第四十話 深淵の鼓動
どくん
どくん
どくん
地下深くから響く鼓動は、生き物の心臓のようだった。
そのたびに地下回廊の石壁が微かに震え、黒霧が渦を巻く。
「……っ!」
レオンが片膝をついた。
胸を押さえる右手に力が入り、軍服の上からでも銀色の紋様が浮かび上がっているのが分かる。
それは星印とも違う。
銀牙とも違う。
まるで血管そのものが銀色に光っているようだった。
「レオン様!」
リリアはすぐに駆け寄る。
「触るな!」
第一王子が鋭く叫んだ。
「まだだ!」
リリアは動きを止める。
「殿下?」
第一王子はレオンを真っ直ぐ見つめた。
「今、深淵は銀狼を呼んでいる。ここで不用意に月華を流せば、共鳴が暴走する可能性がある」
その言葉にリリアは唇を噛んだ。
助けたい。
今すぐ抱きしめたい。
でも、それが逆にレオンを苦しめるかもしれない。
「ぐっ……!」
レオンが息を荒くする。
銀色の瞳がわずかに赤く染まり始めていた。
「閣下!」
直属騎士たちが一歩前へ出る。
だがレオンは片手を上げて制した。
「来るな」
低い声。
しかし、その声には微かな苦痛が混じっていた。
「まだ……制御できる」
その時だった。
地下全体へ響くように、あの仮面の男が笑った。
「素晴らしい」
乾いた拍手が響く。
「器は本当に美しい。深淵の呼び声へ応えている」
レオンはゆっくり立ち上がる。
まだ苦しそうだ。
それでも剣を構える。
「……黙れ。お前たちは、何人犠牲にした?」
仮面の男は肩を竦める。
「数えたことはありません。研究とは、そういうものでしょう?」
その言葉にリリアの胸が熱くなった。
怒りだった。
「研究は人を救うためのものです!」
リリアは声を張り上げた。
「人を壊すためじゃない!」
仮面の男は少しだけ首を傾げる。
「理想論ですね、薬師のお嬢さん。あなたも命を選別したことがあるでしょう?」
リリアは答えられなかった。
診療所で働いていた頃。
薬が足りず、全員を助けられなかった冬があった。
あの日。
幼い兄妹の弟だけを優先した。
姉は翌朝、息を引き取った。
忘れたことなど一度もない。
仮面の男は笑う。
「救えない命は切り捨てる。それが現実です。」
「違います!」
リリアは首を振る。
「救えない命があることと、見捨てることは違います!」
地下回廊へ、その声が響いた。
レオンが少しだけこちらを見る。
銀色の瞳に、微かな光が戻る。
◇
その瞬間。
怪物となったエルバート卿が再び咆哮を上げた。
「ガアアアァァッ!」
巨大な腕が振り下ろされる。
レオンが剣で受け止める。
轟音。
石床が砕けた。
「重い……!」
レオンの傷口から再び血が滲む。
リリアは歯を食いしばった。
「今度こそ私が……」
月華が指先へ集まり始める。
しかし――
「リリア!」
レオンが叫ぶ。
「まだ使うな!」
「でも!」
「……信じろ」
その一言だった。
リリアは息を止める。
『信じろ』
彼は以前も言った。
「俺を信じろ」
あの日。
恋人になった夜にも。
リリアはゆっくり頷いた。
「……はい。」
レオンは安心したように小さく息を吐く。
そして怪物を真っ直ぐ見た。
「エルバート卿、聞こえるか」
怪物の動きが止まる。
「あなたは研究者だ。王国を守るため研究していた。違うか?」
怪物の瞳が揺れる。
黒霧の奥。
ほんの少しだけ人の光が戻る。
「……お……う」
声にならない。
レオンは剣を下ろした。
「もう戦わなくていい」
直属騎士たちが驚く。
「閣下!」
「危険です!」
「下がれ」
レオンは動かなかった。
怪物へ向かって歩き始める。
「レオン様!」
リリアも思わず叫ぶ。
しかし彼は止まらない。
「あなたは犠牲者だ。もう十分戦った、休め。」
静かな声だった。
怪物の身体が震える。
黒霧が揺れる。
「……や……す」
「み」
涙だった。
怪物の黒い瞳から、一筋だけ透明な涙が流れ落ちた。
