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月影の花嫁は銀狼公爵の運命を拒む  作者: 白石マサル


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第四十一話 深淵の王

 地下回廊を満たしていた銀色の光は、ゆっくりと収束していった。


 月華と銀牙。


 二つの力が完全に共鳴したことで、濃密だった黒霧は嘘のように薄れていく。

 倒れていた研究者たちの身体からも黒い靄が少しずつ抜け始めていた。


「……黒霧が」


 ユリウスが信じられないものを見るように呟く。


「浄化されている……」

「違う」


 第一王子が静かに首を振る。


「浄化だけではない」


 彼はリリアとレオンを見つめた。


「二人の力が黒霧そのものを押さえ込んでいる」


 リリアはレオンの手を握ったまま、小さく息を整えていた。

 身体は重い。

 胸の奥が焼けるように熱い。

 だが、不思議と以前のような記憶を削られる感覚はない。


「……大丈夫です」


「本当か?」


 レオンが真っ先に尋ねる。


「はい」


 リリアは微笑んだ。


「ちゃんと覚えています」


「俺の名前は?」


「レオン・ヴァルハルト公爵様」


「その次」


「私の恋人です」


 レオンは耳まで赤くなる。

 周囲には第一王子も騎士たちもいる。

 それを思い出したリリアも、数秒遅れて顔を真っ赤にした。


「……あ」


「い、今のは聞かなかったことにしてください!」


 直属騎士たちは慌てて視線を逸らした。

 ユリウスは咳払いをする。

 第一王子だけが疲れたように額を押さえた。


「地下で命懸けの戦いをしている最中に、君たちは本当に……」

「申し訳ありません。」


 リリアは縮こまる。

 レオンは黙っていた。

 だが、口元だけは少し緩んでいた。


 ◇


 その時だった。


 どくん。


 地下深くから、再び鼓動が響く。

 しかし今度は明らかに違う。


 先ほどより強い。

 重い。


 まるで地下世界全体が生き物になったようだった。


「まだ終わっていない」


 第一王子が剣を構える。


「深淵だ」


 レオンもゆっくり立ち上がる。

 銀色の瞳はすでに元へ戻っていた。

 だが胸の紋様だけは消えていない。


「呼ばれている」


 彼は静かに言った。


「まだ俺を」


 リリアは彼の腕を掴む。


「行かなければならないんですか?」


 レオンは答えない。

 代わりに地下の奥を見つめていた。


「行かせるつもりはない」


 第一王子が言う。


「ここから先は私が」


 その瞬間、地下回廊の床が大きく揺れた。

 轟音。

 石畳が割れる。


「下がれ!」


 レオンがリリアを抱き寄せる。

 床が崩れた。

 巨大な亀裂。

 その奥から。

 黒い柱のような霧が噴き上がる。


「何だ……!」


 直属騎士が叫ぶ。

 霧は天井を突き破るほど高く伸びる。

 その中心。

 ゆっくりと。

 巨大な"瞳"が開いた。


「……!」


 誰も動けなかった。

 

