第六十五話 ただいまと言える場所
それから、三年の月日が流れた。
王都の朝は、かつてより少しだけ騒がしく、そして少しだけ開かれたものになっていた。
大通りの一角には王国公共記録院へ向かう人々の列ができ、地方から訪れた商人や旅人の姿に混じって、古い書類を胸に抱えた老人や、家族の手を引く若者たちが行き交っている。以前なら王宮の許可がなければ閲覧できなかった記録の多くも、いまでは定められた手続きを踏めば、身分にかかわらず確認できるようになっていた。
王家にとって都合の悪い歴史も、黒霧事件の記録も、銀狼公爵家へ長年押しつけられてきた役割も、少しずつ人々の目に触れるようになっている。
もちろん、それですべてが上手くいったわけではない。
新たな記録が公開されるたびに怒りが生まれることもあった。過去を掘り返すべきではないと主張する者もいれば、まだ何か隠されているのではないかと疑う者もいる。新王の改革を急ぎすぎだと批判する貴族もいれば、逆に遅すぎると声を上げる民もいた。
国というものは、誰か一人が正しいと決めた瞬間に美しく変わるものではないのだろう。
それでも、以前とは確かに違う。
王が一言命じれば記録そのものを消せた国ではなくなった。間違いがあれば誰かが声を上げ、その声は記録に残り、残されたものを未来の誰かが確かめることができる。
忘れない国ではない。
忘れてしまっても、思い出せる国。
リリアたちが忘却の海から持ち帰ったその考え方は、三年かけて少しずつ王国の形になり始めていた。
◇
「リリア先生、次の患者さんです」
「はい。どうぞ」
公爵邸の一角に作られた診療所で、リリアは手元の診療記録を閉じた。
もともとは来客用として使われていた小さな別棟を改装し、診察室と調薬室、それに薬草研究室を作ったのは、結婚して半年ほど経った頃のことだった。
公爵家の施設ではあるものの、利用できるのは貴族だけではない。領民であれば誰でも診察を受けることができ、事情によっては診療費も減免される。
窓の向こうには薬草園が広がっていた。
月白花も咲いている。
けれど、以前のように特別なものとして隔離されてはいなかった。解熱に使う薬草や香りの強い花々に混じり、ごく普通の植物のように風に揺れている。
その光景を、リリアは気に入っていた。
「失礼します」
扉を開けて入ってきたのは、十歳ほどの少年と、その母親だった。
少年は母の手をしっかりと握り、ひどく緊張した様子でリリアを見ている。
「こんにちは」
リリアが微笑むと、少年は少し遅れて頭を下げた。
「……こんにちは」
「今日はどうしたの?」
問いかけると、少年は困ったように母親を見た。代わりに母親が口を開く。
「三日前くらいから、この子が一部のことを思い出せなくなりまして……。学校のことや友達のことは普通に分かるんです。ただ、亡くなった父親の顔だけが、どうしても思い出せないと言うんです」
その言葉を聞いた瞬間、リリアの表情がわずかに変わった。
それに気づいたのか、少年が不安そうに俯く。
「ぼく……父さんのこと、忘れちゃったのかな」
震える声だった。
リリアは椅子を離れ、少年と同じ高さになるようにしゃがみ込む。
「顔が思い出せないだけ?」
「うん」
「お父さんについて、他には何か覚えてる?」
少年はしばらく黙って考えた。
「……大きかった」
「うん」
「パンの端っこが好きだった」
母親が小さく笑う。
「それから?」
「寝る時、いびきがすごかった。母さんがいつも怒ってた」
「ちょっと」
母親が困ったように笑い、少年もほんの少しだけ口元を緩めた。
「あと、怒ると怖かった。でも……ぼくが転んだ時は、すぐ抱っこしてくれた」
リリアはゆっくり頷いた。
「それなら、忘れてないよ」
少年が顔を上げる。
「でも、顔が分からない」
