第四十四話 月蝕の招待状
夜は静かだった。
静かすぎるほどに。
公爵邸の執務室には暖炉の火だけが揺れ、赤い炎が壁へ長い影を映している。
机の上には、一枚の紙が広げられていた。
そこには、先ほど月白花が残していった文字が、ユリウスによって書き写されている。
『選択の時は、明夜』
『深淵を救いたければ、月華を差し出せ』
『月華を救いたければ、深淵を受け入れよ』
『王宮地下・月蝕の間で待つ』
部屋にはレオン、リリア、第一王子、ユリウス、グレイ、そして夜啼き薬房から呼ばれたマルタが集まっていた。
誰も軽々しく口を開けない。
重苦しい空気の中、最初に沈黙を破ったのはマルタだった。
「なるほどねぇ」
しわだらけの指で紙をつつく。
「ようやく本命を出してきた」
第一王子が眉を寄せる。
「やはり罠か」
「もちろん罠さ」
マルタは肩を竦めた。
「でも、行かなきゃ終わらない」
レオンが静かに頷く。
「俺もそう思う」
「駄目だ」
第一王子は即座に否定した。
「相手は待ち構えている。こちらから飛び込む理由がない」
「あります」
答えたのはリリアだった。
全員が彼女を見る。
「深淵は、もう限界です」
リリアは胸へ手を当てた。
「さっきから……ずっと鼓動が聞こえるんです」
部屋が静まり返る。
「聞こえる?」
ユリウスが驚く。
「はい」
リリアは目を閉じた。
耳を澄ませる。
どくん。
どくん。
遠くで鳴る鼓動。
まるで地下から伝わってくるような低い音。
「少しずつ大きくなっています。昨日よりも、今日よりも」
レオンの表情が変わった。
彼も胸へ手を当てる。
「……俺もだ」
銀色の瞳が細くなる。
「呼ばれている」
マルタは深く息を吐いた。
「始まっちまったね」
「何がです?」
リリアが尋ねる。
「器と深淵の同期」
マルタは苦い顔で答えた。
「もう放っておいても止まらない。月蝕までに決着をつけなければ、向こうから来るよ」
「向こう?」
第一王子が問う。
「深淵さ」
その言葉だけで部屋の空気が冷えた。
「地下へ封じられている間は、器を呼ぶだけで済んでいる。でも完全に目覚めたら違う。深淵そのものが王都へ出てくる」
誰も言葉を失った。
それはつまり。
レオンだけの問題ではない。
王都全体。
いや、王国そのものが滅びる危険があるということだ。
◇
「行くしかない」
レオンが言った。
「……ああ」
第一王子も静かに頷く。
「ただし条件がある」
机の上へ王宮地下の古い地図を広げた。
「正面からは入らない。礼拝堂も使わない」
ユリウスが地図の端を指差す。
「こちらです。北方水路」
地下水脈が細く描かれている。
「建国以前の排水路です。現在は封鎖されていますが、月蝕の間から最も近い」
レオンが確認する。
「敵は?」
「おそらく礼拝堂側へ集中します」
第一王子が答えた。
「こちらは少人数で侵入する。誰が行く?」
レオンは当然のように言った。
「俺とリリア」
「私も」
第一王子。
「私も同行します」
ユリウス。
マルタは鼻を鳴らした。
「年寄りを忘れるんじゃないよ。私も行く」
「危険です。」
リリアが反対する。
「知ってる。でも薬師は必要だ。それに――」
マルタは笑う。
「月華を扱える薬師は、あんた一人じゃない」
その一言にリリアは驚いた。
「え?」
「少しだけ、ね」
マルタは自分の左手を見せる。
手首には薄く銀色の紋が残っていた。
「完全な月華じゃない。でも昔は補助くらいなら出来た」
リリアは目を見開く。
「どうして今まで……」
「話す暇がなかった」
マルタは苦笑した。
「それに、あんたが全部背負おうとするから」
リリアは何も言えなくなる。
まただ。
また一人で何とかしようとしていた。
レオンと約束したばかりなのに。
◇
会議が終わり、それぞれが準備へ向かった。
