第二十四話 月明かりの帰還
黒霧が晴れたあとの村は、静かだった。
あれほど濃く広がっていた霧は、嘘のように薄れている。
崩れた家々
割れた井戸
折れた柵
爪痕の残る地面
失われたものは多すぎた。
それでも、空には月があった。
冷たい北方の空に浮かぶ月は、淡く銀色に輝いている。
リリアはレオンの腕の中で、その月をぼんやり見上げていた。
「……綺麗」
声が掠れる。
身体に力が入らない。
月華を使いすぎたせいだ。
胸の奥が空っぽになったようで、指先が冷たい。
レオンはリリアを抱えたまま、低く答えた。
「ああ」
その声もひどく疲れていた。
彼も傷だらけだ。
背中
脇腹
腕
黒霧による侵食もまだ残っている。
本当なら、彼が誰かに支えられるべきなのに。
それでもレオンは、リリアを手放そうとしなかった。
「下ろしてください」
「却下だ」
即答だった。
「怪我人に抱えられているのは、非常に心苦しいです」
「なら黙っていろ」
「返事になっていません」
「黙っていろと言った」
声は乱暴だった。
けれど、抱える腕は怖いほど優しい。
まるで少しでも力を入れたら壊れてしまうと思っているみたいに。
リリアは小さく息を吐いた。
「……怒っていますか?」
「怒っている」
「ですよね」
「今までで一番怒っている」
「そんなに」
「ああ」
レオンは前を見たまま言った。
「お前は俺の命令を聞かず、危険な黒霧の中へ来て、月華を使い、倒れかけた」
「倒れてはいません」
「屁理屈だ」
「薬師なので」
「薬師は屁理屈を言う職業ではない」
「では性格です」
「知っている」
即答されて、リリアは少し笑った。
笑うと胸が痛い。
それでも、笑いたかった。
生きている。
レオンも、自分も。
それがたまらなく嬉しかった。
◇
遠くから松明の光が近づいてきた。
「閣下!」
オーウェンの声。
騎士たちが駆け寄ってくる。
彼らの鎧は黒霧で汚れ、顔には疲労が刻まれていた。
けれど、全員の目に安堵が浮かんでいる。
「ご無事で……!」
オーウェンが膝をつきかけた。
だがレオンが短く制した。
「村人は?」
「全員、砦へ移送中です。重傷者はおりますが、生存者は確認できた限り全て救出しました」
その言葉に、リリアは目を閉じた。
よかった。
本当に。
「魔物化した者は?」
「数名は逃げ遅れましたが……霧狼の消滅と同時に動きが鈍りました。拘束して搬送しています」
リリアは目を開ける。
「生きているんですね」
オーウェンがこちらを見る。
「はい。リリア様の光が効いたのかもしれません」
戻せるかもしれない。
完全に魔物化した者でも。
希望が胸に灯る。
だが同時に、身体の奥が重く沈む。
もし戻せるなら。
自分はまた月華を使おうとするだろう。
それをレオンが許すはずもない。
隣を見るまでもなく、彼の腕に力が入った。
「今は考えるな」
低い声。
「顔に出ていました?」
「出ていた」
「……そうですか」
「戻ってから医師に診せる」
「私は薬師です」
「患者でもある」
「……はい」
今回は反論できなかった。
◇
砦へ戻る道中、リリアはレオンの馬に同乗させられた。
というより、抱えられたまま乗せられた。
「一人で乗れます」
「落ちる」
「落ちません」
「今のお前は落ちる」
「……否定しづらいです」
悔しいが、身体に力が入らない。
レオンの胸元に寄りかかる形になり、リリアは妙に落ち着かない気持ちになる。
彼の鼓動が聞こえる。
少し速い。
生きている音。
それを聞いていると、安心してしまう。
「眠いなら寝ろ」
頭上から声。
「眠くありません」
「嘘だな」
「……少しだけです」
「寝ろ」
「レオン様も休んでください」
「砦に戻ったらな」
「絶対ですよ」
「分かった」
「約束です」
「約束する」
最近、この言葉が増えた。
約束。
最初は何も信じられなかった。
王命で結ばれた関係。
利用されるための婚約。
愛するつもりはないと言われた相手。
それなのに今は、約束という言葉だけで胸が温かくなる。
