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月影の花嫁は銀狼公爵の運命を拒む  作者: 白石マサル


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第三十話 手放せない想い

 白月塔の最上階には、砕けた魔術陣の光だけが残っていた。

 白銀の線は床のあちこちで途切れ、黒い核には大きな亀裂が走っている。

 夜風が吹き抜けるたび、月白花の花弁が石床を滑った。

 リリアはレオンの手を握ったまま、しばらく動けなかった。

 身体が重い。

 胸の奥が熱く、指先は冷たい。

 月華を使った。

 けれど、これまでとは違う。

 ただ命を削られるだけではなかった。

 何かが巡った。

 レオンの呪いを一方的に引き受けるのではなく、彼の力と自分の力が一瞬だけ繋がり、支え合ったような感覚。

 あれは何だったのだろう。


「リリア」


 低い声。

 顔を上げると、レオンがこちらを見ていた。

 銀色の瞳には、不安がはっきりと浮かんでいる。


「気分は」

「少し、だるいです」

「少しではない顔だ」

「倒れてはいません」

「それを基準にするな」


 怒られた。

 けれど、その声は震えていた。

 リリアは小さく笑おうとして、うまく笑えなかった。


「……怒っていますか?」

「怒っている」

「ですよね」

「怖かった」


 その言葉に、リリアは息を呑んだ。

 レオンはもう隠さなかった。

 怖い時に、怖いと言ってくれるようになった。

 それが嬉しくて、同時に胸が痛かった。

 

