第三十七話 奪われる銀狼
朝食室へ向かう途中、リリアは何度も自分の左手を見ていた。
正確には、左手そのものではない。
その手を、少し前までレオンが握っていたことを思い出していた。
『俺は、お前を愛している』
思い出すたびに、胸の奥が熱くなる。
言葉はきちんと覚えている。
今朝のことだ。
忘れていない。
何度確かめても、記憶はそこにある。
銀色の瞳。
震えていた声。
強く抱きしめられた時の体温。
指先へ落とされた口づけ。
「……っ」
最後の記憶で、顔が一気に熱くなった。
リリアは廊下の途中で両手を頬へ当てる。
「何を思い出しているんですか、私は……」
もちろん分かっている。
分かっているから困っている。
婚約者として同じ屋敷に暮らしていた時とは違う。
互いに想いを伝えた。
愛していると言った。
つまり、今の二人は。
「恋人……ということになるのよね」
小さく呟く。
その単語が口から出た瞬間、余計に恥ずかしくなった。
「リリア様?」
背後から声をかけられ、リリアは飛び上がりそうになった。
振り返る。
ミアが立っている。
栗色の瞳が、妙に輝いていた。
「な、何?」
「いえ」
ミアはにこにこと笑う。
「とても幸せそうなお顔でしたので」
「そんな顔してないわ」
「していらっしゃいました」
「してない」
「閣下のことを考えておられましたか?」
「どうしてそうなるの!」
声が大きくなる。
完全に図星だと自白したようなものだった。
ミアの笑顔が深くなる。
「やはり」
「ミア」
「はい」
「屋敷中に言いふらしていないでしょうね?」
「言いふらしてなどおりません」
一瞬、安心する。
だがミアは続けた。
「皆様、すでにお気づきでしたので」
リリアは言葉を失った。
「……皆?」
「はい」
「誰が?」
「グレイ様、料理長、庭師長、侍女頭、それから警備隊の皆様も」
「どうして警備隊まで!」
「閣下が今朝から、いつもより少しだけ機嫌がよろしいので」
「それで分かるものなの?」
「公爵邸では歴史的な変化ですから」
そこまで言われることなのだろうか。
リリアは頭を抱えたくなった。
けれど、レオンが少し機嫌よく見える。
その言葉だけは、嬉しかった。
「……笑っていた?」
リリアが尋ねると、ミアは少し考えた。
「笑ってはいませんでした」
「そう」
「ですが、使用人が挨拶をした時に、二度も頷かれました」
「それは普段はしないの?」
「一度です」
違いが細かすぎる。
それでも、この屋敷では大事件らしい。
リリアは小さく笑った。
「そう」
自分と同じように。
レオンも今朝のことを思い出しているのだろうか。
愛していると言ったことを。
自分に抱きしめられたことを。
少しくらい、嬉しいと思ってくれているだろうか。
そう考えた瞬間、胸が柔らかく温かくなった。
「リリア様」
ミアが優しく呼ぶ。
「お幸せですか?」
その問いに、リリアは少しだけ迷った。
怖いことはたくさんある。
月華の代償。
失われた記憶。
セドリック。
黒霧。
レオンの呪い。
何も解決していない。
それでも。
「……ええ」
リリアは静かに答えた。
「幸せよ」
それは今の自分が選んだ、確かな言葉だった。
◇
朝食室へ入ると、レオンはすでに席についていた。
黒い上着。
銀色の髪。
いつもと変わらない姿。
けれど、リリアを見ると銀色の瞳が少しだけ和らいだ。
それだけで心臓が跳ねる。
「おはようございます」
「おはよう」
短い挨拶。
昨日までと同じ。
なのに、まったく違うように聞こえる。
リリアは向かいの席へ座った。
レオンの隣ではなく、いつもの位置。
少し遠い。
その距離が急に気になった。
すると、レオンが何も言わず、隣の椅子を引いた。
リリアは瞬きをする。
「……こちらへ?」
「ああ」
「どうして」
「遠い」
即答だった。
リリアの顔が熱くなる。
「食事をするだけですよ?」
「分かっている」
「向かいでも会話できます」
「隣がいい」
淡々と言う。
本人は恥ずかしくないのだろうか。
いや、耳が少し赤い。
