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月影の花嫁は銀狼公爵の運命を拒む  作者: 白石マサル


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第二十五話 帰還命令

 北方砦に朝が来た。

 灰を含んだ薄い雲の隙間から、弱い陽光が差し込んでいる。

 窓の外では、兵士たちが慌ただしく動いていた。


 救出された村人たちの手当て

 黒霧の残滓の調査

 ミルカ村周辺の封鎖


 霧狼が消えたとはいえ、すべてが終わったわけではない。

 むしろ、これから始まることの方が多かった。

 リリアは医療室の寝台で上体を起こし、窓の外を見つめていた。

 身体はまだ重い。

 胸の奥が空っぽになったような感覚も残っている。

 けれど、昨夜よりはましだった。


「……動けそう」


 小さく呟いた瞬間。

 隣の寝台から低い声がした。


「動くな」


 リリアはぎくりと肩を揺らした。

 見ると、レオンが目を開けていた。

 包帯を巻かれた上半身に黒い上着を羽織り、寝台の上で半身を起こしている。

 顔色は悪い。

 だが、瞳はいつも通り鋭かった。


「おはようございます」

「起き抜けに逃げようとするな」

「逃げようとはしていません」

「動こうとしていた」

「少しだけです」

「却下だ」

「まだ何も申請していません」

「顔が申請していた」


 リリアは唇を尖らせた。

 最近、ますますこちらの考えを読まれる。

 腹立たしい。

 けれど少し嬉しい。

 自分でも面倒な感情だと思う。


「レオン様こそ、起き上がっていいんですか」

「問題ない」

「その台詞は禁止です」

「……悪くない」

「よろしい」


 レオンは少し不満そうに眉を寄せた。


「子供扱いするな」

「薬を嫌がる方に言われましても」

「……苦いものは苦い」

「今日の薬はもっと苦くしてもらいます」

「なぜだ」

「昨日の罰です」

「お前も罰を受けるべきだ」

「私はもう倒れました」

「罰になっていない」


 そんなやり取りをしていると、医療室の扉が控えめに叩かれた。

 入ってきたのはオーウェンだった。

 彼は一礼したあと、どこか複雑な顔で二人を見る。


「お身体の具合は」

「悪くない」


 レオンが答える。

 リリアはじっと彼を見る。

 レオンは少しだけ黙り、言い直した。


「……医師の指示には従っている」

「よろしいです」


 オーウェンが驚いた顔をした。

 銀狼公爵が、令嬢に言い直させられている。

 その光景は、北方騎士にはかなり衝撃的だったらしい。


「それで」


 レオンが問う。


「報告か」


 オーウェンの表情が引き締まる。

 

「はい。ミルカ村の生存者は八十一名。重傷者は十二名ですが、全員命は取り留めました」


 リリアはほっと息を吐いた。

 

