第三十六話 忘れた恋の行方
『私はたぶん、レオン様が好きなのだと思う』
日記に書かれた一文を前に、時間が止まったようだった。
間違いなくリリアの字だった。
少し右へ傾く癖。
考えながら書いた時にできる、インクの小さな滲み。
誰かが偽造したものではない。
昨夜の自分が。
自分の手で。
自分の気持ちを書いたのだ。
それなのに、覚えていない。
文章を書いた瞬間も。
そこへ至るまでに、何を考えていたのかも。
胸の中にあったはずの感情を、言葉として認めた記憶だけが、綺麗に切り取られている。
「……これを書いたことを、覚えていません」
声が震えた。
レオンは何も言わなかった。
日記へ落としていた視線を、ゆっくりリリアへ向ける。
銀色の瞳。
そこに浮かんでいたのは、喜びではなかった。
驚きでもない。
痛み。
深い痛みだった。
「レオン様」
呼びかけても、彼は答えない。
日記の一文を見つめたまま、まるで息の仕方すら忘れたように動かなかった。
「……昨日」
ようやく、低い声が落ちた。
「この言葉を書いた時のことを、何も覚えていないのか?」
「はい」
嘘をつくことはできなかった。
レオンの指が震えた。
ほんのわずかに。
剣を握る時には決して揺れない手が。
「では」
声が掠れる。
「今は?」
リリアは息を呑んだ。
「今も、俺を……」
言葉が途切れる。
彼は最後まで言えなかった。
好きなのか?
そう聞きたいのだろう。
でも、聞くのが怖い。
答えを知るのが怖い。
リリアは日記を胸元へ抱き寄せた。
今の気持ち。
レオンを見ると安心する。
彼の傷を見ると胸が痛む。
声を聞くだけで、心がほどける。
他の女性が彼の隣にいるところを想像すると、嫌な気持ちになる。
離れたくない。
手放されたくない。
一緒に生きたい。
それを恋と呼ぶのなら。
「……好きだと思います」
静かに答えた。
レオンの瞳が揺れる。
「思う?」
その言葉だけが、鋭く返ってきた。
リリアは胸が痛んだ。
「ごめんなさい」
「謝るな」
「でも」
「謝るな!」
レオンは立ち上がった。
急な動きに、脇腹の傷が痛んだのか、ほんの少しだけ顔を歪める。
リリアは反射的に手を伸ばした。
「傷が」
「大丈夫だ」
「大丈夫では」
「今は」
レオンの声が低くなる。
冷たい。
出会った頃の彼を思わせる声。
けれどリリアには分かる。
これは拒絶ではない。
自分を守るための壁だ。
そして、リリアから逃げるための壁でもある。
「一人にしてくれ」
彼はそう言って、扉へ向かった。
「待ってください」
リリアは寝台から降りようとした。
身体が揺れる。
まだ月華の消耗が残っている。
床へ足をついた瞬間、膝から力が抜けた。
「……っ」
倒れる前に、強い腕が身体を支えた。
レオンだった。
扉まで行っていたはずなのに。
一瞬で戻ってきた。
「何をしている!」
怒声。
「動くなと言っただろう!」
「なら行かないでください!」
リリアも叫び返した。
レオンが固まる。
近い。
支える腕の中。
銀色の瞳が見開かれている。
「一人にしてほしいなんて、嫌です」
「リリア……」
「逃げないって言ったでしょう」
「これは逃げるのとは違う」
「同じです」
リリアは彼の上着を掴んだ。
力が入らない。
それでも離さなかった。
「私のためだと言って、勝手に離れようとしている」
「最初と同じです」
「違う!」
レオンの声が荒くなる。
「お前は俺のせいで記憶を失った!」
部屋に響いた。
痛いほどの叫びだった。
「俺を想った記憶を、俺を好きだと認めた瞬間を、お前は失った」
リリアは言葉を失う。
レオンは苦しそうに顔を歪めた。
「これが始まりかもしれない。今度は俺と出会った記憶を失うかもしれない。次は俺の名だ。その次は……」
声が震える。
「お前自身かもしれない」
「だからって」
「俺から離れればいい」
その言葉は、まるで彼自身を刺しているようだった。
「月華は俺の呪いに反応する。俺への想いが強くなるほど、お前の力は増す。なら、俺を想わなければいい」
「そんなこと」
「俺が消えればいい」
リリアの胸が凍った。
「どういう意味ですか?」
レオンは視線を逸らす。
「婚約を解消する」
「……え」
「王命による婚約だが、俺から王家へ申し立てる。呪いの治療を別の方法で続けると。王家が認めなければ、公爵位を返上する」
