が一瞬で険しくなった。
『北方水路に異変あり』
『予定を変更する』
『至急、王宮へ』
「月蝕は今夜のはずだ」
レオンが低く呟く。
「セドリックは、こちらの予定を知っていた」
「前倒しにした可能性がございます」
グレイが答える。
「あるいは……」
レオンの銀色の瞳が冷える。
「最初から、今夜まで待つつもりなどなかった」
◇
同じ頃。
リリアもまた、目を覚ましていた。
胸の奥で響く鼓動。
どくん。
どくん。
昨夜よりも強い。
深淵のものだ。
遠い王宮地下から届いているはずなのに、まるで自分の胸の内側で鳴っているようだった。
「……近い」
寝台から起き上がる。
窓の外はまだ暗い。
庭園の月白花は、一斉に空を向いて咲いていた。
花びらには淡い銀色の光。
昨夜まではなかったものだ。
月華が反応している。
深淵だけではない。
何か大きな術式が、王都の地下で動き始めている。
扉が強く叩かれた。
「リリア」
レオンの声。
いつもより切迫している。
リリアはすぐに扉を開けた。
黒い軍服姿のレオンが立っている。
「王宮地下で異変が起きた」
「私も感じています」
リリアは胸へ手を当てる。
「鼓動が強くなっています」
レオンの顔が険しくなる。
「行く準備を」
「はい」
迷いはなかった。
怖くないわけではない。
むしろ怖い。
けれど、一人で恐れることは、もうやめた。
「ただし」
レオンが言う。
「今から先は、俺のそばを絶対に離れるな」
「はい」
「何があっても」
「はい」
「セドリックが何を見せても、何を言っても」
銀色の瞳が真っ直ぐリリアを見つめる。
「俺を見ろ」
胸が強く鳴った。
「はい」
リリアは答える。
「レオン様も、私を見てください」
一瞬。
レオンの表情が揺れる。
そして、静かに頷く。
「ああ」
◇
公爵邸を出た馬車は、まだ眠りの中にある王都を駆け抜けた。
街は静かだった。
商店は閉じられ、通りに人影は少ない。
だが、リリアには穏やかに見えなかった。
地面の下。
石畳のさらに下。
黒い力が流れている。
王宮へ近づくほど、月華の反応が強くなる。
指先が淡く光る。
「辛いか?」
向かいのレオンがすぐに気づいた。
「まだ大丈夫です」
「本当か?」
「はい」
レオンはしばらくリリアの顔を見つめていた。
「嘘ではないようだな」
「信用が少し戻りました?」
「少しだけ」
「少し……」
「かなり」
以前と同じ言い方。
それが妙に懐かしく感じられた。
こんな状況でも、少しだけ笑える。
そのことが嬉しかった。
「レオン様」
「何だ」
「昨日の約束、覚えていますか?」
「庭の花を増やすことか」
「はい」
「ああ」
「絶対に帰りましょう」
「ああ」
レオンは迷わず答えた。
「月白花だけではなく」
少し考えて続ける。
「薬草も植える」
リリアは目を瞬かせた。
「いいんですか?」
「お前が欲しがっていた」
「庭師さんが泣きますよ」
「半分だけだ」
「半分も?」
思わず笑ってしまう。
レオンも、ほんの少しだけ笑った。
だが次の瞬間、馬車が大きく揺れた。
馬が嘶く。
「何だ!」
御者の声。
レオンがすぐに扉を開ける。
前方。
王宮へ続く道の一部が、黒く変色していた。
石畳の隙間から、黒い霧が細く噴き出している。
「黒霧……」
リリアの顔が強張る。
王都の中心。
地上へ漏れ出している。
「もう始まっている」
レオンは剣へ手をかけた。
◇
王宮へ着くと、正門ではなく北側の小門へ案内された。
待っていたのは第一王子とユリウス。
その後ろに、直属騎士が八名。
マルタの姿もある。
彼女は大きな鞄を肩へ掛けていた。
「遅いよ」
「急いで来ました」
