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月影の花嫁は銀狼公爵の運命を拒む  作者: 白石マサル


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33/65

第三十三話 黒鴉会

 翌朝、リリアは日記を閉じたまま、しばらく机の前に座っていた。

 表紙に触れる。

 そこには昨夜、自分で書いた言葉が眠っている。


 ――私はたぶん、レオン様が好きなのだと思う。


 思い出しただけで顔が熱くなった。


「……たぶん、って何」


 自分で書いたくせに、曖昧すぎる。

 けれど、はっきり「好き」と書くには勇気が足りなかった。

 それでも、書いた。

 記憶を失うかもしれない未来の自分へ。

 レオンを忘れてしまうかもしれない自分へ。

 この人を大切に思っていたのだと、残すために。


「……忘れたくないな」


 ぽつりと呟く。

 その言葉は、朝の静かな部屋に溶けた。

 窓の外では、王都がいつも通り動き始めている。


 馬車の音。

 人々の声。

 遠くで鳴る鐘。

 何も知らない街。

 その地下で、黒霧魔石が流通している。

 王宮が見捨てた黒霧汚染者がいる。


 そして、夜啼き薬房の周辺には黒鴉会という闇組織が潜んでいる。


「今日は、行く日ね」


 リリアは立ち上がった。


 怖い。


 けれど、逃げるつもりはなかった。


 ◇


 朝食室へ行くと、レオンはすでに席についていた。

 いつものように静かで、姿勢がいい。

 けれど、どこか眠れていない顔をしている。


「おはようございます」

「おはよう」


 声は普段通り。

 だが、リリアはすぐに眉を寄せた。


「寝不足ですね」

「……少し」

「珍しく正直です」

「嘘をつくと怒るだろう」

「怒ります」


 レオンは小さく息を吐いた。

 その横顔を見て、リリアは少しだけ胸が痛んだ。

 彼も眠れなかったのだろうか。


 月華の代償。

 記憶を失う恐怖。

 そして、昨夜書いた手紙。


 彼は何を書いたのだろう。

 気になる。

 ものすごく。

 でも、聞いてはいけない気がした。

 あれは未来の彼のためのものだから。


「リリア」

「はい」

「お前も眠れていないな」

「……少し」

「正直でよろしい」

「真似しないでください」


 レオンの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。

 それだけで、リリアの胸が温かくなる。

 本当に困る。

 この人の小さな変化一つで、こんなに心が揺れるなんて。


「今日は旧市街へ行く」


 レオンが言った。


「はい」

「昼のうちに動く。夜よりは安全だ」

「夜啼き薬房は夜しか開かないのでは?」

「今回は薬房に直接行く前に、黒鴉会の周辺を探る」

「危険ですね」

「だから俺のそばを離れるな」

「はい」

「絶対に」

「はい」

「怪しいものには触るな」

「はい」

「知らない者に声をかけられても」

「一人で対応しません」


 先回りして答えると、レオンは一瞬黙った。


「……覚えているならいい」

「何度も言われましたから」

「何度でも言う」

「知っています」


 リリアが微笑むと、レオンは少しだけ目を逸らした。

 その耳が、かすかに赤いように見えた。


 ◇


 旧市街へ向かう前に、グレイが追加の報告を持ってきた。


「黒鴉会は、旧市街南区の地下市場を拠点にしているようです」

「地下市場?」


 リリアが聞き返す。


「正規の商業組合に属さない者たちが、薬、魔石、古物、禁制品を取引する場所です」

「王都の中にそんな場所が……」

「王都には光が多い分、影も深いものでございます」


 グレイの声は淡々としている。


「夜啼き薬房は、その地下市場とは距離を置いています。ただし、黒霧汚染者を治療するために、やむを得ず黒霧魔石に関する薬材を入手していた形跡があります」

「つまり、黒鴉会と完全に無関係ではいられなかった」


 レオンが言う。


「はい」


 リリアは拳を握った。

 マルタは危険な薬を扱っているかもしれない。

 けれど、目的は金儲けではなく治療。

 王宮が助けなかった人々を助けるため。


「黒鴉会は、マルタさんを利用しているのでしょうか」

「その可能性が高いかと」

「なら、今日行けば何か分かるかもしれません」


 レオンは頷く。


「だが、こちらが動くことをセドリックが察知している可能性もある」

「黒鴉会と殿下が繋がっているなら、ですね」

