第三十一話 夜啼き薬房
翌朝、リリアはいつもより早く目を覚ました。
昨夜の紙片の文字が、ずっと頭から離れなかった。
――月華の代償を消す方法は存在する。
――ただし、それは銀狼の呪いを解くことと同じではない。
その一文が、胸の奥に棘のように刺さっている。
代償を消す方法。
それは望んでいたものだ。
リリアが命を削らずに、月華を使えるようになるかもしれない。
けれど、銀狼の呪いを解くことと同じではない。
つまり、自分が助かる道と、レオンが助かる道は別なのかもしれない。
その可能性が怖かった。
「……駄目」
リリアは寝台の上で首を振った。
一人で考えない。
一人で結論を出さない。
約束した。
レオンと。
だから今は、まず知る。
真実を。
どれだけ残酷でも。
◇
朝食室へ向かうと、レオンはすでに席についていた。
黒い上着を羽織り、いつも通り背筋を伸ばしている。
だが顔色はまだ悪い。
昨夜の白月塔での戦いが響いているのだろう。
「おはようございます」
「おはよう」
返事は短い。
けれど、以前より自然だった。
リリアは席につき、まず彼をじっと見た。
レオンが眉を寄せる。
「何だ?」
「顔色が悪いです」
「悪くない」
「言い直してください」
「……少し悪い」
「正直でよろしいです」
レオンはわずかに不満そうな顔をした。
「子供扱いするな」
「患者扱いです」
「便利な言葉だな」
「便利です」
リリアがそう答えると、彼は諦めたように小さく息を吐いた。
そのやり取りを見ていたミアが、背後で口元を押さえている。
笑っている。
グレイも表情は変えないが、どことなく満足そうだった。
この屋敷は変わった。
最初に来た時のような、冷たく張り詰めた空気はもうない。
レオンが少しずつ感情を取り戻すたび、屋敷にも体温が戻っていくようだった。
「昨夜の件だが」
レオンが言った。
空気が少し引き締まる。
「夜啼き薬房について調べた」
「早いですね」
「眠れなかった」
「休んでください」
「横にはなっていた」
「寝てはいないんですね」
「……」
沈黙。
図星。
リリアは目を細めた。
「レオン様」
「先に話を聞け」
「話の後、説教します」
「……分かった」
素直に受け入れた。
少し成長している。
「夜啼き薬房は、旧市街の地下にある非公式の薬師組合だ」
レオンは続けた。
「王宮に認められていない治療や、禁じられた薬、星印の副作用に関する知識を扱う」
「危険な場所ですね」
「ああ」
「でも、月華の代償について知っている可能性はある」
「ある」
レオンの表情が険しくなる。
「問題は、誰があの紙片を送ったかだ」
「セドリック殿下ではない?」
「断定はできない。だが、やり方が違う」
リリアも頷く。
セドリックなら、もっと優雅に、もっと逃げ道を塞ぐように誘う。
今回の紙片は違った。
簡潔で、直接的で、どこか切迫している。
「行きましょう」
リリアは言った。
「今夜だ」
レオンが答える。
「昼では駄目なんですか?」
「夜啼き薬房は夜にしか開かない」
「名前通りですね」
「そして、正規の護衛は連れていけない」
「なぜですか?」
「王宮に知られる」
リリアは黙った。
旧市街へ行くことがセドリックに知られれば、また罠を張られる可能性がある。
第一王子にも知らせるべきか迷うところだが、動きが大きくなれば漏れる危険もある。
「二人で行くんですか?」
「グレイにだけ知らせる」
「ミアには?」
「心配して泣く」
「……確かに」
想像できる。
「では、夜まで体力を温存しましょう」
リリアが言うと、レオンは少し目を逸らした。
「俺に言っているのか」
「もちろんです」
「お前もだ」
「はい」
「本を読むな」
「少しだけ」
「駄目だ」
「薬草整理は」
「駄目だ」
「日記は」
「短くなら許可する」
「また許可制ですか」
「今日だけだ」
リリアはため息を吐いた。
だが、文句を言いながらも胸の奥は温かかった。
心配されている。
管理されていると言えばそれまでだが、彼のそれは支配ではない。
ちゃんとリリアの意思を聞こうとしてくれる。