その瞬間――仮面の男の表情が初めて歪む。
「何?」
怪物が自分で胸を押さえた。
黒霧を押さえ込もうとしている。
「違う!」
仮面の男が叫ぶ。
「命令に従え!」
しかし怪物は苦しそうに首を振る。
「いや」
たった一言。
それだけだった。
だが確かに自分の意思だった。
◇
「今です!」
第一王子が叫ぶ。
ユリウスが魔法陣を展開する。
「拘束術式!」
青白い光が怪物の足元へ広がった。
銀色の鎖が身体を縛る。
怪物は抵抗しない。
静かに目を閉じていた。
リリアは涙が溢れそうになる。
「助けられる」
まだ終わっていない。
完全に黒霧へ飲まれてはいない。
その時、仮面の男が舌打ちした。
「失敗作め」
彼は懐から黒い結晶を取り出す。
黒霧魔石。
「なら処分します」
魔石を投げた。
「危ない!」
リリアが叫ぶ。
黒霧魔石は怪物の胸へ向かう。
当たれば。
完全に暴走する。
その瞬間――レオンが飛んだ。
剣で魔石を斬る。
しかし――
ぱきん。
魔石が割れた。
「しまっ……!」
割れた破片から黒霧が爆発する。
レオンの身体が飲み込まれた。
「レオン様!」
リリアは反射的に走った。
今度は止まらなかった。
月華が勝手に溢れる。
銀色の光。
黒霧の中へ飛び込む。
「リリア!」
第一王子が叫ぶ。
しかしもう止められない。
リリアは黒霧の中心でレオンの手を掴んだ。
「レオン様!」
返事はない。
黒霧が彼を包み込む。
銀色の紋様が全身へ広がっていた。
「レオン様! 戻ってください!」
返事はない。
リリアは涙をこらえる。
違う。
呼ぶだけじゃ駄目。
もっと。
彼へ届く言葉を。
その時、日記を思い出した。
失ってしまった記憶。
『私はたぶん、レオン様が好きなのだと思う』
思い出せなかった気持ち。
でも、今なら分かる。
記憶はなくても。
心は覚えている。
「レオン様!」
リリアは強く手を握った。
「私は!」
声が震える。
怖い。
恥ずかしい。
でも――今しかない。
「私はあなたが好きです!」
地下回廊へ声が響く。
「記憶を失っても! 何度忘れても! 私はまたあなたを好きになります!」
銀色の光が弾けた。
黒霧が震える。
レオンの身体が大きく揺れた。
「だから!」
涙が止まらない。
「戻ってきてください! 私を一人にしないでください!」
静寂。
ほんの数秒。
永遠のような時間。
やがて――
黒霧の中から、ゆっくりと腕が伸びた。
リリアの頬へ触れる。
「……泣くな」
掠れた声。
レオンだった。
銀色の瞳が少しずつ元へ戻っていく。
「レオン様……!」
「聞こえていた」
彼は苦しそうに笑った。
「全部」
リリアは泣きながら笑う。
「恥ずかしいです……」
「そうだな」
「こんな場所で言うつもりじゃなかったのに……」
レオンはゆっくり身体を起こす。
そして、誰も見たことのないほど優しく笑った。
「俺も……」
一拍置く。
「何度忘れても」
彼はリリアの額へそっと額を合わせた。
「またお前を好きになる」
その瞬間――二人の星印が同時に輝いた。
銀色。
そして淡い月色。
光は螺旋を描き、地下回廊全体へ広がっていく。
黒霧が静かに浄化され始めた。
「共鳴……!」
ユリウスが息を呑む。
「これが月華と銀牙の完全共鳴!」
第一王子も目を見開く。
仮面の男だけが険しい顔になった。
「馬鹿な! こんな共鳴は記録にない!」
地下深くから響く鼓動が一瞬止まる。
どくん。
そして再び鳴る。
しかし今度は。
鼓動に混じって。
誰かの笑い声が聞こえた気がした。
低く。
古く。
まるで数百年前から眠り続けていた存在が、静かに目を開いたような笑い声だった。
リリアは震えた。
レオンも同じ方向を見る。
地下最深部。
深淵はまだ終わっていない。
むしろ、二人の共鳴を感じ取り、本当の意味で目覚め始めたのだった。
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