「ああ」


 グレイは小さな包みを差し出した。


「変装用の外套と、旧市街で使われる通貨です」

「準備が良すぎませんか?」


 リリアが思わず言うと、グレイは穏やかに微笑んだ。


「執事ですので」

「執事って、そういうものなんですか?」

「優秀な執事は」


 レオンが横から言った。

 リリアは妙に納得してしまった。


 ◇


 旧市街の南区は、昨日訪れた薬房周辺よりもさらに薄暗かった。

 昼間だというのに、建物同士が近すぎて日が差し込まない。

 路地には水たまりが残り、壁には古い貼り紙や怪しい印が並んでいる。

 リリアはフードを深く被り、レオンの隣を歩いた。

 彼も銀色の髪を隠している。

 それでも背の高さや佇まいで目立つ。

 本人にその自覚はあまりなさそうだ。


「……やっぱり目立ちます」

「隠している」

「雰囲気が隠せていません」

「雰囲気?」

「高貴で、怖くて、顔が良すぎるところです」


 言ってから、しまったと思った。

 レオンが足を止める。


「顔が?」

「……忘れてください」

「記憶を残す話をしているのに?」

「こういうことは忘れてください!」


 レオンは少しだけ口元を緩めた。


「努力する」

「絶対忘れる気がないですね」

「ないな」


 リリアは顔を赤くしたまま、足早に進んだ。

 危険な場所に来ているのに、何を話しているのだろう。

 でも、そのやり取りのおかげで少し緊張が解けた。

 やがて二人は、地下市場への入口だという古い酒場の前に着いた。

 看板には黒い鳥の絵。

 羽を広げた鴉。


「ここですね」

「ああ」


 レオンの声が低くなる。


「中へ入ったら、俺の後ろに」

「横では駄目ですか」

「後ろだ」

「では、少し斜め後ろで」

「……それでいい」


 譲歩してくれた。

 少しだけ。


 ◇


 酒場の中は、煙と酒の匂いで満ちていた。

 昼間から飲んでいる男たち。


 怪しい商人。

 顔を隠した女。


 誰もが一瞬だけ二人を見て、すぐに視線を逸らす。

 関わらない方がいい。

 そう判断したのだろう。

 奥のカウンターにいた大柄な男が、低く言った。


「客か」


 レオンは短く答えた。


「薬を探している」

「表の薬屋へ行け」

「黒い霧に効く薬だ」


 その瞬間、周囲の空気が変わった。

 視線が集まる。


 警戒。

 値踏み。

 敵意。


 男は目を細めた。


「誰から聞いた?」

「夜に啼く鳥から」


 リリアは思わずレオンを見上げた。

 昨日の合言葉を応用したのだろうか。

 意外と器用だ。

 男はしばらく黙ったあと、顎で奥の扉を示した。


「地下へ」


 レオンがリリアを見る。

 頷く。

 二人は奥へ進んだ。


 ◇


 地下市場は、異様な場所だった。

 狭い階段を降りると、そこには地下水路跡を利用した広い空間が広がっていた。


 石造りの通路。

 青白い魔石灯。

 小さな露店。

 薬瓶。

 魔石。

 古文書。

 星印を抑える腕輪。

 怪しい護符。


 人々は声を潜めて取引している。

 リリアは思わず息を呑んだ。

 薬師として見れば、興味深いものもある。

 だが同時に、危険なものも多い。


「触るな」


 レオンが低く言う。


「触りません」

「目が触りたそうだった」

「目は触れません」

「屁理屈だ」


 その時、通路の奥から子供の咳が聞こえた。

 リリアは反射的にそちらを向く。

 レオンがすぐに気づいた。


「リリア」

「……分かっています」


 でも、足が止まる。

 暗がりの隅。


 痩せた少年が座り込み、苦しそうに咳をしていた。

 母親らしき女性が背中をさすっている。

 少年の首筋には、うっすら黒い筋。

 黒霧汚染だ。


「……見過ごせません」


 リリアは小さく言った。

 レオンは苦しそうに眉を寄せる。


「罠かもしれない」

「はい」

「それでもか」

「薬だけです。月華は使いません」

「……俺が見る」


 レオンはリリアより先に少年の方へ進んだ。

 警戒しながら。

 リリアはその後に続く。

 母親が怯えたように顔を上げた。


「何ですか……?」

「薬師です」


 リリアは静かに言った。


「その子を診せてください」


 母親は戸惑った。

 だが少年の苦しそうな呼吸を見て、やがて頷いた。

 リリアは膝をつき、少年の脈を取る。


 黒霧汚染。


 軽度ではない。

 だが、まだ魔物化には至っていない。


「いつから?」

「三日前からです。夫が持ち帰った魔石に触れてから……」

「魔石は?」