最初とは違う。
本当に。
◇
その日の昼間、リリアは大人しく部屋で過ごした。
いや、正確には大人しく過ごそうとした。
机の上には月華の資料。
昨夜の白月塔で得た断片。
霧狼の記録。
手を伸ばしたい。
読みたい。
考えたい。
けれど、レオンとの約束がある。
そしてミアが見張っている。
「リリア様」
「……まだ何もしていないわ」
「今、資料の方を見ました」
「見るだけなら」
「駄目です」
ミアは意外と厳しい。
リリアは寝台の上で膝を抱えた。
「皆、私に厳しくなったわね」
「リリア様が無茶をなさるからです」
「……返す言葉がない」
「本当に、心配したんです」
ミアの声が小さくなる。
リリアは顔を上げた。
ミアは手元の布を握りしめていた。
「北方で倒れたと聞いた時も、白月塔へ行かれたと聞いた時も」
「ミア……」
「リリア様はいつも笑って“大丈夫”とおっしゃいます。でも、大丈夫じゃない時があります」
胸が痛んだ。
ミアの言葉はまっすぐだった。
「閣下も同じです」
「はい」
「お二人とも、自分のことになると鈍すぎます」
「……はい」
完全に正論だった。
リリアは小さく頭を下げた。
「ごめんなさい」
「謝ってほしいわけではありません」
ミアは少し涙目になりながら言った。
「帰ってきてほしいんです」
その言葉に、リリアは胸が詰まった。
帰ってきてほしい。
レオンにも言われた。
自分もレオンに思った。
ミアも同じだったのだ。
誰かが自分の帰りを待ってくれている。
その事実は、思っていた以上に重く、温かかった。
「帰ってくるわ」
リリアは言った。
「必ず」
ミアは少しだけ安心したように頷いた。
◇
夜。
公爵邸の灯りが落ち始めた頃、リリアは黒い外套に着替えた。
貴族令嬢のドレスではなく、動きやすい簡素な服。
髪も低くまとめる。
鏡を見る。
そこにいるのは、公爵の婚約者というより、診療所で薬箱を抱えていた頃の自分に近かった。
少し懐かしい。
そして少し心強い。
廊下へ出ると、レオンが待っていた。
黒い外套。
剣。
いつもより目立たない服装。
けれど、顔が良すぎて目立つ。
「……目立ちますね」
「何がだ」
「レオン様が」
「黒を着ている」
「そういう問題ではありません」
整いすぎた容姿と銀色の髪は、旧市街では間違いなく目立つ。
レオンは少し考えたあと、フードを深く被った。
「これでいいか?」
「少しましです」
「少し」
「少しです」
レオンは納得していない顔だった。
グレイが二人に近づき、小さな包みを渡す。
「旧市街の地図と、緊急用の合図笛です」
「助かる」
「馬車は目立ちますので、途中までは裏通りをお使いください」
「分かった」
グレイはリリアへ視線を向けた。
「リリア様」
「はい」
「閣下をよろしくお願いいたします」
レオンがわずかに眉を動かす。
「逆ではないのか」
「どちらもでございます」
グレイは静かに言った。
「お二人とも、無茶をなさいますので」
何も言えなかった。
二人同時に。
◇
旧市街は、王都の華やかな中心部とはまるで違った。
狭い路地。
傾いた建物。
灯りの少ない窓。
酒場の喧騒。
湿った石畳。
空気には薬草と酒と煙の匂いが混ざっている。
リリアは外套の前を握りしめた。
昔、診療所で働いていた平民街とも違う。
ここはもっと陰が濃い。
王都の光が届かない場所。
「離れるな」
レオンが低く言う。
「はい」
彼はリリアの半歩前を歩く。
人混みを避けるように。
危険な視線を遮るように。
それが自然すぎて、胸が少し落ち着く。
「夜啼き薬房はどこに?」
「地下水路跡の近くだ」
「そんな場所に薬房が?」
「表向きは閉じた薬屋だ。合言葉が必要らしい」
「合言葉?」
レオンは少し不本意そうな顔をした。
「夜に啼く鳥は」
「……はい」
「月を呑む」
リリアは黙った。
「……誰が考えたんでしょうね」
「知らん」
「少し芝居がかっていますね」
「言いたくない」
「私が言いましょうか?」
「いや、俺が言う」
「嫌そうなのに」
「お前に言わせるのはもっと嫌だ」
なぜ。
