第三十三話 黒鴉会
翌朝、リリアは日記を閉じたまま、しばらく机の前に座っていた。
表紙に触れる。
そこには昨夜、自分で書いた言葉が眠っている。
――私はたぶん、レオン様が好きなのだと思う。
思い出しただけで顔が熱くなった。
「……たぶん、って何」
自分で書いたくせに、曖昧すぎる。
けれど、はっきり「好き」と書くには勇気が足りなかった。
それでも、書いた。
記憶を失うかもしれない未来の自分へ。
レオンを忘れてしまうかもしれない自分へ。
この人を大切に思っていたのだと、残すために。
「……忘れたくないな」
ぽつりと呟く。
その言葉は、朝の静かな部屋に溶けた。
窓の外では、王都がいつも通り動き始めている。
馬車の音。
人々の声。
遠くで鳴る鐘。
何も知らない街。
その地下で、黒霧魔石が流通している。
王宮が見捨てた黒霧汚染者がいる。
そして、夜啼き薬房の周辺には黒鴉会という闇組織が潜んでいる。
「今日は、行く日ね」
リリアは立ち上がった。
怖い。
けれど、逃げるつもりはなかった。
◇
朝食室へ行くと、レオンはすでに席についていた。
いつものように静かで、姿勢がいい。
けれど、どこか眠れていない顔をしている。
「おはようございます」
「おはよう」
声は普段通り。
だが、リリアはすぐに眉を寄せた。
「寝不足ですね」
「……少し」
「珍しく正直です」
「嘘をつくと怒るだろう」
「怒ります」
レオンは小さく息を吐いた。
その横顔を見て、リリアは少しだけ胸が痛んだ。
彼も眠れなかったのだろうか。
月華の代償。
記憶を失う恐怖。
そして、昨夜書いた手紙。
彼は何を書いたのだろう。
気になる。
ものすごく。
でも、聞いてはいけない気がした。
あれは未来の彼のためのものだから。
「リリア」
「はい」
「お前も眠れていないな」
「……少し」
「正直でよろしい」
「真似しないでください」
レオンの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
それだけで、リリアの胸が温かくなる。
本当に困る。
この人の小さな変化一つで、こんなに心が揺れるなんて。
「今日は旧市街へ行く」
レオンが言った。
「はい」
「昼のうちに動く。夜よりは安全だ」
「夜啼き薬房は夜しか開かないのでは?」
「今回は薬房に直接行く前に、黒鴉会の周辺を探る」
「危険ですね」
「だから俺のそばを離れるな」
「はい」
「絶対に」
「はい」
「怪しいものには触るな」
「はい」
「知らない者に声をかけられても」
「一人で対応しません」
先回りして答えると、レオンは一瞬黙った。
「……覚えているならいい」
「何度も言われましたから」
「何度でも言う」
「知っています」
リリアが微笑むと、レオンは少しだけ目を逸らした。
その耳が、かすかに赤いように見えた。
◇
旧市街へ向かう前に、グレイが追加の報告を持ってきた。
「黒鴉会は、旧市街南区の地下市場を拠点にしているようです」
「地下市場?」
リリアが聞き返す。
「正規の商業組合に属さない者たちが、薬、魔石、古物、禁制品を取引する場所です」
「王都の中にそんな場所が……」
「王都には光が多い分、影も深いものでございます」
グレイの声は淡々としている。
「夜啼き薬房は、その地下市場とは距離を置いています。ただし、黒霧汚染者を治療するために、やむを得ず黒霧魔石に関する薬材を入手していた形跡があります」
「つまり、黒鴉会と完全に無関係ではいられなかった」
レオンが言う。
「はい」
リリアは拳を握った。
マルタは危険な薬を扱っているかもしれない。
けれど、目的は金儲けではなく治療。
王宮が助けなかった人々を助けるため。
「黒鴉会は、マルタさんを利用しているのでしょうか」
「その可能性が高いかと」
「なら、今日行けば何か分かるかもしれません」
レオンは頷く。
「だが、こちらが動くことをセドリックが察知している可能性もある」
「黒鴉会と殿下が繋がっているなら、ですね」
「ああ」
グレイは小さな包みを差し出した。
「変装用の外套と、旧市街で使われる通貨です」
