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月影の花嫁は銀狼公爵の運命を拒む  作者: 白石マサル


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第四十三話 選ばせないために

 古い礼拝堂の中には、割れたステンドグラスから夕暮れの光が差し込んでいた。


 赤。

 青。

 金。


 床へ落ちた色硝子の破片が、まるで砕けた星のように輝いている。

 その中央で、リリアはレオンの手を握ったまま、白い神殿で見たものを一つずつ話していた。


 初代月華セレネ。

 かつて空と大地に存在した二つの月。

 人々の痛みや悲しみを引き受け、夜へ還していた月の神。

 王家に利用され、傷つけられ、深淵へ変わった存在。

 そして――

 初代銀狼公が、その核を己の身体へ封じ込めたこと。


 話している間、レオンは一度も口を挟まなかった。

 ただ静かに聞いていた。

 けれど、繋いだ手の力は少しずつ強くなっていった。


「セレネ様は言いました」


 リリアは最後の言葉を口にする。


「深淵を拒むだけでは、器はいずれ壊れると」


 レオンの銀色の瞳がわずかに揺れた。


「俺が受け入れろと」

「はい。そうすれば……」


 リリアは唇を噛む。

 言いたくない。

 けれど隠してはいけない。


「成功すれば、深淵の王になるそうです」


 礼拝堂に重い沈黙が落ちた。


 第一王子も。

 ユリウスも。

 護衛の騎士たちも。

 誰も言葉を発しなかった。


 深淵の王。


 その響きだけで、どれほど危険なものか分かる。

 レオンはしばらく俯いていた。

 やがて、ゆっくり息を吐く。


「失敗すれば?」

「……深淵そのものになります」


 リリアの声が震えた。


「人ではなくなります」

「ああ」

「もう戻れないかもしれません」

「ああ」


 レオンは静かに顔を上げた。

 驚くほど落ち着いた表情だった。


「道があるなら、試す価値はある」


 リリアの胸が冷えた。


「駄目です」


 即座に答える。

 レオンの目がこちらへ向く。


「まだ何も決めていない」

「今、決める顔をしていました」

「どんな顔だ」

「自分だけで犠牲になる人の顔です」


 レオンが黙る。

 図星だった。

 リリアは彼の手を強く握った。


「一人で決めないって約束しました」

「決めていない」

「嘘です」

「……」

「セレネ様は、二人で帰ってと言いました」


 声が強くなる。


「レオン様だけが危険を引き受けるなら、何も変わっていません」


 初代月華が一人で記憶を失い続けたのと同じ。

 初代銀狼公が一人で深淵を背負ったのと同じ。

 片方だけが犠牲になる。

 そんな結末を繰り返すために、真実を知ったのではない。


「でも」


 レオンが低く言う。


「俺の中にあるものだ」

「だから何ですか」

「お前を巻き込む理由にはならない」

「もう巻き込まれています」

「リリア」

「いいえ」


 リリアは首を振った。


「違います。巻き込まれたんじゃありません」


 一歩、彼へ近づく。


「私が選んだんです」


 レオンの瞳が揺れる。


「あなたのそばにいることを。あなたを助けることを。一緒に怖がることを。全部、自分で選びました」


 声が震えた。

 けれど目は逸らさない。


「だから、私の選択を勝手に無かったことにしないでください」


 長い沈黙。

 割れた窓から風が吹き込む。

 月白花の花弁が床を滑った。

 レオンは何も言わなかった。

 ただ、苦しそうに目を伏せた。

 その横で、第一王子が静かに口を開く。


「セレネが最後に言った言葉は」


 リリアが振り向く。


「王子に選ばせるな、だったな」

「はい」

「深淵か、月華か」


 第一王子の表情が険しくなる。


「セドリックは、レオンにどちらかを失わせるつもりだ」

「おそらく」


 ユリウスが古い礼拝堂の壁を見回す。


「公爵が深淵を拒めば、器は崩壊する。受け入れれば、深淵の王になる危険がある。一方、月華を利用すれば、公爵の理性を繋ぎ止めることができる。しかし、その代償でリリア様の記憶が失われる」


