第三十四話 王都の鐘
旧市街の地下市場を出た時、空はすでに夕暮れへ傾いていた。
王都の屋根が赤く染まり、遠くの王宮の尖塔が炎のように光っている。
その美しさが、今は恐ろしかった。
今夜、王都の鐘が鳴る。
その時、黒鴉が羽ばたく。
黒鴉会の男が残した言葉が、リリアの頭の中で何度も響いていた。
鐘楼に黒霧魔石が仕込まれているのだとしたら。
王都全体に黒霧が広がる。
平民街も、貴族街も、診療所も、市場も、すべて。
「急ぐぞ」
レオンの声。
「はい」
リリアは外套の裾を握り、彼の後を追った。
レオンの足取りは速い。
だが、怪我が完全に癒えていないことをリリアは知っている。
脇腹。
背中。
白月塔での消耗。
それでも彼は止まらない。
止まれない。
王都の人々を守るために。
「レオン様、傷は」
「悪くない」
「今は嘘をつかないでください」
彼の足が一瞬だけ鈍る。
「……痛む」
「ですよね」
「だが走れる」
「無茶です」
「お前も同じことをする」
「否定できません」
「なら行く」
言い返せなかった。
リリアは彼の横に並ぶ。
「なら、せめて一人で走らないでください」
レオンがこちらを見る。
銀色の瞳が夕暮れに淡く光る。
「……ああ」
短い返事。
けれど確かだった。
◇
第一王子への連絡は、グレイの情報網を通じて行われた。
公爵邸へ戻る時間はない。
旧市街の裏路地にある小さな伝令所から、暗号化された伝書鳥を飛ばす。
手紙を書いたのはレオンだった。
文字は短い。
『黒鴉会、王都鐘楼に黒霧魔石を設置した疑いあり。至急、鐘楼封鎖を』
「これで間に合いますか?」
リリアが尋ねる。
「第一王子がすぐ動けば」
「セドリック殿下は?」
「妨害するだろう」
即答だった。
やはり。
リリアは唇を噛む。
「鐘楼はいくつありますか?」
「王都全域に十二」
「十二……」
多い。
すべてを確認するには時間が足りない。
「中心鐘楼が要だ」
レオンは王都の簡易地図を広げた。
「王宮前広場の大鐘楼。そこから魔力の音波が各地区の鐘楼へ伝わる」
「そこを止めれば?」
「全域への拡散は防げる」
「なら、まず中心鐘楼へ」
「ああ」
レオンは地図を畳む。
「ただし、そこが一番守られているはずだ」
リリアは頷いた。
黒鴉会。
セドリック。
黒霧魔石。
すべてが繋がっているなら、相手も中心鐘楼の重要性を知っている。
「行きましょう」
リリアは言った。
「王都を黒霧に飲ませるわけにはいきません」
レオンは彼女を見る。
「月華は最小限だ」
「はい」
「使う前に俺に言え」
「はい」
「俺が呼んだら戻れ」
「はい」
「そして」
一拍。
「生きて帰る」
リリアは頷く。
「二人で」
レオンの瞳がわずかに和らいだ。
「ああ」
◇
王宮前広場へ近づくにつれ、人通りが増えていった。
夕暮れの鐘を聞くため、広場には市民や旅人が集まり始めている。
屋台。
大道芸人。
子供たちの笑い声。
誰も知らない。
もうすぐこの鐘が、黒霧を街へ撒き散らすかもしれないことを。
リリアは胸が苦しくなった。
「避難させるべきでは?」
「今ここで騒げば混乱が起きる」
レオンの声は冷静だった。
「まず鐘を止める」
「はい」
中心鐘楼は広場の北側にそびえていた。
白い石造り。
高さは三十メートル以上。
塔の上部に巨大な青銅の鐘が吊るされている。
普段は王都の時を告げる美しい鐘。
けれど今は、処刑台の鐘のように見えた。
入口には王宮衛兵が立っていた。
レオンがフードを外す。
銀色の髪が現れた瞬間、衛兵たちは驚いて姿勢を正す。