リリアが言うと、マルタは鼻を鳴らす。
「冗談だ」
第一王子が地図を広げる。
「北方水路の封印が破られた」
「いつです?」
レオンが問う。
「夜明け前」
「見張りは?」
「全員、眠らされていた」
ユリウスが苦い顔をする。
「外傷はありません。精神干渉術です」
「月白花か」
「ああ」
第一王子は地図の一点を指した。
「本来なら我々はここから侵入する予定だった」
北方水路。
王宮地下の最深部、月蝕の間へ繋がる古い経路。
「だが今は」
別の紙を重ねる。
赤い線。
いくつもの反応点。
「水路全体に黒霧が満ちている。さらに……」
ユリウスが続ける。
「古代術式が起動しています」
「どんな術式ですか?」
リリアが尋ねる。
ユリウスは言葉を選んだ。
「人の記憶を道標にする術です」
胸が冷えた。
「記憶を?」
「はい」
「侵入者が最も大切にしている記憶を読み取り、それを幻影として見せます」
「幻覚か」
レオンが低く言う。
「ただの幻覚ではありません」
ユリウスは首を横に振った。
「触れれば、記憶が術式に吸収されます。吸収された記憶は――」
一拍。
「失われる可能性があります」
全員の視線がリリアへ向いた。
月華の代償。
記憶。
セドリックは、そこまで計算している。
「私を狙った術ですね」
リリアは静かに言った。
レオンがすぐに口を開く。
「リリアは残す」
「嫌です」
「聞け」
「聞きません」
「リリア!」
「今の術式は、私だけを狙ったものではありません」
第一王子が眉を寄せる。
「どういう意味だ?」
「レオン様にも、大切な記憶があります」
リリアはレオンを見る。
「セドリック殿下は、それを狙うかもしれない」
レオンが黙る。
「もし私だけ残っても、レオン様が、私のことを忘れたら」
声が少し震えた。
「それこそ、向こうの思い通りです」
レオンの銀色の瞳が揺れる。
「ならなおさら――」
「一緒に行きます!」
「……」
「二人なら」
リリアは手を差し出した。
「忘れそうになった方を、呼び戻せます」
しばらく。
レオンは動かなかった。
けれど、やがて、その手を取る。
「絶対に離すな」
「はい!」
「俺も離さない」
「はい!」
第一王子が深く息を吐く。
「決まりだな」
「殿下」
「お前が止められないことは分かった」
「……申し訳ありません」
「謝るくらいなら、二人とも戻れ」
第一王子の声は厳しい。
だが、その奥に心配があった。
「必ずです」
リリアが答える。
「ああ」
レオンも続けた。
「必ず戻ります」
◇
北方水路の入口は、王宮の外壁と地下水脈の境にあった。
鉄格子は破壊されている。
切断ではない。
黒く溶けていた。
「黒霧で腐食させたのか」
騎士の一人が呟く。
マルタはしゃがみ込み、溶けた鉄へ薬液を垂らした。
青い煙が上がる。
「違うね、深淵の力だ」
空気が重くなる。
「黒霧より古い、王宮の結界じゃ防げない」
第一王子が剣を抜く。
「進むぞ」
水路の中は暗かった。
壁沿いに青い魔石灯を灯す。
足元には浅い水。
冷たい。
湿った空気。
そして、黒霧。
薄い靄が水面を這っている。
「月華は使うな」
レオンが言う。
「はい」
「必要な時だけだ」
「はい」
「俺に言え」
「はい」
リリアは彼の手を握り直す。
「レオン様も」
「何だ?」
「苦しくなったら言ってください」
「ああ」
「本当に」
「本当だ」
その返事に、少しだけ安心する。
◇
しばらく進むと、道が二つに分かれた。
本来の地図では一本道のはずだった。
「おかしい」
ユリウスが地図を見る。
「こんな分岐はありません」
「幻術ですか?」
「おそらく」
第一王子が周囲を見回す。
右の道。
左の道。
