第三十五話 失われたひとつ
王都の夕鐘が鳴り終わっても、広場の混乱はすぐには収まらなかった。
王宮衛兵たちが人々を誘導し、第一王子の命令を受けた騎士たちが中心鐘楼を封鎖していく。
拘束された黒鴉会の者たちは、次々と王宮地下の牢へ連行されていた。
砕けた黒霧魔石の破片は、厚い封印布に包まれ、術師たちの手で慎重に運び出される。
夕焼けはすでに消えかけていた。
空に残る橙色の光の下、王都は何事もなかったように静けさを取り戻そうとしている。
けれどリリアには分かっていた。
何事もなかったわけではない。
あとほんの少し遅ければ、王都全体が黒霧に包まれていた。
広場にいた子供も。
市場で働く人々も。
平民街の診療所にいるエドガーも。
公爵邸のミアやグレイも。
すべてが失われていたかもしれない。
「リリア」
レオンの声がした。
気づけば彼の腕に支えられていた。
自分では立っているつもりだったが、どうやら身体の半分ほどを預けているらしい。
「歩けるか?」
「はい」
答えて、一歩踏み出す。
膝から力が抜けた。
「……たぶん」
「歩けていない」
「少し休めば」
「却下だ」
次の瞬間、身体が浮いた。
「えっ」
レオンに抱き上げられている。
広場の真ん中で。
第一王子も。
王宮騎士も。
大勢の人々も見ている中で。
「レオン様、下ろしてください!」
「歩けないだろう」
「人が見ています!」
「だから何だ」
本気で気にしていないらしい。
リリアの顔が熱くなる。
「公爵様が令嬢を抱えているんですよ!」
「婚約者を運んでいるだけだ」
「そういう問題では……!」
「暴れるな。落とす」
「落とさないでください!」
思わず彼の首へ腕を回す。
するとレオンの動きが、ほんの一瞬だけ止まった。
近い。
銀色の睫毛。
額に滲んだ汗。
頬についた黒い煤。
傷の痛みを隠しきれず、少し強張った横顔。
リリアは恥ずかしさを忘れて眉を寄せた。
「レオン様も怪我人でしょう」
「俺は歩ける」
「傷が開いています」
黒い軍服の脇腹。
以前の傷を覆うように、濃い赤が滲んでいる。
鐘楼を駆け上がった時に開いたのだろう。
「今すぐ治療してください」
「お前を運んだ後だ」
「先にレオン様です」
「お前が先だ」
「レオン様です」
「リリア」
「譲りません」
二人で睨み合う。
その横から、第一王子の疲れた声がした。
「二人とも同時に診てもらえばいいだろう」
リリアとレオンは同時に第一王子を見る。
彼は深くため息を吐いていた。
「鐘楼を救った者同士が、治療の順番で言い争うな」
「……申し訳ありません」
リリアは小さくなる。
レオンは何も言わなかった。
だが不満そうだった。
第一王子は側近へ指示を出す。
「王宮医療棟へ運べ。二人ともだ」
「公爵邸へ戻る」
レオンが言う。
「駄目だ」
第一王子が即座に却下した。
「鐘楼の黒霧を直接浴びた可能性がある。王宮の術師にも調べさせる」
「信用できない」
「私の直属だけを使う」
第一王子の声は強かった。
「セドリックの息がかかった者は近づけない。約束する」
レオンはしばらく第一王子を見つめた。
やがて、短く頷く。
「分かりました」
「それから……」
第一王子の視線がリリアへ向く。
「エヴァレット嬢。君は今、何か異常を感じているか」
「異常……」
問われて、リリアは自分の身体へ意識を向けた。
だるさ。
頭痛。
指先の冷え。
月華を使ったあとの症状としては、これまでにもあったものだ。
「身体が重いです。それから、少し頭が痛みます」
「記憶は?」
リリアの胸がひやりと冷えた。
夜啼き薬房でマルタから聞いたことを、第一王子にはまだ詳しく伝えていない。
それでも、白月塔で月華と記憶に関する資料を見ていた彼なら、何らかの危険を察しているのだろう。
「今のところは」
そう答えかけて。
言葉が止まった。
今のところ。
本当に?
