第三十九話 黒霧の研究者たち
「――器を返せ」
その声は、人間のものとは思えなかった。
喉が潰れたような掠れた声。
それが地下回廊いっぱいに響く。
白衣をまとった男たちはゆっくりと歩いてくる。
足取りは不自然だった。
関節が軋み、糸で操られる人形のようにぎこちない。
けれど、その数は二十人を超えていた。
誰もが王宮研究局の紋章を胸につけている。
「全員……研究員なのか」
第一王子が険しい表情で呟く。
ユリウスは魔石灯を掲げ、一人の顔を照らした。
そして息を呑む。
「この方は……」
「知っているのか?」
「はい……王宮魔導研究局局長、エルバート卿です」
リリアもその顔を見た。
年配の男性。
髪は白く、頬は痩せこけている。
しかし、その瞳には理性がない。
黒く濁った瞳孔。
首筋には黒霧の紋様が脈打っていた。
「五年前に失踪したはずです」
ユリウスの声が震える。
「研究中の事故で死亡したと……」
第一王子は低く呟いた。
「死亡ではなかったか。王宮が隠した」
レオンの言葉に、誰も反論できなかった。
リリアは胸が締めつけられる。
彼らは黒霧を研究していた。
そして実験に利用され、失敗し、人ではなくなった。
それでもまだ生きている。
いや――。
生かされている。
「助けられますか……?」
リリアは小さく尋ねた。
マルタなら何と言うだろう。
薬師として。
人を救う者として。
レオンはしばらく彼らを見つめていた。
そして静かに首を横へ振る。
「……分からない。」
その答えが一番辛かった。
◇
黒霧の研究者たちはゆっくりと距離を詰めてくる。
逃げる様子はない。
ただ一直線にレオンだけを見ている。
「器」
「銀狼」
「返せ」
同じ言葉を繰り返す。
まるで命令だけが残った人形のように。
「狙いは閣下です!」
直属騎士が前へ出る。
剣を構える。
だがレオンが左手で制した。
「斬るな」
「しかし!」
「彼らは被害者だ」
その一言で騎士は動きを止めた。
リリアも同じだった。
剣では解決できない。
彼らは敵ではなく、犠牲者なのだ。
「ならどうします!」
ユリウスが叫ぶ。
「このままでは!」
その瞬間だった。
先頭にいた老人――エルバート卿が突然跳んだ。
人間とは思えない速度。
一直線にレオンへ飛びかかる。
「閣下!」
金属音が響く。
レオンの剣が老人の腕を受け止めた。
ぎぃん、と鈍い音が鳴る。
「硬い……!」
騎士が驚く。
老人の腕は黒い結晶に覆われ始めていた。
黒霧が肉体を鉱石のように変えている。
レオンは剣を押し返す。
老人は吹き飛ぶ。
だが受け身も取らず、すぐ立ち上がった。
骨が折れているはずなのに。
痛みを感じていない。
「……黒霧が神経を支配している。」
リリアは呟いた。
「痛覚も恐怖もなくなっている」
「黒鴉会が言っていた薬か」
第一王子が険しい顔になる。
「感情を奪う薬」
リリアは首を振った。
「薬ではありません。もっと深い――」
彼女は老人を見つめる。
黒霧が脈打つたび、彼の身体が少しずつ蝕まれていく。
「あれは命そのものを書き換えています」
◇
研究者たちが一斉に動いた。
「来るぞ!」
直属騎士たちが前へ出る。
剣を抜く。
しかしレオンは再び命じた。
「急所は狙うな! 腕と脚だけを止めろ!」
「了解!」
戦いが始まった。
地下回廊に剣戟が響く。
研究者たちは武器を持っていない。
それでも恐ろしかった。
素手で石壁を砕き。
腕を振るうだけで床が割れる。
黒霧が肉体を異常な強度へ変えている。
「右!」
リリアが叫ぶ。
騎士が反応し、横から飛び込んできた研究者を受け止める。
「ぐっ!」
重い。
人間一人の重さではない。
黒霧が身体を何倍にも強化している。
リリアは薬袋から小瓶を取り出した。
「煙草薬です!」
床へ投げつける。
ぱん、と白煙が広がる。
研究者たちの動きが一瞬だけ鈍る。
「今です!」
騎士たちが一気に距離を取った。
レオンが振り返る。
「何を使った?」
「眠草と銀露花です。黒霧そのものには効きません。でも視界と嗅覚は奪えます」
「十分だ」
レオンが初めて安心したように頷いた。
「助かった」
その言葉だけで嬉しくなる。
こんな状況なのに。
少しだけ。
◇