「記憶ってね、全部が同じように残るわけじゃないの。顔だけ思い出せなくなったり、声が分からなくなったりすることもある。でも、それでその人との全部が消えるわけじゃない」
「戻る?」
その問いには、リリアは簡単に頷かなかった。
「戻るかもしれないし、戻らない部分もあるかもしれない」
少年の顔が曇る。
だからリリアは続けた。
「でもね、戻らなくても、探すことはできるよ」
母親から父親の名前や出身地を聞き、王国公共記録院へ照会を出す。
数時間後、父親本人の労働登録記録と、一枚の古い写真が届いた。
少年は写真を受け取ると、しばらく息を止めたように動かなかった。
やがて、その唇が小さく震える。
「……父さん」
次の瞬間には涙がこぼれていた。
「父さんだ」
母親も泣いていた。
リリアは何も言わず、少し離れた場所から二人を見守った。
少年がようやく落ち着いた頃、そっと尋ねる。
「思い出した?」
「全部じゃない」
「うん」
「でも……知ってる。この人、父さんだ」
写真を胸へ抱きしめる少年を見て、リリアは静かに微笑んだ。
「それなら大丈夫」
全部を忘れないことなど、きっと誰にもできない。
人は少しずつ忘れていく。
顔も。
声も。
言葉も。
けれど、記録があれば、誰かが名前を覚えていれば、また辿り着くことはできる。
それは、三年前にはまだ願いでしかなかった。
いまでは、小さいながらも確かに、人々の生活を支えるものになっていた。
◇
昼を過ぎた頃、診療所の扉が開いた。
「まだ終わらないのか」
聞き慣れた低い声に、リリアは書類から顔を上げた。
「レオン様」
そこに立っていたのは、三年前とほとんど変わらない銀狼公爵だった。
もっとも、まったく変化がないわけではない。
以前より表情が柔らかくなったし、領民から声をかけられた時に、相手が怯えるような顔をすることも減った。笑う回数も増えた。
ただし本人は、それを頑として認めていない。
「今日は早いですね」
「会議が早く終わった」
「珍しいですね」
「陛下が途中で抜けた」
「陛下が?」
「ああ。王妃候補との面会だそうだ」
リリアは目を丸くした。
「そんな話が進んでいたんですか?」
「本人が逃げていたらしい」
「誰から?」
「結婚から」
一瞬の間の後、リリアは吹き出した。
「人の結婚式ではあんなに偉そうなことを言っていたのに」
「今度会ったら言ってやれ」
「言います」
レオンは診療所へ入ると、机の上に目を向けた。
「昼は?」
「……」
「食べていないな」
「食べようとは思っていました」
「いつ」
「もう少ししたら」
「その台詞を一時間前にもミアに言ったらしい」
「どうして知っているんです?」
「報告された」
「密告じゃないですか」
「必要な報告だ」
そう言いながら、レオンは持ってきた包みを机へ置いた。
中には焼きたてのパンと、まだ温かいスープが入っている。
リリアは思わず目を細めた。
「レオン様が持ってきてくれたんですか?」
「ああ」
「優しいですね」
「夫だからな」
三年経っても、レオンはそういうことを何でもない顔で言う。
そして三年経っても、リリアはそのたびに少しだけ照れる。
「では、ありがたくいただきます」
「そうしろ」
レオンも隣へ椅子を引いた。
「レオン様はもう食べました?」
「ああ」
「本当に?」
「食べた」
「薬は?」
レオンの動きが止まる。
リリアはその反応だけで答えを悟った。
「まだですね」
「あとで飲む」
「今朝渡しましたよね?」
「苦い」
「三年間、そこは何も変わりませんね」
「薬が突然美味くなる理由がない」
そこへ窓の外から、夜色の影がひらりと飛び込んでくる。
『また薬から逃げているのか』
「ノクス」
小さな獣の姿をした夜の神は、当然のように机へ飛び乗った。
「どこから来たんです?」
『庭』
「月華の庭?」
『ああ』
「メモリアは元気ですか?」
『元気すぎる。帰ろうとしたら、あと五回名前を呼べと言われた』