と思ったが、彼の耳が少し赤い気がしたので黙った。
◇
地図に従って進むと、やがて古びた薬屋が見えた。
看板は半分朽ちている。
『ルナ草薬店』
窓は閉ざされ、店内に灯りはない。
どう見ても閉店している。
だが、扉の下から微かに青い光が漏れていた。
「ここですね」
「ああ」
レオンが扉を叩く。
三回。
少し間を置いて、二回。
グレイが調べた通りの合図。
扉の内側から、低い女の声がした。
「夜に啼く鳥は?」
レオンが一瞬だけ沈黙する。
リリアは横目で見上げた。
フードの影で表情は見えにくい。
けれど、嫌そうなのは分かった。
「……月を呑む」
扉の向こうが沈黙した。
そして、かちゃりと鍵が開く音。
「入りな」
扉が開いた。
中は薄暗かった。
薬棚が並び、乾燥薬草の束が天井から吊るされている。
奥のカウンターにいたのは、五十代ほどの女性だった。
灰色の髪を一つに束ね、片目に黒い眼帯をしている。
鋭い雰囲気。
ただの薬師ではない。
「ようこそ、夜啼き薬房へ」
女はリリアを見た。
そして、レオンを見た。
「月華と銀狼か」
リリアの胸が跳ねる。
「あなたが紙片を?」
女は答えず、煙管を机に置いた。
「名はマルタ。ここでは薬師も毒師も、同じ名で呼ばれる」
「闇薬師、ですか」
リリアが尋ねると、マルタはにやりと笑った。
「王宮の連中はそう呼ぶね。でも私は、王宮が見捨てた患者を診てきただけさ」
その言葉に、リリアは少しだけ警戒を緩めた。
完全には信じない。
でも、少なくともセドリックとは違う温度があった。
「月華の代償について知っていると」
レオンが切り出す。
マルタは彼を見る。
「知っている」
「本当に消せるのか?」
「消せる」
短い答え。
リリアは息を呑んだ。
だがマルタはすぐに続けた。
「ただし、あんたたちが望む答えじゃないかもしれない」
「どういう意味ですか?」
マルタはカウンターの下から古い箱を取り出した。
銀色の月の紋章が刻まれている。
「月華の代償は、命そのものじゃない」
リリアは目を見開く。
「違うんですか?」
「ああ」
マルタは箱を開けた。
中には古い小瓶と、羊皮紙が入っている。
「月華が削るのは生命力だけじゃない、記憶だ」
リリアの呼吸が止まった。
「……記憶?」
「そうだ」
マルタの声は低い。
「強い浄化を行うたび、術者は自分を形作る記憶を少しずつ失う。家族の顔・大切な約束・愛した人の声、最後には、自分が誰を救いたかったのかも忘れる」
リリアは言葉を失った。
命を削る。
そう思っていた。
それだけでも怖かった。
けれど記憶。
大切なものを忘れていく。
レオンを救おうとして。
レオンのことを忘れるかもしれない。
その可能性に、血の気が引いた。
レオンの手が強く握られる。
「ふざけるな」
低い声。
「それが事実なら、なぜ王宮の記録にはない」
「消されたからさ」
マルタは淡々と答えた。
「月華は聖女なんかじゃない。王家に都合よく使われた生贄だ」
店内が静まり返る。
「かつての月華は、銀狼を救った。だが命を落としたんじゃない。先に記憶を失った。愛した男の名を忘れ、自分が何者かも忘れ、それでも身体だけは浄化を続けた」
リリアは口元を押さえた。
壁画の聖女。
夢の中の女。
――月華は、愛する者のために滅びる星。
滅びるとは、死ぬことだけではなかったのだ。
自分を失うこと。
愛した記憶ごと消えていくこと。
「代償を消す方法とは」
レオンが問う。
声が震えていた。
怒りか、恐怖か。
たぶん両方だ。
マルタは古い小瓶を取り出した。
中には淡い青色の液体が入っている。
「月忘れの薬、月華の代償を、記憶ではなく別の器に移す薬だ」
「別の器?」
リリアが尋ねる。
「魔石、星印、あるいは対象者」
嫌な予感がした。
レオンの表情が凍る。
マルタは続けた。
「つまり、あんたが銀狼を浄化する時、本来ならあんたが失う記憶を、銀狼の方へ移せる」
「……それは」
リリアの声が震えた。
「レオン様が、私の代わりに記憶を失うということですか」
「そうだ」
即答。
レオンが低く言った。
「却下だ」
