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月影の花嫁は銀狼公爵の運命を拒む  作者: 白石マサル


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第二十七話 王都の檻

 王都の城壁が見えたのは、翌日の昼過ぎだった。

 

 高く白い壁。

 尖塔。


 遠くに輝く王宮の屋根。

 かつてリリアにとって王都は、生活の場所だった。


 平民街の診療所。

 古びた屋敷。

 薬草の匂い。

 借金の重さ。


 それが今は、まるで別の場所のように見える。

 美しく、華やかで。

 そして、息苦しい。


「……戻ってきましたね」


 馬車の窓から外を見つめながら、リリアは呟いた。

 向かいのレオンが静かに頷く。


「ああ」


 彼の顔色はまだ完全には戻っていない。

 包帯の下には深い傷が残り、呪いの侵食も薄くはなったが消えていない。

 それでも背筋は伸びていた。

 王都へ戻る以上、弱さを見せるつもりはないのだろう。


「痛みますか」

「少し」


 隠さず答えるようになった。

 リリアはそれだけで少し安心する。


「薬は?」

「飲んだ」

「本当に?」

「グレイが確認した」

「なら信じます」

「俺は信じられていないのか」

「苦い薬に関しては」


 レオンは黙った。

 否定できないらしい。

 リリアは少しだけ笑う。

 けれど、その笑みは長く続かなかった。

 王宮が近づくにつれて、胸の奥が重くなる。


 セドリック。

 白月塔。

 月華の代償を消す方法。


 罠だと分かっている。

 それでも、その言葉は心に刺さったままだった。


「リリア」


 名前を呼ばれる。

 顔を上げると、銀色の瞳がこちらを見ていた。


「一人で考えるな」

「……顔に出ていました?」

「ああ」

「そんなに?」

「かなり」


 リリアは困ったように笑った。


「隠しごとはできませんね」

「しなくていい」


 その声があまりに真っ直ぐで、胸が少し痛くなる。


「俺に言え」

「はい」

「どんなことでも」

「はい」

「俺が怒りそうなことでも」

「……はい」

「今、間があった」

「怒られるのは嫌なので」

「怒る」

「正直ですね」

「お前が無茶をしようとすれば怒る」

「では、怒られないよう相談します」

「そうしろ」


 命令のようで、願いのようだった。

 リリアは小さく頷いた。


 ◇


 公爵邸に戻ると、玄関ホールには使用人たちが並んでいた。

 そして、その先頭にはミアがいた。

 リリアが馬車から降りた瞬間、ミアは涙目で駆け寄ってきた。


「リリア様!」

「ミア」


 抱きつかれる。

 ミアの体温が温かい。


「お帰りなさいませ……! 本当に、本当にご無事で……!」

「心配かけてごめんなさい」

「心配しました!」

「はい」

「ものすごく心配しました!」

「はい」

「もう危ないことはなさらないでください!」

「……努力します」

「リリア様!」


 怒られた。

 完全に怒られた。

 リリアは少し肩をすくめる。

 その横で、レオンが低く言った。


「俺も同意見だ」

「レオン様もです!」


 ミアが涙目のまま振り返った。


「閣下も無茶をなさりすぎです!」


 その場が静まった。

 ミア自身も、言ったあとで青ざめた。

 銀狼公爵に怒鳴ってしまったと気づいたのだろう。

 けれどレオンは怒らなかった。

 むしろ少しだけ目を伏せた。


「……悪かった」


 ミアが目を丸くする。

 使用人たちも驚いた顔をした。


 レオンが謝った。


 それだけで、公爵邸の空気が変わる。

 リリアは小さく笑った。

 この屋敷も、少しずつ変わっている。

 レオンが変わることで。

 周囲もまた、彼に近づいている。


 ◇


 その日の夕方。

 レオンは強制的に休養を命じられた。

 命じたのはリリアとグレイと医師である。

 本人は王宮への報告書を書くと言い張ったが、満場一致で却下された。


「俺は公爵だ」

「患者です」


 リリアが言う。


「報告書は」

「グレイ様が下書きします」

「確認は」

「寝台でできます」

「執務室で」

「駄目です」

「……」


 レオンは不服そうだった。

 だが反論できない。

 なぜなら医師が真顔で言ったからだ。


「これ以上無理をなさるなら、リリア様にも安静を命じます」


 レオンは即座に黙った。

 リリアは思わず医師を見た。


「なぜ私を人質に?」

「閣下には一番効きますので」


 医師は涼しい顔だった。

 グレイも静かに頷いている。

 レオンは目を逸らした。

 否定しない。

 リリアの顔が熱くなる。


「……皆さん、最近少し遠慮がなくなっていませんか」

「よい傾向です」


 グレイが言った。

 本気で言っている。

 公爵邸の人々は、確実にたくましくなっていた。


 ◇


 夜。

 リリアは自室で資料を広げていた。

