第四十二話 月華の記憶
深淵の巨大な瞳が閉じたあとも、誰一人としてすぐには動けなかった。
王宮地下の最深部。
崩れた石床。
黒霧に侵された研究者たち。
壁際へ倒れた騎士。
そして、静かになった巨大な亀裂。
つい先ほどまで、その暗闇の奥には世界を飲み込みかねない存在がいた。
いや――今もいる。
ただ、再び目を閉じただけだ。
「……終わった、のでしょうか?」
ユリウスが呟いた。
返事をする者はいなかった。
第一王子は剣を下ろさず、亀裂の奥を見つめている。
「終わってはいない」
レオンが低く答えた。
彼はリリアの前へ立っていた。
深淵が消えたあとも、庇う姿勢を崩していない。
「眠っただけだ」
「では、また目覚める?」
リリアが尋ねる。
「ああ」
レオンは短く答えた。
「次は、もっと深く」
胸元の銀色の紋様は消えていた。
だが、完全に収まったわけではない。
リリアには分かった。
レオンの中にある銀狼の力と。
地下に眠る深淵。
二つは今も、細い糸で繋がっている。
どくん。
不意に、胸の奥で鼓動が鳴った気がした。
リリアは思わず胸元を押さえる。
「リリア?」
レオンがすぐに振り返った。
「どうした」
「今……」
もう一度。
耳を澄ませる。
だが、何も聞こえない。
「深淵の鼓動が聞こえた気がして」
レオンの顔が強張る。
「痛みは?」
「ありません」
「頭痛は」
「少しだけ」
「記憶は?」
その質問に、リリアは答えるまで少し時間がかかった。
白い神殿。
銀色の髪の女性。
月華の力。
帰る場所を教える光。
先ほど一瞬だけ見えた記憶。
あれはリリア自身のものではない。
少なくとも、今のリリアが経験した記憶ではなかった。
「……あります」
「何を思い出した」
レオンが問いかける。
その声には、隠しきれない不安があった。
リリアがまた記憶を失ったのではないか。
あるいは、別の何かに乗っ取られたのではないか。
そう恐れているのだ。
「白い神殿です」
リリアは静かに答えた。
「昔の……月華の記憶だと思います」
第一王子とユリウスもこちらを見る。
「昔の月華?」
ユリウスが反応する。
「先代ですか?」
「分かりません」
リリアは首を横に振る。
「もっと古い気がします」
「初代月華か」
第一王子が低く言った。
その言葉に、胸の奥がかすかに震えた。
初代月華。
初代銀狼公と共に深淵を封じた巫女。
白月塔の壁画に描かれていた女性。
夢の中で、何度もリリアに語りかけてきた人。
「すべてを思い出せ」
深淵が残した言葉。
あれは、リリアに向けたものだった。
つまり深淵は、リリアの中に過去の月華の記憶が眠っていることを知っている。
「……私の中に」
リリアは自分の手を見つめた。
「何かが残されているんでしょうか?」
「考えるのは後だ」
レオンが言った。
「まずここから出る」
声がいつもより強い。
「お前の顔色が悪い」
「まだ歩けます」
「信用できない」
「ひどいです」
「実績がある」
言い返せなかった。
だが、ほんの少しだけ空気が和らいだ。
第一王子も剣を収める。
「ヴァルハルト公爵の言う通りだ。地下施設の調査は後続へ任せる。捕らえた研究者たちを運び出せ」
騎士たちが動き始める。
拘束された研究者たちは、黒霧が薄れたことで意識を失っていた。
怪物化していたエルバート卿も、人間に近い大きさまで戻っている。
完全ではない。
腕には黒い結晶が残り、顔の半分は変異したままだ。
それでも、生きている。
リリアは彼のそばへ膝をついた。
「リリア」
レオンが止めようとする。
「診るだけです」
「月華は使うな」
「使いません」
エルバート卿の脈へ指を当てる。
弱い。
けれど確かにある。
呼吸もしている。
「生きています」
リリアはほっと息を吐いた。
その瞬間、老人の瞼がわずかに開いた。
黒く濁っていた瞳。
その奥に、ほんの僅かだけ人間の光が戻っている。
