第二十三話 銀狼の傷
霧狼の咆哮が、黒霧の村に響き渡った。
崩れた家々が震え、井戸の水面が黒く波立つ。
霧そのものが生き物のように蠢き、リリアの足元へ絡みついた。
冷たい。
痛い。
けれど、彼女は下がらなかった。
「リリア、光を弱めるな!」
レオンの声が飛ぶ。
「はい!」
リリアは両手を胸の前で握り、月華の光を保つ。
淡い銀色の光が広場を照らす。
その範囲だけ、黒霧がわずかに薄れる。
霧狼の身体が揺らぎ、輪郭が浮かび上がる。
そこへ、レオンが踏み込んだ。
銀の剣閃。
一撃。
霧狼の肩を裂く。
黒い霧が血のように噴き出した。
だが、傷口はすぐに塞がり始める。
「再生が早い……!」
オーウェンが叫ぶ。
騎士たちは村人を守りながら後退していた。
老人。
子供。
負傷した村人。
全員を霧の外へ逃がさなければならない。
リリアは一瞬だけそちらを見る。
まだ退避は終わっていない。
なら、ここで霧狼を止めるしかない。
「レオン様、左!」
霧狼の尾が黒い槍のように伸びる。
レオンは身体を捻り、紙一重でかわした。
だが完全には避けきれない。
外套が裂け、腕に赤い線が走る。
「っ……」
「レオン様!」
「見るな!」
「見ます!」
「本当に言うことを聞かない!」
「今さらです!」
怒鳴り返すと、レオンは一瞬だけ口元を歪めた。
笑ったのだと分かった。
こんな状況で。
ほんの一瞬でも。
それがリリアの胸を強く支えた。
◇
霧狼は賢かった。
最初は本能のまま襲っているように見えた。
だが違う。
リリアが月華で霧を薄めると距離を取り、光が弱まる瞬間を狙ってくる。
レオンが前に出れば、わざと傷を受けてでもリリアを狙う。
まるで分かっているのだ。
この場の要が誰なのかを。
「私を狙ってますね」
「分かっているなら下がれ」
レオンが低く言う。
「下がったら光が届きません」
「お前は本当に」
「説教は後で聞きます!」
「長くなるぞ」
「薬を飲みながらお願いします!」
「それは嫌だな」
レオンが剣を構え直す。
息が乱れている。
背中の傷。
腕の傷。
首筋の黒い侵食。
すべてが彼を蝕んでいる。
それでも、その姿は美しいほど強かった。
黒霧の中で、銀狼公爵は折れない。
誰かを守るためなら、何度でも立ち上がる。
だからこそ。
リリアは怖かった。
この人はきっと、守るためなら自分を簡単に差し出してしまう。
「レオン様!」
「何だ」
「死なないでください!」
レオンは霧狼から視線を逸らさずに答えた。
「お前を残して死ぬ気はない」
胸が熱くなる。
言葉は短い。
けれど、確かだった。
霧狼が跳ぶ。
レオンも前へ出た。
剣と爪がぶつかる。
金属音ではない。
何か硬い骨を打つような鈍い音。
衝撃で地面が割れた。
リリアは光を強める。
霧狼の動きが鈍る。
その瞬間、レオンが剣を返し、霧狼の前脚を斬り落とした。
黒い霧が飛び散る。
「今です!」
オーウェンが叫ぶ。
騎士たちが最後の村人を担ぎ、退路へ走る。
避難が進む。
あと少し。
あと少しで、全員が脱出できる。
その時――
霧狼の赤い目が、異様な光を放った。
切り落とされた前脚が霧へ溶ける。
そして、その霧が周囲の魔物化した村人たちへ吸い込まれていった。
「……何?」
リリアは息を呑む。
魔物たちの身体が膨れ上がる。
骨が軋み、皮膚が裂け、黒い棘が伸びる。
人だったものが、さらに別の何かへ変わっていく。
「融合する気か!」
オーウェンが叫ぶ。
レオンの表情が険しくなる。
「全員、下がれ!」
霧狼が大きく口を開けた。
黒い霧が渦を巻く。
その中心に、赤い光。
嫌な予感。
リリアの月華が強く反応する。
危険。
とても危険。
「レオン様!」
叫んだ瞬間、黒い衝撃波が放たれた。
レオンがリリアの前に立つ。
剣を構える。
「下がれ!」
「嫌です!」
リリアは彼の背に手を添えた。
浄化ではない。
守るための光。
月華の光が盾のように広がる。
黒い衝撃波と銀の光がぶつかった。
耳を裂くような音。
視界が白く弾ける。
胸の奥から力が抜けていく。
「……っ」
膝が揺れる。
でも倒れない。
倒れたら、レオンが守れない。
守られるだけでは嫌だ。
隣に立つと決めた。
「リリア!」
レオンの声。
