↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
月影の花嫁は銀狼公爵の運命を拒む  作者: 白石マサル


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
22/65

第二十二話 黒霧の中へ

 夜の北方は、息が白くなるほど冷たかった。

 砦の門が開く。

 重い鉄の音が闇に響き、騎士たちが松明を掲げて外へ出る。

 その中央で、リリアは外套の前を強く握った。

 風が冷たい。

 頬を刺す。

 けれど、それ以上に胸の奥が冷えていた。

 黒霧が近い。

 見えない手で心臓を撫でられているみたいな、不快な感覚。

 指先には淡い銀色の光が宿っている。


「リリア様」


 オーウェンが馬上から声をかける。


「少しでも異変を感じたら、すぐにお知らせください」

「はい」

「そして、月華の使用は最小限に」

「……はい」


 返事が一瞬遅れたことを、オーウェンは見逃さなかった。

 けれど責めなかった。

 ただ、苦しそうに眉を寄せる。


「閣下は、あなたを守れと命じられました」

「分かっています」

「ですが私は今、あなたを危険な場所へ連れて行こうとしている」


 その声には葛藤があった。

 リリアは小さく首を振った。


「私が頼んだんです」

「それでもです」

「なら、私も約束します」


 リリアはまっすぐ彼を見る。


「無茶をする前に、必ず声をかけます」

「……無茶をしない、ではないのですね」

「嘘はつきたくありません」


 オーウェンは一瞬だけ目を見開いた。

 それから、困ったように笑った。


「閣下が手を焼くはずです」

「よく言われます」

「でしょうね」


 ほんの少しだけ、空気が和らいだ。

 けれどすぐに、前方から吹きつける冷たい風が現実を思い出させた。


 黒い霧。


 闇の奥に、ゆっくりと蠢いている。


 ◇


 ミルカ村へ近づくにつれ、周囲の景色は変わっていった。

 木々は葉を落とし、地面には黒い霜のようなものが張りついている。

 草は枯れ、土は湿っている。

 松明の火が、不自然に揺れた。


「……嫌な匂い」


 リリアは口元を押さえた。

 腐敗とは違う。

 薬草が焼け焦げたような、鉄のような、湿った灰のような匂い。

 身体の奥が拒絶している。


「これが黒霧です」


 オーウェンが言った。


「慣れるものではありません」

「レオン様は、何度もこの中へ?」

「はい」


 短い返事。

 それだけで十分だった。

 レオンは何度もこんな場所へ入っていた。

 民を守るために。

 自分の身体が侵される危険を知りながら。


「……馬鹿ですね」


 思わず呟いた。

 オーウェンが少し驚いた顔をする。


「閣下を馬鹿と呼べる方は、あなたくらいでしょう」

「本人にも言っています」

「それは……すごいですね」


 なぜか感心された。

 リリアは少しだけ苦笑する。

 だが、すぐに笑みは消えた。


 前方。

 霧が濃くなっている。

 まるで村全体を黒い布で覆っているようだった。

 