きっと恥ずかしい。
それでも言っている。
ずるい。
リリアは黙って隣へ移動した。
ミアが背後で小さく息を呑んだ。
グレイは平然としている。
ただし口元がわずかに緩んでいた。
「……見ないでください」
リリアが小声で言うと、グレイは丁寧に頭を下げた。
「失礼いたしました」
絶対に分かっている。
朝食が運ばれる。
焼きたてのパン。
温かなスープ。
果物。
穏やかな朝。
リリアはスープを一口飲み、少しだけ息をついた。
隣にレオンがいる。
腕が触れそうな距離。
意識しない方が無理だった。
「落ち着かないのか?」
レオンが小声で尋ねる。
「誰のせいだと思っているんですか」
「俺か?」
「他にいません」
「嫌なら戻っていい」
声が少しだけ沈む。
リリアは慌てて首を振った。
「嫌ではありません」
「そうか」
「ただ、慣れないだけです」
「俺もだ」
意外な答えだった。
見ると、レオンは正面を見たまま、少しだけ緊張している。
完璧に見える英雄。
何でも平然とこなす公爵。
けれど、恋人として隣に座るだけで緊張している。
そう思うと可愛くて。
愛しくて。
リリアは思わず笑った。
「何だ?」
「いえ」
「笑っただろう」
「少しだけ」
「理由は?」
「教えません」
「気になる」
「忘れたくないので、あとで日記に書きます」
レオンが黙った。
一瞬、空気が変わる。
日記。
忘れないための記録。
そこには昨日の告白も書かれている。
リリアは自分が不用意な言葉を選んだことに気づいた。
「……ごめんなさい」
「謝るな」
レオンは静かに言った。
「記録することは悪くない」
「はい」
「俺も書く」
「今日のことを?」
「ああ」
「何と書くんですか?」
「お前が朝から俺を見て笑った」
「それだけですか?」
「可愛かった、と」
リリアは固まった。
スプーンを持ったまま。
レオンは何でもないことのようにスープを飲んでいる。
だが、耳がかなり赤い。
「……レオン様」
「何だ?」
「最近、急にそういうことを言うようになりましたね」
「言いたいと思った」
「少し加減してください」
「なぜ?」
「心臓が持ちません」
「医師を呼ぶか?」
「そういうことではありません!」
使用人たちが必死に笑いを堪えている気配がした。
◇
穏やかな朝食が終わる頃。
グレイが一通の封書を持ってきた。
「閣下。第一王子殿下より、急ぎのご連絡でございます」
空気が引き締まる。
レオンは封書を受け取り、すぐに目を通した。
その表情が険しくなる。
リリアも隣から見る。
王宮地下牢で、黒鴉会の幹部が死亡。
遺体は黒い灰となり、証言を得られなかった。
牢内には月白花の花弁。
「セドリック殿下ですね」
リリアが言う。
「ああ」
「口封じを」
「証拠はない」
レオンの声が冷える。
「だが、間違いない」
封書には続きがあった。
死亡直前、牢の魔力監視術式が異常を記録した。
黒霧は外部から送り込まれたものではない。
男の体内にあらかじめ埋め込まれていた。
「体内に?」
リリアは眉を寄せる。
「黒霧魔石の破片か、術式を仕込まれていたのでしょうか?」
「おそらく」
レオンは封書を握る。
「利用された者すら、最初から捨て駒だった」
リリアはセドリックの笑顔を思い出す。
穏やかで。
優しくて。
人を安心させる顔。
その裏側で、彼は人を道具としてしか見ていない。
「第一王子殿下は?」
「今日の午後、内密に会いたいと」
「私も行きます」
「駄目だ」
即答だった。
リリアはレオンを見る。
「なぜですか?」
「昨日、月華を使ったばかりだ」
「体調は戻っています」
「記憶を一つ失った」
その言葉に、胸が痛んだ。
レオンの表情も苦しそうだった。
「だからこそ、情報を共有したいんです」
「俺が聞いてくる」
「また一人でですか?」
「違う」
「同じです」
「王宮へ行くだけだ」
「セドリック殿下がいる場所へ、でしょう」
レオンが黙る。
リリアは彼の袖を掴んだ。