 北方から持ち帰った記録。


 霧狼の核の報告。

 黒霧を吸い込んだ村人の症状。

 月華による反応。


 まだ断片的だが、いくつか分かってきたことがある。

 黒霧は単なる毒ではない。

 人の身体だけでなく、星印にも干渉する。

 そして、レオンの呪いは霧狼の核と強く共鳴した。

 つまり、彼の呪いは霧狼、あるいはその背後にある何かと繋がっている。


「……セドリック殿下は、どこまで知っているの」


 白月塔。

 代償を消す方法。

 月華の完成。

 彼の目的は、黒霧の支配。


 なら、リリアとレオンの関係すら計画に利用されているのかもしれない。


 愛するほど力を増す。

 愛するほど命を削る。


 その言葉を思い出すたび、胸が締めつけられる。


「……愛、なんて」


 小さく呟いて、頬が熱くなる。

 まだ言葉にできない。

 けれど、もう否定もできない。

 レオンが傷つくと苦しい。


 彼が笑うと嬉しい。

 彼に触れられると胸が騒ぐ。

 彼と離れるのが怖い。


 それを恋と呼ぶのなら。

 自分はもう、かなり深く落ちている。


「……危険すぎるわね」


 月華にとって。

 リリア自身にとって。

 その時、扉が叩かれた。


「リリア」


 レオンの声。

 驚いて立ち上がる。


「どうぞ」


 入ってきたレオンは、黒い寝間着に上着を羽織っていた。

 顔色は少し悪い。

 だが歩けないほどではない。


「寝ていなくていいんですか」

「確認に来た」

「何をですか?」

「お前が無理をしていないか」


 リリアは机の上の資料をそっと隠した。

 レオンの目が細くなる。


「何を隠した」

「……何も」

「嘘が下手だ」


 言われてしまった。

 彼は近づき、机の資料を見る。

 怒られる。

 そう思った。

 けれど、レオンはすぐには何も言わなかった。

 しばらく資料を見つめてから、静かに息を吐く。


「休めと言いたい」

「はい」

「だが、俺も同じことをしていた」

「でしょうね」

「だから怒りにくい」

「成長しましたね」

「子供扱いするな」


 いつものやり取り。

 けれど、空気は少し柔らかい。

 レオンは椅子を引き、リリアの向かいに座った。


「一緒に見る」

「いいんですか?」

「一人で抱え込むなと言った」

「はい」

「俺も抱え込まないと約束した」

「はい」

「なら、こうするべきだろう」


 胸が温かくなった。

 不器用だけれど、ちゃんと歩み寄ろうとしてくれている。


「ありがとうございます」


 レオンは少しだけ目を逸らした。


「礼を言われることではない」

「それでもです」


 二人は資料を挟んで向かい合った。


 深夜の部屋。

 灯りの揺れる机。

 外は静かだ。


 リリアが霧狼の核について説明すると、レオンは真剣に聞いた。

 時折、北方での経験を補足する。


 黒霧の濃度。

 魔物化の進行。

 三年前のベルン村との類似。

 話せば話すほど、嫌な結論が浮かび上がってくる。


「今回の黒霧拡大は自然発生ではないかもしれません」


 リリアが言う。

 レオンも頷く。


「霧狼が再出現した時点で、偶然とは考えにくい」

「誰かが誘導した?」

「あるいは、育てた」


 その言葉に、背筋が冷えた。

 黒霧の魔物を育てる。

 そんなことが可能なら。


「セドリック殿下の目的は、黒霧を兵器にすることかもしれません」


 リリアが呟く。

 レオンの目が冷える。


「王位を取るための力か」

「でも、本人は王位など椅子だと言いそうです」

「……言いそうだな」


 二人は同時に黙った。

 セドリックの底が見えない。

 王位だけならまだ分かりやすい。

 だが、彼はもっと大きなものを見ている。

 国そのものを作り替える力。

 そう言っていた。


「白月塔に行く必要がありますね」


 リリアが言うと、レオンの表情が険しくなる。


「罠だ」

「分かっています」

「それでもか」

「はい」


 レオンは反対しようとして、言葉を飲み込んだ。

 以前なら、駄目だと即答したはずだ。

 でも今は違う。

 彼はリリアを守ろうとしながら、彼女の意思も尊重しようとしている。

 苦しいほど不器用に。


「一人では行かせない」

「もちろんです」

「王宮内でこちらの味方を探す」

「誰かいますか?」

「第一王子派の文官に数名」

「信用できますか?」

「セドリックよりは」

「微妙ですね」

「微妙だ」


 少しだけ笑ってしまう。

 こんな危険な話をしているのに、彼となら少し呼吸が楽になる。


 ◇


 話が一段落した頃、時計は深夜を回っていた。

 リリアはふと、レオンの顔色が悪くなっていることに気づいた。


「レオン様、休んでください」

「まだ」

「休んでください」

「だが」

「患者には横暴です」

「……それを言えば通ると思っているだろう」

「通りますか?」


 レオンは数秒黙った。


「通る」


 素直だった。

 リリアは笑いそうになった。


「では、お部屋へ」