 松明の光が届かない。

 月も星も見えない。


「ここから先が、霧の外縁です」


 オーウェンが馬を止めた。

 騎士たちが陣形を整える。


「通常の者が入れるのは、この辺りが限界です」

「レオン様は?」

「閣下は、この奥です」


 リリアの指先が強く光った。

 胸が痛い。

 まるで誰かに呼ばれている。

 いや、違う。

 これは――。


「……レオン様の呪いが反応しています」


 オーウェンの顔が険しくなる。


「分かるのですか」

「はい」


 はっきりと。

 黒霧の奥にある、冷たい痛み。

 レオンの中に巣食う呪いと同じ気配。


「近いです」


 リリアは一歩踏み出した。

 霧が足元へ絡みつく。


 冷たい。


 肌に触れた瞬間、月華が淡く輝いた。

 霧がわずかに退く。

 騎士たちが息を呑む。


「……本当に」


 オーウェンが呟く。


「月華は黒霧を払うのですね」

「少しだけです」


 リリアは自分の手を見つめる。

 まだ大丈夫。

 疲労はある。

 でも倒れるほどではない。


「進みます」

「私が先導します」

「いいえ」


 リリアは首を振った。


「私が前に出ます」

「危険です」

「私の周囲だけ、霧が薄くなります」


 オーウェンは反論しようとして、やめた。

 事実だからだ。


「……分かりました。ただし、必ず我々の中央に」

「はい」


 一行は霧の中へ入った。


 ◇


 黒霧の中は、音が遠かった。

 足音も、鎧の擦れる音も、松明の燃える音も、全部が布越しのように鈍い。

 視界は狭い。

 数歩先すら曖昧だった。

 リリアは胸元で手を握り、月華の光を保つ。

 光は淡く、頼りない。

 けれど確かに霧を退けていた。


「……レオン様」


 小さく名前を呼ぶ。

 返事はない。

 当然だ。

 それでも呼ばずにはいられなかった。

 その時――右側の霧が揺れた。


「構え!」


 オーウェンの声。

 騎士たちが剣を抜く。

 次の瞬間、黒い影が飛び出してきた。


 人型。

 だが人ではない。


 腕が異様に長く、皮膚は黒く爛れ、目は赤く光っている。

 魔物化した人間。

 リリアは息を呑んだ。

 かつては村人だったのだろう。

 服の残骸が、農夫のものに見えた。


「下がって!」


 オーウェンが剣を振るう。

 騎士たちが魔物を押さえる。

 しかし、魔物は痛みを感じていないように暴れ続けた。


 唸り声。

 爪。

 血の匂い。


 リリアは足がすくんだ。

 怖い。

 これは魔物だ。

 でも、元は人だった。

 誰かの家族だった。

 誰かに名前を呼ばれていた人だった。


「リリア様!」


 オーウェンの声で我に返る。

 別の影が左から迫っていた。

 咄嗟に月華の光を強める。

 銀色の光が広がり、魔物の動きが鈍る。

 その瞬間、騎士が取り押さえた。


「殺さないで!」


 リリアは叫んだ。

 騎士たちが動きを止める。


「まだ、戻せるかもしれません!」


 オーウェンが苦しそうに叫ぶ。


「危険です!」

「分かっています!」


 月華を使えば、もしかしたら。

 けれど、代償がある。


 約束した。

 無茶はしない。


 でも目の前にいる。

 まだ助かるかもしれない人が。

 リリアの手が震えた。

 その時、霧の奥から剣戟の音が聞こえた。


 鋭く、重い音。


 そして――銀色の光のような剣閃。


「……レオン様!」


 間違いない。

 リリアは走り出した。


「リリア様!」


 オーウェンの制止も聞こえなかった。


 霧の奥へ。

 胸の反応が強くなる。


 近い。


 近い。


 ◇


 村の広場だった場所に出た。

 そこは地獄のようだった。


 崩れた家。

 黒く変色した井戸。

 倒れた荷車。

 霧の中で蠢く魔物たち。


 そして、その中心に――レオンがいた。


 黒い外套は裂け、肩から血が流れている。

 剣を構え、片膝をつきながらも、数人の村人を背後に庇っていた。

 首筋には黒い侵食が浮かんでいる。


 いつもより濃い。

 危険なほどに。


「レオン様!」


 叫ぶ。

 レオンがこちらを見た。

 銀色の瞳が大きく揺れる。


「リリア……!」


 怒り。

 驚き。

 安堵。

 恐怖。


 全部が混ざった声。


「なぜ来た!」

「助けに来ました!」

「馬鹿か!」

「知ってます!」


 叫び返しながら、リリアは彼のもとへ走る。

 レオンは剣を振るい、迫る魔物を退けた。


「下がれ!」

「嫌です!」

「ここは危険だ!」

「あなたがいる場所でしょう!」


 レオンが一瞬、言葉を失った。

 その隙に、背後の村人の一人が咳き込む。

 黒霧を吸い込んでいる。


 子供もいる。

 老人もいる。


 リリアはすぐに薬箱を開いた。


「皆さん、こちらへ!」

「リリア、月華は使うな!」

「分かっています! まず薬で対応します!」

「まず、だと?」

「言葉のあやです!」


 レオンが本気で怒っている気配がした。

 けれど今はそれどころではない。

 香草を焚き、黒霧の吸引を抑える薬湯を渡す。

 だが霧が濃すぎる。

 薬だけでは追いつかない。

 魔物はまだ周囲にいる。

 騎士たちが追いつき、広場を守るように展開した。


「退路を確保します!」


 オーウェンが叫ぶ。


「急いでください!」


 レオンは頷き、村人たちを立たせる。

 その瞬間――霧の奥から、低い咆哮が響いた。


 地面が震える。

 リリアの背筋が凍る。

 魔物たちの動きが止まる。

 まるで何かに従うように。


 霧が割れる。


 現れたのは、巨大な獣だった。

 狼に似ている。

 しかし、その身体は黒い霧でできていた。

 目は赤く、背中から無数の棘が伸びている。


「霧狼……」


 オーウェンが呟く。

 騎士たちの顔色が変わる。


「三年前と同じ個体か……?」


 レオンの顔が凍った。

