第二話 銀狼公爵との最悪の初対面
翌朝。
リリア・エヴァレットは人生で最悪の目覚めを迎えた。
「……夢じゃなかった……」
天井を見上げながら呟く。
期待していた。
目覚めたら全部なくなっているかもしれないと。
王命も、婚約も、銀狼公爵も。
だが現実は残酷だった。
机の上には昨日届いた王家の文書。
見れば見るほど胃が痛くなる。
「行きたくない……」
正直な本音だった。
誰だって嫌だろう、いきなり結婚しろと言われれば。
相手は顔も知らない英雄。
しかも噂では氷の化け物みたいな男。
「……逃げる?」
呟いた。
三秒考え、無理だと悟る。
王命である。
逃げた先まで追ってくる。
たぶん、絶対、確実に。
「……はぁ」
重い足取りで着替える。
一番ましなワンピース。
何年も前に母が仕立ててくれた薄青の服。
貴族としては質素すぎる。
でも今の自分にはこれしかない。
髪を結び鏡を見る。
顔色が悪い。
「……大丈夫」
誰に言うでもなく呟いた。
すると、屋敷の前から馬の足音。
迎えが来た。
人生が終わったと絶望する。
◇
王家の馬車は想像以上だった。
広い、柔らかい、揺れない。
だが怖い。
「……帰りたい」
御者には聞こえない程度の声で呟く。
窓の外では王都が流れていく。
賑やかな商業区。
貴族街。
そして北区。
王都でも最も格式ある土地。
巨大な門が見えた。
銀狼の紋章、ヴァルハルト公爵邸。
「……大きすぎる……」
屋敷じゃない、城だった。
三階建て
白い石造り
広大な庭園
噴水
薔薇園
どう考えても没落伯爵家の人間が来る場所ではない。
馬車が止まると扉が開く。
降りた瞬間、緊張で胃が縮んだ。
使用人たちが並んでいる。
十人……いや二十人。
全員綺麗に頭を下げた。
「ようこそお越しくださいました、リリア様」
年配の執事が前へ出る。
完璧な礼、隙がない。
「私は執事長のグレイと申します」
「……リリアです」
緊張する、ものすごく。
「閣下がお待ちです」
「……今すぐですか」
「はい」
逃げる時間もない。
最悪だ。
長い廊下を案内される。長いだけでなく広くて静か。
足音だけが響く。
途中、飾られた肖像画が目に入った。
軍服姿の青年
銀色の髪
鋭い瞳
整った顔立ち
そして――
圧倒的な威圧感。
「……公爵様?」
「二年前のお姿です」
執事が答えた。
絵ですら怖い。
実物はもっとだろう。
今すぐ帰りたい。
扉の前で足が止まる。
執事が言った。
「こちらです」
重厚な扉、執務室。
「……失礼します」
返事はない。
執事が扉を開く。
部屋へ入る。
広い部屋に本棚、机、窓。
そして、窓際に立つ一人の男。
銀色の髪に黒い軍服。
背が高く肩幅が広い。
まるで剣そのものみたいな人。
その男が振り返る。
息が止まった。
綺麗だった。
怖いくらい。
冷たい銀の瞳。
整いすぎた顔。
けれど――
そこには温度がない。
人形みたいだった。
「……リリア・エヴァレットです」
緊張で声が硬くなる。
沈黙。
視線だけが向けられる。
見られている。
ただそれだけなのに。
息苦しい。
やがて、男が口を開いた。
静かで低い声。
感情がない。
「来たか」
それだけ。
それだけなのに、妙に威圧感があった。
また沈黙。
長い。
居心地が悪い。
「あの……」
「座れ」
言われるまま椅子へ座る。
男は向かいへ座った。
距離が近い。
緊張する。
どうしていいか分からない。
先に口を開いたのは向こうだった。
「レオン・ヴァルハルトだ」
知ってます。
心の中だけで返した。
「単刀直入に言う」
銀の瞳が真っ直ぐ向く。
逃げ場がない。
そして、彼は言った。
「君を愛するつもりはない」
――は?
思考が止まった。
「……え?」
「必要以上に関わるつもりもない」
淡々と。
事務連絡みたいに。
「君には公爵夫人として最低限の役割を果たしてもらう」
「……ちょっと待ってください」
「質問は後で聞く」
「いや聞いてください」
初対面である。
なのに。
何なんだこの男。
「結婚後、生活に不自由はさせない」
「そういう話じゃありません」
「必要なものは用意する」
「聞いてます?」
「自由に暮らせ」
「人の話を聞いてください!」
気づけば立ち上がっていた。
レオンが初めて少しだけ目を見開く。
たぶん驚いたのだろう。
知らない。
でも少しだけ。
本当に少しだけ。
人間っぽかった。
「何なんですか、さっきから」
怒りが込み上げる。
怖かった。
でも、それ以上に腹が立った。
「愛するつもりはない?」
言葉が止まらない。
「必要以上に関わらない?」
レオンは黙っている。
「私は物じゃありません」
静かになる。
部屋が。
空気が。
「勝手に決めないでください」
胸が苦しい。
ずっとずっと頑張ってきた。
家を守るため一人で。
誰にも頼らず。
なのに、初対面で。
まるで都合のいい道具みたいに。
「……帰ります」
立ち去ろうとした。
その時。
「……道具だとは思っていない」
足が止まる。
振り返る。
レオンは静かにこちらを見ていた。
さっきと同じ顔。
でも少しだけ何かが違った。
「君の言う通りだ」
低い声。
静かだった。
「勝手だった」
謝罪した。
予想していなかった。
だからか、一瞬言葉を失う。
「……なら」
「だが」
遮られる。
まっすぐな銀色の瞳。
逃げられない。
「それでも、この結婚は必要だ」
空気が変わった。
冷たい。
張り詰める。
なにか理由がある、そう思った。
何か隠している。
けれど、分からない。
分かるのは、この男がとてもひどく孤独そうだということだけだった。
その瞬間、扉の外で何かが落ちる音。
次いで悲鳴。
レオンの表情が変わる。
初めて明確に何かが張り詰めた。
「……閣下!」
執事の焦った声。
レオンが立ち上がる。
その横顔を見た瞬間。
理由もなく嫌な予感がした。
胸が妙にざわついた。
まだリリアは知らない。
英雄と呼ばれる男が誰にも知られず静かに壊れていることを。
そして、自分だけがその苦しみに触れることになると。
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