リリアの頭が真っ白になる。
婚約を解消する。
離れる。
公爵位まで捨てる。
全部、自分を守るために。
「北方はどうするんですか?」
「後継を立てる」
「あなたを信じている人たちは?」
「俺がいなくても北方は残る」
「私との約束は?」
レオンの瞳が揺れた。
「……守れない」
「二人で戻るって言いました」
「状況が変わった」
「離れないって言いました」
「俺が間違っていた」
「一緒に怖がるって」
「リリア!」
「勝手に終わらせないでください!」
叫んだ瞬間。
目の奥が熱くなった。
涙が零れる。
悔しい。
悲しい。
怖い。
記憶を失ったことよりも。
レオンがそれを理由に、すべてを終わらせようとしていることの方が怖かった。
「私の気持ちを、あなたが決めないでください」
「だが、お前は忘れた」
「忘れました」
認める。
逃げない。
「大切な瞬間を一つ、忘れました。だから怖いです。また忘れるかもしれない……あなたの顔も、声も、全部」
涙が頬を伝う。
「でも!」
リリアはレオンの胸元を強く掴んだ。
「だから今、離れるんですか? 忘れる前に、自分から捨てろって言うんですか?」
「違う」
「同じです!」
「お前を守るためだ!」
「私は守られていません!」
レオンが息を呑む。
「今、あなたに離れると言われて、私は傷ついています。あなたを忘れる未来も怖い。でも、あなたに捨てられる今の方が、ずっと苦しいです」
静寂。
リリアの嗚咽だけが部屋に落ちる。
レオンの顔が歪んだ。
手を伸ばしかけて。
止める。
触れる資格がないと思っているように。
「……俺には」
低い声。
「お前を愛する資格がない」
リリアの胸が強く鳴った。
今。
確かに。
彼は言った。
愛する、と。
告白ではない。
否定の中の言葉。
それでも、隠していた気持ちがこぼれた。
「資格なんて」
リリアは涙を拭わずに言った。
「誰が決めるんですか?」
「俺は呪われている」
「知っています」
「いずれ魔物になる」
「止めます」
「お前の記憶を奪う」
「方法を探します」
「俺を想うほど、お前は壊れる!」
レオンの叫びに、リリアは怯まなかった。
「それでも!」
声が震える。
「私があなたを好きになったことまで、間違いにしないでください!」
レオンの動きが止まった。
言ってしまった。
今度こそ。
日記の文字ではなく。
過去の自分の記録でもなく。
今の自分の口で。
「……好きです」
胸が苦しい。
でも、逃げない。
「昨日の私が、どんな気持ちで日記に書いたのかは思い出せません。でも今……」
レオンを見つめる。
銀色の髪。
傷ついた顔。
泣きそうな瞳。
「今の私は、あなたが好きです」
涙で視界が滲む。
「離れたくありません! 捨てられたくありません! あなたに生きてほしいです! 私も生きたいです! あなたの隣で」
言葉にするたび、胸の奥にあったものが形になる。
失った瞬間の記憶とは別のもの。
今ここで生まれ直した気持ち。
「だから……」
リリアは震える手を差し出した。
「もう一度、私を選んでください」
レオンは動かなかった。
ただ、リリアの手を見ている。
長い沈黙。
永遠のように感じる。
やがて、彼の手が動いた。
ゆっくり。
恐る恐る。
そしてリリアの手を取った。
強く。
「……俺は」
声が震えていた。
「お前を選んでいいのか?」
「はい」
「お前を危険にするかもしれない」
「一緒に避けます」
「また忘れるかもしれない」
「その時は話してください」
「俺を忘れるかもしれない」
「また会ってください」
「何度でも?」
「何度でも」
リリアは泣きながら笑った。
「最初から、何度でも好きになります」
その言葉で。
レオンの表情が崩れた。
完全に。
銀狼公爵でも。
英雄でも。
冷酷な男でもない。
ただ一人の、傷ついた男の顔。
彼はリリアを抱きしめた。
強く。
けれど、壊さないように。
「……愛している」
耳元で。
低く。
掠れた声がした。
リリアは息を止めた。
ついに、ずっと途切れていた言葉。
屋上で。
馬車で。
白月塔で。
何度も届きそうで届かなかった言葉。
「俺は、お前を愛している」
レオンの腕が震えている。
