第三十二話 忘れないための手紙
公爵邸へ戻った時、夜はすでに深かった。
王都の喧騒も遠ざかり、屋敷の廊下には静かな灯りだけが落ちている。
リリアは外套を脱ぎながら、まだ指先に残る冷たさを感じていた。
夜啼き薬房。
闇薬師マルタ。
月華の代償は命だけではなく、記憶。
その事実が、頭の中で何度も繰り返される。
――愛した男の名を忘れた。
その言葉を思い出すたび、胸が痛んだ。
もし、自分がレオンを忘れたら。
あの銀色の瞳も。
不器用な優しさも。
苦い薬を嫌がる顔も。
「離れたくない」と言ってくれた声も。
全部、失ってしまうのだろうか。
「リリア」
低い声で呼ばれる。
顔を上げると、レオンがこちらを見ていた。
「また一人で考えている」
「……すみません」
「謝るな」
彼はそう言うと、少しだけ迷ったように手を伸ばした。
そして、リリアの手を取る。
温かい。
それだけで、息がしやすくなった。
「怖いなら言え」
リリアは一瞬だけ唇を噛んだ。
それから、正直に頷いた。
「怖いです」
「俺もだ」
即答だった。
その声に、胸が震える。
レオンは逃げなかった。
怖いと言ってくれた。
「あなたを忘れるのが怖いです」
リリアは言った。
「あなたに忘れられるのも、怖いです」
レオンの手に力がこもる。
「忘れない。でも、もし忘れたら」
彼は静かに遮った。
「お前が話すと言った」
「……はい」
「俺も話す」
銀色の瞳が、まっすぐリリアを見つめていた。
「何度でも」
その言葉に、リリアは泣きそうになった。
◇
翌朝。
リリアは机の上に白い紙を広げた。
マルタに言われたこと。
――忘れたくないことを、二人で書きな。
記憶を繋ぎ止める楔。
日記でも、手紙でも、誓約でもいい。
一番強いのは、二人で共有した記憶を互いの言葉で残すこと。
だからリリアは、まず書くことにした。
けれど――。
「……何から書けばいいの」
羽ペンを持ったまま固まる。
書きたいことは山ほどある。
最悪の初対面。
『君を愛するつもりはない』と言われたこと。
初めてレオンの発作を見た夜。
苦い薬を嫌がった顔。
王宮で嫉妬したこと。
北方の黒霧。
白月塔で呼び戻してくれた声。
多すぎる。
大切なことが、多すぎる。
その時、扉が叩かれた。
「リリア」
レオンの声だった。
「どうぞ」
入ってきた彼の手にも、紙と封筒があった。
リリアは目を瞬かせる。
「それは?」
「書けと言われただろう」
「……書いてくださるんですか」
「必要なら」
言い方はそっけない。
けれど、耳がわずかに赤い。
リリアの胸が温かくなった。
「ありがとうございます」
「礼を言うことではない」
「それでもです」
レオンは視線を逸らした。
本当に、分かりやすくなった。
「何を書けばいいか分からなくて」
リリアが言うと、レオンは向かいの椅子に座った。
「俺もだ」
「レオン様も?」
「ああ」
少し意外だった。
何でも淡々と決めそうなのに。
「記録なら書ける」
彼は言った。
「戦況、症状、薬効、黒霧の濃度。でも、これは違う」
リリアは頷いた。
「はい」
これは報告書ではない。
記録ではあるけれど、それだけではない。
忘れたくない気持ちを書くものだ。
「では、最初の記憶から書きますか?」
「最初?」