「俺の目の前で、お前が術式に飲まれそうになった」


 彼の手が、リリアの指を強く握る。


「呼べと言われたから呼んだ。戻れと言った。それでも、もし戻らなかったらと……」


 言葉が止まる。

 レオンは目を伏せた。


「……心臓が止まるかと思った」


 リリアは何も言えなくなった。

 この人は本当に変わった。

 最初に会った時は、氷みたいな男だった。

 感情を見せず、誰にも頼らず、自分が壊れていくことさえ淡々と受け入れようとしていた。

 その人が今、自分を失うことを恐れている。


「戻りました」


 リリアはそっと言った。


「あなたが呼んでくれたから」


 レオンの瞳が揺れる。


「……何度でも呼ぶ」

「はい」

「だから、何度でも戻れ」

「はい」

「約束だ」

「約束です」


 二人の手が重なる。

 それは契約よりも、王命よりも、ずっと強いものに思えた。


 ◇


 階下から足音が聞こえた。

 第一王子とユリウス、そして護衛たちが駆け上がってくる。


「無事か!」


 第一王子の声が響いた。

 レオンはすぐにリリアを庇う位置へ立つ。

 傷が痛むはずなのに、その動きに迷いはなかった。

 第一王子は崩れた魔術陣と黒い核を見て、顔を険しくした。


「これは……」


 ユリウスが駆け寄り、膝をついて術式を確認する。


「魂縛の儀です。発動しかけた形跡があります」

「止めたのか?」


 第一王子がリリアを見る。

 リリアは頷いた。


「完全に壊せたかは分かりません。でも、発動は止めました」

「どうやって?」


 ユリウスが問う。

 学者としての興奮を抑えきれていない顔だったが、すぐにレオンの冷たい視線を受けて姿勢を正した。


「失礼しました。お身体に障るなら、説明は後ほど」

「いえ」


 リリアは首を振る。


「今、伝えておいた方がいいと思います」


 レオンがすぐに眉を寄せる。


「無理をするな」

「短く話します」

「本当に短く」

「はい」


 リリアは息を整えた。


「術式は、私とレオン様の縁を強制的に深めようとしていました」


 第一王子の顔が険しくなる。


「やはりか」

「でも、強制される縁ではなく、私たち自身の意思で力の流れを変えました」

「意思で?」


 ユリウスが呟く。


「月華の力は、相手の穢れを一方的に引き受けるものだと思っていました。でも、さっきは違ったんです」


 リリアは自分の手を見る。

 まだ淡く銀色の残光がある。


「レオン様の力と、私の月華が、一瞬だけ巡りました。片方が削られるのではなく、互いに支え合うように」


 ユリウスは目を見開いた。


「それが本当なら、月華の代償を軽減できる可能性がある……」


 その言葉に、レオンの表情が変わった。

 リリアも息を呑む。

 代償を軽減する。

 それは探していた答えの一端かもしれない。


「ただし……」


 ユリウスはすぐに続けた。


「条件が非常に特殊です。強制ではなく、双方の意思による深い信頼、あるいは魂の同調が必要になる」

「魂の同調……」


 リリアは顔が熱くなるのを感じた。

 言葉が大げさすぎる。

 けれど否定もできない。

 あの瞬間、確かにレオンの声だけが自分を呼び戻した。

 レオンの手だけが、自分を現実に繋ぎ止めていた。

 第一王子は低く言った。


「セドリックが欲しがるわけだ」


 その言葉で、空気が重くなる。

 セドリックは逃げた。

 そして、最後に言い残した。


 ――彼女を愛するほど、君は彼女を殺すことになる。


 リリアはレオンを見た。

 彼は何も言わない。

 けれど、表情は硬い。

 その言葉が深く刺さっているのだ。


「レオン様」


 呼ぶと、彼は少しだけこちらを見る。


「私は大丈夫です」

「……今はな」

「これからも大丈夫にする方法を探します」

「……」

「だから、あの人の言葉だけを信じないでください」


 レオンは答えなかった。

 その沈黙が、リリアの胸を不安にさせた。


 ◇


 白月塔から出る頃には、夜が深くなっていた。

 王宮の北端は静まり返っている。

 第一王子は塔の封鎖を命じ、ユリウスに術式の記録と黒い核の保全を任せた。


「セドリックが動いた証拠になる」


 第一王子は言った。


「だが、まだ足りない」


 レオンは頷く。


「殿下は必ず言い逃れる」

「そうだ。白月塔にいた証拠も、黒霧の転移で消されているだろう」


 リリアは拳を握った。

 やはり、セドリックは簡単には捕まらない。

 むしろ彼は、今回の失敗すら次の計画に繋げるだろう。


「エヴァレット嬢」


 第一王子がリリアを見る。


「今夜の件は公にはしない」

「はい」

「君の力についても、必要以上に王宮へ漏らさないようにする」

「ありがとうございます」

「だが、気をつけてくれ」


 第一王子の声が重くなる。


「セドリックは君を諦めない」

「分かっています」

「そしておそらく、弟はもう王宮の影だけで動いているわけではない」

「どういう意味ですか」


 ユリウスが答えた。


「近頃、黒霧に汚染された魔石や結晶が、王都の裏市場で流通している痕跡があります」


 レオンの目が鋭くなる。


「王都に黒霧を持ち込んでいるのか」

「可能性があります」


 リリアの背筋が冷えた。

 黒霧が王都に。

 もしそれが広がれば、北方の村だけでは済まない。


「セドリック殿下は、王都で黒霧を使うつもりなんでしょうか」

「最悪の場合は」