「魔物化した方たちは?」

「拘束し、隔離しています。ですが……」


 オーウェンが言葉を濁す。


「意識は戻っていません。身体の変異も残っています」

「そうですか……」


 完全には戻らない。

 でも、生きている。

 それならまだ、できることがあるかもしれない。

 リリアが考え込んだ瞬間、レオンが低く言った。


「今は考えるな」

「……はい」


 読まれている。

 オーウェンは続けた。


「それと、霧狼の残骸ですが、核と思われる黒霧結晶の破片を回収しました」


 レオンの目が鋭くなる。


「保管は」

「封印済みです。三重封印の上、地下の保管庫へ」

「誰も近づけるな」

「承知しております」


 リリアは眉を寄せた。


「霧狼にも核があったんですね」

「ああ」


 レオンが答える。


「大型の黒霧魔物は核を持つことが多い」

「その核から、呪いの手がかりが分かるかもしれません」

「駄目だ」


 即答だった。


「まだ何も言ってません」

「調べたい顔をしていた」

「……そんなに分かりやすいですか」

「分かりやすい」


 悔しい。

 しかし反論できない。


「調査は専門部隊に任せる」


 レオンはきっぱり言った。


「お前は休め」

「はい」


 素直に頷くと、レオンが少し驚いた顔をした。


「何ですか」

「いや」

「私だって学習します」

「そうか」

「ただし、結果は見せてください」

「……」

「何ですか」

「そう来ると思った」


 今度はリリアが黙った。

 やはり読まれている。


 ◇


 オーウェンの報告が終わりかけた時、廊下が騒がしくなった。


 足音

 低い声

 兵士たちの緊張した気配


 オーウェンが扉の方を見る。

 すぐに、若い兵士が入ってきた。


「閣下、王宮より使者が到着しました」


 医療室の空気が変わった。

 レオンの顔から、わずかに柔らかさが消える。


「この砦まで?」

「はい。王家の紋章入りの親書を携えております」


 リリアの胸がざわついた。

 早すぎる。

 ミルカ村の件が落ち着いたばかりなのに。


 王宮――


 つまり、セドリック。


「通せ」


 レオンが言う。


「ですが、閣下のお身体が」

「ここで聞く」


 兵士は一瞬ためらい、頭を下げて退出した。

 