リリアは笑った。
「呼んであげました?」
『七回呼んだ』
「優しいですね」
『違う。帰らせてくれなかっただけだ』
「同じようなものです」
『違う』
レオンが横から口を挟む。
「完全に懐かれているな」
『レオン』
「何だ」
『薬を飲め』
「なぜお前まで」
『リリアが困る』
レオンはしばらくノクスを睨んでいたが、結局観念したように薬を取り出した。
一口飲んだ瞬間、本気で嫌そうな顔をする。
その表情を見て、リリアは声を上げて笑った。
「何がおかしい」
「いえ。三年前と同じだなと思って」
「悪いか」
「いいえ」
リリアは笑みを浮かべたまま首を振った。
「変わらないものがあるのも、嬉しいです」
レオンは何も言わなかった。
けれど、その横顔は少しだけ照れたように見えた。
◇
その頃、王国公共記録院の司法監督区域では、ひとりの男が古い帳面を整理していた。
セドリック・アルベルト。
かつて第二王子と呼ばれた男。
三年が経っても、当然ながら彼の刑が軽くなったわけではない。
魔術封印は続いている。
居住区域も決められている。
外出には許可が必要で、面会もすべて審査を受ける。公職に就くことも、王族としての権利を取り戻すことも、生涯ない。
自由には戻らない。
その判決は変わっていない。
ただ、セドリック自身は少し変わった。
痩せていた頬には以前より血色が戻り、髪は短く切られている。豪奢な王族衣装ではなく、記録院指定の簡素な作業服を着ていた。
その日、彼が調べていたのは、黒鴉会によって十三年前に連れ去られた女性の記録だった。
「この姓は違う」
隣にいた記録官へ告げる。
「こちらの資料ではミラ・ヴェールとなっていますが」
「それは偽名だ。押収した別の記録に出生地が残っている。村の登録簿と照合すれば、ミラ・ハーシェルになる」
記録官が資料を確認し、頷く。
「確かに一致します」
「なら訂正してくれ。ただし元の記載も消すな。偽名で管理されていた事実も記録に残す」
「分かりました」
セドリックはもう一度資料を見直した。
以前の自分なら、人の名前など番号より価値がないと考えていただろう。
今では、一文字間違えることすら怖い。
名前が違えば、その人がどこへ帰るべきなのか分からなくなる。
そのことを、彼は嫌というほど知った。
「セドリック」
監督官に呼ばれ、顔を上げる。
「面会申請が通った」
「誰の?」
「国王陛下だ」
一瞬だけ、セドリックの手が止まった。
「今日?」
「ああ。勤務終了後」
「ならいい」
隣の記録官が思わず笑った。
「陛下相手でも仕事優先なんですね」
「私から特別扱いをするなと頼んだ」
「そうでしたね」
セドリックは再び記録へ目を戻した。
だが、その口元はほんの少しだけ緩んでいた。
◇
その夜、兄弟はいつもの面会室で向かい合っていた。
三年前と同じように、二人の間には魔術結界がある。直接触れることはできない。
「三年か」
新王が言った。
「何が?」
「お前の判決からだ」
「ああ」
「早いな」
「私はそうでもない。毎日ここにいるから」
「仕事は?」
「毎日違う」
セドリックは少し笑った。
「今日は十三年前の行方不明者が一人見つかった」
「生きていたのか?」
「いや」
その笑みが消える。
「遺骨だった」
「そうか」
「でも、名前は戻った」
静かな声だった。
机の上には、青い木製の駒が置かれている。
幼い頃、兄弟で遊んだもの。
忘却の海へ入る前、セドリックが記憶の錨として持っていた青い駒。兄は白を持っていた。
「兄上」
「何だ」
「これ、返そうかと思っていた」
新王の眉が寄る。
「なぜ」
「もう、逃げないための錨がなくても大丈夫だと思う」
しばらく沈黙が落ちた。
新王は結界越しに青い駒を見つめ、それから首を横に振った。
「駄目だ。持っていろ」
「なぜ」
「逃げないためだけのものじゃない」
セドリックが顔を上げる。