 第一王子が言った。


「国全体を揺るがすために」


 沈黙が落ちる。


 白く美しい王宮。

 華やかな王都。


 その下で、黒霧が静かに広がっている。

 リリアは初めて、この王都の美しさが恐ろしく見えた。


 ◇


 公爵邸へ戻ったのは、夜明け前だった。

 馬車の中で、リリアは何度もレオンを見た。

 彼はずっと黙っていた。

 窓の外を見ている。

 いつものように無表情。

 けれど、それが本当の無表情ではないことを、リリアはもう知っている。


 考えている。

 苦しんでいる。


 そしてたぶん、自分を遠ざける理由を探している。


「レオン様」


 呼ぶと、彼はゆっくりこちらを見た。


「何だ?」

「今、悪いことを考えていますね」

「……悪いこととは?」

「私から距離を取ろう、とか」


 レオンは答えなかった。

 それだけで十分だった。

 リリアの胸が痛む。

 やはり。


「セドリック殿下の言葉を気にしているんですね」

「……事実だ」


 レオンの声は低かった。


「俺が近くにいれば、お前の月華は強くなる。それはお前を危険にする。今日、それが証明された」

「違います」


 リリアは即座に言った。


「今日証明されたのは、強制された縁ではなく、私たちの意思なら代償を変えられるかもしれないということです」

「それは可能性だ」

「はい」

「だが危険もある」

「あります」

「なら、俺が離れれば」

「嫌です」


 言葉が鋭く出た。

 レオンが息を呑む。

 リリアは拳を握った。


「離れないでくださいと言いました。白月塔でも言いました。今も同じです」


 声が震える。

 怒りではない。

 怖いのだ。


 彼が自分を守るために、一人で離れていくことが。


「あなたが私を大切に思ってくれるなら、勝手に手放さないでください」


 レオンの瞳が揺れる。


「リリア」

「私は物じゃありません」


 最初に言った言葉。

 この関係が始まった時に。


 道具じゃない。

 物じゃない。


 だから、利用されるのも嫌だった。

 そして今は――

 守るという名目で、勝手に遠ざけられるのも嫌だった。


「あなたが私を守りたいと思うのと同じように、私もあなたのそばにいたいんです。それを勝手に奪わないでください!」


 長い沈黙。

 馬車の車輪の音だけが響く。

 やがて、レオンは苦しそうに目を伏せた。


「……俺は」


 低い声。


「お前を失うのが怖い」

「はい」

「だから、遠ざけた方がいいと思った」

「はい」

「だが……」


 彼はゆっくり手を伸ばした。


 リリアの指先に触れる。


 迷うように。

 恐れるように。


 それでも、触れた。


「離したくない」


 胸が締めつけられる。


「はい」

「手放したくない」

「はい」

「……俺は身勝手だ」


 リリアはその手を握り返した。


「私もです。あなたのそばにいたいので」


 レオンの表情が歪む。

 泣きそうにも、笑いそうにも見えた。


「……そうか」

「はい」

「では、どうすればいい」


 本気で分からない声だった。

 リリアは静かに答えた。


「一緒に怖がりましょう」


 レオンが目を瞬かせる。


「一緒に?」

「はい」

「一人で怖がって、一人で結論を出さないでください。私もそうします。怖いなら、怖いって言います。逃げたくなったら、逃げたいって言います。でも、離れたくないなら――」


 彼の手を強く握る。


「離れたくないって言ってください!」


 レオンはしばらく黙っていた。

 そして、低く、かすれた声で言った。


「離れたくない」


 リリアの目に涙が滲む。


「はい」

「お前を失うのが怖い」

「はい」

「それでも、そばにいてほしい」


 その言葉で、胸がいっぱいになった。

 リリアは微笑んだ。

 泣きそうになりながら。


「はい!」


 ◇


 公爵邸に戻ると、当然のようにグレイとミアが待っていた。

 二人の顔色は悪い。

 特にミアは、今にも泣きそうだった。


「お二人とも……!」

「ただいま、ミア」


 リリアが言うと、ミアは駆け寄りかけて、途中で止まった。

 リリアとレオンが手を繋いでいたからだ。

 リリアもそこで気づいた。

 馬車を降りてから、ずっと繋いだままだった。

 慌てて離そうとする。

 だが、レオンの手が離れない。


「レオン様」


 小声で言う。


「何だ」

「手」

「……ああ」


 彼も気づいたらしい。

 けれど、すぐには離さなかった。

 数秒。

 本当に数秒だけ。

 それから、惜しむように手を離した。

 ミアの目が丸くなっている。

 グレイは静かに微笑んでいた。


「お帰りなさいませ」

「……ああ」


 レオンの耳が少し赤い。

 リリアも顔が熱い。

 グレイは何も言わなかった。

 何も言わないのが、逆に恥ずかしかった。


 ◇


 医師に診察され、強制的に休養を命じられ、リリアは自室へ戻された。

 レオンも同じく休むよう命じられたが、素直に従ったかどうかは怪しい。

 寝台に腰掛けると、疲労が一気に押し寄せた。


 白月塔。

 魂縛の儀。

 セドリックの言葉。

 レオンの告白のような言葉。


 すべてが頭の中で渦巻いている。


「……離れたくない、か」


 呟いて、顔が熱くなる。

 あれは愛の告白ではない。

 たぶん……まだ。

 でも、限りなく近い何かだった。

 そして自分も、同じ気持ちを返した。

 