 数分後。

 医療室へ現れたのは、王宮騎士の制服を着た男だった。

 無表情。

 礼儀正しい。

 だが、北方の兵士たちとは空気が違う。

 硬く、冷たい。


「銀狼公爵閣下」


 男は深く礼を取った。


「王宮より親書をお届けに参りました」


 レオンは寝台に座ったまま、無言で手を伸ばす。

 男は封書を差し出した。


 赤い封蝋。

 王家の紋章。


 見ただけで嫌な予感がする。

 レオンが封を切る。

 読み進めるほど、その表情が冷えていった。


「……何と?」


 リリアが尋ねる。

 レオンは答えない。

 代わりに、封書をリリアへ渡した。

 そこには、簡潔な言葉が並んでいた。


 黒霧対策会議のため

 銀狼公爵レオン・ヴァルハルト

 および婚約者リリア・エヴァレット

 速やかに王都へ帰還せよ。


 王命――


 リリアは唇を噛んだ。


「……今ですか」

「そうだ」


 レオンの声は冷たい。

 使者は淡々と告げる。


「王宮では、今回の黒霧拡大を重く見ております。月華の力についても正式な報告が必要とのことです」


 月華――


 その言葉が出た瞬間、レオンの殺気が鋭くなった。

 使者の顔色が少し変わる。

 だが退かない。


「第二王子殿下も、リリア様のお身体を大変案じておられます」

「案じている?」


 レオンの声が低くなった。


「それで、消耗したばかりの者を王都へ呼び戻すのか」


 使者は一拍置いた。


「私は命を伝えるのみです」

「そうか」


 レオンは親書を握りしめた。

 紙が軋む。


「返答は後ほど」

「急ぎとのことです」

「返答は後ほどだ」


 二度目の声は、反論を許さなかった。

 使者は頭を下げ、退出した。


 ◇


 医療室に重い沈黙が落ちた。

 リリアは親書を見つめた。

 王都へ帰還。

 セドリックは待っている。


 月華を

 自分を


 そして、レオンの心を揺さぶる何かを。


「行かなくてはならないんですね」


 リリアが言うと、レオンは静かに答えた。


「王命だ」

「拒否は?」

「できないわけではない」

「できるんですか?」

「北方の非常時を理由に引き延ばすことはできる」


 少しだけ安心しかけた。

 だが、レオンの表情は暗い。


「だが、その場合、王宮は別の手を打つ」

「別の手?」

「月華の保護という名目で、お前を王宮へ召し上げようとするかもしれない」


 リリアの背筋が冷えた。


 保護。


 耳当たりの良い言葉。

 けれど実際は隔離だ。

 利用だ。


「私は行きません」

「分かっている」

「レオン様から離れません」


 言ってから、少しだけ顔が熱くなった。

 でも今回は訂正しなかった。

 レオンも目を逸らさなかった。

 静かに、まっすぐリリアを見る。


「俺も離す気はない」


 胸が大きく鳴った。

 その言葉は、ただの護衛としてのものなのか。

 婚約者としてのものなのか。


 それとも――


 考えかけて、やめた。

 今はそれどころではない。


「王都へ戻るなら、準備が必要です」


 リリアは言った。


「月華の資料、霧狼の核の調査結果、魔物化した方たちの記録」

「お前は休む」

「休みながら指示します」

「リリア」

「王宮で何を聞かれても答えられるようにしておきたいんです」


 レオンは眉を寄せる。

 反対したいのが分かる。

 でも、今回は完全には止めなかった。


「……無理はするな」

「はい」

「少しでも不調を感じたら言え」

「はい」

「隠すな」

「はい」

「月華は使うな」

「はい」


 素直に返事をすると、レオンが少し怪しむような顔をした。


「本当だな」

「本当です」

「本当に?」

「どれだけ信用がないんですか」

「昨日の今日だ」

「……はい」


 反論できなかった。


 ◇


 その日の午後。


 リリアは医療室の寝台に座ったまま、避難民の記録を整理していた。

 もちろん、レオン監視のもとで。


「一時間だけと言った」

「まだ五十分です」

「顔色が悪い」

「元からです」

「そういう言い訳は通じない」

「あと十枚だけ」

「三枚だ」

「五枚」

「三枚」

「四枚」

「……四枚」


 交渉成立。

 リリアは小さく勝ち誇った。

 レオンは呆れた顔をしている。

 しかし、こうしている間にも、周囲の人々はどこか安心したように二人を見ていた。

 銀狼公爵が、婚約者に押されている。

 恐れられていた公爵が、誰かの体調を細かく気にしている。

 その変化は、砦の空気を少しずつ変えていた。

 記録によると、魔物化した村人のうち三名に、月華の光へ反応した形跡があった。

 完全な治癒ではない。

 だが、黒霧の侵食がわずかに薄れている。


「やはり、戻せる可能性があります」


 リリアが言うと、レオンは苦い顔をした。


「そのために月華を使うつもりか」

「今すぐではありません」

「将来的には?」

「……方法を探します」

「命を削らずに?」

「はい」

「ならいい」


 少し意外だった。

 もっと強く反対されると思った。

 リリアが顔を上げると、レオンは静かに言った。


「お前が救いたいと思うことを、否定したくはない」


 胸が温かくなる。