「帰ってくるための錨でもあるだろう」
そう言うと、新王は衣服の内側へ手を入れ、小さな白い駒を取り出した。
セドリックの目が見開かれる。
「まだ持っていたのか」
「ああ」
「王がそんな物を?」
「悪いか」
「いや」
セドリックは少し俯き、青い駒を手の中へ握り込んだ。
「……なら、持っておく」
「ああ」
失ったものは戻らない。
セドリックの王位継承権も、自由も、昔のようにただ兄弟として過ごしていた時間も戻ってはこない。
けれど、すべてを戻す必要はないのかもしれない。
過去に戻るのではなく、新しい関係を作る。
この三年間、二人はそれを少しずつ覚えてきた。
「兄上」
「何だ」
「王はどう?」
「大変だ」
「後悔してる?」
「毎週している」
セドリックが思わず吹き出した。
「多すぎるだろ」
「だが、辞めない」
「なぜ?」
新王は少し考えてから答えた。
「自分で選んだからだ」
その言葉を聞いたセドリックは、静かに目を細めた。
「……そうだったな」
誰かに決められたのではない。
王になることも。
罪を背負って生きることも。
選んだ以上は、何度後悔しても歩き続ける。
それが、二人がようやく見つけた生き方だった。
◇
さらに数日後。
リリアとレオンは、久しぶりに白月塔を訪れていた。
「三か月ぶりですね」
塔の扉へ手を触れながら、リリアが言う。
「三か月なら久しぶりというほどでもないだろう」
「前はもっと頻繁に来ていました」
「お前が診療所の仕事を増やしたからだ」
「必要だったので」
「俺と同じことを言うな」
レオンが呆れたように言う。
その足元ではノクスが落ち着かない様子で尾を揺らしていた。
『早くしろ』
「今日はノクスが急かすんですね」
『メモリアに、二人を連れてくると言った』
「約束したんですか?」
『ああ』
「なら、急ぎましょう」
リリアが月華を流し、ノクスの夜がそれを包み込む。
白と藍の光が交わると、古い扉の向こうにもうひとつの景色が開いた。
かつて忘却の海だった場所。
今は、果ての見えない庭になっている。
白、青、金。
無数の花が風に揺れ、その間を淡い記憶の光が漂っていた。
昔のような悲鳴は聞こえない。
代わりに、どこか遠くから穏やかな囁きのようなものが聞こえてくる。
「リリア!」
メモリアが駆けてきた。
「メモリア」
リリアは笑って両腕を広げ、飛び込んできた小さな身体を抱きしめる。
三年前より、少しだけ成長したように見えた。
まだ子供の姿ではある。
けれど、かつてのように「忘れられること」だけを恐れていた存在ではない。
『来た!』
「来ました」
『レオンも!』
「ああ」
『ノクスも!』
『我は昨日も来た』
『でも今日も来た』
『……そうだな』
ノクスが仕方なさそうに答える。
四人は庭を歩き始めた。
ところどころに、名前が戻った記憶の花が咲いている。
まだ誰なのか分からないまま眠る光もある。
そして空へ向かって、細い光の筋がいくつも伸びていた。
記録院と繋がる道だった。
「帰れた記憶、増えました?」
リリアが尋ねる。
『いっぱい』
「よかった」
メモリアは嬉しそうに頷いた。
けれど、しばらく歩いたところで急に立ち止まる。
『リリア』
「なに?」
『帰るって、いなくなること?』
リリアは少し考えた。
「そういう時もあると思う」
『寂しい?』
「寂しいよ」
『なら、帰らない方がいい?』
その問いに、リリアはすぐには答えなかった。
昔のメモリアなら、きっとすべての記憶をここへ留めようとした。
忘れられたくない。
消えたくない。
誰にもいなくなってほしくない。
その思いが積み重なって、月華の庭は忘却の海になった。
「私は、帰れるなら帰った方がいいと思う」
『どうして?』
「待つ場所が、牢屋になったら悲しいから」
その言葉に、ノクスの瞳が僅かに揺れた。
彼自身も、守るという名目で封じられた存在だった。