「大丈夫です!」
嘘ではない。
まだ。
まだ大丈夫。
銀の光が黒い衝撃を押し返す。
霧狼が呻く。
レオンはその一瞬を逃さなかった。
「オーウェン!」
「はっ!」
「村人を連れて走れ!」
「閣下は!」
「後で行く!」
「しかし!」
「命令だ!」
オーウェンは歯を食いしばった。
そして叫ぶ。
「全員、撤退!」
騎士たちが村人を連れて駆け出す。
リリアは光を維持したまま、彼らの背中を見送る。
よかった。
これで。
全員ではないかもしれない。
でも、救える人は救えた。
その安堵が、ほんの一瞬だけ隙を作った。
霧狼が消えた。
「え――」
次の瞬間。
背後から冷たい気配。
リリアが振り向くより早く、レオンが動いた。
「リリア!」
強い腕に突き飛ばされる。
リリアの身体が地面へ倒れ込む。
その目の前で。
霧狼の爪が、レオンの脇腹を深く裂いた。
「――っ!」
レオンの身体が揺れる。
血が地面へ落ちる。
黒霧が傷口へ入り込む。
首筋の侵食が一気に広がり、顎の近くまで這い上がった。
「レオン様!」
リリアは叫んだ。
駆け寄ろうとする。
だがレオンは片手を上げた。
来るな。
そう言うように。
「……下がっていろ」
「嫌です!」
「言うことを聞け」
「聞きません!」
「リリア!」
その声に、リリアは足を止めた。
聞いたことのない声だった。
怒りではない。
恐怖。
焦り。
そして、必死な拒絶。
レオンの銀色の瞳が揺れている。
「近づくな」
「どうして」
「俺が」
彼は苦しそうに息を吐いた。
黒い侵食がさらに広がる。
指先まで黒い筋が走る。
「俺が、お前を傷つけるかもしれない」
リリアの息が止まった。
レオンの瞳の奥に、赤い光が混じっている。
霧狼のものと同じ。
呪いが暴れ始めている。
「……嫌だ」
レオンが呟いた。
「お前だけは」
剣を握る手が震える。
「傷つけたくない」
胸が締めつけられた。
彼は自分の傷よりも、呪いよりも、リリアを傷つけることを恐れている。
「レオン様」
「下がれ」
「嫌です」
「頼む」
その言葉に足が止まりそうになる。
でも――
今度だけは聞けなかった。
「嫌です」
リリアは一歩前へ出た。
「あなたを一人にしないって言いました」
「今の俺に近づくな」
「近づきます」
「リリア!」
「私は!」
声が震えた。
怖い。
本当に怖い。
でも、それでも。
「あなたが怖いんじゃありません!」
レオンの目が揺れる。
「あなたが一人で苦しむ方が怖いんです!」
黒霧が渦巻く。
霧狼が低く唸る。
レオンは苦しそうに膝をついた。
リリアは駆け寄る。
彼の前へ。
「月華を使うな……」
「使います」
「駄目だ」
「使います」
「死ぬぞ」
「死にません!」
叫んだ。
涙が零れた。
「あなたも死なせません!」
リリアは両手でレオンの頬に触れた。
熱い。
呪いが肌の下で蠢いている。
月華が反応する。
身体の奥から力が引き出される。
怖いくらい強く。
「リリア、やめろ……」
「やめません」
「頼む」
「ごめんなさい」
銀色の光が溢れた。
レオンの黒い侵食へ触れる。
焼けるような痛みがリリアの腕を走った。
苦しい。
胸が痛い。
命を削られている感覚。
それでも、レオンの瞳に混じっていた赤が少しずつ薄れていく。
「……っ」
リリアの膝が震える。
レオンが彼女の腕を掴む。
「もういい」
「まだです」
「十分だ!」
「まだ、あなたが戻ってきてない!」
レオンが息を呑む。
リリアは涙で滲む視界の中、彼を見つめた。
「戻ってきてください」
声が震える。
「私を置いていかないで」
銀色の光が強くなる。
黒い霧が悲鳴のように揺れる。
霧狼が咆哮した。
月華の光に反応している。
だが今のリリアには、それを見る余裕がなかった。
目の前のレオンだけ。
彼を取り戻す――
それだけだった。
「リリア……」
レオンの声が戻った。
低く、掠れていて。
でも、確かに彼の声。
「もういい」
「……本当に?」
「ああ」
銀色の瞳から赤が消えていた。
黒い侵食も首筋まで引いている。
完全ではない。
でも、理性は戻った。
リリアは安堵した瞬間、身体から力が抜けた。
「……よかっ」
倒れる。
しかし今度は地面に落ちなかった。
レオンが抱き止めた。