「……月……華」
掠れた声。
リリアは身を寄せる。
「はい、分かりますか?」
老人の唇が動く。
「下に……行っては……」
「もう戻ります」
「深淵を……」
彼は苦しそうに息を吐いた。
「帰すな」
リリアの表情が止まる。
「え?」
「帰る場所など……ない」
先ほど聞いた言葉と正反対だった。
月華は、帰る場所を教える光。
深淵にも帰る場所がある。
そう思った。
けれどエルバート卿は、はっきりと否定した。
「深淵は……」
老人の瞳に恐怖が浮かぶ。
「帰ったのでは……ない。捨てられたのだ」
その言葉を最後に、エルバート卿は意識を失った。
「捨てられた……?」
リリアが呟く。
レオンが彼女の肩へ手を置いた。
「今は考えるな」
「でも」
「リリア」
低い声。
真っ直ぐな銀色の瞳。
「帰ってから、一緒に考える」
一人で考えるな。
一人で背負うな。
その意味が伝わってきた。
リリアは小さく頷いた。
「はい」
◇
王宮地下から地上へ戻る道は、来た時よりも長く感じられた。
負傷者たちを運ぶため、歩みは遅い。
石造りの階段。
薄暗い回廊。
壁に刻まれた狼と月の紋章。
リリアはその一つ一つを見るたび、頭の奥へ何かが触れるような感覚を覚えた。
懐かしい。
来たことがないはずなのに。
知っている。
手を伸ばせば。
思い出せそうな気がする。
けれど同時に。
思い出してはいけないような恐怖もあった。
「見るな」
レオンの手が視界を遮った。
「え?」
「さっきから紋章を見るたび、顔色が悪くなっている」
「そんなに分かりやすいですか」
「ああ」
「少しだけなら」
「駄目だ」
「でも」
「お前は今、知らない記憶に引っ張られている」
リリアは黙った。
否定できない。
レオンは手を下ろさず、そのまま彼女の視線を壁から逸らさせる。
「俺を見ろ」
胸が小さく跳ねた。
「今は、俺だけ見ていろ」
「……はい」
言われた通りにする。
銀色の髪。
銀色の瞳。
頬に残る薄い傷。
少し疲れた顔。
自分を心配している人。
見慣れたレオンの姿が、リリアを現在へ繋ぎ止める。
「分かります」
リリアは言った。
「何が」
「白月塔で、レオン様が私に“俺を見ろ”と言った理由です」
レオンは少しだけ目を伏せた。
「戻ってきてほしかった」
「はい」
「今も同じだ」
リリアの胸が温かくなる。
「戻っています」
「ならいい」
それでもレオンは、階段を上り終えるまでリリアの手を離さなかった。
◇
古い礼拝堂へ戻った時だった。
地上の空気を吸い、誰もが少しだけ緊張を緩めた。
その瞬間、天井のステンドグラスが砕けた。
「伏せろ!」
レオンの声。
色硝子の破片が雨のように降り注ぐ。
リリアは強い腕に抱き込まれた。
黒い外套が視界を覆う。
同時に、礼拝堂の四方から白い花弁が舞い込んだ。
「月白花!」
ユリウスが叫ぶ。
花弁が空中で静止する。
一枚。
二枚。
数え切れないほど。
それぞれに黒い魔術紋が浮かんでいた。
「全員、結界を!」
第一王子が命じる。
直属騎士たちが魔術盾を展開する。
だが、白い花弁は盾をすり抜けた。
まるで実体がない。
幻影。
いや、違う。
「精神干渉術です!」
ユリウスの顔色が変わる。
「目を閉じてください!」
遅かった。
白い光が礼拝堂を包む。
◇
気づけば。
リリアは白い神殿に立っていた。
王宮ではない。
地下でもない。
高い柱。
白い床。
天井のない広間。
夜空には、巨大な満月。
夢で見た場所。
記憶の中の場所。
「……ここは」
周囲に誰もいない。
レオンも。
第一王子も。
騎士たちも。
「レオン様!」
呼ぶ。
返事はない。
代わりに。
足音が聞こえた。
白い回廊の奥から、一人の女性が歩いてくる。
長い銀髪。
淡い月色の瞳。
古代の衣装。
夢で見た人。
月華の巫女。
彼女はリリアの前で立ち止まった。
そして優しく微笑む。