「ただし」

「はい」

「お前自身を犠牲にするなら、全力で止める」

「分かっています」

「本当に?」

「本当です」

「信用は」

「昨日の今日ですものね」


 レオンが少しだけ口元を緩めた。

 ほんの少し。

 けれど確かに笑った。

 その笑顔を見るだけで、胸の奥がやわらかくなる。

 リリアは視線を落とした。

 今はまだ、この感情に名前をつけるのが怖い。

 けれど、もう気づかないふりはできなくなっていた。


 ◇


 夕暮れ。


 砦の屋上に、レオンとリリアは並んで立っていた。

 本当はリリアの外出は禁止だった。

 だが、王都へ戻る前に北方の空を見たいと言うと、レオンは渋々許した。

 もちろん、厚い外套と短時間という条件付きで。


 眼下には砦町。

 遠くにはミルカ村の方角。


 黒霧はまだ完全には消えていない。

 薄い影のように、地平線に残っている。


「王都へ戻れば、セドリック殿下が動きますね」

「ああ」

「私を利用しようとする」

「させない」


 即答だった。


「王宮では、北方ほど自由には動けない」

「分かっています」

「殿下は言葉が上手い」

「それも分かっています」

「そして、お前は人を助ける話に弱い」


 リリアは黙った。

 その通りだった。

 セドリックが『魔物化した人々を救う方法がある』と言えば、きっと心は揺れる。


「……弱いです」


 正直に認めた。


「でも、もう一人で決めません」


 レオンを見る。


「相談します」


 銀色の瞳が少しだけ和らぐ。


「ああ」


 風が吹く。

 リリアの髪が揺れ、レオンが自然に手を伸ばした。

 乱れた髪をそっと耳にかける。

 あまりに自然な動作だった。

 リリアの心臓が跳ねる。

 レオンも、触れてから気づいたらしい。


 手が止まる。

 近い。

 夕暮れの光の中、銀色の瞳がこちらを見ている。


「……すまない」


 彼が手を引こうとした。

 その前に。

 リリアは、思わずその袖を掴んだ。

 レオンの動きが止まる。


「……嫌では、ありません」


 声が小さくなった。

 顔が熱い。

 けれど、言った。

 言ってしまった。

 レオンの瞳が揺れる。

 いつも冷静な彼が、どうしていいか分からないような顔をする。

 それが少し可愛くて、少しずるくて、胸が苦しくなった。


「リリア」


 低い声。


「俺は――」


 言いかけた瞬間、屋上の扉が開いた。


「閣下!」


 オーウェンの声。

 二人は同時に離れた。

 リリアは慌てて外套の襟を直す。

 レオンは表情を戻そうとしているが、わずかに耳が赤い。

 オーウェンは一瞬で何かを察したらしく、非常に気まずそうな顔になった。


「……失礼いたしました」

「用件を言え」


 レオンの声がいつもより少し低い。


「はっ。王都への出立準備が整いました」


 空気が現実へ戻る。

 リリアは胸の熱を押し込めた。


 王都

 セドリック

 王命


 逃げられない戦いが待っている。

 レオンが静かに言った。


「明朝、発つ」

「承知しました」


 オーウェンが去る。

 屋上に再び二人だけが残った。

 けれど、さっきの空気はもう戻らない。

 リリアは少しだけ残念に思ってしまい、そんな自分に驚いた。


「……戻りましょうか」

「ああ」


 レオンが頷く。

 そして、階段へ向かう前に低く言った。


「さっきの話は」


 リリアは息を止める。


「王都から戻ったら、続きをする」


 胸が跳ねた。


「……はい」


 声が震えた。

 けれど、今度は逃げなかった。


 王都へ戻る

 危険な場所へ

 敵の待つ場所へ


 けれど、その先に続きを望める何かがある。

 それだけで、怖さが少しだけ薄れた。


 ◇


 同じ夕刻。


 王宮では、セドリックが静かに報告を聞いていた。


「銀狼公爵は帰還命令を受け入れるようです」


 黒衣の男が告げる。


「そう」


 セドリックは微笑んだ。


「リリア嬢の体調は?」

「消耗しているものの、命に別状はないと」

「よかった」


 その声は優しい。

 だが目は笑っていない。


「月華はまだ使えるね」


 黒衣の男は黙って頭を垂れる。

 セドリックは机の上の資料を開いた。


 古い王家の記録

 月華の聖女

 黒霧の大災厄


 そして、魂の契約。


「愛するほど力を増す」


 彼は指先で文字をなぞる。


「愛するほど命を削る」


 微笑みが深くなる。


「なら、もっと愛させればいい」


 その言葉は、ひどく冷たかった。


「レオンが彼女を求めるほど、彼女がレオンを救いたいと願うほど、月華は完成に近づく」


 黒衣の男が低く問う。


「完成すれば?」


 セドリックは窓の外を見た。

 王都の空に、夕陽が沈んでいく。


「黒霧を支配する鍵になる」


 そして、王子は穏やかに微笑んだ。


「彼らは自分たちの愛が救いだと思っている。けれど、それこそが最も美しい檻だ」


 王宮の鐘が鳴る。

 その音は、まるで新たな幕開けを告げる合図のようだった。

読んでいただきありがとうございます。

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