「私を守るために置いていこうとしているのは分かります。でも、昨日何度でも選ぶと言ってくれました。私も同じです。危険な時だけ、選ぶ権利を奪わないでください」
長い沈黙。
レオンは深く息を吐いた。
「……俺のそばを離れるな」
「はい」
「少しでも体調が悪くなったら言え」
「はい」
「無理はするな」
「はい」
「絶対にだ」
「約束します」
レオンはまだ不満そうだった。
けれど、リリアの意思を否定しなかった。
それが嬉しかった。
◇
午後。
二人は王宮へ向かった。
今回は正式な会議ではない。
第一王子の私室に近い、小さな執務室。
廊下にも彼の直属騎士だけが配置されていた。
室内には第一王子とユリウスが待っている。
机の上には、黒鴉会の男が灰になった際の記録。
月白花。
黒霧魔力の分析表。
そして、一枚の古い図面が広げられていた。
「来たか」
第一王子は二人を見る。
そしてリリアへ視線を向けた。
「体調は?」
「問題ありません」
横からレオンが低く言う。
「少し疲労が残っています」
「レオン様」
「事実だ」
第一王子は少しだけ口元を緩めた。
「以前より正直になったな、ヴァルハルト公爵」
「必要なので」
「そうか」
それ以上は追及せず、図面を指した。
「これを見てくれ」
王宮地下の古い構造図だった。
現在は使われていない区画。
封鎖された研究室。
地下水路。
そして、王宮の中心から北方へ伸びる古い魔力路。
「これは?」
リリアが尋ねる。
ユリウスが答えた。
「黒霧研究が始まるより以前、王家が星印の力を増幅するために使っていた魔力路です」
「白月塔にも繋がっている?」
「はい」
第一王子が続ける。
「黒鴉会の男が死亡した時、この魔力路の一部が反応した」
「セドリック殿下が、王宮内から術を使った?」
「可能性は高い」
レオンの表情が険しくなる。
「場所は特定できないのですか?」
「反応は地下全体に広がった」
ユリウスが苦い顔をする。
「ただし、妙な点があります」
彼は別の紙を広げた。
魔力波形の記録らしい。
リリアには詳しく分からない。
だがレオンは見た瞬間に顔色を変えた。
「……銀牙」
「何ですか?」
リリアが問う。
レオンは答えない。
代わりにユリウスが静かに言った。
「黒霧魔力の中に、ヴァルハルト公爵の星印と同質の反応が含まれていました」
リリアの胸が冷える。
「どういうことですか?」
「誰かが公爵の星印を模倣した」
「あるいは……」
第一王子がレオンを見る。
「公爵の呪いと、王宮地下の黒霧が繋がっている」
静寂。
リリアはレオンの手を見た。
指先が僅かに震えている。
「三年前」
レオンが低く言った。
「黒霧領域で呪いを受けた時、俺は霧狼の核を剣で貫いた」
「はい」
「その直後、何かが身体へ入った」
「黒霧ではなく?」
「当時は黒霧だと思った」
彼は目を閉じる。
記憶を探るように。
「だが、違ったかもしれない」
「何が入ったんですか?」
リリアの問いに、レオンはすぐには答えなかった。
やがて。
「声だ」
低い声。
「誰かの声が、頭の中で言った」
部屋の空気が重くなる。
「器を得た、と」
リリアの背筋が凍った。
銀狼の器。
白月塔の記録にあった言葉。
黒霧を内に宿しながら、理性を保つ者。
「その声のことを、なぜ今まで」
第一王子が問う。
「忘れていた」
レオンの声が掠れる。
「正確には、思い出せなかった」
「呪いが記憶を封じていたのかもしれません」
ユリウスが言う。
「あるいは、意図的に」
リリアはレオンの横顔を見る。
顔色が悪い。
額に薄く汗が滲んでいる。
「レオン様」
呼ぶと、彼はすぐにこちらを見る。
「大丈夫だ」
「本当ですか?」
「……少し、頭が痛む」
正直に言った。
だが次の瞬間。
レオンの身体が大きく揺れた。
「レオン様!」
リリアが支える。
熱い。
急激な発熱。
首筋に黒い侵食が浮かび上がる。
これまでよりも速い。
黒い筋は頬まで這い上がり、銀色の瞳に赤い光が混じった。
「下がれ!」
レオンが叫ぶ。
だが、声が二重に聞こえた。
彼の声に。
別の低い声が重なっている。
「器が」