 第一王子が低く言った。


「どちらを選んでも、片方を失う」


 それがセドリックの狙い。

 愛する者を救うために。

 愛する者を犠牲にさせる。

 最も残酷な選択を、レオンへ突きつける。


「……させません」


 リリアは言った。

 誰に向けた言葉でもない。

 けれど礼拝堂の隅々まで届くほど、はっきりしていた。


「どちらも選ばせません」


 第一王子がリリアを見る。


「第三の道を探すのか?」

「はい」

「時間はないかもしれない」

「それでもです」


 レオンの中の深淵は目覚め始めている。

 セドリックも次の手を打とうとしている。

 猶予がないことは分かっていた。

 それでも。


「選択肢が二つしかないと、誰が決めたんですか」


 リリアは静かに言う。


「深淵か、月華か。どちらかが消えるしかないなんて、それを決めたのは、過去の人たちです」


 セレネたちには、他の方法を探す時間がなかった。


 技術も。

 記録も。

 味方も。


 足りなかったのかもしれない。

 けれど今は違う。


 マルタがいる。

 第一王子がいる。

 ユリウスがいる。

 北方で得た記録がある。

 そして――

 レオンとリリアは、片方だけが犠牲になることを拒んでいる。


「私たちは、過去と同じではありません」


 リリアはレオンを見る。


「そうでしょう?」


 レオンはしばらく何も答えなかった。

 やがて。

 深く息を吐く。


「……ああ」


 低い声。

 だが、確かだった。


「同じ結末にはしない」


 その言葉に、リリアの胸が少しだけ軽くなった。


 ◇


 第一王子は、その場で王宮地下の全面封鎖を命じた。


 古い礼拝堂。

 地下回廊。

 白月塔へ繋がる魔力路。


 すべてに直属騎士を配置する。

 セドリック派の者は一人も近づけない。


「それで防げるでしょうか?」


 ユリウスが不安そうに問う。


「完全には無理だ」


 第一王子は即答した。


「弟は王宮内に多くの協力者を持つ。それに、黒霧を通じた転移術がある。なら、外から封鎖しても、地下内部へ直接入られる可能性がある」


 レオンが礼拝堂の床へ落ちた月白花を見下ろす。


「それだけではない」

「何か気づいたのか?」


 第一王子が尋ねる。


「セドリックは、深淵を目覚めさせるだけなら、すでに機会があった。だが完全には起こしていない」


 リリアもその言葉の意味を考える。


 王宮地下の魔力路。

 鐘楼。

 黒鴉会。

 白月塔。


 何度も黒霧を使い。

 レオンの呪いを刺激してきた。

 それでも深淵は、まだ完全には目覚めていない。


「何かが足りない?」


 リリアが呟く。


「ああ」


 レオンが頷く。


「俺と深淵だけでは足りない」


 全員の視線がリリアへ集まる。

 胸が冷えた。


「月華」


 ユリウスが言う。


「セドリック殿下は、月華と銀狼の完全共鳴を待っていた」


 第四十話で起きた共鳴。

 記憶を失わず。

 片方だけが削られることなく。

 リリアとレオンの間を力が巡った。


「共鳴が完成した今」


 第一王子の声が重くなる。


「次の儀式を始めるつもりか」


 レオンがリリアを庇うように前へ出る。


「リリアは公爵邸へ戻す」

「嫌です」


 即答した。

 レオンが振り返る。


「今の話を聞いただろう」

「聞きました」

「狙いはお前だ」

「だからこそ、離れません」

「危険すぎる」

「レオン様から離れた方が危険です」

「何?」