レオンの名は分かる。
王都のことも。
鐘楼で起きたことも覚えている。
自分が誰かも分かる。
それなら問題ない。
そう思った。
けれど――。
胸の奥に、小さな空洞がある。
何か……。
何かが抜け落ちているような感覚。
「リリア?」
レオンの声が近くなる。
彼の腕に、わずかに力が入った。
「どうした?」
「……分かりません」
「何がだ」
「何かを」
リリアは額へ手を当てた。
頭の奥が痛む。
白い霧が広がっている。
「何かを忘れている気がします」
レオンの顔から血の気が引いた。
◇
王宮医療棟の個室。
寝台へ寝かされたリリアは、王宮医師と術師による診察を受けた。
レオンは隣の部屋で治療を受けるはずだった。
だが実際には、傷口へ包帯を巻かれただけでこちらへ戻ってきた。
「安静にするよう言われたのでは?」
リリアが尋ねる。
「座っている」
「そういう問題ではありません」
「お前を一人にしない」
低い声だった。
それ以上は言えなかった。
レオンは寝台の横の椅子に座り、ずっとリリアの手を握っている。
その手はいつもより冷たかった。
怖いのだ。
リリアが何かを忘れてしまったことが。
彼自身が呪いに蝕まれることよりも。
「いくつか質問をします」
年配の王宮医師が言った。
第一王子直属だと紹介された人物だ。
眼差しは穏やかだが、表情は真剣だった。
「お名前は」
「リリア・エヴァレットです」
「年齢は」
「二十二歳」
「ここはどこですか」
「アルヴェリア王宮の医療棟です」
「こちらの男性は?」
医師がレオンを見る。
リリアは答える。
「レオン・ヴァルハルト公爵です」
一拍。
「私の婚約者です」
レオンの手が、少しだけ強くなる。
医師は頷いた。
「今日、何がありましたか?」
「王都の中心鐘楼に黒霧魔石が仕込まれていました。黒鴉会が魔石を使って、王都全体へ黒霧を広げようとしていました」
「その魔石を?」
「私とレオン様で破壊しました」
「月華を使った?」
「はい」
「その際、意識を失いましたか?」
「いいえ」
「知らない場所にいる感覚は?」
「ありません」
医師は助手に記録させながら、さらに質問を続けた。
幼少期。
家族。
診療所。
王命。
公爵邸。
北方。
白月塔。
ほとんどすべて答えられた。
それなのに、胸の空洞は消えない。
「大きな記憶の欠落は確認できません」
医師が言った。
レオンの肩から、ほんの少しだけ力が抜ける。
だがリリアは安心できなかった。
「でも、何かを忘れています」
「感覚だけですか?」
「はい」
「何か具体的な手がかりは?」
リリアは目を閉じた。
思い出そうとする。
今日。
旧市街。
黒鴉会。
鐘楼。
レオンの声。
『俺を見ろ』
『戻ってこい』
そこまでは覚えている。
その前。
月華を安定させるために、自分は心の中で何かを繰り返した。
レオン・ヴァルハルト。
銀狼公爵。
苦い薬が嫌いな人。
不器用で。
優しくて。
怖がりで。
そして……。
その次。
何と言った?