「ヴァルハルト公爵閣下!」
「鐘楼を封鎖する」
レオンが短く命じた。
衛兵たちは困惑した。
「しかし、まもなく夕鐘の時刻で」
「封鎖だ」
その声に逆らえる者はいなかった。
だがその時、横から別の声がした。
「勝手なことをされては困るな」
リリアの背筋が冷える。
セドリックだった。
金色の髪。
白い礼服。
まるで偶然通りかかったかのような、完璧な微笑み。
だが、そんなはずはない。
彼は待っていた。
「殿下」
レオンの声が低くなる。
「鐘楼に黒霧魔石が仕込まれている可能性があります」
リリアが言うと、セドリックは驚いたように目を見開いた。
「それは大変だ」
芝居がかった声。
「なら、王宮の許可を取り、正式な調査隊を」
「時間がない」
レオンが遮る。
「夕鐘まであとわずかだ」
セドリックは微笑む。
「だからこそ、慎重に動くべきだよ」
「広場には民がいる」
「君が強引に封鎖すれば、恐慌が起きる」
正しい言葉だった。
表面上は。
リリアは唇を噛む。
彼は時間を稼いでいる。
「殿下」
リリアは一歩前へ出た。
レオンが止めようとしたが、彼女は小さく首を振る。
「あなたは、鐘楼に何があるか知っていますね?」
セドリックの笑みが少し深くなる。
「証拠は?」
またその言葉。
「証拠がなければ、人は救えませんか?」
「人を救うためには、秩序が必要だ」
「秩序のために人を犠牲にするなら、本末転倒です」
周囲の衛兵たちが息を呑む。
王子に正面から言い返す没落伯爵令嬢。
以前のリリアなら、できなかったかもしれない。
でも今は、退かなかった。
セドリックはリリアを見つめた。
青い瞳が冷えていく。
「君は本当に、私の予想を超えてくれる」
その時。
鐘楼の上部から、低い音がした。
ごうん。
夕鐘の準備音。
リリアの指先が銀色に光る。
黒霧の気配。
間違いない。
「中にあります!」
リリアが叫ぶ。
レオンは即座に動いた。
衛兵の制止を無視し、鐘楼の扉へ向かう。
だが、その前に黒衣の男たちが現れた。
黒鴉会。
人数は十数名。
「ここで暴れる気か」
レオンが剣を抜く。
セドリックは一歩下がり、困ったように笑った。
「私は関係ないよ」
「偶然、怪しい者たちが現れたようだ」
「白々しい!」
リリアが叫ぶ。
黒衣の男たちが一斉に襲いかかる。
広場が悲鳴に包まれた。
「民を下がらせろ!」
レオンの声が響く。
その威圧に衛兵たちがようやく動き始める。
「広場から離れろ!」
「鐘楼に近づくな!」
混乱が広がる。
けれど、その中でレオンは黒鴉会の男たちを次々と斬り伏せた。
致命傷は避けている。
それでも動きは鋭い。
銀狼公爵。
王都の人々が初めて見る、本当の戦場の英雄。
リリアは彼の背中を見ながら、鐘楼の扉へ走った。
「リリア!」
「中を確認します!」
「待て!」
レオンが叫ぶ。
だが、黒鴉会が彼を阻む。
リリアは扉に手をかけた。
冷たい。
そして、内側から黒霧の気配が流れてくる。
「……っ」
その瞬間、腕を掴まれた。
セドリックだった。
「一人で行くのは危ないよ」
甘い声。
リリアはぞっとした。
「離してください」
「君なら止められる」
「だから来たんだろう?」
「あなたのためではありません」
「もちろん」
セドリックは微笑む。
「レオンのためだね」
その言葉が胸に刺さる。
リリアは手を振りほどこうとした。
だが、セドリックの指先から冷たい魔力が流れ込む。
月白花の香り。
白月塔と同じ術式。
「……っ」
身体が動かない。
「少しだけ、手伝ってあげよう」
セドリックが囁く。