守る場所が牢獄になる苦しさを、誰より知っている。
「待つのは、帰るためだよ。引き止めるためじゃない」
メモリアは長いこと黙って考えていた。
やがて、小さく頷く。
『……分かった』
「本当に?」
『たぶん』
リリアは笑った。
「それで十分。分からなくなったら、また聞いて」
『うん』
分からないことを、分からないままにしない。
何度でも聞く。
何度でも考える。
それも、きっと生きるということなのだろう。
◇
庭の一番奥には、大きな一本の木が立っていた。
かつて黒い海の中心だった場所。
夜色の幹に、白い葉。
枝は月の光を抱くように空へ伸びている。
その木を見た瞬間、ノクスが足を止めた。
「知ってるんですか?」
リリアが尋ねる。
『ああ』
遠い記憶。
まだ夜の神に名前がなかった頃。
セレネが彼を見つめ、初めて名前を与えた。
ノクス。
その声が聞こえたような気がした。
けれど、それが本当に何かの残滓だったのか、ただノクスの中に残る記憶だったのかは分からない。
分からなくてもよかった。
『セレネ』
ノクスが木へ向かって呼びかける。
『我は今、悪くない』
リリアとレオンは何も言わず、その背中を見ていた。
『全部を許したわけではない。人間を好きになったわけでもない』
「そこは言うんですね」
『黙れ』
リリアが少し笑う。
ノクスは続けた。
『でも、名を呼ぶ者がいる』
すると、すぐそばからメモリアが声を上げた。
『ノクス』
リリアも呼ぶ。
「ノクス」
レオンも、短く続ける。
「ノクス」
夜の神は目を閉じた。
『……ああ』
ほんの少しだけ、声が震えた。
『だから、悪くない』
その時、風が吹いた。
白い葉が一枚だけ枝から離れ、ゆっくりとノクスの鼻先へ落ちる。
メモリアが目を丸くした。
『セレネ?』
ノクスはしばらく葉を見つめてから、少しだけ笑った。
『分からぬ』
「でも、そうだったら嬉しいですね」
リリアが言う。
『ああ』
それで十分だった。
◇
月華の庭を出る前、リリアとレオンは少しだけ二人で歩いた。
ノクスとメモリアは後ろの方で何か言い合っている。
どうやらまた「名前を何回呼ぶか」という話らしい。
「レオン様」
「何だ」
「結婚して三年ですね」
「ああ」
「どうです?」
「何が」
「私と結婚して」
レオンは横目でリリアを見る。
「今さら聞くのか」
「聞きたいので」
「幸せだ」
迷いのない即答だった。
それだけでリリアの胸が温かくなる。
「不満は?」
「ある」
「あるんですか?」
「仕事をしすぎる」
「それはレオン様もです」
「患者が来ると食事を忘れる」
「レオン様は会議が続くと寝るのを忘れます」
「薬を増やす」
「必要です」
「苦い」
「それは知りません」
レオンが呆れたようにため息をつく。
「ほら。いくらでもある」
「私だってありますよ」
「何だ」
「一人で抱え込むところ」
「最近は減った」
「減っただけです」
「……」
「あと、過保護」
「必要だ」
「必要じゃない時もあります」
「俺が決める」
「そういうところです」
二人は顔を見合わせた。
そして、ほとんど同時に笑った。
完璧ではない。
喧嘩もする。
不満もある。
それでも、一緒にいたいと思う。
「でも」
リリアはレオンの手を握った。
「全部込みで、幸せです」
「ああ」
「毎日が完璧じゃなくても」
「完璧である必要はない」
「はい」
それが、この三年間で一番よく分かったことだった。
幸せとは、痛みがすべて消えた状態ではない。
問題が何も起こらないことでもない。
疲れる日もある。
喧嘩する夜もある。
昔の夢を見て目を覚ますことだってある。
それでも、最後に帰りたい場所がある。
そのことが、幸せなのだ。
「リリア」
「はい」
「婚礼の誓い、覚えているか」
リリアは笑う。
「もちろんです」
「全部?」
「全部です」
「本当に?」
「疑っています?」