胸の奥にあった、何か。
大切な言葉。
「……分からない」
頭痛が強くなる。
「無理に思い出すな」
レオンがすぐに言った。
「でも」
「後でいい」
「大切なことかもしれません」
「お前が壊れるより大切なことはない」
強い声だった。
リリアは口を閉じる。
医師が静かに告げる。
「小さな記憶の欠損が起きた可能性はあります」
「戻るのか?」
レオンが尋ねる。
「断言はできません」
医師の答えは慎重だった。
「何かの刺激で思い出すこともあります。ですが、月華による記憶への影響は記録が少なすぎる。思い出そうとして負担をかけるのは避けるべきです」
レオンの表情が硬くなる。
「何をすればいい?」
「休養を」
「それだけか?」
「今は」
レオンの手が拳になる。
怒りをぶつける場所がないのだ。
医師にも。
リリアにも。
自分にも。
「レオン様」
呼ぶと、彼はすぐにこちらを見る。
「私は、あなたを覚えています」
「……ああ」
「約束も覚えています」
「……ああ」
「だから」
リリアは彼の手を握り返した。
「そんな顔をしないでください」
「どんな顔だ」
「世界が終わったみたいな顔です」
レオンは答えなかった。
本当に、そう思っているのかもしれない。
◇
診察が終わり、医師たちが退出したあと。
部屋には二人だけが残った。
窓の外はすっかり夜になっている。
鐘楼事件の後処理が続いているのか、遠くで兵士たちの足音が聞こえた。
リリアは枕へ身体を沈めた。
疲れている。
けれど眠るのが少し怖かった。
目を覚ました時、また何かを忘れていたら。
今度はレオンの名前だったら。
そんな不安が胸を締めつける。
「怖いか?」
レオンが尋ねた。
リリアは素直に頷いた。
「はい」
「俺もだ」
彼も隠さない。
「何を忘れたのか分からないことが、一番怖いです」
「……ああ」
「とても大切なことだった気がするんです」
レオンの瞳が揺れる。
「なら、俺が覚えている」
「レオン様が?」
「ああ」
「お前が忘れたことが、俺たちの間にあったことなら」
彼は静かに言った。
「俺が全部話す」
胸が熱くなった。
「でも、何を忘れたか分かりません」
「なら最初からだ」
「最初から?」
「ああ」
レオンは椅子を少し寝台へ近づけた。
「お前が公爵邸へ来た日、俺はお前に愛するつもりはないと言った」
「それは覚えています」
「最悪だったな」
「はい」
「否定しないのか」
「事実なので」
レオンの口元がほんの少し緩む。
「その後、俺は発作を起こした」
「はい」
「お前は勝手に近づいてきた」
「勝手とは」
「来るなと言った」
「患者の言葉は信用しません」
「そうだったな」
二人は少しずつ、これまでのことを話した。
リリアがレオンを馬鹿と呼んだこと。
レオンが苦い薬を嫌がったこと。
図書室で月華の本を読んだこと。
王宮でセドリックに嫉妬したこと。
「嫉妬は覚えています」
「忘れてもよかった」
「大切な記憶です」
「不本意だ」
レオンの耳が赤くなる。
リリアは少し笑った。
笑える。
それだけで少し安心する。
北方の話。
黒霧の村。
霧狼。
レオンが暴走しかけた時、リリアが彼を呼び戻したこと。
白月塔で、今度はレオンがリリアを呼び戻したこと。
夜啼き薬房で、忘れないための手紙を書くと決めたこと。
「手紙」
リリアが呟く。
「公爵邸にありますね」
「ああ」
「私の日記も」
「ああ」
そこに答えがあるかもしれない。
忘れたことを書いているかもしれない。
「帰ったら読みます」
「体調が戻ってからだ」
「でも……」
「明日まで待て」
「……はい」
素直に答えると、レオンが少し驚いた顔をする。
「何ですか?」
「いや」
「私だって、いつも反抗するわけではありません」
「そうか」
「信用していませんね」
「少しだけ」
「少し?」
「かなり信じている」
以前と同じ言い方。
それが可笑しくて、リリアはまた笑った。
◇
夜が深くなった。
第一王子から、公爵邸へ戻ってよいという許可が出た。
王宮医療棟で夜を明かすより、信頼できる医師がいる公爵邸の方が安全だとレオンが強く主張したのだ。