「初対面です」
レオンが明らかに嫌そうな顔をした。
「それは忘れてもいい」
「駄目です」
「最悪だっただろう」
「最悪でした」
即答すると、レオンは黙った。
「でも、大切です」
リリアは微笑む。
「あの日があったから、今があります」
レオンは少しだけ目を伏せた。
「……そうか」
「はい」
リリアは羽ペンを取った。
そして、紙にゆっくりと書き始める。
『私がレオン・ヴァルハルト様に初めて会った日、彼はとても冷たい人に見えました。銀色の髪と銀色の瞳を持つ、綺麗で怖い人でした』
書いてから、少し恥ずかしくなる。
「……読まないでください」
「読めと言われているものではないのか」
「今は駄目です」
「なぜ」
「恥ずかしいからです」
レオンは少し考えた。
「俺も読むな」
「書いたんですか?」
「まだ一行だ」
「何て?」
「読むな」
「気になります」
「駄目だ」
お互いに紙を隠す。
その状況が少しおかしくて、リリアは笑ってしまった。
レオンも、ほんの少しだけ口元を緩めた。
◇
二人で書く時間は、思いのほか穏やかだった。
外は晴れている。
窓から柔らかな光が入り、机の上を照らしている。
紅茶の湯気。
紙を滑るペン先の音。
時折交わす短い会話。
「苦い薬のことは書くな」
「書きます」
「なぜだ」
「忘れたくないので」
「俺は忘れたい」
「駄目です」
「横暴だな」
「患者には横暴です」
「それはここでも有効なのか」
「有効です」
そんなやり取りをしながら、リリアは書き続けた。
初めてレオンが弱音を吐いた夜のこと。
「死にたくない」と言った声。
その時、助けたいと思ったこと。
王宮でセドリックに嫉妬したレオンのこと。
北方で、黒霧の中へ走った時の恐怖。
そして、レオンが自分を抱き止めてくれたこと。
書けば書くほど、胸がいっぱいになる。
これは記憶を残すためだけではない。
自分の気持ちを、少しずつ認める作業でもあった。
好き。
まだ、その言葉を書く勇気はない。
でも、書かなくても分かってしまう。
自分の文章は、レオンへの想いで満ちていた。
「……顔が赤い」
向かいから声がする。
リリアは慌てて顔を上げた。
「気のせいです」
「嘘だな」
「レオン様こそ、耳が赤いです」
「気のせいだ」
「嘘ですね」
二人は同時に黙った。
そして同時に視線を逸らした。
どうしようもなく気まずい。
でも、不思議と嫌ではなかった。
◇
昼過ぎ。
グレイが部屋に入ってきた。
「失礼いたします」
机の上に広がった紙を見て、彼は一瞬だけ目を細めた。
何かを察したらしい。
「お邪魔でしたでしょうか」
「違う」
レオンの返事が少し早い。
「記録を取っていただけだ」
「左様でございますか」
グレイは完璧な執事の顔で頷いた。
だが、どう見ても微笑んでいる。
リリアは恥ずかしくなって紙を裏返した。
「それで、何かありましたか?」
「第一王子殿下より密書が届いております」
空気が変わった。
レオンが手紙を受け取る。
封を切り、読み進める。
その表情が次第に険しくなった。
「……王都旧市街で、黒霧魔石の流通が確認された」
リリアは息を呑む。
「やはり」
「そして、その流通経路の一つに、夜啼き薬房の名が出ている」
「え……?」
胸が冷えた。
マルタの薬房が?
