第二十六話 王都への道
翌朝、北方砦はまだ薄い霧に包まれていた。
黒霧ではない。
ただの朝霧。
それなのに、リリアは一瞬だけ身構えてしまった。
身体が覚えている。
あの冷たさを。
肌に絡みつく嫌な感触を。
命を吸い上げられるような痛みを。
「……大丈夫」
小さく呟く。
自分に言い聞かせるように。
外套の前を留め直し、荷物を確認する。
薬箱。
月華に関する記録。
ミルカ村の避難民の治療記録。
霧狼の核についての簡易報告。
そして、レオンから渡された小さな護身用の短剣。
「使う機会がないことを祈ります」
そう言うと、レオンは真顔で答えた。
「祈るだけでは足りない」
「現実的ですね」
「現実的でなければ守れない」
言い返せなかった。
彼はいつもそうだ。
優しさを言葉で飾らない。
ただ、必要なものを差し出す。
不器用に。
まっすぐに。
「……ありがとうございます」
リリアが短剣を胸元にしまうと、レオンはわずかに目を細めた。
「俺のそばを離れるな」
「はい」
「王都に着いてもだ」
「はい」
「王宮では特にだ」
「分かっています」
「セドリック殿下と二人きりになるな」
「三回目です」
「十回言っても足りない」
「過保護です」
「そうだ」
もう否定しない。
その堂々とした返事に、リリアは思わず笑ってしまった。
◇
砦の中庭には、出立を見送る人々が集まっていた。
騎士たち。
兵士たち。
救出された村人たち。
負傷者の中には、まだ立つのも辛そうな者もいる。
それでも、彼らはレオンとリリアを見送るために外へ出てきていた。
「公爵様!」
幼い声が響く。
ミルカ村から救出された少年だった。
母親に支えられながら、懸命に手を振っている。
「ありがとう!」
その言葉に、レオンは足を止めた。
ほんの一瞬。
彼は何も言わない。
ただ静かに頷いた。
それだけで、少年は嬉しそうに笑った。
リリアはその横顔を見上げる。
レオンの表情はいつも通りだった。
けれど、銀色の瞳の奥に微かな温かさがあった。
「嬉しいなら、少し笑えばいいのに」
小声で言う。
レオンがこちらを見る。
「笑っていないか」
「全然」
「……難しいな」
真面目に悩んでいる。
リリアはつい笑ってしまった。
「練習します?」
「何をだ」
「笑顔」
「必要か?」
「民に安心されます」
レオンは少し考え込んだ。
本気で検討しているらしい。
その様子を見て、近くにいたオーウェンが咳払いした。
笑いを堪えている。
「オーウェン」
レオンの声が低くなる。
「何も申しておりません」
「顔が言っている」
「閣下も最近、顔に出るようになられました」
オーウェンがさらりと言った。
中庭が一瞬静まる。
レオンが無言で彼を見る。
オーウェンは姿勢を正したまま、視線だけを逸らした。
リリアは堪えきれずに笑った。
砦の空気が、ほんの少しだけ明るくなる。
この笑いが続けばいい。
そう思った。
けれど王都へ戻れば、また別の戦いが始まる。
◇
馬車が砦を出る。
北方の風が、背後から吹いた。
リリアは窓から振り返る。
石造りの砦。
銀狼の紋章。
見送る人々。
そして遠くに残る黒霧の影。
完全には消えていない。
霧狼を倒しても、黒霧そのものはまだ残っている。
「また戻ってくることになりますね」
リリアが呟く。
向かいのレオンが頷く。
「ああ」
「王都で、解決の手がかりを見つけましょう」
「無理をしない範囲でな」
「分かっています」
「その返事は信用できない」
「ひどいです」
「実績がある」
何も言い返せない。
リリアは悔しくて窓の外へ視線を向けた。
すると、レオンが静かに言った。
「だが」
「?」
「お前がいてくれてよかった」
胸が跳ねた。
不意打ちだった。
「……急に何ですか」
「言うべきだと思った」
「何を」
「礼を」
レオンはまっすぐこちらを見ていた。
「ミルカ村の者たちを救えたのは、お前のおかげだ」
「そんな」
「俺も戻れた」
息が止まる。
低く静かな声。
「お前が呼んだから」
リリアは視線を落とした。
顔が熱い。
「……私だけではありません」
「そうだな」
「レオン様が戦ってくれたからです」
「ああ」
「騎士の皆さんも」
「ああ」
「だから、一人で背負わないでくださいね」
レオンは少しだけ目を伏せた。
「努力する」
「断言してください」
「……断言する」
何度目かのやり取り。
けれど、以前よりも自然だった。
◇
昼過ぎ。
一行は街道沿いの小さな村で休憩を取った。
村人たちは銀狼公爵の来訪に驚きながらも、温かいスープとパンを用意してくれた。