「セドリック殿下は、私たちを引き離したいんです」


 白月塔でも。

 鐘楼でも。


 彼は二人の想いを利用しながら、最後にはどちらかを選ばせようとした。

 もしリリアが安全な場所へ隔離されれば。

 その間に、レオンだけが呼び出されるかもしれない。

 逆もある。


「一緒にいる方が、互いを呼び戻せます。共鳴も使える。離れたら、どちらかが狙われた時に助けられません」


 レオンは反論しようとして、口を閉じた。

 正しいと分かっている。

 けれど受け入れたくない顔だった。

 第一王子が疲れたように息を吐く。


「公爵」

「……はい」

「諦めろ」

「殿下」

「彼女は聞かない」

「……知っています」

「それに、今回に限っては彼女の意見が正しい」


 レオンは不満そうに黙った。

 リリアは少しだけ胸を張る。


「ただし」


 第一王子の視線がリリアへ向く。


「月華を使う時は必ず公爵と共鳴させる。一人では使うな」

「はい」

「異変を感じたら即座に退く」

「はい」

「それから……」


 第一王子は二人を交互に見る。


「勝手に二人だけで敵を追うな」


 リリアとレオンは同時に黙った。

 第一王子の眉が動く。


「なぜ黙る」

「……努力します」


 リリアが言う。


「努力ではない」

「善処します」

「同じだ」


 ユリウスが小さく咳払いし、笑いを隠した。


 ◇


 公爵邸へ戻ったのは、夜になってからだった。

 リリアは自室ではなく、レオンの執務室へ向かった。

 今夜から、できるだけ同じ場所で過ごすことになったのだ。


 セドリックの精神干渉術。

 黒霧を使った転移。

 どちらか一人を狙った攻撃。


 すべてに備えるため。

 表向きはそういう理由だった。

 けれど、執務室の長椅子へ座ったリリアは、落ち着かなかった。

 レオンも同じらしい。

 机へ向かっているものの、先ほどから一枚も書類をめくっていない。


「……レオン様」

「何だ」

「集中できていませんね」

「お前もだ」

「私は仕事をしていません」

「では、なぜ落ち着かない」

「それは」


 同じ部屋で過ごすこと自体は珍しくない。


 図書室。

 馬車。

 医療室。


 これまでも何度も二人きりになった。

 けれど、互いの想いを伝えたあとでは、何かが違う。

 しかも今夜は、眠る時まで近くにいるよう指示されている。

 レオンの私室と執務室の間にある休憩室へ、簡易寝台を用意するらしい。

 完全に護衛目的。

 それなのに。

 意識してしまう。


「……何でもありません」

「嘘だな」

「何でもありません」


 レオンはしばらくリリアを見ていた。

 やがて書類を置く。


「嫌なら、ミアを呼ぶ」

「嫌ではありません」


 即答してしまった。

 レオンの目が少しだけ見開かれる。

 リリアの顔が熱くなる。


「違います」

「何がだ」

「嫌ではないですが」

「ああ」

「……何でもありません」


 また同じところへ戻る。

 レオンは少し考えたあと。

 机から立ち上がった。

 リリアの隣へ座る。

 近い。

 肩が触れる。


「これなら落ち着くか」

「余計に落ち着きません」

「そうか」

「でも、離れないでください」


 言ったあとで、顔を覆いたくなった。

 レオンは黙った。

 数秒。

 それから。


「離れない」


 低い声で答える。

 たったそれだけで。

 不思議と胸のざわめきが少し収まった。


 ◇


 二人は、初代月華について分かったことを整理した。

 