「罠でしょうか?」
「分からない」
レオンは手紙をリリアへ渡した。
第一王子の文は簡潔だった。
旧市街の複数の闇薬師が、黒霧魔石の処理や加工に関わっている疑い。
その中に夜啼き薬房の周辺人物が含まれている。
ただし、マルタ本人が関与しているかは不明。
「マルタさんは、王宮が見捨てた患者を診てきたと言っていました」
リリアは言った。
「でも、黒霧魔石が薬に使われているなら、治療目的かもしれない」
レオンが続ける。
「あるいは、セドリックに利用されている」
「もう一度会う必要がありますね」
「駄目だ」
即答。
リリアは彼を見た。
「今度は止めるんですか?」
「昨日行ったばかりだ。向こうが警戒している可能性がある」
「でも、放っておけません」
「分かっている」
レオンは深く息を吐いた。
「だから俺が調べる」
「それは駄目です」
今度はリリアが即答した。
「なぜだ」
「一人で抱え込まない約束です」
「危険だ」
「私にも関係があります」
「……」
「それに、薬の話なら私の方が分かります」
レオンは反論できず黙った。
グレイが静かに言う。
「では、私が情報を集めましょう」
二人が同時にグレイを見る。
「旧市街へ直接向かう前に、薬房周辺の噂を探ります」
「危険では?」
リリアが言うと、グレイは穏やかに微笑んだ。
「執事は多少の情報網を持っているものです」
多少ではなさそうだった。
レオンは短く頷く。
「頼む」
「かしこまりました」
グレイは一礼して去っていった。
リリアはその背を見送りながら呟く。
「グレイ様、何者なんでしょう」
「優秀な執事だ」
「それだけですか?」
「たぶんな」
たぶん。
レオンもよく分かっていないらしい。
◇
夕方。
リリアは書いた紙を封筒に入れようとして、ふと迷った。
これは誰宛てなのだろう。
未来の自分。
もし記憶を失った自分。
あるいは、レオンを忘れそうになった自分。
そう考えると、胸が痛くなる。
封筒の表に、ゆっくりと文字を書く。
『未来の私へ』
書き終えた瞬間、涙が出そうになった。
未来の自分は、これを読んで何を思うのだろう。
レオンのことを思い出せるだろうか。
彼の声を。
手の温度を。
不器用な優しさを。
「リリア」
いつの間にか、レオンが隣に立っていた。
「泣きそうな顔をしている」
「……泣いてはいません」
「そうだな」
彼は追及しなかった。
代わりに、自分の封筒を机に置いた。
表にはこう書かれていた。
『俺が忘れた時のために』
リリアは息を呑む。
「見ても?」
「まだ駄目だ」
「そうですか」
「お前のも、まだ読まない」
「はい」
二つの封筒が並ぶ。
それだけなのに、胸がいっぱいになった。
「レオン様」
「何だ」
「もし私が忘れたら、最初に何を話してくれますか」
レオンは少し考えた。
長い沈黙。
そして、真面目な顔で言った。
「お前が俺に向かって、馬鹿と言ったこと」
リリアは目を瞬かせた。
「それですか?」
「ああ」
「もっと綺麗な思い出ではなく?」
「それが一番、お前らしい」
思わず笑ってしまった。
涙が引っ込む。
「では、私があなたに話す時は、苦い薬を嫌がったことにします」
「やめろ」
「一番レオン様らしいので」
「不本意だ」
「でも本当です」
レオンは不満そうに眉を寄せた。
けれど、すぐに柔らかい表情になった。
「……それでいい」
「いいんですか?」
「ああ」
「忘れても、お前がそう話すなら」
彼は封筒に触れた。
「俺はきっと、思い出したいと思う」
リリアの胸が熱くなった。
◇
夜。
グレイが戻ってきた。
彼の表情はいつも通りだったが、わずかに空気が硬い。
「いくつか分かりました」
リリアとレオンは応接室で彼の報告を聞いた。
「夜啼き薬房そのものが黒霧魔石を売っている形跡はありません」
リリアは少しほっとする。
「ですが、薬房に出入りする患者の中に、黒霧汚染者が複数いるようです」
「汚染者?」
「北方から逃れてきた者、黒霧魔石に触れた者、あるいは王宮の研究所から消えた元被験者」
「被験者……」
嫌な言葉だった。