「月華を引き出す」
「やめ……」
「鐘楼の黒霧を止めるには、君の力が必要だ」
「でも、その代償を支払うのは君だ」
リリアの胸の奥から月華が無理やり引き出される。
記憶が揺れる。
頭の中に、白い霧が広がる。
誰かの声。
レオンの声。
遠くなる。
「リリア!」
レオンが叫ぶ。
その声が、かろうじて届いた。
戻れ。
そう言っている。
戻らなきゃ。
でも、月華が暴れ始めている。
「……いや」
リリアは歯を食いしばった。
「勝手に、使わないで……!」
銀色の光が弾けた。
セドリックの手が弾かれる。
彼が初めて顔を歪めた。
「また、拒むのか」
「私の力です」
リリアは息を切らしながら言った。
「私の意思で使います」
その時、レオンが黒鴉会を薙ぎ払い、リリアのもとへ駆けつけた。
セドリックとの間に立つ。
「彼女に触れるな」
低い声。
殺気が広場の空気を震わせる。
セドリックは手を押さえながら笑った。
「怖いな」
「でも急いだ方がいい」
「鐘が鳴るよ」
ごうん。
二度目の準備音。
鐘楼の内部から黒い気配が膨れ上がる。
時間がない。
レオンが扉を蹴破った。
中は暗く、螺旋階段が上へ続いている。
「行くぞ!」
「はい!」
二人は鐘楼の中へ飛び込んだ。
◇
塔の中は、すでに黒霧で満ち始めていた。
階段の壁に黒い魔石が埋め込まれている。
一つや二つではない。
無数に。
それらが鐘の音に共鳴し、黒霧を増幅している。
「こんなに……!」
リリアは息を呑む。
「全部を壊す時間はない」
レオンが言う。
「上だ。鐘そのものに核があるはずだ」
二人は階段を駆け上がる。
レオンの傷が開きかけているのが分かった。
それでも彼は止まらない。
リリアも息が切れる。
月華が黒霧に反応し、指先が熱い。
「使うな」
レオンが言った。
「まだ言ってません」
「顔が言っている」
「……上で使います」
「最小限だ」
「はい」
「俺が呼んだら戻れ」
「はい」
三階。
四階。
五階。
黒霧が濃くなる。
視界が霞む。
記憶が一瞬揺れる。
診療所。
母の声。
レオンの笑顔。
どれかが白く滲みそうになる。
「リリア!」
レオンの声。
「戻れ!」
リリアは息を吸う。
「戻っています!」
声が震えた。
でも返せた。
彼の声が楔になる。
自分を繋ぎ止める。
鐘楼の最上部に着くと、巨大な鐘が目の前に現れた。
その内側に、黒い結晶が埋め込まれている。
大きな黒霧魔石。
それが脈打っていた。
「これが核……!」
鐘が揺れる。
まもなく鳴る。
レオンが剣を振るう。
だが、黒い結界が剣を弾いた。
「くっ」
「月華なら」
「分かっている」
レオンが苦しそうに言う。
「だが、一人では使うな」
リリアは頷いた。
「一緒に」
レオンが彼女の手を取る。
「俺を使え」
「違います」
リリアは首を振った。
「一緒に支えてください」
レオンの瞳が揺れる。
「ああ」
リリアは目を閉じる。
月華を灯す。
黒霧魔石を完全に浄化しようとすれば、代償が大きすぎる。
だから違う。
壊すのではない。
共鳴を止める。
鐘の魔力回路を断つ。
銀色の光が、レオンの手を通して巡る。
彼の銀牙の力が、月華を支える。
片方が削られるのではなく。
二人で耐える。
「リリア」
レオンの声。
「ここにいる」
「はい」
「戻れ」
「戻っています」
「忘れるな」
「忘れません」
「俺も忘れない」
胸が熱くなる。
リリアは光を黒霧魔石へ伸ばした。
結界が軋む。
黒霧が暴れる。
頭の中に白い靄が広がる。
何かが消えかける。
あれは何だろう。
朝の診療所?