「お前も休むなら」

「休みます」

「本当だな」

「本当です」

「資料を隠れて読まないな」

「読みません」

「……怪しい」

「信用がない」

「実績がある」


 まただ。

 リリアは肩をすくめる。

 レオンが立ち上がろうとして、少しふらついた。


「!」


 リリアは咄嗟に支える。

 近い。

 彼の体温。

 薬草と血と、少しだけ冷たい夜の匂い。


「大丈夫ですか」

「……悪くない」

「それは大丈夫ではない時の言い方です」

「覚えられたな」

「覚えますよ」


 リリアは彼を椅子へ戻そうとした。

 けれどレオンは、そのまま動かなかった。

 リリアの手を軽く掴んでいる。

 強くはない。

 でも、離さない。


「レオン様?」


 彼は少し俯いていた。

 銀色の髪が頬にかかる。


「……北方で」


 低い声。


「お前が俺を呼んだ時」


 リリアは息を止めた。


「あの時、俺は戻りたいと思った」

「はい」

「死にたくないとも思った」

「はい」

「それだけではない」


 彼が顔を上げる。

 銀色の瞳が揺れている。


「お前のところへ戻りたいと思った」


 胸が大きく鳴った。

 言葉が出ない。

 レオンは続けた。


「俺は、お前が他の誰かの手を取るのが嫌だ」

「お前が傷つくのも嫌だ」

「お前が俺のために命を削るのは、もっと嫌だ」

「だが」


 声が掠れる。


「お前が俺から離れるのも、嫌だ」


 リリアの喉が詰まった。

 これは。

 これはきっと、あの屋上で途切れた話の続きだ。

 けれど、今ここで聞いていいのだろうか。

 

 王宮の陰謀も。

 呪いも。

 月華の代償も。


 何も解決していないのに。

 レオンは苦しそうに笑った。


「身勝手だな」

「……はい」


 リリアは小さく答えた。

 レオンの瞳がわずかに揺れる。

 だから、すぐに続けた。


「でも、私も身勝手です」

「あなたを助けたい」

「でも、私も生きたい」

「あなたに無茶をしてほしくない」

「でも、私の意思も止められたくない」

「それから」


 声が小さくなる。

 顔が熱い。

 でも、逃げたくなかった。


「あなたが、私を見てくれると……嬉しいです」


 レオンの手に力がこもった。

 痛くはない。

 ただ、確かめるみたいに。


「リリア」


 名前を呼ぶ声が、あまりに優しかった。

 その時だった。

 窓の外で、白い影が揺れた。

 二人は同時に振り向く。

 月白花の花弁。


 一枚。

 二枚。


 夜風もないのに、窓の外を舞っている。

 レオンの表情が一瞬で変わった。


「下がれ」


 彼はリリアを背後へ庇う。

 窓の外。

 闇の中に、金色の光が見えた。

 人影はない。

 けれど、声が聞こえた。

 まるですぐ近くで囁かれたように。


「白月塔で待っているよ」


 セドリックの声。

 リリアの背筋が冷える。

 レオンが窓を開け放つ。

 外には誰もいない。

 ただ、月白花の花弁だけが床へ落ちた。

 その中央に、小さな黒い紋様が浮かんでいる。

 魔術の印。

 レオンが舌打ちした。


「監視されていた」


 リリアは胸元を押さえる。

 

 今の会話も?

 どこから?

 いつから?


「……白月塔へ誘導するつもりですね」

「ああ」


 レオンは花弁を剣先で払い落とした。


「行かせたくない」

「でも、放っておけば向こうから仕掛けてきます」

「分かっている」


 彼は振り返った。

 銀色の瞳がまっすぐリリアを捉える。

 さっきまでの柔らかさは消えていない。

 けれど、その奥に鋭い決意が宿っていた。


「明日、王宮へ行く」

「はい」

「白月塔の情報を探る」

「はい」

「だが、絶対に単独では動くな」

「約束します」


 リリアは頷いた。

 

 本当に。

 今度こそ。


 レオンはしばらく彼女を見つめていた。

 それから、低く言った。


「……話の続きは、また奪われたな」


 思いがけない言葉に、リリアの顔が熱くなる。


「覚えていたんですか」

「忘れるわけがない」


 心臓が跳ねた。

 レオンは少しだけ目を逸らす。


「俺が忘れても、お前が話すと言っただろう」


 胸がいっぱいになる。


 怖い。

 不安だ。

 王宮も、セドリックも、白月塔も。


 それでも、この人となら進める。

 リリアは静かに頷いた。


「はい。何度でも話します」


 レオンはほんの少しだけ笑った。


「なら、必ず戻る」

「二人で、です」

「ああ」


 月白花の花弁が床で黒く変色していく。

 王都はすでに、見えない檻になっていた。

 けれど二人は、その中で互いの手を離さなかった。


 明日。


 白月塔へ繋がる道が開く。

 それが罠だとしても。

 運命を変えるために、二人は進むしかなかった。

読んでいただきありがとうございます。

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