「その者たちは正式な治療を受けられず、旧市街に流れ着いているようです」
リリアの拳が震えた。
王宮が黒霧を研究し、失敗した者たちを見捨てた。
そして、彼らを夜啼き薬房が診ている。
「マルタさんは、彼らを助けているんですね?」
「おそらく」
グレイは頷く。
「ただし、黒霧魔石の流通に関わる別の闇薬師組織が、彼らを利用している可能性があります」
レオンが低く言った。
「セドリックと繋がっているな」
「その可能性が高いかと」
「名は?」
「黒鴉会」
部屋の空気が重くなる。
グレイは続けた。
「旧市街で禁薬、魔石、星印関連の取引を行う組織です」
「黒霧魔石も彼らが流していると」
「はい」
リリアは息を吸った。
「なら、夜啼き薬房に危険が迫っているかもしれません」
レオンがこちらを見る。
「行くと言うな」
「行きます」
「リリア」
「でも、一人では行きません」
彼を見る。
「あなたと行きます」
レオンは苦しそうに額を押さえた。
「そう言えばいいと思っているだろう」
「少し」
「正直だな」
「はい」
しばらく沈黙。
やがて彼は諦めたように息を吐いた。
「今夜は駄目だ」
「なぜ?」
「お前が休んでいない」
「でも」
「明日だ」
リリアは言葉を止める。
完全に止めるのではなく、明日。
それは彼なりの譲歩だった。
「……分かりました」
「本当か?」
「本当です」
「抜け出すな」
「しません」
「約束だ」
「約束です」
レオンはまだ疑っている顔だったが、それ以上は言わなかった。
◇
その夜、リリアは日記を開いた。
今日の記憶を書くために。
『今日、レオン様と一緒に忘れないための手紙を書いた。レオン様は、私が忘れたら“馬鹿と言ったこと”を最初に話すと言った。ひどいと思ったけれど、少し笑ってしまった』
書きながら、口元が緩む。
『私は、レオン様が忘れたら、苦い薬を嫌がったことを話すつもり。きっと嫌な顔をする。でも、そんな顔も私は忘れたくない』
そこで手が止まった。
続きを書くか迷う。
胸の奥にある言葉。
まだ声には出せない言葉。
でも、紙になら書けるだろうか。
しばらく迷って。
リリアは小さく息を吸い、続きを書いた。
『私はたぶん、レオン様が好きなのだと思う』
書いた瞬間、顔が熱くなった。
慌てて日記を閉じる。
誰にも見られていないのに、心臓がうるさい。
「……書いてしまった」
声にすると、さらに恥ずかしい。
けれど不思議と、後悔はなかった。
記憶がいつか奪われるかもしれないなら。
この気持ちも残しておきたい。
未来の自分が読んだ時、思い出せるように。
胸が痛むほど大切だったことを。
その時、窓の外で月が雲間から顔を出した。
淡い光が日記の表紙を照らす。
リリアはそっと表紙に手を置いた。
「忘れない」
小さく誓う。
「忘れても、思い出す」
同じ頃。
隣の部屋で、レオンもまた机に向かっていた。
彼の前には、一枚の紙。
長い時間、何も書けずにいた。
やがて彼は羽ペンを取り、ゆっくりと文字を刻んだ。
『俺が忘れた時のために』
その下に、少し乱れた文字で続ける。
『リリア・エヴァレットは、俺を馬鹿と呼ぶ女だ』
そこまで書いて、レオンは小さく息を吐いた。
そして、さらに続けた。
『俺が初めて、死にたくないと言えた相手だ』
『俺を呼び戻した声だ』
『俺が手放したくない人だ』
最後の一文を書くまでに、長い時間がかかった。
『俺は彼女を愛しているのだと思う』
書いたあと、レオンは目を閉じた。
その言葉はまだ、リリアには言えない。
呪いがある。
代償がある。
敵がいる。
言ってしまえば、彼女をさらに危険にするかもしれない。
それでも。
記憶が奪われるかもしれないなら。
自分自身にだけは、嘘をつきたくなかった。
月明かりが二つの部屋を照らしていた。
まだ口にできない想いが、紙の上にだけ静かに残される。
忘れないために。
忘れても、また出会うために。
読んでいただきありがとうございます。
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