その口から、レオンではない言葉が漏れた。
「熟した」
リリアの血の気が引く。
「レオン様?」
返事はない。
彼は頭を押さえ、苦しそうに膝をつく。
「拘束術を!」
第一王子が叫ぶ。
騎士たちが入ってくる。
だがレオンが片手を振っただけで、黒い衝撃が広がった。
騎士たちが壁へ叩きつけられる。
「近づくな!」
リリアが叫ぶ。
レオンの身体から溢れているのは、いつもの黒霧ではない。
銀色と黒が混ざった異質な力。
銀牙。
黒霧。
二つが融合している。
「リリア、下がれ!」
第一王子が腕を掴もうとする。
しかし、リリアは振りほどいた。
「嫌です!」
「今の彼は危険だ!」
「分かっています!」
レオンがゆっくり顔を上げる。
銀色の瞳は、ほとんど赤く染まっていた。
それでも――
ほんの奥に、彼がいる。
苦しんでいる。
助けを求めている。
リリアには分かった。
「レオン様」
一歩近づく。
彼の喉から唸り声が漏れる。
獣のような。
霧狼と同じ声。
「来るな……」
かすかに。
レオン自身の声が混じった。
「俺では、ない……」
「分かっています」
「逃げろ」
「嫌です」
「傷つける」
「傷つけません」
「分からないだろう!」
レオンが叫ぶ。
黒い力が床を這う。
石床に亀裂が入る。
リリアの足元まで迫る。
それでも下がらない。
「分かります」
静かに言った。
「あなたは私を傷つけません」
「今の俺は」
「今もあなたです」
「違う!」
「違いません!」
リリアの声が響く。
「あなたは怖がっている。私を傷つけることを。なら、あなたです」
レオンの瞳が揺れた。
ほんの少し。
赤い光の奥に、銀色が戻る。
「リリア……」
「はい」
「来るな」
「行きます」
「頼む」
「ごめんなさい」
リリアは一歩ずつ近づいた。
月華は使わない。
使えば、また記憶を失うかもしれない。
それに今、必要なのは浄化ではない。
彼を呼ぶこと。
彼自身を繋ぎ止めること。
「レオン様」
「……」
「今朝、隣に座ってくれました」
彼の肩がわずかに動く。
「遠いからって」
「……」
「私を可愛いって書くと言いました」
「……言うな」
掠れた声。
レオンの声だ。
「恥ずかしいですか?」
「……ああ」
「よかった」
リリアは泣きそうになりながら笑う。
「まだ覚えていますね」
さらに一歩。
黒い力がリリアの足首へ触れる。
冷たい。
痛い。
けれど止まらない。
「私たち、今朝から恋人になったばかりです。だから――」
声が震える。
「今日、いなくならないでください!」
レオンの顔が歪む。
「俺は」
「はい」
「俺は、お前を」
「知っています」
リリアは手を伸ばした。
頬へ。
黒い侵食が這う肌へ。
「愛している」
レオンが絞り出す。
その瞬間、赤い瞳から、涙が一筋零れた。
「はい」
リリアも涙を浮かべた。
「私も愛しています」
彼の頬に触れる。
熱い。
黒い力が腕を這う。
痛みが走る。
それでも、月華は使わない。
代わりに、名前を呼ぶ。
「レオン・ヴァルハルト」
一度。
「私の婚約者」
二度。
「苦い薬が嫌いな人」
三度。
「北方を守る銀狼公爵」
四度。
「私が愛している人」
レオンの身体が大きく震えた。
黒い力が暴れる。
室内の窓が割れる。
第一王子たちが何か叫んでいる。
聞こえない。
リリアは彼だけを見る。
「戻ってきてください」
「今朝の続きをしましょう」
「一緒に食事をして」
「手紙を書いて」
「忘れたくないことを増やすんです」
黒い霧が渦巻く。
レオンの手が上がる。
リリアの首へ伸びる。
騎士たちが剣を構える。
「動くな!」
第一王子が叫ぶ。
だがリリアは動かなかった。
レオンの手が、首へ触れる直前で止まる。
指先が震える。
「……リリア」
声が戻った。
「はい」
「俺を」
苦しそうに。
必死に。
「呼べ」
「呼んでいます」
リリアは彼の手を取った。
「何度でも」
銀色の光が、二人の繋いだ手から淡く灯った。
リリアが意識して出したものではない。
月華。
けれど、身体から奪われる感覚はない。