帰りの馬車。
リリアはレオンの隣へ座っていた。
向かいではなく。
彼がそうした。
「眠っていい」
レオンが言う。
「少し怖いです」
「俺がいる」
「目を覚ました時も?」
「ああ」
「本当に?」
「眠らない」
「それは駄目です」
「なら、お前が目を覚ますまで起きている」
「同じことです」
「……眠るよう努力する」
「一緒に寝るみたいな言い方ですね」
言ってから、二人とも固まった。
馬車の中が妙に静かになる。
リリアの顔が熱くなった。
「ち、違います。そういう意味ではなく」
「分かっている」
レオンも窓の外を見る。
耳が赤い。
しばらく気まずい沈黙が続いた。
やがて、レオンが静かに言う。
「肩を使え」
「え?」
「眠るなら」
自分の肩を示している。
リリアは迷った。
以前なら、恥ずかしくて断ったかもしれない。
でも今は、眠るのが怖い。
そして、彼のそばにいたい。
「……お借りします」
そっと頭を預ける。
レオンの身体が少し強張った。
しかし、すぐに力が抜ける。
彼の肩は広くて、温かかった。
馬車の揺れ。
車輪の音。
レオンの呼吸。
「レオン様」
「何だ?」
「私が眠っている間に、いなくならないでくださいね」
「ああ」
「約束です」
「約束する」
「私が何か忘れても」
「ああ」
「嫌いにならないでください」
レオンの身体が固まった。
リリア自身、なぜそんなことを言ったのか分からなかった。
怖かったのだ。
自分が変わってしまうことが。
記憶を失い、今の自分ではなくなることが。
レオンはしばらく答えなかった。
やがて、低く、はっきりと言った。
「嫌いになるわけがない」
胸が熱くなる。
「お前が俺を忘れても」
彼の声が少し掠れる。
「何度でも会いに行く」
「また最初から?」
「ああ」
「また、愛するつもりはないと言いますか?」
「言わない」
即答だった。
リリアは少し笑った。
「では、何と言うんですか?」
レオンは黙った。
長い沈黙。
答えを探しているようだった。
「……俺を信じろ、と」
「初対面で?」
「ああ」
「怖い人ですね」
「否定はしない」
「でも」
リリアは目を閉じた。
「信じるかもしれません」
「なぜ?」
「今の私が、そう伝えておくからです」
眠気がゆっくり押し寄せる。
怖さはまだある。
けれど、レオンの体温がすぐそばにある。
「未来の私に」
声が小さくなる。
「銀色の髪の怖い人を、信じても大丈夫って」
レオンの手が、そっとリリアの手を包んだ。
「……そうか」
「はい」
「なら、俺も伝える」
「何を?」
「未来の俺に」
一拍。
「リリア・エヴァレットを、絶対に手放すなと」
胸が大きく鳴った。
その言葉の意味を考えるより早く、眠気が意識を包んでいく。
リリアは彼の肩に額を寄せた。
「……手放さないでください」
「ああ」
最後に聞こえたのは、レオンの低い声だった。
◇
公爵邸へ着いた頃、リリアは深く眠っていた。
レオンは彼女を起こさず、抱き上げて馬車を降りる。
玄関ではグレイとミアが待っていた。
「お帰りなさいませ」
グレイが静かに礼をする。
ミアは眠るリリアの顔を見て、青ざめた。
「リリア様は……」
「眠っているだけだ」
レオンが答える。
「月華を使った」
ミアの目に涙が浮かぶ。
「記憶に、小さな欠損があるかもしれない」
グレイの表情も硬くなる。
「何をお忘れに?」
「分からない」
それが一番恐ろしかった。
レオンは腕の中のリリアを見る。
穏やかな寝顔。
今は自分の名を覚えている。
約束も。
思い出も。
だが、これから月華を使うたびに何かを失うのだとしたら。
いつか本当に、レオンを忘れる日が来るのかもしれない。
怖い。
逃げたい。
彼女を遠ざければいい。
自分の呪いごと抱えて、一人で消えればいい。
そんな考えが一瞬だけ浮かぶ。
だが――
――勝手に手放さないでください。
馬車の中での言葉が蘇る。
レオンは目を閉じた。
「グレイ」
「はい」
「明日、マルタを呼べ」
「夜啼き薬房の薬師を?」
「ああ」
レオンはリリアを抱く腕に力を込めた。