「確認だ」
「三年前も確認だと言って誓約文を何度も読んでいましたね」
「五回だ」
「ノクスは七回と言っていました」
「あいつは増やす」
リリアは笑って、それから静かに言った。
「忘れても、またあなたを選ぶ」
レオンが続ける。
「迷っても、帰る」
「何度でも」
「あなたのもとへ」
三年前に誓った言葉。
当時はまだ、それは未来への約束だった。
今ではもう。
二人の日常そのものになっていた。
◇
月華の庭から戻った夜。
公爵邸の庭では、月白花が月明かりに照らされていた。
リリアは窓辺の机で、古い日記を開いている。
忘却の海から戻った直後に書いたページ。
『もし忘れても、私はまたレオン様を好きになると思う。』
その文字を見て、思わず笑った。
「何を見ている」
後ろからレオンの声がする。
「昔の日記です」
「読むな」
「私の日記ですよ?」
「俺のことが書いてある」
「ほとんど書いてありますよ」
「……そうか」
レオンは隣へ座った。
「何て書いてある」
リリアは日記を閉じる。
「秘密です」
「今、少し見えた」
「なら聞かないでください」
「確認だ」
「また確認ですか」
二人は顔を見合わせて笑った。
窓の外からは、屋敷の生活音が聞こえてくる。
廊下の向こうでミアが誰かを呼んでいる。
グレイが淡々と返事をしている。
厨房では片づけの音がしている。
ノクスはたぶん、どこかで夜食の肉を狙っている。
かつて静かすぎるほど静かだった公爵邸。
リリアが初めて訪れた時には、冷たくて、どこか人を拒絶するように見えた場所。
今は。
帰りたいと思える場所になっている。
「リリア」
「はい」
「もし、明日俺がお前を忘れたら、どうする」
突然の質問だった。
けれど、リリアは少し考えただけで答えた。
「朝から説明します」
「何を」
「あなたはレオン・ヴァルハルト。銀狼公爵で、苦い薬が大嫌いです」
「そこからか」
「大事なので」
「次は?」
「すごく不愛想です」
「悪口しかない」
「でも、本当は優しい」
リリアはレオンの方へ身体を寄せた。
「それから、私の夫です」
レオンが静かに彼女を見つめる。
「そして、私があなたを愛していることを教えます」
「信じると思うか」
「最初は疑うかもしれません」
「なら?」
「もう一度、好きにさせます」
レオンは一瞬だけ驚いた顔をして、それから笑った。
昔ならほとんど見ることのできなかった、自然で穏やかな笑顔。
「自信があるな」
「一度成功していますから」
「俺が勝手に好きになった」
「同じです」
「違う」
「では」
リリアは少し首を傾げる。
「私が忘れたら?」
レオンは迷わなかった。
「連れて帰る」
「どこへ?」
レオンは窓の外を見た。
灯りのついた公爵邸。
月白花の庭。
診療所。
薬草園。
笑い声。
誰かが歩く音。
そして、もう一度リリアを見る。
「ここへ」
彼女の手を取る。
「俺のところへ」
リリアの胸が、じんわりと熱くなる。
「私、ちゃんと帰れますかね」
「ああ」
「どうして?」
「何度でも呼ぶから」
リリアは繋がれた手を握り返した。
三年前から変わらず、二人の指には指輪がある。
「なら、安心です」
しばらく二人は何も言わなかった。
月白花が夜風に揺れている。
遠い月華の庭では、今もメモリアが誰かの記憶を待っている。
ノクスは、そこへ夜を広げている。
王都では、新王が今日も間違うことを恐れながら国を治めている。
王国公共記録院では、セドリックが今日も誰かの名前を記している。
彼の罪は消えない。
許さない人もいる。
これからも、ずっと。
それでも彼は生きて、残された時間で記録を続ける。
誰かの痛みが消えなくても。
別の誰かが幸せになることはできる。
罪を忘れなくても、未来を選ぶことはできる。
記憶を失っても、愛を選び直すことはできる。
人は全部を覚えていられない。
忘れる。
間違える。