「最初からではない。気づくのも遅かった。認めるのも怖かった。だが……」
彼は少しだけ身体を離し、リリアを見る。
銀色の瞳が濡れていた。
「もう、否定できない。お前が笑えば嬉しい。お前が傷つけば苦しい。他の男に笑うのは気に入らない」
こんな時なのに。
リリアは少し笑ってしまった。
「そこも言うんですね」
「大事だ」
真剣だった。
「お前を手放したくない。何度忘れられても、俺はお前を探す。何度でも名乗る。何度でも好きになってもらえるようにする」
リリアの涙がまた溢れた。
「……自信があるんですね」
「ない」
即答だった。
「ないんですか?」
「だが、諦めない」
レオンらしい。
不器用で。
真っ直ぐで。
優しい。
リリアは彼の胸元に額を寄せた。
「私も、愛しています」
今度は迷わなかった。
「昨日の記憶がなくても、今日、また好きになりました。だから、明日忘れても」
彼の背中へ腕を回す。
「明日、また好きになります」
レオンが息を呑む。
抱きしめる腕が強くなる。
二人はしばらく、何も言わなかった。
朝の光。
開かれた日記。
失われた記憶。
そのすべての中で。
新しい告白だけが、確かなものとして残った。
◇
しばらくして。
リリアは自分が寝間着姿のまま、レオンに抱きしめられていることを思い出した。
そしてレオンも、かなり近い。
近すぎる。
心臓が急にうるさくなる。
「……レオン様」
「何だ?」
「少し、離れていただけますか」
彼の身体が固まった。
「嫌なのか?」
声が明らかに沈んだ。
リリアは慌てた。
「違います!」
「では」
「恥ずかしいんです!」
レオンは少し黙った。
そして、ゆっくり身体を離す。
だが手は握ったままだった。
「これならいいか?」
「……はい」
恋人。
ということになるのだろうか。
婚約者ではあった。
でも、契約だった。
今は違う。
互いに愛していると言った。
そう考えた瞬間、顔が熱くなる。
レオンも何となく落ち着かない様子だった。
視線が合う。
逸らす。
また合う。
二人とも何を言えばいいか分からない。
先に口を開いたのはレオンだった。
「……これから、どうすればいい」
「何がですか?」
「愛していると伝えた後だ」
真面目な顔。
リリアは瞬きをした。
「私に聞かれても……」
「経験がない」
「私もありません」
沈黙。
英雄と薬師。
二人揃って恋愛経験がない。
どうしようもない。
「……とりあえず」
リリアは考えながら言う。
「今まで通りでいいのでは?」
「今まで通り?」
「はい。手を繋いだり、一緒に本を読んだり、薬を飲んでもらったり」
「最後だけおかしい」
「大切です」
レオンは少しだけ笑った。
柔らかな笑顔。
今までよりはっきりした。
「なら、今まで通りで」
「はい」
「ただし」
彼はリリアの手を持ち上げる。
そして、指先へそっと唇を触れた。
「……っ」
息が止まる。
「こういうことは増やしたい」
低い声。
リリアの顔が一気に熱くなった。
「どこで覚えたんですか!」
「知らない」
「知らないのにやったんですか!」
「嫌だったか?」
「嫌では……」
声が小さくなる。
「嫌では、ないです」
レオンの瞳が少し細められた。
嬉しそうに。
「そうか」
危険だ。
この人。
恋愛に鈍いと思っていたのに、覚え始めたら非常に危険な人かもしれない。
◇
その時。
扉が控えめに叩かれた。
「リリア様、朝食をお持ちしました」
ミアの声。
二人は同時に手を離した。
いや――正確には、リリアが離そうとして、レオンが少し遅れて離した。
扉が開く。
盆を持ったミアが入ってくる。
そして――
赤い顔のリリア。
寝台の横に立つレオン。
開かれた日記。
妙に近い距離。
それらを見た。
ミアの動きが止まる。
「……失礼、いたしました?」
疑問形だった。
「違うの!」
リリアは慌てて言う。
「何が違うんですか?」
聞き返される。
説明できない。
レオンは平然としているように見えた。
だが、耳が赤い。
ミアは二人を交互に見た。
そして、何かを察したように目を見開く。
「まさか!」
「ミア」
「はい」
「朝食を置いてくれ」
レオンが低く言う。
「はい!」
ミアは盆を机へ置いた。
それから、リリアへ満面の笑みを向ける。
今まで見たことがないほど嬉しそうだった。