「代償を止める方法を完成させる。何としてでも」
「かしこまりました」
グレイが深く頭を下げる。
レオンはリリアの部屋へ向かった。
寝台へそっと寝かせる。
外套を外し、毛布を掛ける。
彼女の机には、日記が置かれていた。
その隣には封筒。
『未来の私へ』
レオンは手を伸ばしかけて、止めた。
読むべきではない。
まだ。
それは彼女自身のためのものだ。
代わりに、自分の胸元へ手を入れる。
今朝、念のため持ち歩いていた封筒。
『俺が忘れた時のために』
二つの手紙を並べる。
もし彼女が忘れたら。
もし自分が忘れたら。
これが二人を繋ぐ。
それでも足りない。
紙だけに任せたくない。
レオンは眠るリリアの手を取る。
細い指。
温かい。
「リリア」
返事はない。
分かっている。
それでも、呼ばずにはいられなかった。
「俺は、お前を忘れない」
低く言う。
「お前が忘れても、俺が全部覚えている」
銀色の月明かりが部屋へ差し込む。
「だから」
彼はその手を額へ押し当てた。
祈るように。
「戻ってこい」
眠るリリアの指が、ほんの少しだけ動いた。
レオンの指を握り返すように。
偶然かもしれない。
夢の中の動きかもしれない。
それでも。
レオンはその手を離さなかった。
◇
翌朝。
リリアは鳥の声で目を覚ました。
見慣れた天井。
公爵邸の自室。
窓から朝日が差し込んでいる。
少し頭が痛い。
でも、昨夜よりは身体が軽い。
そして。
手が温かかった。
視線を向ける。
寝台の横。
椅子に座ったまま眠るレオン。
彼の手が、リリアの手を握っている。
ずっとここにいたのだろうか。
傷ついた身体で。
眠らずに。
「……馬鹿」
小さく呟く。
レオンの瞼が動いた。
銀色の瞳が開く。
「リリア」
第一声が名前だった。
その声に、胸が強く鳴る。
「おはようございます」
「俺が誰か分かるか?」
あまりに真剣な顔。
リリアは少し笑った。
「レオン・ヴァルハルト公爵様」
彼の肩から力が抜ける。
「苦い薬が嫌いで」
「それは言わなくていい」
「過保護で」
「……」
「とても不器用な、私の婚約者です」
レオンは目を閉じ、深く息を吐いた。
安心している。
その姿を見て、リリアの胸が温かくなった。
しかし。
机の上に置かれた日記が目に入った瞬間。
また、あの空洞を感じた。
昨夜。
日記に何を書いた?
忘れないために。
何か、とても大切なことを。
リリアは寝台から起き上がろうとする。
「動くな」
「日記を」
「後でいい」
「確認したいんです」
「リリア」
「お願いします」
声が真剣になった。
レオンは迷った。
やがて立ち上がり、日記を取ってくる。
リリアは震える手で表紙を開いた。
昨日の日付。
読み進める。
レオンと手紙を書いたこと。
黒鴉会のこと。
苦い薬のこと。
そして……最後の一文。
『私はたぶん、レオン様が好きなのだと思う』
文字を見た瞬間。
世界が静かになった。
リリアは何度も読み返した。
好き。
自分が書いた。
間違いなく、自分の字だ。
けれど、その言葉を書いた瞬間の記憶がない。
胸にあるはずの気持ちは、消えていない。
レオンを見ると安心する。
触れられると心臓が鳴る。
失いたくないと思う。
そばにいたい。
それなのに。
この一文を書いた自分を、思い出せなかった。
「……これ」
声が震えた。
レオンが日記を見る。
そして、最後の一文を読んだ。
彼の目が大きく見開かれる。
リリアの顔が熱くなる。
こんな形で知られるなんて。
でも、それ以上に怖かった。
「私……」
喉が詰まる。
「この文章を書いたことを、覚えていません」
レオンの表情が凍った。
部屋に朝日が差し込む。
温かく明るい光。
けれど二人の間に、冷たい沈黙が落ちた。
失われた記憶。
それは出来事ではなかった。
人の名でもなかった。
リリアが初めて、自分の恋心を認めた瞬間。
その、たったひとつだった。
読んでいただきありがとうございます。
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