 リリアは息を呑む。

 三年前。

 レオンが呪いを受けた戦い。

 その時の魔物。


「下がれ」


 レオンが低く言った。


「全員、下がれ」

「レオン様!」

「こいつは俺がやる」


 その声は冷たかった。

 けれど、リリアには分かった。

 この魔物は、彼の傷そのものなのだ。


 三年前の悪夢。

 呪いの始まり。


 そして今、再び目の前に現れた。


「一人で戦わないでください」


 リリアは言った。

 レオンは振り返らない。


「これは俺の役目だ」

「違います」

「リリア」

「違います!」


 彼の隣へ立つ。

 怖い。

 足は震えている。

 でも下がらない。


「あなたの役目でも、あなた一人の戦いじゃありません」


 銀色の光が指先に宿る。

 レオンの瞳が揺れる。


「使うな」

「使いません」


 リリアは首を振った。


「浄化じゃありません。道を作るだけです」

「それでも負担は」

「少しだけです」

「リリア!」

「約束しました。無茶はしないと」


 彼を見る。


「だから、あなたも約束を守ってください。一人で無理をしないで!」


 霧狼が咆哮する。

 黒霧が押し寄せる。


 リリアは両手を広げた。

 淡い銀色の光が広場を包む。

 霧が少しだけ薄れる。

 その光の中で、レオンが剣を構えた。


「……本当に」


 低い声。


「お前は俺の言うことを聞かない」

「今さらです」

「そうだな」


 ほんの一瞬。

 レオンが笑った。


 戦場の中で。

 黒霧の中で。


 それでも確かに。


「なら、俺のそばを離れるな」

「はい」

「絶対にだ」

「はい」


 霧狼が飛びかかる。

 レオンが前へ出る。

 銀の剣閃が闇を裂いた。

 リリアの月華が、その背中を淡く照らす。

 二人の戦いが始まった。


 ◇


 霧狼は速かった。

 巨体に似合わぬ速度で駆け、黒い爪で地面を抉る。

 レオンはそれを紙一重で避け、剣を振るう。


 一撃。


 二撃。


 銀の軌跡が霧を斬る。

 だが霧狼の身体はすぐに再生した。


「実体が薄い……!」


 リリアは月華の光を強める。

 霧狼の輪郭がわずかに固まる。

 その瞬間、レオンの剣が深く入った。

 霧狼が咆哮する。

 効いている。


「そのまま維持しろ!」

「はい!」


 リリアは歯を食いしばる。

 胸の奥が熱い。

 少しだけ苦しい。

 でもまだ大丈夫。

 まだ立てる。


 レオンは霧狼の攻撃を受け流し、前へ踏み込む。

 その動きは美しかった。


 無駄がなく、鋭く、強い。


 けれど、首筋の黒い侵食が濃くなっている。

 霧狼と対峙するたび、呪いが反応しているのだ。


「レオン様!」

「見るな!」

「見ます!」

「戦いに集中しろ!」

「あなたこそ!」


 怒鳴り合いながらも、二人の呼吸は不思議と合っていた。

 リリアが光で霧を抑え、レオンが斬る。

 騎士たちは村人を避難させる。

 少しずつ、退路が開いていく。


 あと少し。

 あと少しで――。


 その時だった。

 霧狼の赤い目が、リリアを見た。


 ぞくりとする。


 次の瞬間、霧狼がレオンを無視して跳躍した。

 狙いはリリア。


「リリア!」


 レオンが叫ぶ。

 間に合わない。

 黒い爪が迫る。

 リリアは動けなかった。

 怖い。

 死ぬ。


 そう思った瞬間。

 レオンが割り込んだ。

 彼はリリアを抱き込むように庇い、霧狼の爪を背中で受けた。


「……っ!」


 血が飛ぶ。

 リリアの頬に温かいものが触れた。


「レオン様!」


 彼の身体が傾く。

 それでも倒れない。

 剣を地面に突き立て、踏みとどまる。


「怪我は……?」

「私よりあなたが!」

「答えろ!」

「ありません!」

「ならいい」


 よくない。

 全然よくない。

 背中から血が流れている。

 黒霧が傷口へ入り込んでいる。

 首筋の侵食が一気に広がる。


「駄目……!」


 リリアは手を伸ばした。

 月華を使う。

 使わなければ。

 けれどレオンがその手を掴んだ。


「使うな」

「でも!」

「まだだ」


 低い声。

 苦しそうなのに、瞳だけは鋭かった。


「今使えば、お前が倒れる」

「そんなこと言ってる場合じゃ」

「ある!」


 レオンは彼女の手を握ったまま言った。


「俺を信じろ」


 リリアは息を呑む。

 信じる。

 下がれと言われた時は信じると約束した。

 でも、目の前で彼が傷ついている。


「……信じます」


 震える声で答える。


「でも、死なないでください」


 レオンの瞳が少しだけ和らいだ。


「死なない」


 そして、彼は霧狼へ向き直った。


「お前を置いて死ねるか」


 その言葉が、リリアの胸を強く打った。


 霧狼が再び咆哮する。

 レオンは剣を構える。

 黒い侵食が彼の身体を蝕んでいる。


 それでも、その背中は揺るがなかった。

 リリアは涙を飲み込み、月華の光を整える。


 無茶はしない。

 倒れない。

 彼を信じる。

 彼を支える。


 それが今、自分にできる戦いだった。


「レオン様!」

「何だ」

「絶対に帰ったら、薬を飲んでもらいます!」


 一瞬。

 本当に一瞬。

 レオンが固まった。

 そして低く笑った。


「……苦いのは嫌だな」

「苦くします!」

「ひどい女だ」

「患者には横暴です!」


 霧狼が襲いかかる。

 銀の剣が闇を裂く。

 月華の光が霧を押し返す。


 北方の夜。

 黒霧の村で。

 二人は初めて、本当の意味で並んで戦っていた。

読んでいただきありがとうございます。

評価や感想を貰えると執筆のモチベーションがアップするので

どんどん評価や感想をください!

ブクマもお願いします!

お待ちしております(*^-^*)


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。