どちらも同じように暗い。
その時、右側の奥から声がした。
「リリア」
母の声だった。
リリアの身体が固まる。
懐かしい。
幼い頃。
病で亡くなった母。
優しい声。
「リリア、こちらへ」
暗闇の奥。
淡い光。
女性の姿が見える。
栗色の髪。
温かな笑顔。
「お母様……」
一歩。
リリアの足が動きかける。
手を強く引かれた。
「見るな」
レオンの声。
「違う」
低く。
強い。
「お前の母ではない」
リリアは息を止める。
分かっている。
頭では。
でも。
姿が。
声が。
あまりにも本物だった。
「リリア」
母の幻影が笑う。
「ずっと会いたかった」
胸が痛い。
会いたかった。
本当は。
もう一度だけ。
声を聞きたかった。
抱きしめてほしかった。
「行きたいか?」
レオンが尋ねる。
責める声ではない。
静かな声。
リリアは涙を浮かべながら頷いた。
「……はい」
「そうか」
「でも」
レオンの手を強く握る。
「行きません。本物ではないから」
母の幻影が悲しそうな顔になる。
「リリア……私を置いていくの?」
胸が裂けそうになる。
それでも、リリアはレオンを見る。
銀色の瞳。
今、ここにいる人。
「お母様は」
リリアは幻影へ言った。
「私にそんなことは言いません」
幻影の表情が止まる。
「私が幸せになることをきっと喜んでくれます」
その瞬間、母の姿が黒く歪んだ。
「……つまらない」
セドリックの声が漏れる。
幻影は黒い霧へ変わり、消えた。
右の道も同時に崩れ、ただの壁へ戻る。
「正解は左か」
第一王子が言う。
リリアは涙を拭った。
「すみません」
「謝るな」
レオンが言った。
「会いたかったんだろう?」
「はい」
「それは悪いことではない」
その声が優しくて。
余計に涙が出そうになる。
「ありがとうございます」
「礼はいい」
レオンは少しだけ迷い。
リリアの額へ短く口づけた。
全員がいる前で。
リリアは固まる。
直属騎士たちが一斉に視線を逸らした。
第一王子が額を押さえる。
「今でなければ駄目だったのか」
レオンは平然と答えた。
「今だからです」
リリアの顔が熱くなる。
だが――幻影が残した痛みは、少しだけ薄れていた。
◇
さらに進む。
次の幻影は、第一王子へ向けられた。
王座。
父王。
民衆の歓声。
王冠を差し出される姿。
だが第一王子は迷わなかった。
「私は王冠のためにここへ来たのではない」
幻影はすぐに消えた。
ユリウスには、亡くなった弟。
騎士には、戦場で失った仲間。
マルタには、祖母。
それぞれが大切な記憶を見せられた。
そして最後に――
レオンの前へ現れたものを見て。
リリアは息を呑んだ。
自分だった。
花の咲く庭。
白いドレスを着たリリア。
笑っている。
隣には小さな子供。
銀色の髪。
穏やかな未来。
「レオン様」
幻影のリリアが手を伸ばす。
「もう戦わなくていいんです! こちらへ来てください」
レオンの身体が動きを止める。
リリアは彼の横顔を見る。
銀色の瞳が大きく揺れている。
「……これは」
レオンの声が掠れる。
欲しかった未来。
呪いが解け。
深淵も消え。
リリアと共に生き。
家族を持つ。
きっと、レオンが心の奥で最も望んでいるもの。
「レオン様」
幻影が優しく呼ぶ。
「私たちは幸せですよ。あなたが来れば全部終わります」
レオンの手が緩む。
リリアの心臓が止まりそうになる。
「レオン様」
本物のリリアが呼ぶ。
彼は反応しない。
幻影だけを見ている。
「もう苦しまなくていい」
幻影のリリアが微笑む。
「私も傷つきません。あなたが深淵を受け入れなくても、私が記憶を失わなくても、ここなら何も失わない」