「黒鴉会に返しました。危ないものだと知って……でも、この子が」


 母親の声が震える。

 リリアは薬箱から呼吸を楽にする薬草と、黒霧吸引の症状を和らげる薬湯の素を取り出した。


「これを少しずつ飲ませてください」

「お金が」

「いりません」


 母親が目を見開く。


「でも」

「薬師ですから」


 そう言って微笑むと、少年がかすかに目を開けた。


「……ありがとう」


 小さな声。

 リリアの胸が締めつけられる。

 レオンはその様子を黙って見ていた。

 けれど、銀色の瞳はどこか痛ましげだった。


 ◇


 その時、背後から拍手が聞こえた。

 ゆっくりと。

 わざとらしく。


「お優しいことだ」


 振り返る。

 黒い羽飾りをつけた帽子の男が立っていた。

 細身で、口元に薄い笑みを浮かべている。

 周囲の者たちがさっと距離を取った。


「黒鴉会か」


 レオンの声が低くなる。

 男は優雅に礼をした。


「会の名を知っているとは光栄です」

「お二人は、随分と高貴な薬師と護衛のようだ」


 リリアの胸がざわつく。

 見抜かれている。

 完全にではないかもしれないが、少なくとも普通ではないことは分かっている。

 男は少年をちらりと見た。


「その子は商品に触れた代金を払っていない」

「商品?」


 リリアの声が硬くなる。


「黒霧魔石ですか」


 男の笑みが深くなる。


「ただの魔石ですよ。少し特殊な力を持つだけの」

「子供を汚染させるものを商品と呼ぶんですか」

「使い方を誤った者の責任です」


 その言葉に、怒りが湧いた。

 レオンが一歩前へ出る。


「売ったのはお前たちだな」

「さあ」


 男は肩を竦める。


「証拠は?」


 その言い方が、どこかセドリックに似ていた。

 責任を逃れるための言葉。

 人を人として見ない目。

 リリアは拳を握る。


「黒霧魔石を何に使うつもりですか」


 男はリリアを見る。


「興味がおありで?」

「答えてください」

「薬ですよ」


 にやりと笑う。


「痛みを消し、星印を強め、恐怖を薄める薬」


 レオンの気配が一瞬で鋭くなった。


「黒霧で人の感情を鈍らせる気か」

「便利でしょう?」


 男は平然と言った。


「恐怖を知らない兵士」

「痛みを感じない労働者」

「感情に邪魔されず命令を聞く人間」


 リリアは吐き気を覚えた。

 それは治療ではない。

 人を道具に変える薬だ。


「あなたたちは、人を何だと思っているんですか」

「資源です」


 男は即答した。


「使えるものは使う」

「王宮の方々も同じ考えでしょう?」


 その言葉に、リリアは息を呑む。

 やはり繋がっている。

 黒鴉会と、王宮の誰か。


「セドリック殿下ですか」


 リリアが言った瞬間、男の笑みがわずかに止まった。

 ほんの一瞬。

 だが、レオンは見逃さなかった。


「やはりな」


 男はすぐに笑みを戻した。


「さあ、何のことでしょう」

「連れていく」


 レオンが低く言う。


「話を聞かせてもらう」


 男は笑った。


「ここで私を?」


 周囲の空気が動く。

 黒鴉会の者たちだろう。

 通路のあちこちで、武器を持つ気配がある。

 レオンは静かに剣の柄へ手をかけた。


「できないと思うか」


 その声だけで、周囲が一歩下がる。

 銀狼公爵の威圧。

 フードを被っていても、隠しきれない。

 男の目が細くなる。


「……まさか」


 レオンはフードを外した。

 銀色の髪が魔石灯に照らされる。

 地下市場が凍りついた。


「銀狼公爵……」


 誰かが呟く。

 男の笑みが消えた。

 レオンは静かに言った。


「黒霧魔石の違法取引、および汚染者の放置、北方公爵領への黒霧拡散に関与した疑い、王国法に基づき拘束する」


 男は一瞬だけ硬直した。

 そして、笑った。


「王国法? ここで?」


 彼が指を鳴らす。

 次の瞬間、地下市場の灯りが一斉に消えた。


 暗闇。

 悲鳴。

 足音。


「リリア!」


 レオンが彼女を引き寄せる。


「ここに!」

「はい!」


 リリアは彼の腕の中で息を呑む。

 闇の中、黒い魔石がいくつも光り始めた。


 黒霧魔石。


 それらが砕け、霧が広がる。


「黒霧……!」


 地下市場に悲鳴が上がる。

 逃げ惑う人々。

 咳き込む声。

 リリアの月華が反応する。

 指先が銀色に光る。

 使えば霧を払える。

 でも、ここで使えば。

 周囲に月華だと知られる。


 黒鴉会に。

 セドリックに。


 そして何より、代償がある。