執務室にはレオンとリリアだけが残る。
暖炉の火が静かに燃えていた。
「眠れるか?」
レオンが尋ねる。
リリアは苦笑する。
「無理だと思います」
「俺もだ」
二人で顔を見合わせ、小さく笑った。
笑える。
こんな状況なのに。
「外へ行きませんか?」
リリアが言う。
「少しだけ」
レオンは頷いた。
◇
公爵邸の庭園。
夜風は涼しく、夏の終わりを感じさせた。
月白花が静かに咲いている。
白い花びらが月明かりを受け、淡く光っていた。
リリアはその前で立ち止まる。
「綺麗ですね」
「ああ」
レオンも隣へ立つ。
「そういえば」
リリアが微笑む。
「初めてここへ来た時、花壇を全部薬草畑にしようとしていましたね」
レオンは咳払いをした。
「忘れろ」
「忘れません。庭師が泣きそうになっていました。」
「……」
「グレイさんも止めていました」
「……」
「でも、本気でしたよね?」
「薬草は役に立つ」
「花も役に立ちます」
「どう役に立つ?」
リリアは少し考えてから答えた。
「今みたいに。怖い時、綺麗だなって思えるだけで、少し勇気が出ます。」
レオンは花を見つめた。
「そういうものか」
「はい」
「なら……」
彼は一本だけ咲いていた月白花へ視線を向ける。
「この庭は残そう」
「薬草畑にしませんか?」
「しない」
「珍しい」
「お前が気に入っている」
リリアは思わず笑った。
「ありがとうございます」
「礼はいい」
「代わりに」
レオンは少し照れたように視線を逸らす。
「帰ってきたら花を増やそう」
胸が熱くなる。
「一緒に?」
「ああ」
「約束ですよ?」
「約束だ」
二人は指を絡める。
恋人になってから初めて交わす、小さな約束だった。
◇
その頃。
王宮地下、月蝕の間。
巨大な円形の祭壇には、無数の古代文字が刻まれていた。
中央には黒い水面。
鏡のように静かな闇。
その前へ、セドリックが歩み寄る。
「準備は?」
暗闇から仮面の男が現れる。
「すべて整いました」
「研究者たちは?」
「予定通り」
「核は?」
「鼓動を始めています」
セドリックは満足そうに笑う。
「いいね。月華は?」
「必ず来ます」
セドリックは黒い水面へ手を伸ばした。
波紋が広がる。
その中に映ったのは。
レオンとリリア。
庭園で寄り添う二人だった。
「本当に美しい」
彼は静かに呟く。
「愛し合う者ほど選択は残酷になる」
仮面の男が尋ねる。
「どちらを残しますか?」
セドリックは少しだけ考えた。
そして笑う。
「どちらでも構わない。欲しいのは結果だけです」
黒い水面が揺れる。
「銀狼が深淵を選べば王が誕生する。月華を選べば器は壊れる。どちらでも……」
青い瞳が妖しく光る。
「私は勝つ」
その背後。
黒い水面の奥から。
黄金色の巨大な瞳が、ゆっくりと開いた。
しかし今回は、以前のような怒りはなかった。
ただ静かに。
セドリックだけを見ている。
その視線に気付かないまま。
第二王子は笑っていた。
自分こそが盤上の支配者だと信じて。
だが、深淵の瞳は静かに細められる。
まるで人間の傲慢さを哀れむように。
◇
翌朝。
まだ夜明け前。
公爵邸の門前へ、一羽の白い伝書鳥が舞い降りた。
グレイが受け取る。
封蝋は王家の紋章。
差出人は第一王子。
短い文だった。
『北方水路に異変あり』
『予定を変更する』
『至急、王宮へ』
グレイはすぐにレオンの部屋へ走る。
その時、屋敷の庭園では、昨夜まで満開だった月白花が、一斉に空を向いて咲いていた。
まだ夜明け前だというのに。
まるで来るべき月蝕を迎える準備をするように。
そして、その花びらの一枚一枚に。
淡い銀色の光が宿り始めていた。
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