リリアは湯気の立つ器を両手で包む。
「温かい……」
北方の寒さで冷えた指先に、じんわり熱が戻る。
レオンは隣で無言でスープを飲んでいた。
顔色はまだ良くない。
「傷は痛みませんか」
「少し」
正直に答えた。
リリアは目を瞬かせる。
「今、隠しませんでしたね」
「約束した」
「偉いです」
「子供扱いするな」
「では患者扱いです」
「それも嫌だ」
「でも患者です」
レオンは黙った。
村の老婆が二人のやり取りを見て、にこにこと笑っている。
「公爵様にも、ようやく良い方ができたんですねえ」
リリアはむせた。
「なっ……」
レオンも器を持ったまま固まっている。
老婆は悪気なく続けた。
「昔から怖いお顔ばかりなさってましたけど、今日は少し柔らかいですもの」
「……そう見えるか」
レオンが真面目に尋ねた。
そこを聞くのか。
リリアは顔を覆いたくなった。
老婆は嬉しそうに頷く。
「ええ。お嬢さんのおかげでしょうね」
「そうか」
レオンは短く答える。
だが、その耳がわずかに赤い。
リリアは見なかったふりをした。
できていなかったかもしれない。
◇
休憩を終え、再び馬車へ戻る前。
リリアは村の井戸端で手を洗っていた。
冷たい水が指先を刺す。
その時、背後に気配を感じた。
振り返る。
知らない男が立っていた。
旅人風の外套。
帽子を深く被っている。
顔はよく見えない。
けれど、胸の奥がざわついた。
「リリア・エヴァレット様ですね」
男が言った。
リリアは一歩下がる。
「どちら様ですか?」
男は答えず、小さな封筒を差し出した。
「ある方から」
「受け取れません」
レオンとの約束。
怪しい物には触らない。
リリアは手を出さなかった。
男は笑った。
「賢明ですね」
その声に、嫌な冷たさがあった。
「では、言葉だけお伝えします」
リリアは息を止める。
男は低く告げた。
「月華の代償を消す方法を知りたければ、王都に戻った後、白月塔へ」
白月塔。
王宮の古い塔。
今は使われていないと聞いたことがある。
「誰からの伝言ですか」
男は帽子の下で笑った。
「あなたを救いたい方からです」
嘘だ。
直感でそう思った。
これは救いではない。
罠だ。
けれど、言葉の中身は無視できなかった。
月華の代償を消す方法。
喉が乾く。
その一瞬の迷いを、男は見逃さなかった。
「銀狼公爵を救いたいのでしょう?」
心臓が跳ねる。
「あなたも生きたいのでしょう?」
リリアは手を握った。
「……あなたは誰ですか」
男は答えない。
代わりに一歩、近づく。
その瞬間――
銀の光が走った。
レオンの剣が、男の喉元に突きつけられていた。
「それ以上近づくな」
低い声。
冷たい殺気。
男は動きを止めた。
「銀狼公爵」
「名を名乗れ」
「ただの使いです」
「ならば主を言え」
「言えば殺されます」
「言わなくても殺されたいか」
レオンの声は静かだった。
本気だ。
リリアは思わず彼の袖を掴む。
「レオン様」
彼は一瞬だけこちらを見る。
その隙をつくように、男の足元から黒い煙が広がった。
「!」
レオンが剣を振るう。
だが男の姿は煙の中へ溶けるように消えていった。
最後に、声だけが残る。
「白月塔でお待ちしています」
黒い煙が消える。
井戸端には、何も残っていなかった。
ただ、小さな白い花弁が一枚、地面に落ちている。
月白花。
リリアの背筋が冷えた。
「セドリック殿下……?」
レオンは剣を収めず、しばらく周囲を警戒していた。
やがて低く言う。
「おそらくな」
「白月塔とは?」
「王宮の旧観測塔だ。今は封鎖されている」
「そこに、月華の資料が?」
「あるかもしれない」
レオンは苦い顔をした。
「だが、罠だ」
「分かっています」
「分かっていても行きたいと思っている顔だ」
リリアは黙った。
図星だった。
「リリア」
「……すみません」
「謝るな」
レオンは深く息を吐いた。
怒っているというより、苦しそうだった。
「気持ちは分かる」
意外な言葉だった。
「俺を救う方法があるかもしれないと言われれば、お前は揺れる」
「……はい」
「だが、あいつはそれを分かって仕掛けている」
「はい」
「だから一人で行くな」
「行きません」
リリアは即答した。
「本当に?」
「本当です」
「約束できるか?」
「できます」
今度は迷わなかった。
一人で行けば、きっと取り返しがつかない。
それに。
もう一人で決めないと約束した。
「レオン様と一緒に考えます」
レオンの瞳が少しだけ和らぐ。
「ならいい」
