第四話 契約結婚の真実
「……レオン様」
返事はない。
銀狼公爵レオン・ヴァルハルトは静かに意識を失っていた。
信じられなかった。ほんの少し前まで氷みたいに冷たい顔で、人を寄せつけない空気を纏っていた男。
それが今は驚くほど無防備だった。
「……重い……」
思わず漏れる。
身長差がある。当然だ。
鍛えられた体、支えるだけでも精一杯。
「誰か!」
声を上げる。
すぐに扉が勢いよく開いた。
執事長グレイと医師、使用人たちが入ってきた。
そして、銀狼侯爵の様子を見ると全員の顔が強張る。
「閣下!」
「運びます!」
医師たちが駆け寄る。
ベッドへ移されるレオン。
乱れた銀髪。
閉じられた瞳。
苦しそうな呼吸。
さっきまで見えていた黒い侵食は、ほんの少しだけ薄くなっていた。
それを見た瞬間、医師の一人が息を呑んだ。
「……まさか」
グレイも気づいた。
明らかに空気が変わる。
全員何かを知っている。
自分だけが知らない。
その状況が無性に腹立たしかった。
「説明してください」
静かな声だった。
けれど、自分でも分かる。怒っている。
「……リリア様」
「説明を」
グレイが沈黙する。
迷っている。隠すか、話すか。
数秒、重い時間。
やがて、彼は静かに頭を下げた。
「……こちらへ」
◇
案内されたのは小さな応接室だった。
温かい茶が用意される。
けれど、飲む気にはなれない。
「話してください」
正面には執事長グレイ。
白髪混じりの髪に整った礼服。
完璧な執事。
けれど今はどこか疲れて見えた。
「まず……お詫びを」
頭を下げる。
「私どもは、貴女様へ大切なことを隠しておりました」
「レオン様のことですね」
「……はい」
静かにグレイが言う。
「閣下は三年前、黒霧領域の討伐に赴かれました」
黒霧領域。
北方、王国で最も危険な場所。
魔物が現れる呪われた土地。子供でも知っている。
「その戦いで閣下は呪いを受けました」
「……呪い」
「進行性です」
胸が冷える、嫌な予感。
言葉を続けるグレイ。
「初期は発熱と痛み」
「……」
「やがて侵食が始まる」
黒い痣……。
「身体能力の暴走」
「……」
「感情の欠落」
初対面を思い出す。
氷みたいな男。人形みたいだった。
まるで、感情を置いてきたみたいな。
「最終的には」
グレイが言葉を止める。
苦しそうに。
静かに。
「理性を失います」
息が止まった。
理性を……失う?
つまり――
「……魔物になるんですか」
沈黙。
それが答えだった。
頭が真っ白になる。
ありえない。英雄、国を守った人。
そんな……。
「現在、進行はかなり進んでおります」
「……どのくらい」
「医師の見立てでは」
静かな声。
重い。
嫌になるくらい、重い。
「あと二年」
言葉が落ちた。静かに残酷に。
二年……たった二年。
「……嘘」
「申し訳ありません」
違う。謝ってほしいんじゃない。
そうじゃない。
「なんで」
喉が苦しい。
「なんで治療を」
「試しました」
即答だった。
「王国中の治癒術師、薬師、神官、国外の医師、できることは全て」
全部、全部やった。その上で治らない。
「……じゃあ」
声が掠れる。
嫌な予感。
最初からずっと胸の奥にあった。
嫌な予感。
「私との結婚は」
沈黙。
グレイが目を閉じる。
そして、静かに頷いた。
「貴女様の力を借りるためです」
空気が止まった。
分かっていた。
少し……分かっていた。
でも、実際に言われると苦しかった。
「……そう」
小さく呟く。
予想通り利用された。
それだけ。
「王家が古文書を調査し、判明したのです」
グレイの声が遠く感じる。
「浄化の力を持つ者」
「月華の星印」
「そして」
少しの沈黙。
そして、ゆっくり告げられる。
「深い縁を結ぶことで、浄化は最大限の力を発揮すると」
結婚。
だから王命。
最初から全部決まっていた。
「……最低」
思わず漏れた。
「リリア様」
「最低です」
怒り。
悲しい。
悔しい。
惨め。
全部が混ざる。
「私は」
声が震える。
「道具じゃありません」
静かになる。
誰も何も言わない。
当然だ。
そうだ、利用された。
最初から全部。
「……帰ります」
立ち上がる。
帰る。もうこんな場所にいたくない。
扉へ向かうその時。
「閣下は」
グレイが言った。
足が止まる。
「最後まで反対しておられました」
振り返る。
「……え」
「貴女様を巻き込むなと」
静か。
部屋が静かだった。
「他の方法を探せと」
「……」
「自分は構わないと」
言葉が出ない。
グレイが続ける。
「ですが王命でした」
「……」
「閣下は最後まで」
静かに、苦しそうに言う。
「怒っておられました」
誰のために? 考えるまでもない。
頭がぐちゃぐちゃになる。
利用された。それは変わらない。
でも、レオンは知っていた。
嫌だった。巻き込みたくなかった。
だから、最初に言った。
『君を愛するつもりはない』
『必要以上に関わるつもりもない』
傷つけるためじゃない。
たぶん、違う。
最初から距離を作ろうとしていた。
「……馬鹿」
思わず呟く。
どうして一人で抱え込む。
二年……死ぬまで。
誰にも頼らず、誰にも言わず。
そんなの――
「……馬鹿すぎる」
怒りが消えない。
利用された、許せない。
でも、それ以上に胸の奥が苦しい。
どうしてこんな気持ちになる。
まだ会ったばかりなのに。
その時、廊下から足音が近づいてくる。
静かだけど重い。
振り返る。扉の向こうに誰かがいる。
誰かは分かった。理由なんてない。
でも、分かった。
銀狼公爵、レオン・ヴァルハルト。
たった今目を覚ましたのだと。
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