傷だらけの腕で。
強く。
「馬鹿が」
声が震えていた。
「本当に、馬鹿だ」
「……レオン様にだけは、言われたくないです」
そう返すと、レオンは苦しそうに笑った。
泣きそうな顔だった。
「立てるか」
「少し……無理かもしれません」
「そうか」
レオンはリリアを抱き上げた。
「え、ちょっと」
「黙っていろ」
「怪我してる人に抱えられるのは」
「黙っていろ」
今度は本当に逆らえなかった。
レオンの声が、あまりにも切実だったから。
◇
霧狼はまだ消えていなかった。
だが様子が違う。
月華の光を浴びたせいか、身体が大きく崩れている。
赤い目だけが、憎悪のように光っていた。
レオンはリリアを抱えたまま剣を取る。
「無茶です」
リリアが言う。
「お互い様だ」
「私はもう光を」
「使うな」
即答。
「もう使うな」
レオンはリリアをそっと崩れた石壁の陰へ下ろした。
「ここにいろ」
「でも」
「信じろ」
その言葉に、リリアは口を閉じた。
信じる。
彼を。
今度こそ。
「……はい」
レオンは頷いた。
そして、霧狼へ向き直る。
血に濡れ、傷だらけで。
呪いも完全には消えていない。
それでも、その背中は不思議なほど大きく見えた。
「三年前」
レオンが低く言った。
「俺はお前に呪われた」
霧狼が唸る。
「だが、今は違う」
彼は剣を構える。
「俺は一人ではない」
その言葉に、リリアの胸が熱くなった。
レオンが地を蹴る。
速い。
霧狼が迎え撃つ。
黒い爪が振り下ろされる。
レオンはそれを避けず、剣で受けた。
衝撃。
地面が割れる。
しかし彼は押し返す。
「終わりだ」
低い声。
銀色の星印が彼の手に浮かんだ。
銀牙。
身体能力を極限まで高める星印。
だが今の光は、以前より澄んで見えた。
月華が呪いを押し戻したからかもしれない。
あるいは――
彼自身が、もう呪いだけに支配されていないからかもしれない。
レオンの剣が霧狼の胸を貫いた。
同時に、リリアは最後の力で小さく月華を灯す。
浄化ではない。
祈りのような光。
霧狼の身体が固まる。
レオンの剣がその核を砕いた。
赤い光が割れる。
霧狼が絶叫した。
黒い霧が一気に膨れ上がり、そして弾ける。
風が吹いた。
冷たい風。
けれど、その中に先ほどまでの腐った匂いはなかった。
霧が少しずつ晴れていく。
月が見えた。
北方の空に、淡く輝く月。
「……倒した」
リリアは呟いた。
レオンがゆっくり振り返る。
傷だらけで、血に濡れて。
それでも立っている。
生きている。
リリアは笑おうとした。
でも、涙が先に溢れた。
「レオン様……」
彼は歩いてくる。
一歩。
また一歩。
そしてリリアの前で膝をついた。
「怒っている」
第一声がそれだった。
リリアは涙を拭いながら、少し笑った。
「私もです」
「なぜお前が怒る」
「あなたが無茶をしたからです」
「お前もだ」
「知っています」
二人はしばらく見つめ合った。
黒霧の晴れた村。
崩れた広場。
遠くから騎士たちの声が聞こえる。
生きている。
二人とも。
それだけで、胸がいっぱいだった。
レオンは震える手で、リリアの頬に触れた。
「……戻ってきた」
低い声。
「お前が呼んだから」
リリアの涙がまた零れる。
「よかった」
「泣くな」
「無理です」
「そうか」
レオンは困ったように眉を寄せる。
そして、不器用にリリアを抱き寄せた。
壊れものに触れるみたいに。
けれど、確かに。
「……怖かった」
彼の声が耳元で震えた。
「お前を失うと思った」
リリアは彼の背に手を回した。
傷に触れないように、そっと。
「私も怖かったです……でも――」
顔を上げる。
銀色の瞳を見る。
「戻ってきてくれました」
レオンは静かに頷く。
「ああ」
月明かりの下。
黒霧の村で。
二人は初めて、互いの温もりを確かめるように抱き合った。
それが恋と呼べるものなのか。
まだ言葉にはできない。
けれど、確かに何かが変わった。
契約でも。
王命でも。
呪いでもない。
二人自身の意志で結ばれた何かが、この夜、静かに芽生えていた。
読んでいただきありがとうございます。
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