 リリアが見た記憶。

 マルタから聞いた伝承。

 白月塔の資料。

 王宮地下に刻まれていた紋章。


 一つずつ紙へ書き出していく。


「セレネ様は、深淵を裏切ったと言いました」


 リリアはペンを動かしながら言う。


「でも、本当に彼女だけの責任でしょうか」

「違うだろう」


 レオンはすぐに答えた。


「王家が利用した」

「彼女も騙されていたはずだ」

「私もそう思います」


 けれどセレネ自身は、自分を許していなかった。

 何百年経っても。

 記憶の中に残るほど。


「深淵も、彼女を憎んでいるのでしょうか」

「どうだろうな」


 レオンは少し考える。


「本当に憎んでいるなら、お前に記憶を思い出せとは言わない気がする」


 リリアはペンを止めた。

 確かに。

 深淵はリリアへ。

 すべてを思い出せと言った。

 セレネの裏切りを暴きたいだけなら。

 もっと憎しみを煽る言葉を使えたはずだ。


「深淵は、何かを伝えたい?」

「あるいは」


 レオンが低く言う。


「セレネに言えなかったことを、お前に伝えようとしている」


 胸の奥が小さく震えた。

 初代銀狼公と初代月華。

 深淵。

 三者の間に。

 まだ記録されていない真実がある。


「もう一度、深淵と話す必要がありますね」

「駄目だ」


 即答。


 リリアはレオンを見る。


「でも……」

「今度はただでは戻れないかもしれない」

「それでも、真実を知るには」

「俺が話す」

「え?」

「次は俺が深淵へ入る」


 リリアは立ち上がった。


「駄目です」

「俺の中にいる」

「だから危険なんです!」

「お前を入れるよりはいい」

「また一人で決めています!」


 言い争いになりかけた。

 その時。

 窓が音もなく開いた。

 二人は同時に振り向く。

 風はない。

 それなのに、白い花弁が一枚だけ部屋へ入ってきた。


 月白花。


 レオンがすぐに剣へ手を伸ばす。

 リリアも身構える。

 花弁は二人の前で静止した。

 そして、空中へ文字を描き始める。


 黒い光。

 一文字ずつ。


『選択の時は、明夜』


 リリアの胸が冷える。

 文字が続く。


『深淵を救いたければ、月華を差し出せ』

『月華を救いたければ、深淵を受け入れよ』


 最後に。

 金色の光で一文が浮かぶ。


『王宮地下、月蝕の間で待つ』


 花弁が黒く燃え尽きる。

 部屋へ灰が落ちた。

 レオンの表情が凍る。


「月蝕の間」


 リリアが呟く。


「知っていますか?」

「聞いたことがある」


 レオンの声は低い。


「王宮地下の最深部。深淵の核がある場所だ」


 セドリックは待っている。

 

 明夜。

 そこで。

 深淵か。

 月華か。


 どちらかを選ばせるために。

 リリアはレオンを見る。

 レオンも同じタイミングで彼女を見た。

 何も言わなくても。

 互いが何を考えているか分かった。


「行きます」


 リリアが言う。


「ああ」


 レオンは止めなかった。


「だが」


 彼はリリアの両肩へ手を置く。


「選ばない」


 銀色の瞳が強く光る。


「深淵も、お前も。どちらも失わない」


 リリアは頷いた。


「はい」

「セドリック殿下に選ばせません」

「俺たちで決める」

「二人で」

「ああ」


 それが答えだった。


 深淵か。

 月華か。


 そんな二択は認めない。

 過去の悲劇も。

 王家の罪も。

 セドリックの計画も。

 すべてを終わらせて。

 二人で帰る。

 レオンはリリアを引き寄せた。

 強く。

 けれど壊れものへ触れるように。

 リリアも彼の背へ腕を回す。


「怖いです」


 胸元へ顔を寄せたまま、正直に言う。


「俺もだ」


 レオンも隠さなかった。


「それでも行きますか」

「ああ」

「私がいるから?」

「違う」


 一瞬、胸が痛みかける。

 けれどレオンは続けた。


「お前と生きて帰りたいからだ」


 リリアは目を閉じた。

 胸の奥に、その言葉を刻む。

 忘れないように。

 もし忘れても。

 また思い出せるように。


「必ず帰りましょう」

「ああ」

「二人で」

「約束する」


 窓の外。

 月が少しずつ欠け始めていた。

 

 明夜。

 月蝕。

 深淵の核。

 セドリックが待つ王宮地下。


 ついに、銀狼と月華に課された、最も残酷な選択の時が迫っていた。

読んでいただきありがとうございます。

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