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月影の花嫁は銀狼公爵の運命を拒む  作者: 白石マサル


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第二十一話 黒霧の村

 北へ進むほど、空気は冷たくなった。

 草原の緑は少しずつ色を失い、道端には灰色の岩が増えていく。

 王都では春の終わりだったはずなのに、北方の風はまるで冬の名残を抱えているようだった。

 馬車の窓ガラスが白く曇る。

 リリアは指先でそれを拭い、外を見た。


 遠くの空が黒い。

 雲ではない。

 黒霧だ。


 昨日よりも、はっきり見える。


「近づいていますね」


 リリアが呟くと、向かいに座るレオンが頷いた。


「ああ」


 彼の声は低い。

 昨夜よりも表情が硬い。

 公爵として、北方を守る者としての顔だった。

 けれどリリアには分かる。

 その冷静な表情の奥に、焦りがあることを。


「体調は?」


 リリアが尋ねる。

 レオンは一瞬だけ黙った。


「……悪くない」

「今、少し迷いましたね」

「迷っていない」

「嘘が下手です」

「お前もな」


 言い返されて、リリアは口を閉じた。

 確かに、朝から胸の奥がざわついている。

 月華が黒霧に反応しているのだ。

 指先が時々、淡く銀色に光る。

 熱いような、冷たいような、不思議な感覚。


「辛いなら言え」


 レオンが言った。


「約束ですから、言います」

「本当だな」

「本当です」

「ならいい」


 短いやり取り。

 それだけで、少し安心する。

 以前なら、この人は自分の不調を隠した。

 リリアもきっと、無理を隠そうとした。

 けれど今は違う。

 互いに不器用ながら、ちゃんと引き止め合おうとしている。

 それが、少し嬉しかった。


 ◇


 昼前、一行は北方の砦町ルドヴィクに到着した。

 高い石壁に囲まれた町。

 門には銀狼の紋章が掲げられている。


 ヴァルハルト公爵領。


 レオンの治める地。

 門が開くと、兵士たちが一斉に姿勢を正した。


「公爵閣下!」


 声が揃う。

 その響きに、リリアは思わず背筋を伸ばした。

 王都で見る貴族たちの礼とは違う。

 もっと切実で、強い敬意。

 この人は本当に、ここで人々を守ってきたのだ。

 馬車が砦の中へ入る。

 町の人々が道の両側に集まっていた。

 誰もが不安そうな顔をしている。

 けれど、レオンの姿を見ると、ほんの少しだけ表情が変わった。


「銀狼公爵だ」

「閣下が戻られた」

「これで助かる」


 そんな声が聞こえる。

 リリアは胸が詰まった。

 レオンは何も言わない。

 窓の外を見ることもない。

 けれど、その手は膝の上で強く握られていた。


「……皆、あなたを信じているんですね」


 リリアが言うと、レオンは静かに答えた。


「だからこそ、守らなければならない」


 重い言葉だった。


 責任。

 誇り。

 そして呪い。


すべてを背負った声だった。


 ◇


 砦へ入ると、すぐに軍議が始まった。

 広い作戦室。

 壁には北方の地図が広げられている。


 黒霧領域。

 街道。

 村。

 避難経路。


 その中で、一つの村に赤い印がつけられていた。


「霧に飲まれたのは、ミルカ村です」


 副官らしき男が報告する。

 名はオーウェン。

 三十代半ばほどの、実直そうな騎士だった。


「住民は約百二十名。半数は避難済みですが、残りの安否は不明」

「魔物化の確認は」


 レオンが問う。


「村の外縁で二体確認しました。討伐済みです」

「霧の濃度は」

「三年前のベルン村に近いかと」


 その瞬間、部屋の空気が重くなった。


 ベルン村。


 リリアはその名を知らない。

 けれど、レオンの顔色がわずかに変わったことで分かった。


 三年前。


 彼が呪いを受けた場所だ。


「……そうか」


 レオンは短く答える。

 声は冷静だった。

 だが、隣に立つリリアには分かった。