しかし。
一人だけ煙の中を平然と歩く影があった。
エルバート卿だった。
彼だけ違う。
黒霧が身体の外まで溢れている。
「……深い」
リリアが息を呑む。
「この人だけ黒霧が多い」
エルバート卿はゆっくりとレオンを見た。
そして――
初めて違う言葉を口にした。
「銀狼……」
「逃げろ」
レオンの表情が変わる。
「喋った……?」
第一王子も驚く。
理性が戻ったのか。
そう思った次の瞬間。
老人は苦しそうに頭を抱えた。
「逃げ……ろ」
「核が……」
「まだ……間に合う」
黒霧が激しく脈打つ。
老人の身体が震える。
「下へ……行くな……」
「深淵は……」
言葉はそこで切れた。
「がぁぁぁぁぁ‼」
絶叫。
黒霧が爆発する。
老人の身体が巨大化を始めた。
腕が伸びる。
背中が裂ける。
骨が外へ飛び出し、黒い結晶へ変わっていく。
「変異です!」
ユリウスが叫ぶ。
「離れてください!」
しかし遅かった。
老人は三メートルを超える怪物へ姿を変えていた。
◇
「下がれ!」
レオンが叫ぶ。
巨大な腕が振り下ろされる。
石床が砕けた。
衝撃で回廊全体が揺れる。
「速い!」
第一王子が横へ飛ぶ。
怪物は真っ直ぐレオンだけを狙っていた。
「器」
「返せ」
「返せ」
何度も繰り返す。
リリアは歯を食いしばる。
「違う……!」
思わず叫んだ。
「あなたはそんなことを言いたいんじゃない!」
怪物が止まる。
ほんの一瞬だけ。
リリアはその瞳を見た。
黒い霧の奥。
涙が見えた気がした。
「助けて……」
聞こえた。
確かに。
誰にも届かないほど小さな声。
レオンも聞いたのだろう。
剣を握る手が止まった。
「リリア」
「はい」
「月華は使うな」
「でも!」
「まだだ」
レオンは怪物から目を離さない。
「理性が残っている。助けられる可能性がある」
リリアは頷いた。
「分かりました」
◇
その時だった。
回廊のさらに奥。
誰もいないはずの暗闇から拍手が聞こえた。
ぱちぱちぱち
静かな拍手。
全員が振り向く。
暗闇の中。
白い外套を羽織った一人の男が立っていた。
仮面をつけている。
顔は見えない。
だが、リリアはその立ち姿を見ただけで寒気がした。
「セドリック……」
思わず名前が漏れる。
男は小さく笑った。
「残念。今日は私ではない」
低い声。
若い。
「黒鴉会?」
第一王子が問う。
男は礼をした。
「黒鴉会はもう終わりました。私は新しい管理者です」
「管理者?」
「研究は続きます」
男は怪物を見上げた。
「素晴らしいでしょう? 人が深淵へ近づく姿は」
リリアは怒りで震えた。
「人をこんな姿にして!」
「彼らは望んだのです」
「嘘です!」
「真実ですよ」
男は笑う。
「知識を求めた。永遠を求めた。だから代価を払った」
その言葉に。
レオンが一歩前へ出る。
「お前」
低い声。
殺気が空気を震わせる。
「セドリックの部下だな」
男は笑みを深くした。
「ええ。ですが、あなた方は間に合いません」
「何?」
男は指を鳴らす。
ぱちん。
その音と同時に。
地下全体が揺れた。
ごごごごご……。
地鳴り。
天井から砂が落ちる。
壁の奥。
さらに地下。
そこから。
鼓動が聞こえた。
どくん。
どくん。
どくん。
まるで巨大な心臓。
地下世界そのものが脈打っているような音。
リリアの月華が激しく反応した。
「……っ!」
胸が熱い。
苦しい。
息ができない。
「リリア!」
レオンが支える。
「深淵です……!」
リリアは震える声で言った。
「下に……います……!」
男は満足そうに微笑んだ。
「ようやく目を覚ましました。本当の深淵が。」
回廊中の黒霧が一斉に渦を巻く。
怪物となった研究者たちも、苦しそうに天井を見上げる。
そして、地下のさらに奥から。
人とも獣ともつかない遠吠えが響いた。
その声を聞いたレオンの身体から、銀色の紋様が淡く浮かび上がる。
「……しまった」
第一王子の顔色が変わる。
「深淵が銀狼を呼んでいる!」
レオンが苦しそうに胸を押さえた。
黒霧ではない。
もっと古い何かが。
彼の中で目を覚まそうとしていた。
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