 そばにいたい。

 離れたくない。


 その先にある言葉を、二人ともまだ口にしていないだけ。


「……今はまだ」


 リリアは胸に手を当てる。


 呪いを解きたい。

 月華の代償を知りたい。

 セドリックを止めたい。


 やるべきことは山ほどある。

 けれど、それでも。

 この想いをなかったことにはできない。

 その時、窓の外で小さな音がした。

 リリアは身構える。


 また月白花かと思った。


 だが違った。

 窓辺にいたのは、一羽の白い小鳥だった。

 足に小さな筒が結ばれている。


「伝書鳥……?」


 そっと窓を開ける。

 小鳥は逃げず、リリアの手元へ筒を差し出すように足を上げた。

 筒を外す。

 中には小さな紙片。

 差出人の名はない。

 けれど、そこに書かれていた文字を見て、リリアは息を呑んだ。


『月華の代償を消す方法は存在する』

『ただし、それは銀狼の呪いを解くことと同じではない』

『真実を知りたければ、王都旧市街の夜啼き薬房へ』


 夜啼き薬房。

 聞いたことのない名だった。


 セドリックの罠か。

 それとも、別の誰かか。


 リリアは紙片を握りしめた。

 

 一人で行かない。

 一人で決めない。

 

 約束した。

 すぐにレオンに知らせなければ。

 そう思って立ち上がった瞬間、扉が叩かれた。


「リリア」


 レオンの声だった。

 驚くほど早い。

 まるで彼も何かを感じ取ったように。

 リリアは紙片を握ったまま扉を開けた。

 レオンは彼女の顔を見て、すぐに表情を変えた。


「何があった」


 リリアは紙片を差し出した。


「これが届きました」


 レオンは読み、目を細める。


「夜啼き薬房……」

「知っていますか?」

「旧市街の闇薬師が集まる場所だと聞いたことがある」

「闇薬師……」

「王宮の記録に載らない薬、禁じられた治療、星印の副作用に関する知識を扱う連中だ」


 危険な場所。


 けれど、月華の代償に関する手がかりがあるかもしれない。

 レオンは紙片を見つめたまま、低く言った。


「罠かもしれない」

「はい」

「だが、セドリックとは別口の可能性もある」

「私もそう思います」


 レオンはリリアを見る。


「行きたいか?」


 リリアは少しだけ黙った。

 そして正直に答えた。


「行きたいです」

「分かった」


 あまりに早い返事に、リリアは目を瞬かせた。


「止めないんですか?」

「止めれば一人で考え込むだろう」

「行きません」

「今は信じる」

「今は?」

「かなり信じる」

「かなり」


 少し笑ってしまった。

 レオンもほんのわずかに口元を緩める。


「明日、調べる」

「はい」

「俺も行く」

「もちろんです」

「そして今夜は寝ろ」

「……はい」

「紙片は預かる」

「隠しません」

「念のためだ」


 リリアは素直に紙片を渡した。

 レオンはそれを受け取り、少しだけ迷ったあと、低く言う。


「リリア」

「はい」

「さっきの話は終わっていない」


 心臓が跳ねる。


「……はい」


「だが、今は休め」


「はい」


「逃げるな」


「逃げません」


 レオンの瞳が少しだけ柔らかくなる。


「俺も逃げない」


 その言葉に、リリアは胸が温かくなった。


「約束です」

「ああ」


 彼は部屋を出ていった。

 扉が閉まる。

 リリアはしばらくその場に立っていた。

 怖いことは増えていく。


 謎も、敵も、危険も。


 けれど、約束も増えている。


 戻る。

 離れない。

 一緒に怖がる。

 逃げない。


 その一つ一つが、リリアの心を支えていた。

 窓の外では、夜明け前の空に月が薄く残っている。

 その光はもう、滅びの象徴には見えなかった。

 二人で運命を変えるための、かすかな道標に見えた。

読んでいただきありがとうございます。

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