レオンの銀牙と混ざり合い、二人の間だけを巡っている。
白月塔で起きた、あの光。
「……これは」
ユリウスが息を呑む。
光はレオンの全身を包んだ。
黒い侵食を消すのではない。
押し込めるのでもない。
黒い力の中から、レオン自身の銀色だけを拾い上げていく。
「戻れ」
今度はリリアが言う。
「私を見てください」
赤い瞳が揺れる。
ゆっくり。
少しずつ。
銀色が戻る。
「……リリア」
「はい」
「俺は……」
「はい」
「お前を、傷つけていないか?」
胸が締めつけられる。
戻った。
レオンだ。
いつもの。
不器用で。
優しくて。
自分を傷つけることより、リリアを傷つけることを恐れる人。
「傷つけていません」
リリアは笑った。
「大丈夫です」
「……そうか」
レオンの身体から力が抜ける。
倒れる。
リリアは支えようとする。
だが重い。
一緒に床へ座り込む形になった。
レオンはリリアの肩へ額を預けた。
荒い呼吸。
高い熱。
それでも理性は戻っている。
黒い侵食も、首筋まで引いていた。
「……怖かった」
レオンが呟く。
「はい」
「お前の首へ、手が伸びた」
「止まりました」
「だが……」
「止まりました」
リリアは彼の髪へ触れた。
「あなたが止めたんです」
レオンは何も言わない。
ただ、身体が小さく震えていた。
リリアは抱きしめる。
今度は自分が。
「戻ってきてくれて、ありがとうございます」
「……お前が呼んだからだ」
「なら、これからも呼びます」
「何度でも?」
「何度でも」
レオンの手が、リリアの背へ回る。
弱く。
けれど確かに。
「……離れるべきだ」
耳元で、低い声。
リリアはすぐに首を振った。
「駄目です」
「今のを見ただろう」
「見ました」
「俺はお前を殺すかもしれない」
「殺しません」
「断言できない」
「私が断言します」
「なぜ?」
リリアは少しだけ身体を離し、彼の顔を見る。
「あなたは、私の首へ手を伸ばしても止めました。呪いの中で、自分が誰かも分からなくなりかけていたのに、私を傷つけたくないと思った」
レオンの瞳が揺れる。
「だから信じます! 呪いではなく、あなたを!」
長い沈黙。
やがてレオンは、苦しそうに目を閉じた。
「……勝てないな」
「何にですか」
「お前に」
「知っています」
リリアが言うと、レオンはほんの少しだけ笑った。
◇
レオンは王宮医療棟へ運ばれた。
今回は抵抗する力も残っていなかった。
第一王子直属の医師と術師が診察に当たる。
リリアは部屋の外で待つよう言われた。
だが扉の前から離れなかった。
腕には黒い痕が残っている。
レオンから溢れた力に触れた跡。
軽い火傷のように痛む。
第一王子が隣へ立った。
「治療を受けろ」
「後で受けます」
「似た者同士だな」
「よく言われます」
第一王子は深く息を吐いた。
「君は怖くないのか」
リリアは少し考えた。
「怖いです」
「なら、なぜ近づける」
「レオン様も怖がっているからです」
「……」
「一人で怖がらせたくありません」
第一王子はしばらくリリアを見ていた。
そして静かに言った。
「セドリックは、あれを狙っている」
「今日の発作を?」
「ああ」
彼は先ほどの魔力記録を持ち上げた。
「公爵の中にあるものは、単なる呪いではない。黒霧を操る核、あるいはその一部が宿っている可能性がある」
リリアの胸が冷える。
「つまり、公爵を完全に暴走させれば……」
第一王子の顔が険しくなる。
「人の形をした黒霧の王が生まれるかもしれない」
言葉の意味が重く落ちた。
黒霧の王。
レオンが。
セドリックが欲しいのは、月華だけではない。
レオンの中にある力。
銀狼の器。
「だから、黒鴉会の男を殺した術に、レオン様の星印と同じ反応が」
「おそらく、共鳴を試したのだろう」
第一王子は低く言った。
「セドリックは、王都地下の魔力路を通して公爵の呪いを刺激した。今日の発作は、偶然ではない」
リリアの拳が震える。
セドリックが。
意図的に。
レオンを奪おうとした。
「止めます」
リリアは言った。
「必ず」