 瞳だけだった。

 身体はない。

 闇そのものに浮かぶ、黄金色の巨大な瞳。

 人間など何百人も入るほど巨大な眼。


 それがゆっくりとレオンを見つめる。

 頭の中へ直接声が響いた。


『久しいな』


 低く。

 古く。

 世界が生まれる前から存在したような声。

 リリアは思わず耳を塞ぐ。

 だが意味がない。

 声は頭の中へ直接届いていた。


『我が器よ』


 レオンの身体が震える。


『長い眠りであった』

『よく耐えた』


 レオンは剣を握る。


「……お前が深淵か」


 瞳は静かに瞬いた。


『そう呼ばれることもあった』

『今の人間はそう名付ける』


 第一王子が剣を構える。


「正体を現せ!」


 巨大な瞳がゆっくり彼を見る。

 その一瞬。

 第一王子の身体が吹き飛んだ。


「殿下!」


 壁へ激突する。

 誰も何もされていない。

 視線だけ。

 たったそれだけだった。


「近づくな」


 レオンが低く言う。


「これは俺の相手だ。」


 ◇


 巨大な瞳は笑っていた。

 口はない。

 それでも笑っていると分かった。


『変わらぬな』

『初代もそうだった』

「初代銀狼公か」

『そう』

『あれも我を斬ろうとした。』


 リリアは息を呑む。


「斬れなかったんですか?」

『斬れば世界が壊れる』


 静かな答えだった。


『故にあれは』

『我を己へ封じた』


 地下回廊が静まり返る。

 マルタの話は本当だった。

 初代銀狼公は深淵を封印したのではない。

 身体へ取り込んだ。


『愚かな男だった』

『だが、美しかった』


 その言葉に。

 レオンが一歩前へ出る。


「俺はお前を受け継がない」

『そうか』

「ここで終わらせる」

『出来るならな』


 瞳が細くなる。


『だが、お前はもう我の半身』

『心臓は既に我と繋がっている』


 その瞬間。

 レオンの胸が激しく脈打った。


「ぐっ!」

「レオン様!」


 リリアが支える。

 銀色の紋様が再び全身へ広がる。

 今度は以前より速い。


「器が限界に近い」


 ユリウスが青ざめる。

 第一王子も立ち上がる。


「今ここで暴走したら……」


 誰も続きを言えなかった。


 王都ではない。

 地下最深部。

 深淵の目の前。


 ここで銀狼が暴走すれば。

 封印そのものが崩れる。


 ◇


 その時、リリアの月華が勝手に反応した。


 銀色の光ではない。

 淡い白。

 そして――


 見たことのない蒼白い光。


「これは……」


 彼女の足元へ魔法陣が浮かぶ。


 月白花。

 狼。

 古代文字。

 誰も知らない術式。


 リリアの瞳から涙が一筋流れた。


「……思い出した」


 小さく呟く。


「え?」


 レオンが見る。

 リリア自身も驚いていた。


 知らない記憶。

 知らない景色。

 白い神殿。

 銀色の髪の女性。


 その女性が笑っている。


『月華は浄化ではありません』


 優しい声。


『帰る場所を教える光です』

『深淵さえも』

『帰りたい場所がある』


 そこで記憶は切れた。


「リリア?」


 レオンが心配そうに呼ぶ。

 リリアは彼を見つめた。


「思い出しました」

「何を?」

「月華の本当の意味を」


 巨大な瞳が初めて揺れた。


『……その記憶』

『まだ残っていたか』


 リリアは一歩前へ出る。


 怖い。

 でも。

 不思議と足は止まらなかった。


「あなたは」


 巨大な瞳を真っ直ぐ見る。


「帰れなかっただけなんですね」


 地下が静まり返る。


『……何?』

「ずっと封じられて、誰にも理解されなくて、だから器を求め続けた」


 巨大な瞳が揺れる。


「あなたも」


 リリアは静かに言った。


「独りだった」


 その瞬間、地下世界すべてが震えた。

 黒霧が乱れる。

 巨大な瞳が初めて苦しそうに歪む。


『……違う』

「違いません」

『我は深淵』

『孤独ではない』

「では」


 リリアは優しく微笑んだ。


「どうして泣いているんですか」


 誰も気づかなかった。

 巨大な黄金の瞳。

 その片隅から。

 黒い涙が一滴だけ流れていた。

 深淵は泣いていた。

 数千年もの間。

 誰にも気づかれないまま。


 ◇


 仮面の男が初めて焦った。


「話すな!」


 彼は黒霧魔石を何個も投げる。


「深淵様!」


「その女の声を聞いてはいけません!」


 レオンが剣を抜く。


「邪魔をするな!」


 銀色の斬撃。

 魔石が次々砕ける。

 第一王子も騎士たちも応戦する。

 地下回廊は再び戦場となった。

 しかし、リリアだけは動かなかった。

 巨大な瞳だけを見ている。


「帰りましょう」


 静かな声。


「帰る場所があるなら、私が見つけます」

『……帰る?』

「はい」

『我にも』

「あります」


 リリアは頷いた。


「だから、もう誰も器にしなくていい」


 その言葉と同時に。

 深淵の鼓動が一瞬だけ穏やかになった。


 どくん。


 どくん。


 まるで、長い眠りから目覚めた子供のように。

 しかしその変化を見た仮面の男は、狂気に満ちた笑みを浮かべた。


「なるほど、そういうことですか」


 彼はゆっくり後退する。


「なら計画を変えましょう」


 誰も気づかないほど小さな声で呟いた。


「器ではなく、月華そのものを奪えばいい」


 そう言い残すと、男は黒霧へ身を溶かすように姿を消した。

 レオンが追おうとする。

 しかし、深淵の巨大な瞳が静かに閉じ始めた。


『次に会う時』

『すべてを思い出せ』


 その言葉だけを残して。

 黄金の瞳は闇へ沈んでいった。

 地下回廊には静寂だけが残る。

 リリアは胸を押さえた。


 まだ何かある。

 思い出しかけた記憶の続き。


 白い神殿。

 銀色の髪の女性。

 そして――


 自分とよく似た、もう一人の月華。

 その真実が明らかになる日は、もう遠くなかった。

読んでいただきありがとうございます。

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