「準備が良すぎませんか?」
リリアが思わず言うと、グレイは穏やかに微笑んだ。
「執事ですので」
「執事って、そういうものなんですか?」
「優秀な執事は」
レオンが横から言った。
リリアは妙に納得してしまった。
◇
旧市街の南区は、昨日訪れた薬房周辺よりもさらに薄暗かった。
昼間だというのに、建物同士が近すぎて日が差し込まない。
路地には水たまりが残り、壁には古い貼り紙や怪しい印が並んでいる。
リリアはフードを深く被り、レオンの隣を歩いた。
彼も銀色の髪を隠している。
それでも背の高さや佇まいで目立つ。
本人にその自覚はあまりなさそうだ。
「……やっぱり目立ちます」
「隠している」
「雰囲気が隠せていません」
「雰囲気?」
「高貴で、怖くて、顔が良すぎるところです」
言ってから、しまったと思った。
レオンが足を止める。
「顔が?」
「……忘れてください」
「記憶を残す話をしているのに?」
「こういうことは忘れてください!」
レオンは少しだけ口元を緩めた。
「努力する」
「絶対忘れる気がないですね」
「ないな」
リリアは顔を赤くしたまま、足早に進んだ。
危険な場所に来ているのに、何を話しているのだろう。
でも、そのやり取りのおかげで少し緊張が解けた。
やがて二人は、地下市場への入口だという古い酒場の前に着いた。
看板には黒い鳥の絵。
羽を広げた鴉。
「ここですね」
「ああ」
レオンの声が低くなる。
「中へ入ったら、俺の後ろに」
「横では駄目ですか」
「後ろだ」
「では、少し斜め後ろで」
「……それでいい」
譲歩してくれた。
少しだけ。
◇
酒場の中は、煙と酒の匂いで満ちていた。
昼間から飲んでいる男たち。
怪しい商人。
顔を隠した女。
誰もが一瞬だけ二人を見て、すぐに視線を逸らす。
関わらない方がいい。
そう判断したのだろう。
奥のカウンターにいた大柄な男が、低く言った。
「客か」
レオンは短く答えた。
「薬を探している」
「表の薬屋へ行け」
「黒い霧に効く薬だ」
その瞬間、周囲の空気が変わった。
視線が集まる。
警戒。
値踏み。
敵意。
男は目を細めた。
「誰から聞いた?」
「夜に啼く鳥から」
リリアは思わずレオンを見上げた。
昨日の合言葉を応用したのだろうか。
意外と器用だ。
男はしばらく黙ったあと、顎で奥の扉を示した。
「地下へ」
レオンがリリアを見る。
頷く。
二人は奥へ進んだ。
◇
地下市場は、異様な場所だった。
狭い階段を降りると、そこには地下水路跡を利用した広い空間が広がっていた。
石造りの通路。
青白い魔石灯。
小さな露店。
薬瓶。
魔石。
古文書。
星印を抑える腕輪。
怪しい護符。
人々は声を潜めて取引している。
リリアは思わず息を呑んだ。
薬師として見れば、興味深いものもある。
だが同時に、危険なものも多い。
「触るな」
レオンが低く言う。
「触りません」
「目が触りたそうだった」
「目は触れません」
「屁理屈だ」
その時、通路の奥から子供の咳が聞こえた。
リリアは反射的にそちらを向く。
レオンがすぐに気づいた。
「リリア」
「……分かっています」
でも、足が止まる。
暗がりの隅。
痩せた少年が座り込み、苦しそうに咳をしていた。
母親らしき女性が背中をさすっている。
少年の首筋には、うっすら黒い筋。
黒霧汚染だ。
「……見過ごせません」
リリアは小さく言った。
レオンは苦しそうに眉を寄せる。
「罠かもしれない」
「はい」
「それでもか」
「薬だけです。月華は使いません」
「……俺が見る」
レオンはリリアより先に少年の方へ進んだ。
警戒しながら。
リリアはその後に続く。
母親が怯えたように顔を上げた。
「何ですか……?」
「薬師です」
リリアは静かに言った。
「その子を診せてください」
母親は戸惑った。
だが少年の苦しそうな呼吸を見て、やがて頷いた。
リリアは膝をつき、少年の脈を取る。
黒霧汚染。
軽度ではない。
だが、まだ魔物化には至っていない。
「いつから?」
「三日前からです。夫が持ち帰った魔石に触れてから……」
「魔石は?」
「黒鴉会に返しました。危ないものだと知って……でも、この子が」