リリアは目を閉じた。
馬の揺れ。
冷たい夜風。
レオンの体温。
遠ざかる黒霧の匂い。
意識がゆっくり沈んでいく。
眠る直前、レオンの低い声が聞こえた気がした。
「……戻ってきてくれて、よかった」
返事をしたかった。
でも、もう声は出なかった。
◇
砦に戻ると、当然のように大騒ぎになった。
医師が駆け寄り、騎士たちが報告に走り、避難民たちは涙を流してレオンたちを迎えた。
「閣下!」
「公爵様が戻られた!」
「月のご令嬢も……!」
その呼び方に、リリアはぼんやり目を開ける。
月のご令嬢。
何だか大げさだ。
訂正したい。
けれど、身体が重すぎて口を開く気力がない。
「リリア様!」
礼拝堂から母親たちが駆け寄ろうとする。
しかしレオンが低く言った。
「今は休ませる」
それだけで、全員が道を開けた。
銀狼公爵の威圧感は健在だった。
ただ、以前と違うのは、そこに恐怖だけではない何かがあったことだ。
信頼。
安堵。
人々は彼を恐れているのではなく、頼っている。
リリアにはそれが分かった。
◇
医療室へ運ばれると、リリアはすぐに診察を受けた。
医師は厳しい顔で言った。
「極度の消耗です」
予想通りだった。
「しばらく星印の使用は禁止です」
「しばらくとは、どれくらいですか?」
「最低でも一週間」
「長いですね」
「本来なら一月と言いたいところです」
隣でレオンが頷いた。
「一月だ」
「医師は最低一週間と」
「一月だ」
「横暴です」
「患者には横暴だ」
自分がよく言う台詞を返されて、リリアは言葉に詰まった。
医師が少しだけ笑いを堪えている。
「閣下も診察を」
医師が言うと、レオンは無言になった。
リリアは目を細める。
「レオン様?」
「俺は後でいい」
「今です」
「リリア」
「今です」
「……」
「背中と脇腹、見せてください」
レオンは黙った。
明らかに嫌そうな顔。
薬を嫌がる時と同じ顔だった。
「逃げないでください」
「逃げていない」
「逃げる顔です」
「どんな顔だ」
「今の顔です」
医師が今度こそ小さく咳払いした。
笑いを隠している。
レオンは深く息を吐いた。
「分かった」
しぶしぶ上着を脱ぐ。
その瞬間、リリアは息を呑んだ。
背中に走る爪痕。
脇腹の裂傷。
黒く変色した傷口。
血は止まりかけているが、明らかに深い。
「……これで後でいいと?」
声が低くなる。
レオンが視線を逸らした。
「慣れている」
「そういう問題ではありません」
「致命傷ではない」
「そういう問題でもありません」
「……怒っているのか」
「怒っています」
即答した。
「今までで一番怒っています」
レオンが少しだけ目を見開く。
自分の言葉を返されたことに気づいたらしい。
リリアは震える手を握った。
「あなたは私が傷つくと怒るのに」
「自分が傷つくことには鈍すぎます」
声が震える。
怒りだけではない。
怖かった。
今になって怖さが追いついてきた。
あの時、少しでも遅れていたら。
霧狼の爪がもっと深く入っていたら。
レオンが戻ってこなかったら。
「……怖かったんです」
ぽつりと漏れた。
医師が静かに部屋を出ようとする。
リリアは慌てて止めようとしたが、グレイがいつの間にかいて、医師を連れて出ていった。
空気を読みすぎである。
医療室に、二人だけが残った。
「リリア」
レオンの声が柔らかくなる。
「俺は生きている」
「はい」
「お前も生きている」
「はい」
「ならいい」
「よくありません」
涙が滲んだ。
「よくないです」
レオンは困ったように眉を寄せた。
そして、包帯を巻かれていない方の手で、そっとリリアの頬に触れる。
「泣くな」
「無理です」
「そうか」
「そうです」
「……どうすればいい」
本気で困っている声だった。
リリアは涙を拭いながら、少し笑ってしまう。
この人は本当に不器用だ。
人を慰める方法もよく分からない。
でも、逃げないでそこにいてくれる。
それだけで十分だった。
「ちゃんと治療を受けてください」