◇
夕暮れ前。
一行は再び王都への道を進み始めた。
馬車の中で、リリアは白月塔の名を何度も心の中で繰り返していた。
月華の代償を消す方法。
本当にあるのか。
それとも、ただの餌なのか。
セドリックなら後者だろう。
けれど、完全な嘘とは限らない。
彼は真実を少しだけ混ぜる。
そうして人を誘い込む。
「考えすぎるな」
レオンが言った。
「顔に出ていました?」
「ああ」
「……すみません」
「謝るなと言った」
「はい」
馬車の揺れが続く。
窓の外では、北方の景色が少しずつ遠ざかっていく。
リリアは膝の上で手を握った。
「私、揺れました」
正直に言った。
「月華の代償を消せるかもしれないと言われて」
「ああ」
「あなたを救えるかもしれないと思って」
「ああ」
「でも、それだけじゃありません」
レオンがこちらを見る。
「私も、生きたいと思いました」
言葉にすると、胸が震えた。
今まで誰かを助けることばかり考えてきた。
自分のことは後回しで。
でも今は違う。
レオンを救いたい。
でも、自分も彼の隣にいたい。
生きて、その続きを見たい。
王都から戻ったらするはずの、あの話の続きを。
「だから、危ない橋は一人で渡りません」
リリアは彼を見た。
「あなたと一緒に行きます」
レオンは長い間、何も言わなかった。
ただ静かにリリアを見つめていた。
やがて、低く答える。
「……それを聞けてよかった」
声が少しだけ掠れていた。
「お前が自分の命を軽く見なくなったなら」
一拍。
「俺は少し安心できる」
リリアは小さく笑った。
「少しだけですか」
「お前だからな」
「信用がないですね」
「実績がある」
またそれだ。
でも今回は、怒る気にはなれなかった。
◇
夜。
宿場町へ着いた頃、王都はもう近かった。
明日の昼には到着するという。
リリアは部屋で薬草茶を淹れていた。
ミアが持たせてくれたものだ。
香りが優しい。
少し懐かしい。
扉が叩かれる。
「リリア」
レオンの声。
「どうぞ」
入ってきた彼は、上着を脱いだ軽装だった。
包帯が少し見える。
リリアはすぐに眉を寄せた。
「傷を見せてください」
「茶を飲みに来ただけだ」
「傷を見せてからです」
レオンは黙った。
そして諦めたように椅子へ座る。
「最近、俺はお前に勝てないな」
「患者には横暴ですから」
「そればかりだ」
リリアは包帯を確認した。
血は滲んでいない。
熱も強くない。
少し安心する。
「大丈夫そうですね」
「だから言った」
「信用はしていません」
「お互い様だ」
二人は顔を見合わせ、少し笑った。
そのあと、リリアは薬草茶を淹れて差し出す。
レオンは一口飲み、少しだけ目を細めた。
「苦くない」
「眠るためのお茶ですから」
「薬は全部苦いと思っていた」
「子供ですか」
「昔からそう思っていた」
「昔のレオン様も、苦い薬を嫌がっていたんでしょうね」
何気なく言うと、レオンが少し黙った。
「あまり覚えていない」
その声に、リリアは胸が痛くなる。
呪いが奪ったもの。
笑い方。
嬉しいという感覚。
昔の記憶の温度。
「これから増やしましょう」
リリアは言った。
「何を」
「覚えていることを」
レオンがこちらを見る。
「苦くない薬草茶とか」
「雨の日の庭とか」
「北方の月とか」
「王都から戻った後の話の続きとか」
最後は少し声が小さくなった。
レオンの瞳が揺れる。
「……覚えていられるだろうか」
低い声。
弱さが滲んでいた。
リリアは静かに答える。
「私も覚えています」
「あなたが忘れそうになったら、何度でも話します」
「思い出せるまで」
長い沈黙。
レオンはカップを置き、そっとリリアの手に触れた。
今度は、迷わない手だった。
「リリア」
「はい」
「俺は、王都で何があってもお前を守る」
「はい」
「だが、お前も俺を守ろうとするだろう」
「はい」
「だから」
彼は指先に少しだけ力を込めた。
「二人で戻る」
胸が熱くなる。
「はい」
「必ず」
「約束です」
「ああ」
窓の外では、雲の隙間から月が覗いていた。
王都は近い。
罠も、陰謀も、セドリックも待っている。
それでもリリアは、もう一人ではなかった。
銀狼公爵もまた、一人ではなかった。
二人の道は危うく、痛みに満ちている。
けれど、確かに同じ方向へ伸びていた。
月明かりの下で交わした約束を胸に。
翌朝、二人は王都へ帰る。
新たな戦いの始まりへ。
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