レオンの足が一歩前へ出る。
「レオン様!」
リリアは強く手を引く。
だが彼は振り向かない。
「俺は……」
掠れた声。
「これを望んでいた」
胸が痛む。
それは責められない。
望んで当然だ。
誰よりも苦しんできた。
誰よりも、生きたいと願えなかった人。
初めて手にした幸福。
それを完全な形で差し出されたら。
「はい」
リリアは泣きそうになりながら言った。
「私も望んでいます」
レオンの肩がわずかに動く。
「私も、あなたと穏やかに暮らしたいです。庭に花を増やして、薬草も植えて、毎朝、一緒に食事をして、あなたが薬を嫌がるのを叱って……」
声が震える。
「ずっと一緒にいたいです」
幻影のリリアが微笑む。
「なら、こちらへ」
しかし。
本物のリリアは首を横に振った。
「でも、偽物の未来はいりません」
レオンの瞳が揺れる。
「苦しくても、怖くても、私たちが選んで歩いた先でなければ」
リリアは彼の手を両手で握った。
「私たちの未来じゃありません」
長い沈黙。
レオンの足が止まる。
幻影が険しい顔になる。
「レオン様!」
本物のリリアが呼ぶ。
「私を見てください」
銀色の瞳がゆっくり動く。
幻影から。
リリアへ。
「こっちです。本物の私は」
涙を浮かべながら笑う。
「そんなに綺麗なドレスで待っていません。たぶん薬草まみれです」
一瞬。
レオンの瞳に光が戻る。
「……そうだな」
「庭も半分は薬草畑になります」
「それは困る」
「約束したでしょう?」
「半分とは言っていない」
「言いました」
「覚えていたか」
「忘れません」
レオンが苦しそうに笑った。
そして、幻影へ背を向ける。
「俺が欲しいのは」
リリアの手を強く握る。
「お前と選ぶ未来だ」
幻影の笑顔が崩れる。
黒い霧へ変わる。
子供も。
庭も。
美しい家も。
すべてが崩れ。
最後にセドリックの声だけが残った。
「本当に愚かだ。苦しみのない未来を捨てるとは」
レオンは暗闇へ言い返す。
「お前に与えられる未来などいらない」
水路が揺れる。
幻術が完全に崩れた。
◇
道の先に。
巨大な石扉が現れた。
月と狼。
二つの紋章。
そして中央には、黒い円。
ユリウスが息を呑む。
「月蝕の間です」
予定より早い。
近すぎる。
第一王子が周囲を見る。
「敵の姿がない」
マルタが低く言う。
「いるよ、ずっと見てる」
石扉の向こう。
どくん。
巨大な鼓動。
レオンの胸の紋様も同時に光る。
リリアの月華も反応する。
二人の手の間で、銀色の光が生まれた。
「行けるか?」
レオンが尋ねる。
「はい」
リリアは答える。
「怖いですけど」
「俺もだ」
「それでも」
「ああ」
レオンは石扉へ手を当てる。
リリアも隣へ手を置く。
銀狼と月華。
二つの力が紋章へ流れ込む。
ごごごごご。
扉が開く。
その先には――
黒い水面。
巨大な魔法陣。
黄金色の瞳。
そして、祭壇の中央に立つセドリックがいた。
「ようこそ」
彼は穏やかに微笑んだ。
「予定より早かったね」
その足元。
黒い水の中には。
無数の人影が沈んでいた。
研究者。
兵士。
黒鴉会の者たち。
そして、北方で行方不明になった人々。
全員が深淵の核へ繋がれている。
リリアは息を呑む。
「何を……したんですか」
セドリックは笑った。
「王を生むための供物だよ」
レオンの殺気が、月蝕の間を震わせた。
そして、まだ空に月蝕が始まる前。
最も残酷な儀式は、すでに始まっていた。
読んでいただきありがとうございます。
評価や感想を貰えると執筆のモチベーションがアップするので
どんどん評価や感想をください!
ブクマもお願いします!
お待ちしております(*^-^*)