 彼の呼吸が、ほんの少しだけ乱れたことを。


「閣下」


 オーウェンがリリアを見る。


「こちらのご令嬢は……」

「リリア・エヴァレット」


 レオンが答える。


「俺の婚約者だ」


 その言葉に、部屋の騎士たちがわずかにざわめいた。

 リリアは一瞬、心臓が跳ねた。


 婚約者。


 契約のはずだった言葉。

 それなのに、レオンの口から聞くと妙に落ち着かない。


「薬師でもある」


 レオンは続けた。


「避難民の治療を任せる」

「承知しました」


 オーウェンは深く頭を下げる。

 その視線に軽蔑はなかった。

 むしろ、期待と不安が入り混じっている。


「よろしくお願いします」


 リリアも礼を返す。

 レオンが低く言った。


「ただし、前線には出さない」

「レオン様」

「前線には出さない」


 強い声。

 ここは譲らないという顔だった。

 リリアは言い返しかけて、飲み込んだ。

 今は軍議の場。

 ここで言い争うべきではない。

 けれど、完全に納得したわけではなかった。


 ◇


 避難民たちは砦の礼拝堂に集められていた。

 石造りの冷たい建物。

 床には毛布が敷かれ、負傷者や子供たちが身を寄せ合っている。


 泣き声。

 咳。

 祈る声。


 疲れ切った人々の匂い。

 リリアは薬箱を開け、すぐに診察を始めた。


「熱のある方はこちらへ」

「怪我をしている方は順番に見せてください」

「水はありますか?」

「毛布をもう少し」


 薬師としての動きは自然だった。

 迷っている暇はない。


 擦り傷。

 打撲。

 高熱。

 恐怖による震え。


 中には黒霧を吸い込んだらしい者もいた。

 唇が青く、呼吸が浅い。


「黒霧を吸ったのはいつ?」

「昨夜……村を出る時に……」


 若い母親が震える声で答える。

 腕には幼い子供を抱いている。

 子供はぐったりしていた。

 リリアは胸が締めつけられる。

 月華を使えば、きっと早い。

 でも約束した。


 無理はしない。

 勝手に使わない。


 まずは薬でできることをする。


「大丈夫。吸い込んだ量は多くありません」


 薬湯を作り、少しずつ飲ませる。

 呼吸を楽にする香草を焚く。

 子供の顔色が、わずかに戻った。

 母親が泣き出す。


「ありがとうございます……!」

「まだ油断しないで。今夜はそばにいます」


 リリアはそう言って微笑んだ。

 その時、礼拝堂の入口にレオンが立っていることに気づいた。

 彼は何も言わず、こちらを見ていた。

 銀色の瞳が、少しだけ柔らかい。


 ◇


 夕方。

 レオンは出撃の準備を整えていた。


 黒い外套。

 剣。

 騎士たち。


 砦の中庭には緊張が満ちている。

 リリアは礼拝堂から出て、彼の元へ向かった。


「行くんですね」

「ああ」

「村へ?」

「霧の外縁までだ。状況を確認する」

「私も」

「駄目だ」


 即答だった。

 予想していた。

 でも、引き下がれなかった。


「黒霧の濃度を確認するなら、月華の反応が役に立つかもしれません」

「必要ない」

「レオン様」

「駄目だ」


 冷たい声。

 けれど、その奥に恐怖がある。


「お前はここで避難民を診ろ」

「それも大事です。でも」

「リリア!」


 名前を呼ばれる。

 強い声。


「俺が戻るまで待て」


 その言葉に、胸が痛んだ。

 待つ。

 ここで。

 安全な場所で。

 彼が黒霧の中へ向かうのを。


「……必ず戻りますか」


 リリアは尋ねた。

 レオンは少しだけ目を見開いた。

 それから静かに頷く。


「戻る」

「約束です」


 リリアは小指を差し出しかけて、ここが中庭であることを思い出した。

 騎士たちが見ている。

 慌てて手を下ろす。

 しかし、レオンはそれを見逃さなかった。

 ほんの少しだけ口元を緩める。

 そして、誰にも見えないように手を伸ばし、リリアの指先に軽く触れた。


 一瞬だけ。


「約束する」


 低い声。

 それだけで、胸が熱くなった。


「待っています」

「ああ」


 レオンは背を向けた。

 