「おめでとうございます」
「何も言ってないわ!」
「でも、おめでたいことがあったんですよね?」
「それは……」
「ミア」
レオンが制する。
しかし、その声には以前のような威圧感がない。
むしろ恥ずかしがっている。
「承知いたしました」
ミアは礼をする。
「グレイ様には、私から」
「言わなくていい!」
リリアが叫ぶ。
ミアは笑顔のまま部屋を出ていった。
扉が閉まる。
静寂。
リリアは両手で顔を覆った。
「もう屋敷中に広まります」
「何がだ」
「私たちのことです!」
「問題があるのか?」
レオンは真面目に尋ねる。
リリアは言葉に詰まる。
「問題は……ありませんけど」
「ならいい」
堂々としている。
少し羨ましい。
でも、レオンはふと日記へ目を向けた。
『私はたぶん、レオン様が好きなのだと思う』
その一文。
彼の表情がまた少し曇る。
リリアはすぐに日記を閉じた。
「これは失った記憶です」
「……ああ」
「でも、今の気持ちは失っていません」
「……ああ」
「だから――」
リリアは新しいページを開いた。
羽ペンを取る。
「今日のことを書きます」
「今日?」
「はい」
リリアは紙へ文字を刻んだ。
『今朝、私はレオン様に好きだと伝えた。レオン様も、私を愛していると言ってくれた』
書きながら顔が熱くなる。
それでも止めない。
『私は昨日、この気持ちを認めた記憶を失った。でも今日、もう一度同じ気持ちを選んだ』
最後に。
『忘れても、私は何度でも彼を愛する』
羽ペンを置く。
レオンが隣でそれを読んでいた。
リリアは恥ずかしかったが、今度は隠さなかった。
「これで」
リリアは言う。
「今日の私が、未来の私へ伝えられます」
レオンは長い間、何も言わなかった。
やがて自分の封筒を取り出す。
紙を一枚加えた。
そこへ短く書く。
『彼女は今日、もう一度俺を選んだ』
そして。
少し迷ってから。
『俺も、何度でも彼女を選ぶ』
二人の文字が並ぶ。
失われたひとつの記憶。
けれど、それによって生まれた新しい記憶。
過去は戻らないかもしれない。
それでも未来は、自分たちで書き足せる。
リリアはレオンの手を取った。
「忘れないように」
「ああ」
「忘れても、戻れるように」
「ああ」
「二人で残しましょう」
レオンはその手を握り返した。
「全部」
朝日が差し込む。
日記の新しい一文を照らす。
愛は、月華を強くする。
愛は、記憶を奪うかもしれない。
それでも二人は、愛さない道を選ばなかった。
失うことを恐れながら。
何度でも選び直す道を選んだ。
◇
同じ頃。
王宮の地下牢では、捕らえられた黒鴉会の男が壁にもたれていた。
両手には魔術封じの枷。
牢の外には第一王子直属の騎士が立っている。
逃げることはできない。
男は目を閉じていた。
その時、床の隅から、一枚の白い花弁が舞い込んだ。
月白花。
男の目が開く。
「……殿下」
花弁から、セドリックの声が響く。
「ご苦労だったね」
男の顔に安堵が浮かぶ。
「お救いくださるのですか?」
「もちろん」
優しい声。
「君はよく働いてくれた」
花弁が淡く光る。
男は笑った。
だが次の瞬間、その笑みが凍る。
胸元から黒い筋が広がり始めた。
「……な」
「だから、もう休んでいい」
セドリックの声は穏やかだった。
「ま、待ってください」
男は枷を鳴らす。
「私はまだ、何も――」
「話されると困るんだ」
黒い侵食が首まで這い上がる。
騎士が異変に気づき、牢を開けようとする。
だが遅い。
男の身体が黒い霧へ崩れていく。
「殿下!」
悲鳴。
「約束が――」
最後まで言えなかった。
男は黒い灰となり、床へ崩れた。
月白花だけが残る。
その花弁から、セドリックの低い笑い声が響いた。
「愛を選んだか」
どこか楽しそうに。
どこか苛立っているように。
「なら、次は奪おう」
白い花弁が黒く染まる。
「彼女の記憶ではなく」
一拍。
「彼女が愛する男の方を」
王宮の地下。
黒い霧が静かに消えていく。
次の標的は、レオン。
そして彼の中に眠る、銀狼の呪い。
セドリックの計画は、新たな段階へ進もうとしていた。
読んでいただきありがとうございます。
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