母親の声が震える。
リリアは薬箱から呼吸を楽にする薬草と、黒霧吸引の症状を和らげる薬湯の素を取り出した。
「これを少しずつ飲ませてください」
「お金が」
「いりません」
母親が目を見開く。
「でも」
「薬師ですから」
そう言って微笑むと、少年がかすかに目を開けた。
「……ありがとう」
小さな声。
リリアの胸が締めつけられる。
レオンはその様子を黙って見ていた。
けれど、銀色の瞳はどこか痛ましげだった。
◇
その時、背後から拍手が聞こえた。
ゆっくりと。
わざとらしく。
「お優しいことだ」
振り返る。
黒い羽飾りをつけた帽子の男が立っていた。
細身で、口元に薄い笑みを浮かべている。
周囲の者たちがさっと距離を取った。
「黒鴉会か」
レオンの声が低くなる。
男は優雅に礼をした。
「会の名を知っているとは光栄です」
「お二人は、随分と高貴な薬師と護衛のようだ」
リリアの胸がざわつく。
見抜かれている。
完全にではないかもしれないが、少なくとも普通ではないことは分かっている。
男は少年をちらりと見た。
「その子は商品に触れた代金を払っていない」
「商品?」
リリアの声が硬くなる。
「黒霧魔石ですか」
男の笑みが深くなる。
「ただの魔石ですよ。少し特殊な力を持つだけの」
「子供を汚染させるものを商品と呼ぶんですか」
「使い方を誤った者の責任です」
その言葉に、怒りが湧いた。
レオンが一歩前へ出る。
「売ったのはお前たちだな」
「さあ」
男は肩を竦める。
「証拠は?」
その言い方が、どこかセドリックに似ていた。
責任を逃れるための言葉。
人を人として見ない目。
リリアは拳を握る。
「黒霧魔石を何に使うつもりですか」
男はリリアを見る。
「興味がおありで?」
「答えてください」
「薬ですよ」
にやりと笑う。
「痛みを消し、星印を強め、恐怖を薄める薬」
レオンの気配が一瞬で鋭くなった。
「黒霧で人の感情を鈍らせる気か」
「便利でしょう?」
男は平然と言った。
「恐怖を知らない兵士」
「痛みを感じない労働者」
「感情に邪魔されず命令を聞く人間」
リリアは吐き気を覚えた。
それは治療ではない。
人を道具に変える薬だ。
「あなたたちは、人を何だと思っているんですか」
「資源です」
男は即答した。
「使えるものは使う」
「王宮の方々も同じ考えでしょう?」
その言葉に、リリアは息を呑む。
やはり繋がっている。
黒鴉会と、王宮の誰か。
「セドリック殿下ですか」
リリアが言った瞬間、男の笑みがわずかに止まった。
ほんの一瞬。
だが、レオンは見逃さなかった。
「やはりな」
男はすぐに笑みを戻した。
「さあ、何のことでしょう」
「連れていく」
レオンが低く言う。
「話を聞かせてもらう」
男は笑った。
「ここで私を?」
周囲の空気が動く。
黒鴉会の者たちだろう。
通路のあちこちで、武器を持つ気配がある。
レオンは静かに剣の柄へ手をかけた。
「できないと思うか」
その声だけで、周囲が一歩下がる。
銀狼公爵の威圧。
フードを被っていても、隠しきれない。
男の目が細くなる。
「……まさか」
レオンはフードを外した。
銀色の髪が魔石灯に照らされる。
地下市場が凍りついた。
「銀狼公爵……」
誰かが呟く。
男の笑みが消えた。
レオンは静かに言った。
「黒霧魔石の違法取引、および汚染者の放置、北方公爵領への黒霧拡散に関与した疑い、王国法に基づき拘束する」
男は一瞬だけ硬直した。
そして、笑った。
「王国法? ここで?」
彼が指を鳴らす。
次の瞬間、地下市場の灯りが一斉に消えた。
暗闇。
悲鳴。
足音。
「リリア!」
レオンが彼女を引き寄せる。
「ここに!」
「はい!」
リリアは彼の腕の中で息を呑む。
闇の中、黒い魔石がいくつも光り始めた。
黒霧魔石。
それらが砕け、霧が広がる。
「黒霧……!」
地下市場に悲鳴が上がる。
逃げ惑う人々。
咳き込む声。
リリアの月華が反応する。
指先が銀色に光る。
使えば霧を払える。
でも、ここで使えば。
周囲に月華だと知られる。
黒鴉会に。
セドリックに。
そして何より、代償がある。