「ようやく会えました」
「あなたは……」
「名は、セレネ」
女性は答えた。
「最初の月華」
やはり。
初代月華。
「これは記憶ですか?」
リリアは尋ねる。
「夢ですか?」
「どちらでもあります」
セレネは静かに言った。
「そして、どちらでもありません」
分かるようで分からない答えだった。
「レオン様はどこですか?」
「あなたのそばに」
「見えません」
「今は」
セレネは悲しそうに微笑む。
「あなたの心が、ここへ閉じ込められているからです」
リリアは周囲を見る。
白い神殿。
美しい。
静か。
けれど、妙に冷たい。
どこにも出口がない。
「セドリック殿下の術ですか」
セレネの表情が曇る。
「彼は、私の記憶を利用しました」
「あなたの?」
「白月塔に残された記録、王家が奪った、私の死後の記憶」
リリアは息を呑む。
セドリックは初代月華の記憶を使い。
リリアの心を過去へ閉じ込めた。
「ここから出る方法は?」
「あります」
セレネは答える。
「すべてを思い出すこと」
深淵と同じ言葉。
「何を」
「私たちが、なぜ深淵を封じたのか。初代銀狼公が、なぜ器となったのか。そして――」
セレネの瞳が揺れる。
「私が、誰を裏切ったのか」
「裏切った?」
リリアが聞き返す。
セレネは俯いた。
「深淵を捨てたのは、人間です」
エルバート卿の言葉が蘇る。
帰る場所などない。
深淵は帰ったのではない。
捨てられた。
「深淵は、元々何だったんですか」
リリアが尋ねる。
セレネはゆっくり顔を上げた。
「月の神です」
静寂。
「え……」
「かつて、この世界には二つの月がありました。一つは空に。もう一つは、大地の下に」
セレネは夜空の満月を見る。
「地上の生き物の痛みや悲しみを引き受け、夜へ還す神。それが、のちに深淵と呼ばれた存在です」
リリアは言葉を失った。
深淵は最初から怪物だったわけではない。
人々の痛みを受け止める存在。
月華と似ている。
「では、なぜ?」
「人は、その力を欲しがりました」
セレネは悲しそうに答える。
「悲しみを消すためではなく、敵の心を壊すために。痛みを奪うためではなく、痛みを感じない兵士を作るために」
黒鴉会。
感情を失わせる薬。
恐怖を知らない兵士。
同じことが、過去にもあった。
「王家は月の神を地上へ引きずり出し、その力を兵器として使おうとしました。神は傷つき、怒り、悲しみ、やがて人の負の感情に飲み込まれた。それが深淵です」
胸が苦しくなる。
深淵は孤独だった。
帰る場所を求めていた。
それは本当だ。
けれど。
「私は」
セレネが続ける。
「月の巫女として、神を地上へ導く役目を担いました。私が人間を信じたから深淵は捕らえられた」
声が震えている。
「私が、裏切ったのです」
彼女の瞳から涙が零れる。
リリアは何も言えなかった。
数百年。
あるいはそれ以上。
ずっと。
彼女は罪を抱え続けていた。
「だから初代銀狼公と」
「はい」
セレネは頷いた。
「彼と共に、深淵を止めました。けれど、滅ぼすことはできなかった。滅ぼしたくもなかった。だから彼が器となり、私は月華の力で、彼の心を繋ぎ止めた」
それが始まり。
銀狼の器。
月華の巫女。
二人の運命。
「でも」
リリアは言った。
「セレネ様は最後に、銀狼公を忘れた」
セレネは静かに目を閉じた。
「そうです。私は月華を一人で使い続けた。彼を救うために。深淵を眠らせるために。そのたびに、記憶を失いました。最後には――」
声が小さくなる。
「彼の名前も」
白い神殿へ風が吹く。
銀色の髪が揺れる。
「それでも」
セレネは微笑んだ。
「彼を愛していたことだけは、消えなかった」
リリアの胸が強く鳴った。
自分と同じだ。
告白した瞬間を忘れても。
感情は残っていた。
記憶を失っても。
心は覚えていた。
「あなたは、私と同じ結末を辿ってはいけません」
セレネはリリアの手を取った。