「ああ」
「薬も飲んでください」
「……ああ」
「今、間がありました」
「苦いのは」
「苦くします」
「なぜだ」
「罰です」
レオンは少しだけ黙った。
そして、小さく笑った。
「厳しいな」
「患者には横暴ですから」
その笑みを見て、リリアの涙がまた零れた。
どうして泣いているのか、自分でも分からない。
怖かったから。
安心したから。
生きていてくれたから。
そしてたぶん、もう自分の心が引き返せないところまで来ていると分かってしまったから。
◇
深夜。
レオンは治療を終え、リリアと同じ医療室の隣の寝台に押し込まれた。
本人は最後まで執務へ戻ろうとしたが、リリア、医師、グレイ、オーウェンの全員に止められ、渋々従った。
「俺は重病人ではない」
「重傷者です」
リリアが言うと、レオンは黙った。
反論できないらしい。
医療室は静かだった。
窓の外では、雪のような灰が少しだけ降っている。
黒霧が消えた後に残る灰だと医師が言っていた。
リリアは横になりながら、隣の寝台を見る。
レオンは目を閉じている。
眠っているのかと思ったが、声がした。
「眠れないのか」
「レオン様こそ」
「見張っている」
「何をですか」
「お前が起き上がらないか」
「信用がない」
「ないな」
即答された。
リリアは小さく笑う。
少し間を置いて、レオンが言った。
「リリア」
「はい」
「今日、俺が暴走しかけた時」
胸が少し痛む。
「はい」
「怖くなかったのか」
リリアは天井を見つめた。
怖かった。
黒い侵食。
赤く染まる瞳。
彼が自分を傷つけるかもしれないと言った時。
確かに怖かった。
でも――。
「レオン様が怖かったわけではありません」
静かに答える。
「あなたが、あなたでなくなってしまうことが怖かったんです」
沈黙。
「だから、呼びました」
「戻ってきてほしかったから」
隣から小さく息を吐く音がした。
「……戻れたのは、お前の声が聞こえたからだ」
リリアは目を瞬かせる。
レオンは続けた。
「霧の中に沈んでいた」
「何も分からなくなりかけていた」
「だが、お前が呼んだ」
低い声。
静かな夜に溶ける。
「それだけは分かった」
胸が熱くなる。
「……よかったです」
「ああ」
少しだけ沈黙。
雨ではなく、灰が窓を叩く微かな音。
「リリア」
「はい」
「お前が俺を呼ぶなら」
一拍。
「俺は必ず戻る」
リリアは喉の奥が詰まった。
泣きそうになる。
でも、泣く代わりに笑った。
「では、何度でも呼びます」
「何度でも戻る」
「約束です」
「ああ」
静かな約束。
誰も見ていない夜。
傷だらけの二人。
けれどその約束は、どんな誓約書よりも強く感じられた。
◇
同じ頃。
王宮。
セドリックは北方からの報告を読んでいた。
霧狼の消滅。
ミルカ村の生存者救出。
月華の発動。
銀狼公爵の一時的な暴走と、その鎮静。
彼は読み終えると、静かに微笑んだ。
「素晴らしい」
黒衣の男が跪く。
「計画に支障は?」
「いいや」
セドリックは報告書を机に置いた。
「むしろ予想以上だ」
「月華は銀狼の暴走を止められる」
「そして、レオンはリリア嬢を守るためなら判断を誤る」
彼は窓の外を見る。
王都の夜は穏やかだった。
北方の惨状など、ここには届かない。
「愛は美しいね」
セドリックは甘く呟く。
「そして、とても扱いやすい」
机の上には、新たな封書が用意されていた。
宛先は北方砦。
差出人は王宮。
内容は簡潔だった。
――黒霧対策会議のため、銀狼公爵および婚約者リリア・エヴァレットの王都帰還を命ずる。
セドリックは封蝋を押す。
王家の紋章。
逃げられない命令。
「次は王都で会おう、リリア嬢」
彼は優しく微笑んだ。
「君がどちらを選ぶのか、楽しみにしているよ」
月は雲に隠れた。
王宮の影が、静かに深くなる。
読んでいただきありがとうございます。
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