「まだ何も」
「却下だ」
リリアを見ることすらせずに、彼は言った。
「そんなものは使わない」
「私も使いません」
リリアもすぐに答えた。
レオンがこちらを見る。
リリアは首を振った。
「私の代償をあなたに押しつけるなんて、絶対に嫌です」
「リリア」
「あなたが私を忘れるのも嫌です」
言ってから、胸が痛くなった。
レオンが息を呑んだのが分かった。
マルタは二人をじっと見ている。
「なら、第三の方法を探すしかないね」
「第三の方法?」
リリアが聞き返す。
マルタは羊皮紙を広げた。
『記憶を失わず、相手にも移さず、代償を巡らせる方法』
「白月塔で、あんたたちは少しそれをやったはずだ」
リリアとレオンは顔を見合わせた。
昨夜のことを知っている。
なぜ。
「あなたは何者だ?」
レオンが鋭く問う。
マルタは薄く笑った。
「先代月華の侍女の孫だよ」
リリアは目を見開いた。
先代月華。
聖女。
壁画の女。
「私の祖母は、月華が壊れていくのを見ていた」
マルタの声が低くなる。
「愛した男に名を呼ばれても、最後には何も分からなかったそうだ。だから祖母は記録を盗み、王宮から逃げた。いつか次の月華が現れた時、同じ結末を辿らせないために」
リリアの胸が熱くなる。
長い時間を越えて、誰かが自分のために記録を残してくれていた。
見知らぬ誰かが。
同じ悲劇を繰り返さないように。
「第三の方法を教えてください」
リリアは言った。
マルタは首を横に振った。
「まだ教えられない」
「なぜ?」
レオンの声が低くなる。
「完成していないからだ」
マルタは羊皮紙を指で叩いた。
「必要なのは三つ」
『月華本人の意思』
『銀狼側の同意』
『そして、二人の記憶を繋ぎ止める楔』
「楔?」
「忘れたくない記憶を、外に刻むものだ」
マルタはリリアを見る。
「日記でも、手紙でも、誓約でもいい。だが一番強いのは、二人で共有した記憶を互いの言葉で残すこと」
リリアは息を呑む。
記憶を繋ぎ止める。
もし忘れても、思い出せるように。
レオンが低く言った。
「つまり、リリアが忘れた時に俺が話し、俺が忘れた時にリリアが話す」
マルタが頷く。
「そういうことだ」
リリアの胸に、昨夜の会話が蘇る。
――あなたが忘れそうになったら、何度でも話します。
あれは、ただの慰めではなかった。
本当に必要なことだったのだ。
「……できます」
リリアは言った。
「私たちなら」
レオンがこちらを見る。
その瞳は不安に揺れていた。
「簡単に言うな」
「簡単ではありません」
「記憶を失うかもしれない」
「はい」
「俺が忘れるかもしれない」
「はい」
「それでも?」
リリアは彼の手を握った。
「何度でも話します! あなたにも、私にも雨の日の庭も苦い薬を嫌がったことも北方の月も、白月塔で、私を呼んでくれたことも!」
声が震える。
「全部、残します!」
レオンの瞳が揺れる。
マルタは静かに言った。
「なら、まず書きな。今日から忘れたくないことを、二人で」
◇
夜啼き薬房を出た時、旧市街の夜はさらに深くなっていた。
レオンはしばらく黙っていた。
リリアも同じだった。
知ったことが重すぎた。
月華の代償は、記憶。
そして、それを完全に消す方法はまだない。
でも、希望はあった。
巡らせる方法。
繋ぎ止める楔。
二人で記憶を残すこと。
「……怖いですね」
リリアが言う。
「怖い」
レオンはすぐに答えた。
隠さずに。
「お前が俺を忘れるのも、俺がお前を忘れるのも……怖い」
その正直な声に、リリアの胸が熱くなった。
「私も怖いです。でも……」
彼女はそっと微笑む。
「一緒に怖がるんでしょう?」
レオンは足を止めた。
薄暗い路地。
月明かりが二人を照らしている。
彼はしばらくリリアを見つめ、やがて小さく頷いた。
「ああ」
帰り道、レオンはリリアの手を離さなかった。
旧市街の闇の中。
王宮の陰謀の中。
黒霧の呪いの中。
それでも、その手だけは確かに温かかった。
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