母の笑顔?
それとも――
銀色の瞳。
「リリア!」
レオンの声が鋭く響く。
「俺を見ろ!」
リリアは目を開けた。
レオンがいる。
すぐそばに。
傷だらけで、必死な顔で、自分を呼んでいる。
「……レオン様」
「そうだ」
「俺だ」
「戻ってこい」
涙が滲んだ。
「はい」
銀色の光が強くなる。
リリアは忘れないために、心の中で繰り返した。
レオン・ヴァルハルト。
銀狼公爵。
苦い薬が嫌いな人。
不器用で、優しくて、怖がりで、守りたい人。
私が好きな人――
その瞬間、月華の光が安定した。
黒霧魔石の結界が割れる。
レオンが剣を振るう。
「終わりだ」
銀の刃が、黒い核を貫いた。
鐘が鳴る直前。
黒霧魔石は砕け散った。
ごうん――。
鐘は鳴った。
しかし、その音は黒霧を広げなかった。
澄んだ、ただの夕鐘。
王都に、美しい音が響き渡る。
リリアは力が抜け、その場に膝をついた。
レオンがすぐに抱き止める。
「リリア!」
「……大丈夫です」
「本当か?」
「はい」
「何か忘れていないか?」
その声は震えていた。
リリアはぼんやりと彼を見る。
銀色の髪。
銀色の瞳。
必死な顔。
忘れていない。
ちゃんと分かる。
「レオン様」
名前を呼ぶと、彼の顔が歪んだ。
安堵で。
「覚えています」
リリアは微笑んだ。
「苦い薬が嫌いな、銀狼公爵様」
レオンは一瞬固まり、それから深く息を吐いた。
「……それを最初に確認するのか」
「大事な記憶なので」
「不本意だ」
そう言いながら、彼はリリアを強く抱きしめた。
痛いくらいに。
でも、リリアはその腕の中で笑った。
生きている。
忘れていない。
王都の鐘は、黒霧ではなく希望の音を鳴らした。
◇
鐘楼の外では、混乱が続いていた。
黒鴉会の一部は捕らえられ、衛兵たちが広場を封鎖している。
第一王子も駆けつけていた。
セドリックの姿はない。
逃げたのだろう。
あるいは、最初から逃げ道を用意していたのだ。
「核は?」
第一王子が問う。
レオンが砕けた黒霧魔石の破片を差し出す。
「破壊しました」
「王都への拡散は?」
「防いだ」
第一王子は深く息を吐いた。
「助かった」
その言葉は王族としてではなく、一人の人間としてのものに聞こえた。
リリアは広場を見る。
泣いている子供。
抱き合う家族。
空を見上げる人々。
何も知らずに夕鐘を聞いた人も多いだろう。
それでいい。
怖さを知らずに済んだなら。
その時、広場の向こうに金色の髪が見えた気がした。
リリアは振り向く。
だが、そこには誰もいなかった。
代わりに、地面に白い花弁が一枚落ちている。
月白花。
レオンも気づいた。
表情が鋭くなる。
リリアは花弁を見つめた。
セドリックはまだ終わっていない。
黒鴉会を失っても、鐘楼の計画が潰れても、彼はきっと次を仕掛ける。
けれど――。
リリアはレオンの手を握った。
「戻れました」
レオンが彼女を見る。
「はい」
「忘れませんでした」
「ああ」
「次も、戻ります」
レオンの手が強く握り返す。
「俺が呼ぶ」
「私も呼びます」
王都の夕暮れ。
澄んだ鐘の余韻の中。
二人はまた、一つ約束を重ねた。
その約束がいつか、呪いよりも強い力になると信じて。
読んでいただきありがとうございます。
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