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月影の花嫁は銀狼公爵の運命を拒む  作者: 白石マサル


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第三話 英雄の傷痕

「……閣下!」


 執事の声が廊下へ響いた。

 空気が変わり張り詰める。

 さっきまで静かだった屋敷の空気が、一瞬で何かに飲み込まれたみたいだった。

 レオン・ヴァルハルトは何も言わない。けれど、その銀色の瞳だけが僅かに鋭くなる。


「失礼する」


 短く告げる。

 すぐに部屋を出ていこうとした。


「あ、待っ――」


 呼び止めようとして、やめた。

 今の空気は明らかに何かがおかしい。

 扉が閉まり、広い執務室に静寂が取り残された。


「……何なの……」


 嫌な感じがした。

 胸の奥が落ち着かない。

 さっきの執事の声。

 あれはただ事じゃなかった。

 数秒考える。

 迷う。

 そして――


「……帰る空気じゃないわよね」


 誰もいない部屋へ呟く。

 しかし気になる。

 ものすごく。

 良くないことだとは分かっている。

 でも、薬師として。いや、人として。

 あの空気を無視することはできなかった。


 扉を開けると静かな廊下の少し先で人の気配がする。

 使用人たちだ。何人か集まっている。

 みんな顔色が悪い。


「……何かあったんですか?」


 問いかける。

 若い侍女がびくりと肩を震わせた。


「あ……」

「閣下に何か?」


 使用人たちが皆沈黙してしまう。

 どうやら迷っているようだ。

 言うべきか。

 言わないべきか。

 そんな顔。


「大丈夫です」


 少し声を柔らかくする。


「無理にとは言いません」


 年配の使用人が小さく息を吐いた。


「……いつものことです」

「いつもの?」

「閣下は、お疲れが重なると……時々、お身体を悪くなさるのです」


 身体を悪くする。

 曖昧な言い方。

 隠している。

 そう思った。


「医師は?」

「診ていただいております」

「なら」

「……治らないのです」


 空気が重くなる。

 誰も目を合わせない。

 まるで触れてはいけない話。

 そんな雰囲気だった。


「どちらですか」

「え?」

「レオン様」


 気づけば聞いていた。

 侍女たちが驚いた顔をする。

 当然かもしれない。

 婚約者とはいえ今日初めて会ったばかり。

 それなのに。


「……案内してください」


 ◇


 屋敷の奥のさらに奥。

 静かな廊下。

 使用人が立ち止まる。


「こちらです」


 重厚な木製の扉。

 その前に執事長グレイが立っていた。

 こちらを見ると少し驚いた顔をした。


「リリア様」

「中にいますか」

「……はい」

「容態は」

「医師がおります」

「よかった」


 ほっと息をつく。

 だが、グレイは苦しそうな顔をした。


「ですが……」


 嫌な予感がする。


「効かないのです」

「……何が」

「薬も」


 静かに、絞り出すように。


「治癒術も」


 リリアの背筋が冷えた。

 ありえない。

 病なら薬。、怪我なら治癒術。

 それが常識。それが効かない?


「どういう」


 その時。


 部屋の奥で低い音たてて何かが倒れた。

 続いて苦しそうな呼吸。

 リリアは考える前に動いていた。


「リリア様!」


 止める声を無視して扉を開く。

 部屋の中は薄暗く、窓は全て閉じられている。

 医師が二人居たが空気が重い。

 床には割れたガラスが散らばっている。

 そして、レオンが壁に手をついたまま苦しそうに息をしていた。


「……っ」


 息を呑む。

 軍服が乱れている。

 額に汗をかき、呼吸が荒い。


 そして見えてしまった。

 首筋に黒い痣……違う、これは痣じゃない。

 何かが這っているみたいだった。

 黒い筋が生き物みたいに肌を侵食している。


「何……これ……」


 誰も答えない。

 医師が青い顔をしている。

 レオンは壁へ手をついたまま俯いていた。


「閣下」


 医師が言う。


「鎮静薬を」

「いらない」


 掠れた低い声で苦しそうにしながら拒絶する。


「ですが」

「出ていけ」


 空気が凍る。

 誰も動かない。

 レオンが顔を上げた。

 銀色の瞳、でも違う。

 怖かった。

 何か違うものが混じっている。

 獣みたいな危うさ。


「聞こえなかったか」


 静かな声。

 なのに威圧感が凄まじい。

 医師たちが後退る。

 使用人も。誰も近づけない。

 孤立。

 たった一人苦しんでいるのに。


 誰も触れられない。

 その姿がどうしようもなく胸に刺さった。


「……みんな出て」


 静かに言った。

 全員が見る。


「リリア様?」

「出てください」

「危険です」

「いいから」


 執事が迷う。

 当然だ。

 今日来たばかりの女に信用なんてない。

 でも。


「……お願いします」


 薬師として分かる。

 このままは駄目だ。

 しばらく沈黙した後、やがて執事長が頭を下げた。


「……皆、外へ」


 扉が閉まる。

 二人部屋に残された。

 静かな部屋に苦しい呼吸だけが聞こえる。


「……来るな」


 低い声で拒絶する。

 正直ものすごく怖い。

 でも。


「嫌です」


 一歩近づく。


「出ていけ」

「嫌です」

「……馬鹿か」

「よく言われます」


 近づくあと数歩。

 黒い痣が広がっている。

 これは病じゃない。

 もっと嫌なもの。


「……呪い」


 呟く。すると空気が止まる。

 レオンが僅かに顔を上げた。

 銀色の瞳を見開いて初めて明確な驚きを見せる。


「分かるのか」

「少しだけ」


 薬師として知識はある。

 古い文献で読んだ禁呪。

 魔物、穢れ。

 そして、浄化。


「……触ります」

「やめろ」

「嫌です」

「死ぬぞ」

「まだ死にたくありません」


 でも、放っておけない。

 そっと首筋に手を伸ばした。

 黒い侵食に触れる。

 その瞬間、身体の奥が熱くなる。

 何かが溢れる。

 淡い銀色の光が部屋を照らした。

 空気が揺れる。

 黒い痣が僅かに。ほんの僅かに薄くなった。

 レオンの目が見開かれる。

 信じられないものを見る顔。


「……な……」


 息を呑む。

 リリア自身も。

 驚いていた。

 今何をした?

 身体の奥がじんわり熱い。

 知らない感覚。

 レオンが静かに呟いた。


「……ありえない」


 銀色の瞳に初めて冷たさじゃない感情が宿っていた。

 そして、次の瞬間、身体が傾く。


「あ」


 倒れる。

 咄嗟に支える。

 重い、近い。息が止まる。

 銀色の髪が頬に触れた。

 驚くほど熱い。


「……レオン様」


 返事がない。意識を失っていた。

 静かな部屋。

 重なる呼吸。

 腕の中で英雄が眠っていた。

 誰にも見せない弱さを隠し続けて壊れそうになるまで。たった一人で抱え込んで。


「……馬鹿」


 思わず呟いた。

 冷たい人だと思った。

 嫌な人だと思った。

 でも、違う。

 たぶんこの人は、誰より助けを求めるのが下手な人だ。


 

 そして、リリアはまだ知らない。

 自分が今この国でたった一人、銀狼公爵を救える存在だということを。

読んでいただきありがとうございます。

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