冷たい。
「二人で巡らせてください。片方がすべてを背負うのではなく、片方を救うために、片方が消えるのではなく、二人で生きるために」
リリアは頷いた。
「そのつもりです」
「いいえ」
セレネの表情が険しくなる。
「まだ足りません」
「足りない?」
「銀狼の器は」
彼女は言った。
「自らの意志で、深淵を受け入れなければならない」
リリアの息が止まる。
「受け入れる?」
「拒むだけでは、器はいずれ壊れます。深淵を消すことも切り離すこともできません」
「では、どうすれば」
「彼が深淵を受け入れ、深淵が彼を一人の人間として受け入れる。それしかありません」
レオンが。
あの存在を。
自分を人でなくするかもしれない力を、受け入れる。
そんなこと――
「危険です」
「はい」
「失敗したら」
「彼は深淵になります」
セレネは静かに答えた。
「そして成功すれば」
一拍。
「銀狼は、深淵の王となります」
その言葉に。
白い神殿が大きく揺れた。
「リリア!」
遠くから声がする。
レオンの声。
必死に呼んでいる。
「戻ってこい!」
白い神殿に亀裂が入る。
セドリックの術が崩れ始めている。
セレネの姿も薄くなる。
「待ってください!」
リリアは手を伸ばす。
「深淵の王とは何ですか!」
セレネは悲しそうに微笑んだ。
「選ばせてはなりません」
「誰に?」
「王子に」
彼女の姿が消えていく。
「深淵か、月華か。セドリックは、レオンに選ばせるつもりです」
「選ぶって……」
「必ず」
セレネの声が遠くなる。
「あなた自身の意志で、彼の手を取って、誰にも選ばせてはなりません」
神殿が砕ける。
視界が白く染まる。
最後に。
セレネは優しく言った。
「今度こそ、二人で帰ってください」
◇
「リリア!」
目を開けた。
最初に見えたのは、銀色の瞳だった。
レオンがリリアを抱きしめている。
古い礼拝堂。
割れたステンドグラス。
散らばる月白花。
現実へ戻った。
「レオン様……」
声を出した瞬間。
強く抱きしめられた。
息が苦しいほど。
「よかった」
声が震えている。
「呼んでも戻らなかった。目を開けろと言っても、手を握っても戻らなかった」
「ごめんなさい」
「謝るな」
レオンの腕にさらに力が入る。
「怖かった」
「はい」
「お前を失ったと思った」
リリアは彼の背へ手を回した。
「戻りました。あなたが呼んでくれたから」
しばらく。
二人は言葉を交わさなかった。
互いの体温を確かめるように、抱き合っていた。
やがてレオンが少し身体を離す。
「何を見た」
リリアは答えようとして。
一瞬迷った。
深淵の正体。
月の神。
初代月華の裏切り。
そして――
レオンが深淵を受け入れなければならないという未来。
怖い。
言いたくない。
言えば、彼はきっとその危険な道を選ぼうとする。
けれど、隠さないと約束した。
二人で決めないと。
「全部話します」
リリアは言った。
レオンの瞳がわずかに和らぐ。
「ああ」
「一緒に考えてください」
「当然だ」
リリアは彼の手を握った。
強く。
「深淵は、元々月の神だったそうです」
そうして。
リリアは白い神殿で聞いたすべてを語り始めた。
その背後。
砕けたステンドグラスの外。
王宮の高い塔から。
金色の髪の男が、静かに礼拝堂を見下ろしていた。
セドリック。
その手には、黒い結晶と。
銀色に輝く小さな花。
「初代月華の記憶に辿り着いたか」
彼は微笑む。
「なら、次は選択の時だ」
黒い結晶が脈打つ。
「深淵を取るか、月華を取るか」
青い瞳が細められる。
「レオン、君はどちらを失う?」
王宮の鐘が鳴った。
夕暮れを告げる音。
だがその鐘の音に混じって。
誰にも聞こえないほど低い。
深淵の鼓動が、再び響き始めていた。
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