第一王子は頷く。
「そのためには、王宮地下へ入る必要がある」
「セドリック殿下が使った魔力路を探すんですね」
「ああ」
「私も行きます」
第一王子は即座に眉を寄せた。
「君は先ほど月華を」
「使っていません」
正確には、意識して使っていない。
二人の間で力が巡っただけ。
「身体への負担も、ほとんどありません」
腕の痕は痛む。
だが、いつものような消耗はない。
記憶が揺れる感覚もなかった。
第一王子は考え込む。
「新しい月華の使い方か」
「まだ分かりません」
「ならなおさら、調べる必要がある」
「はい」
「ただし、今日は休め」
「……はい」
「公爵が目を覚めるまで、君も治療を受けろ」
リリアは扉を見る。
「目を覚ましたら、教えてください」
「約束する」
「必ず」
「君たちは本当に、そればかりだな」
第一王子は少しだけ苦笑した。
「必ず知らせる」
リリアはようやく頷いた。
◇
治療を受けたあと。
リリアはレオンのいる部屋へ戻った。
彼はまだ眠っている。
顔色は悪い。
額には汗。
首筋には薄く黒い痕が残っている。
寝台の横へ座る。
手を取る。
温かい。
生きている。
「レオン様」
返事はない。
リリアは持ってきた日記を開いた。
今日の出来事を書くために。
『レオン様の呪いが暴走した。とても怖かった。でも、レオン様は私を傷つけなかった』
一度、ペンを止める。
そして続ける。
『レオン様は、自分が私を傷つけるかもしれないと言った。でも私は、彼を信じると決めた』
さらに書く。
『今日、私は彼を名前で呼び戻した。彼もまた、私の声を選んで戻ってきてくれた』
インクが滲む。
涙が紙へ落ちた。
リリアは慌てて拭う。
『忘れない。レオン様は呪いではない。銀狼の器でもない。黒霧の王でもない』
最後に力を込めて書いた。
『彼は、私が愛しているレオン・ヴァルハルトだ』
日記を閉じる。
その時、握っていた手が動いた。
「……リリア」
掠れた声。
リリアは顔を上げる。
銀色の瞳が開いていた。
「レオン様」
「……何を書いた」
「今日のことです」
「読んでもいいか?」
「まだ駄目です」
「そうか」
弱い声。
けれど、少し残念そうだった。
リリアは笑った。
「未来のあなたのためですから」
「今の俺も読みたい」
「駄目です」
「恋人なのに?」
不意に言われて、リリアは固まった。
レオンは疲れた顔のまま、ほんの少し口元を緩めている。
「……覚えているんですね」
「何を」
「私たちが恋人になったこと」
「忘れるわけがない」
リリアの目に涙が浮かぶ。
「よかった」
レオンの表情が柔らかくなる。
彼はゆっくり手を上げ、リリアの頬へ触れた。
「泣くな」
「安心したんです」
「そうか」
「はい」
「俺もだ」
指先が涙を拭う。
「目を覚まして、お前がいた」
「約束しましたから」
「……ああ」
レオンは一度目を閉じる。
それから、低く言った。
「離れろとは言わない」
リリアは息を呑む。
「もう言わない。怖いが、お前がそばにいる方が、俺は戻れる」
胸が熱くなる。
「はい」
「だから」
彼はリリアの手を握った。
「そばにいてくれ」
「はい」
迷わず答える。
「何度でも」
レオンの瞳が少しだけ細められる。
「それは俺の台詞だ」
「二人の台詞です」
「そうか」
「はい」
窓の外で、日が沈み始めていた。
王都の空が赤く染まる。
その地下では、セドリックの仕掛けた黒い道がまだ生きている。
レオンの中には、奪われようとしている銀狼の力が眠っている。
危険は近い。
以前よりも。
ずっと。
それでも二人は、もう互いを遠ざけることを選ばなかった。
怖いまま。
傷つくかもしれないまま。
それでも手を繋いで進む。
奪われる前に。
レオンの中に眠るものの正体を暴き。
彼を黒霧の王にしようとする計画を止めるために。
二人は王宮地下へ向かうことを決めた。
読んでいただきありがとうございます。
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