失う。
それでも、誰かが名前を呼んでくれれば。
記録が残っていれば。
帰る場所があれば。
もう一度、歩き始められる。
「レオン様」
「何だ」
リリアは小さく笑った。
「おかえりなさい」
レオンの表情が柔らかくなる。
「ただいま」
そして彼も言う。
「リリア」
「はい」
「おかえり」
リリアは、繋いだ手に少しだけ力を込めた。
「ただいま」
それでいいのだと思った。
永遠に忘れないことより。
何度でも帰れること。
何度でも名前を呼べること。
何度でも互いを選べること。
それが、二人が長い旅の果てに見つけた幸せだった。
月明かりの下で、月白花が静かに揺れている。
かつて、偽りの婚約から始まった二人。
銀狼公爵と月華の少女。
何度もすれ違い。
何度も傷つき。
一度は記憶さえ失い。
それでも、もう一度手を取り合った。
明日からも、きっと特別なことばかりではない。
朝になれば仕事がある。
患者が来る。
領地の問題が起こる。
レオンは薬を嫌がる。
リリアは仕事を増やす。
ノクスは厨房の肉を狙い、グレイはそれに気づき、ミアが騒ぐ。
時には喧嘩もする。
疲れて言葉を交わせない夜もあるだろう。
それでも、最後には同じ場所へ帰る。
そして、そのたびに同じ言葉を交わす。
「愛している、リリア」
不意にそう言われて、リリアは目を丸くした。
けれどすぐに笑う。
「私もです、レオン様」
「様は、もういらないだろう」
「三年経っても、まだ慣れないんです」
「いつ慣れる」
「そのうち」
「忘れるなよ」
リリアは笑った。
「忘れても、また思い出します」
そう言って、レオンの肩へ寄りかかる。
レオンも、もう何も言わなかった。
ただ、彼女の肩を抱く。
二人の前には、明かりの灯る家がある。
帰る場所がある。
だから、もう怖くない。
忘れても。
迷っても。
遠回りしても。
またここへ帰ってくればいい。
そして言えばいい。
おかえり。
ただいま。
何度でも。
何度でも。
これは、世界を救った英雄だけの物語ではない。
決して忘れない者たちの物語でもない。
忘れ、傷つき、間違え、それでも大切なものをもう一度選び直した人々の物語。
そして。
リリア・エヴァレットとレオン・ヴァルハルトが、何度でも互いのもとへ帰ってくる。
そんな、長い恋の物語だった。
二人は手を繋いだまま立ち上がり、灯りのともる屋敷へ向かって歩き出す。
その背中を、白い月が静かに照らしていた。
明日もきっと、同じように朝が来る。
何でもない一日が始まる。
けれど今の二人にとって、それこそが何より望んだ未来だった。
誰かのために犠牲になる必要もない。
世界を救わなければならない理由もない。
ただ、大切な人と一緒に生きる。
笑って、怒って、時には泣いて。
その日の終わりには、同じ家へ帰る。
それだけでいい。
屋敷の扉が近づく。
中から、ノクスの声が聞こえた。
『リリア! レオン! 料理長が夜食を隠した!』
続いてグレイの冷静な声。
「隠したのではございません。ノクス様が食べ過ぎるため、保管場所を変更しただけでございます」
『同じだ!』
「違います」
ミアの笑い声まで聞こえてきた。
リリアは立ち止まり、レオンを見る。
「帰りましょうか」
「ああ」
レオンは、ごく当たり前のように答えた。
「帰ろう」
二人は扉を開く。
温かな光が外へこぼれた。
そして、その光の中へ一緒に足を踏み入れる。
長い旅は、そこで終わる。
けれど。
二人の人生は。
きっと、そこから先の方が長い。
何度でも愛し。
何度でも選び。
何度でも同じ場所へ帰ってくる。
そのたびに、きっと言うのだろう。
――おかえり。
――ただいま。
それが、二人が見つけた永遠だった。
これにて完結になります。
拙作を読んでいただいた方には感謝しかありません。
また新作が出来上がりましたらお会いしましょう(*^-^*)