レオンが低く言った。
「使うな」
「でも、このままでは人が」
「分かっている」
彼は剣を抜く。
「俺が道を作る」
「レオン様、傷が」
「短時間なら動ける」
「駄目です!」
「ならどうする」
リリアは息を呑んだ。
黒霧が広がる。
子供の咳がひどくなる。
母親の泣き声。
人々の混乱。
目の前で苦しむ人がいる。
でも、無茶をすればレオンを傷つける。
自分も記憶を失うかもしれない。
その時、マルタの言葉を思い出した。
――記憶を繋ぎ止める楔。
――片方が削られるのではなく、巡らせる。
白月塔でやったこと。
強制ではなく、意思で。
リリアはレオンの手を握った。
「レオン様」
「何だ」
「少しだけ、力を貸してください」
彼はすぐに理解した。
表情が険しくなる。
「危険だ」
「はい」
「だが、人を見捨てる気はないな」
「はい」
レオンは短く息を吐いた。
「分かった」
「俺が呼ぶ」
「戻ってこい」
「はい」
リリアは目を閉じた。
月華を灯す。
けれど、ただ放つのではない。
レオンの手の温度を感じる。
彼の呼吸。
彼の星印、銀牙の力。
その強さを借りる。
支え合うように。
銀色の光が広がった。
以前より穏やかに。
けれど確かに黒霧を押し返す。
地下市場の人々が息を呑む。
「月……?」
誰かが呟いた。
リリアは光を最小限に抑えた。
道を作るだけ。
浄化しすぎない。
自分を削りすぎない。
「皆さん、こちらへ!」
リリアが叫ぶ。
レオンが剣で障害物を払い、避難路を開く。
「走れ!」
銀狼公爵の声に、人々が動き出す。
母親が少年を抱え上げようとする。
リリアが支えた。
「大丈夫、ゆっくり!」
黒霧が揺れる。
しかし、リリアの意識は保たれていた。
レオンの声がすぐそばにある。
「リリア」
「はい」
「戻れ」
「戻っています」
「よし」
その短いやり取りが、彼女を現実に繋ぎ止める。
黒鴉会の男は混乱に紛れて逃げようとしていた。
だが、その前に黒い影が立ち塞がった。
マルタだった。
「うちの患者を巻き込むんじゃないよ」
彼女は低く言い、男の腹へ杖を叩き込んだ。
男が呻いて膝をつく。
レオンがすぐに踏み込み、男を拘束した。
「逃がさん」
男は苦しそうに笑った。
「もう遅い……黒霧は王都に広がる……」
「何?」
レオンの声が低くなる。
男は血の混じった唾を吐きながら言った。
「今夜、王都の鐘が鳴る。その時、黒鴉が羽ばたく」
リリアの背筋が冷える。
「どういう意味ですか!」
男は笑うだけだった。
◇
地下市場の黒霧は、リリアの光とマルタの薬によってどうにか抑え込まれた。
だが、完全に消えたわけではない。
何人かは汚染され、治療が必要になった。
マルタは悔しそうに舌打ちする。
「黒鴉会め、ここまでやるとはね」
「今夜、何が起こるんですか?」
リリアが尋ねる。
マルタは険しい顔で答えた。
「黒鴉会は、王都中に黒霧魔石を隠しているという噂があった」
「まさか」
「鐘楼だ」
レオンが言った。
「王都の鐘楼には、魔力を街中へ伝える増幅術式がある」
マルタが顔色を変える。
「そこに黒霧魔石を仕込んだってのかい」
「鐘が鳴れば、黒霧が王都全体に広がる」
リリアの血の気が引いた。
王都全体。
人々が暮らす街。
診療所。
平民街。
貴族街。
すべてが黒霧に飲まれるかもしれない。
「止めなければ」
リリアが言う。
レオンは頷いた。
「第一王子へ知らせる」
「私も行きます」
「当然だ」
意外な返事だった。
リリアが目を瞬かせると、レオンは低く言った。
「今さら置いていけると思っていない」
「ただし、無茶はするな」
「はい」
「少しでも危険なら下がれ」
「はい」
「俺が呼べば戻れ」
「はい」
レオンは彼女の手を握った。
強く。
「俺も、お前の声で戻る」
リリアは頷いた。
「はい」
地下市場の青白い灯りの中。
二人はまた一つ、約束を重ねた。
王都の鐘が鳴る前に。
黒鴉を止めるために。
そして、セドリックの影が伸びる街へ。
二人は走り出す。
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