 レオンが低く言った。


「使うな」

「でも、このままでは人が」

「分かっている」


 彼は剣を抜く。


「俺が道を作る」

「レオン様、傷が」

「短時間なら動ける」

「駄目です!」

「ならどうする」


 リリアは息を呑んだ。

 黒霧が広がる。


 子供の咳がひどくなる。

 母親の泣き声。

 人々の混乱。


 目の前で苦しむ人がいる。

 でも、無茶をすればレオンを傷つける。

 自分も記憶を失うかもしれない。

 その時、マルタの言葉を思い出した。


 ――記憶を繋ぎ止める楔。

 ――片方が削られるのではなく、巡らせる。


 白月塔でやったこと。

 強制ではなく、意思で。

 リリアはレオンの手を握った。


「レオン様」

「何だ」

「少しだけ、力を貸してください」


 彼はすぐに理解した。

 表情が険しくなる。


「危険だ」

「はい」

「だが、人を見捨てる気はないな」

「はい」


 レオンは短く息を吐いた。


「分かった」

「俺が呼ぶ」

「戻ってこい」

「はい」


 リリアは目を閉じた。


 月華を灯す。


 けれど、ただ放つのではない。

 レオンの手の温度を感じる。


 彼の呼吸。

 彼の星印、銀牙の力。

 その強さを借りる。


 支え合うように。

 銀色の光が広がった。

 以前より穏やかに。

 けれど確かに黒霧を押し返す。

 地下市場の人々が息を呑む。


「月……?」


 誰かが呟いた。

 リリアは光を最小限に抑えた。

 道を作るだけ。

 浄化しすぎない。

 自分を削りすぎない。


「皆さん、こちらへ!」


 リリアが叫ぶ。

 レオンが剣で障害物を払い、避難路を開く。


「走れ!」


 銀狼公爵の声に、人々が動き出す。

 母親が少年を抱え上げようとする。

 リリアが支えた。


「大丈夫、ゆっくり!」


 黒霧が揺れる。

 しかし、リリアの意識は保たれていた。

 レオンの声がすぐそばにある。


「リリア」

「はい」

「戻れ」

「戻っています」

「よし」


 その短いやり取りが、彼女を現実に繋ぎ止める。

 黒鴉会の男は混乱に紛れて逃げようとしていた。

 だが、その前に黒い影が立ち塞がった。

 マルタだった。


「うちの患者を巻き込むんじゃないよ」


 彼女は低く言い、男の腹へ杖を叩き込んだ。

 男が呻いて膝をつく。

 レオンがすぐに踏み込み、男を拘束した。


「逃がさん」


 男は苦しそうに笑った。


「もう遅い……黒霧は王都に広がる……」

「何?」


 レオンの声が低くなる。

 男は血の混じった唾を吐きながら言った。


「今夜、王都の鐘が鳴る。その時、黒鴉が羽ばたく」


 リリアの背筋が冷える。


「どういう意味ですか!」


 男は笑うだけだった。


 ◇


 地下市場の黒霧は、リリアの光とマルタの薬によってどうにか抑え込まれた。

 だが、完全に消えたわけではない。

 何人かは汚染され、治療が必要になった。

 マルタは悔しそうに舌打ちする。


「黒鴉会め、ここまでやるとはね」

「今夜、何が起こるんですか?」


 リリアが尋ねる。

 マルタは険しい顔で答えた。


「黒鴉会は、王都中に黒霧魔石を隠しているという噂があった」

「まさか」

「鐘楼だ」


 レオンが言った。


「王都の鐘楼には、魔力を街中へ伝える増幅術式がある」


 マルタが顔色を変える。


「そこに黒霧魔石を仕込んだってのかい」

「鐘が鳴れば、黒霧が王都全体に広がる」


 リリアの血の気が引いた。


 王都全体。

 人々が暮らす街。

 診療所。

 平民街。

 貴族街。


 すべてが黒霧に飲まれるかもしれない。


「止めなければ」


 リリアが言う。

 レオンは頷いた。


「第一王子へ知らせる」

「私も行きます」

「当然だ」


 意外な返事だった。

 リリアが目を瞬かせると、レオンは低く言った。


「今さら置いていけると思っていない」

「ただし、無茶はするな」

「はい」

「少しでも危険なら下がれ」

「はい」

「俺が呼べば戻れ」

「はい」


 レオンは彼女の手を握った。

 強く。


「俺も、お前の声で戻る」


 リリアは頷いた。


「はい」


 地下市場の青白い灯りの中。

 二人はまた一つ、約束を重ねた。

 王都の鐘が鳴る前に。

 黒鴉を止めるために。

 そして、セドリックの影が伸びる街へ。

 二人は走り出す。

読んでいただきありがとうございます。

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