 銀狼公爵として。

 北方の守護者として。


 黒霧の村へ向かっていく。

 リリアはその背中を見送った。

 祈るように。


 どうか。

 どうか無事で。


 ◇


 夜。


 砦の礼拝堂は静まり返っていた。

 避難民たちは疲れ果て、眠っている。

 リリアはランプの明かりの下で薬を調合していた。

 だが、集中できない。

 レオンが戻らない。

 出発してから、もうかなり時間が経っている。


「……遅い」


 呟いた瞬間。

 指先が淡く光った。


 銀色。

 月華の反応。


 リリアは息を呑む。

 胸の奥が締めつけられる。

 遠くから何かが呼んでいる。


 黒霧。

 

 いや、それだけではない。

 もっと近しいもの。

 レオンの呪い。


「まさか……」


 立ち上がる。

 その時、砦の鐘が鳴った。


 警鐘。


 夜気を裂くような音。

 避難民たちが目を覚ます。

 騎士たちの怒号が響く。

 リリアは礼拝堂を飛び出した。

 中庭では兵士たちが慌ただしく走っている。


「何があったんですか!」


 近くの兵士に尋ねる。


「前線部隊が戻りました!」

「レオン様は?」


 兵士の顔が強張る。

 その反応だけで、血の気が引いた。


「公爵閣下は……」

「言ってください!」

「村の奥で、魔物化した住民を救出中に霧が急拡大し、退路を断たれたと……!」


 耳鳴りがした。

 退路を断たれた。

 黒霧の中に。

 レオンが。


「救援は」

「準備中です。しかし霧が濃すぎて、通常部隊では近づけません!」


 リリアの指先が強く光る。

 月華が反応している。


 行かなければ。


 そう思った。

 考えるより先に身体が動く。

 だが、すぐに腕を掴まれた。

 オーウェンだった。


「リリア様、どちらへ!」

「レオン様のところへ行きます」

「なりません!」

「離してください!」

「閣下から命じられています。あなたを前線へ出すなと!」

「その閣下が危険なんです!」


 叫んだ。


 中庭が静まる。

 リリアの声は震えていた。

 でも、目は逸らさなかった。


「私の力なら、黒霧の中を進めるかもしれません」

「しかし」

「行かせてください」


 オーウェンは苦しそうな顔をした。


 命令。

 忠誠。

 目の前の少女。

 そして主君の危機。


 彼の中で葛藤しているのが分かった。


「……必ず、護衛をつけます」


 やがて彼は言った。


「勝手な行動はお許しできません」

「はい」

「月華を使いすぎないと誓ってください」

「……努力します」

「そこは誓ってください」


 リリアは唇を噛む。

 そして頷いた。


「誓います」


 完全な嘘にはしたくない。

 でも、本当にその場になった時、自分が守れるかは分からなかった。

 オーウェンはそれでも頷いた。


「出ます!」


 騎士たちが動き出す。

 リリアは外套を羽織り、薬箱を掴んだ。

 胸の奥が熱い。

 怖い。

 とても怖い。

 でも、待っているだけはできない。

 約束したのだ。


 一人にしないと。

 犠牲にならないと。

 一緒に考えると。


「レオン様……」


 夜の北方。


 黒い霧が広がる村へ向かって、リリアは走り出した。

 月華の光が、闇の中で淡く輝いていた。

読んでいただきありがとうございます。

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