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月影の花嫁は銀狼公爵の運命を拒む  作者: 白石マサル


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第五話 私はあなたを許していません

 扉の向こう。

 静かな足音が近づく。

 一歩、また一歩。

 リリアは無意識に息を止めていた。


 ――来る。


 理由なんてない。けれど分かった。

 扉が叩かれる。

 控えめに二回。


「どうぞ」


 グレイが答える。

 扉が開いた。

 銀色の髪に黒い軍服。

 そして、静かな眼差し。


 レオン・ヴァルハルト。

 つい先ほどまで意識を失っていたとは思えない。

 いつも通り。

 何事もなかったみたいな顔。

 けれど、違う。

 少しだけ、ほんの少しだけ顔色が悪かった。


「閣下」


 グレイが頭を下げる。

 レオンは軽く頷いた。

 そして、銀色の瞳がこちらを見る。

 静かに、真っ直ぐ。


「……悪かった」


 第一声がそれだった。

 予想していなかった。

 もっと、こう……『余計なことをした』とか。『忘れろ』とか。

 そんな言葉が来ると思っていた。


「……何がですか」


 思ったより声が硬くなった。

 レオンは少しだけ沈黙した。


「巻き込んだ」


 短い。それだけ。

 でも、胸の奥、何かが少しざわつく。


「説明を受けた」


 リリアは言う。


「そうか」

「それだけですか」

「……何がだ」

「何が、じゃありません」


 静かに、けれど確実に。

 怒りが戻る。


「最初から知っていたんですよね」

「……ああ」

「私が必要だから結婚するって」

「そうだ」

「否定しないんですか」

「事実だからな」


 ものすごく腹が立つ。


「だったら!」


 思わず声が大きくなった。

 グレイが心配そうにこちらを見る。

 でも止められなかった。


「どうして最初に言わないんですか!」

「……」

「どうして隠すんですか!」


 沈黙。

 レオンは何も言わない。

 それが余計に腹が立つ。


「私は」


 言葉が震える。

 怒りなのか、悔しさなのか。

 自分でも分からない。


「私は道具じゃありません」


 前にも言った。

 でも今は違う。

 もっと深いところから出た言葉だった。


「……分かっている」

「分かってません」


 即答した。


「分かっていたらこんなことしません」

「……」

「勝手に決めて、勝手に抱え込んで、勝手に死のうとして」


 空気が止まった。

 グレイが息を呑む。

 レオンだけが静かだった。

 怖いくらい静か。


「あと二年なんでしょう」


 沈黙。


「理性を失うんでしょう」


 沈黙。


「……怖くないんですか」


 初めて聞いた。

 ずっと聞きたかった。

 あなたは怖くないのか。

 英雄、銀狼公爵、最強。

 そんな肩書きを全部取ったら、残るのはたった一人の人間だ。


「……怖い」


 小さな声。

 聞き間違いかと思った。

 でも違った。

 確かに聞こえた。


「怖い」


 レオンは窓の方を見る。

 銀色の髪が揺れる。


「眠るたびに思う」


 静かな声。


「次に目を覚ました時、もう自分ではないかもしれないと」


 息が苦しくなる。


「部下を傷つけるかもしれない。民を襲うかもしれない。理性を失って獣になるかもしれない」


 あまりにも静かだった。

 だから余計に苦しかった。


「……だったら」


 喉が詰まる。言葉がうまく出ない。


「助けを求めてください」


 レオンがこちらを見る。

 銀色の瞳。

 冷たいはずなのに、今はどこかひどく弱く見えた。


「求めた」


 短い、静かな声。


「求めた結果が」


 僅かに口元が歪む。

 笑った? 違う、笑っていない。

 諦めている。


「これだ」


 王命――


 契約結婚、利用、全部繋がる。

 必死で助けを求めた。

 生きたかった。

 でも、救いは誰かを巻き込むことだった。

 だから距離を取った。

 愛さない。

 関わらない。

 傷つけない。

 最初からそのつもりだった。


「……馬鹿です」


 思わず出た。

 レオンが僅かに眉を動かす。


「本当に、信じられないくらい馬鹿です」

「……そうか」

「そうです」


 即答した。


「助けを求めるなら最後まで求めてください」


 胸が苦しい。

 なんでこんな怒っているんだろう。

 まだ会ったばかりなのに。


「一人で全部背負わないでください」


 言葉が零れる。

 止まらない。


「無理なら無理って言ってください。苦しいなら苦しいって、怖いなら怖いって。ちゃんと」


 息を吸う。

 銀色の瞳をまっすぐ見る。

 逃げない。今度は自分が。


「言ってください」


 レオンは何も言わない。

 ただこちらを見ていた。

 長い沈黙。

 やがて静かに。本当に静かに彼は言った。


「……無理だ」


 かすれた声。

 初めてだった。英雄じゃない。銀狼公爵でもない。ただ壊れそうな一人の男の声。


「……怖い」


 リリアは息を呑んだ。


「怖い」


 もう一度。

 静かに絞り出すみたいに言った。

 誰にも言えなかった言葉。

 きっと、ずっと一人で抱えていた。


「……死にたくない」


 その瞬間。胸がひどく苦しくなった。

 銀狼公爵。

 英雄。

 最強。

 そんなもの、全部どうでもよくなった。

 目の前にいるのは、死ぬのが怖い、助かりたい、生きたい。そう願っている人だった。

 リリアはゆっくり息を吸った。

 そして、静かに言う。


「なら」


 銀色の瞳が向く。


「助けます」


 沈黙。


「……リリア」


 初めて名前を呼ばれた。

 息が止まりそうになる。

 低い声。静かで、少しだけ弱かった。


「私」


 言葉を続ける。

 心臓がうるさい。

 でも、止まらない。


「まだ許してません」

「……ああ」

「利用されたこと」

「……ああ」

「すごく怒ってます」

「……そうだろうな」

「でも」


 まっすぐ見る。

 逃げない。


「見捨てません」


 沈黙。

 静か。

 誰も何も言わない。

 レオンが僅かに目を伏せた。

 銀色の睫毛が揺れる。

 そして本当に、ほんの少しだけ。


「……そうか」


 笑った。

 初めて。

 銀狼公爵が笑った。

 ほんの少しだけ。

 泣きそうなくらい、寂しそうな笑顔だった。

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