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月影の花嫁は銀狼公爵の運命を拒む  作者: 白石マサル


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20/65

第二十話 北方へ

 出発は夜明け前だった。

 雨はまだ細く降り続いていた。

 公爵邸の玄関前には、黒い馬車と護衛騎士たちが並んでいる。

 リリアは厚手の外套を羽織り、冷たい空気の中で小さく息を吐いた。

 白く曇った息が、すぐに雨へ溶ける。


「本当に行かれるのですね」


 ミアが泣きそうな顔で言った。


「ええ」

「危険です」

「分かってる」

「リリア様はすぐ無理をなさいます」

「……それも分かってる」


 否定できなかった。

 ミアは唇を噛む。

 そして、小さな包みを差し出した。


「これを」

「何?」

「薬草茶です。眠れない時に飲んでください」


 リリアは包みを受け取った。

 温かかった。

 ミアがずっと握っていたのだろう。

 胸が少し痛くなる。


「ありがとう」

「必ず帰ってきてください」

「帰ってくるわ」


 そう言って微笑むと、ミアはとうとう涙をこぼした。

 リリアはそっと彼女を抱きしめる。


「大丈夫。レオン様もいるから」


 そう言った瞬間。

 背後から低い声がした。


「その言い方だと、俺が危険ではないように聞こえる」


 振り返る。

 レオンが立っていた。


 黒い軍服に厚手の外套。

 腰には剣。

 その姿は、まさしく北方を守る銀狼公爵だった。


 けれど、リリアにはもう知っている。

 苦い薬を嫌がることも。

 笑うのが下手なことも。

 心配性で、過保護で、孤独な人だということも。


「危険ですよ」


 リリアは答えた。


「でも、私を守ってくれるでしょう?」


 レオンは一瞬だけ言葉を失った。

 それから、目を逸らす。


「当然だ」


 短い返事。

 でも、それだけで十分だった。


 ◇


 馬車が王都を出る頃、空はようやく薄く明るくなり始めていた。


 雨に濡れた石畳。

 閉じた商店。

 まだ眠る街。


 リリアは窓の外を見つめる。

 この王都から出るのは久しぶりだった。

 しかも向かう先は北方。

 黒霧領域に近い、危険な地。


「寒くないか」


 向かいに座るレオンが言った。


「大丈夫です」

「顔色が悪い」

「緊張しているだけです」

「無理はするな」

「昨日から十回は聞きました」

「足りない」

「十分です」


 いつものやり取り。

 けれど今日は、いつもより少しだけ重い。

 馬車の外には騎士たち。

 目的地は戦場に近い。

 冗談を言っていても、現実は変わらない。


「……レオン様」

「なんだ」

「北方は、どんな場所ですか」


 レオンは少しだけ窓の外へ視線を向けた。


「寒い」

「それは分かります」

「風が強い」

「他には?」

「食べ物は塩気が強い」

「生活情報ですね」

「必要だろう」

 

 確かに必要かもしれない。

 リリアは少し笑った。

 レオンも、ほんの少しだけ口元を緩める。

 けれどすぐに表情を戻した。


「厳しい土地だ」


 低い声。


「冬は長い。作物は育ちにくい、魔物も多い、それでも、人は住んでいる」


 リリアは黙って聞いた。


「北方の民は強い。簡単には泣かない、簡単には逃げない。だが――」


 レオンの声が僅かに重くなる。


「黒霧の前では、人の強さなど脆い」


 窓の外を流れる景色。

 王都の建物が少しずつ遠ざかり、代わりに広い草原が広がっていく。


「三年前も、そうだった」


 リリアは息を呑む。

 三年前。

 レオンが呪いを受けた戦い。


「聞いてもいいですか」

「……何を」

「その時のこと」


 レオンはすぐには答えなかった。

 馬車の車輪の音だけが響く。

 やがて、彼は静かに言った。


「村が一つ、霧に飲まれた」


 今回と同じ。

 リリアの胸が冷える。


「救援要請が来た時には遅かった。住民の半数は魔物化。残りは逃げ遅れた」


 声は淡々としている。

 けれど、指先がわずかに握られていた。


「俺たちは救える者を救おうとした。だが、霧の中心にいた魔物が強すぎた。俺が前に出るしかなかった」


 リリアは言葉を失う。

 その先を聞くのが怖い。

 でも、目を逸らしてはいけない。


「倒した」


 レオンは言う。


「だが、その時に呪いを受けた」

「……後悔していますか」


 思わず尋ねた。

 レオンは静かにこちらを見る。


「いいや」


 即答だった。


「同じ状況なら、同じことをする」


 胸が苦しくなった。

 この人はそういう人だ。

 自分の命より、守るべきものを選ぶ。

 それが公爵としての責任であり、彼の誇りでもある。

 けれど――。


「……だから、心配なんです」


 リリアが呟くと、レオンは少しだけ目を伏せた。


「今は一人ではない」


 その言葉に、リリアは顔を上げる。

 レオンはまっすぐ彼女を見ていた。


「お前がそう言った」


 リリアは小さく息を吸った。

 自分が言った言葉。

 それを彼が覚えていてくれたことが、嬉しかった。


「はい」

「だから」


 彼は低く続ける。


「今回は、戻る」

「必ず」


 それは約束だった。

 リリアは頷く。


「私も戻ります」

「当然だ」

「当然なんですね」

「当然だ」


 力強い言葉に、胸の奥が温かくなる。


 ◇


 昼過ぎ。

 一行は最初の宿場町に到着した。

 北へ向かう交易路の途中にある、小さな町だった。

 雨は止んでいたが、空はどんよりと重い。

 宿の前で馬車を降りると、冷たい風が頬を撫でた。


「王都より寒い……」

「まだ序の口だ」


 レオンが言う。


「これで?」

「北方はもっと寒い」

「帰りたくなってきました」

「遅い」


 少しだけ笑うと、レオンの表情もわずかに和らいだ。

 その時――。


 宿の入口から、一人の少年が飛び出してきた。

 十歳くらい。

 顔色が悪い。


「お医者様はいませんか!」


 悲痛な声。

 リリアは反射的に動いていた。


「どうしたの?」


 少年がこちらを見る。


「妹が、熱を出して……! ずっと震えてて……!」


 レオンがすぐに護衛へ視線を向ける。


「医師を」

「待ってください」


 リリアが言う。


「私が診ます」


 レオンの眉が寄る。


「体調は」

「大丈夫です。薬師ですから」

「無理は」

「しません」


 真っ直ぐ言うと、レオンは一瞬黙った。

 そして短く頷く。


「俺も行く」


 ◇


 案内されたのは宿の裏手にある小さな部屋だった。

 粗末な寝台に、幼い少女が寝かされている。

 頬が赤く、呼吸が浅い。

 母親らしき女性が泣きそうな顔で付き添っていた。

 リリアはすぐに少女の額へ触れる。

 熱い。


「いつから?」

「昨日の夜からです」

「咳は?」

「少し」

「水は飲めていますか?」

「ほとんど……」


 リリアは脈を取り、舌を確認し、呼吸音を聞いた。

 黒霧ではない。

 普通の高熱。

 おそらく寒さと疲労によるもの。


「大丈夫。薬で下げられます」


 その言葉に、母親の顔がわずかに明るくなる。

 リリアは持ってきた薬箱を開けた。


 熱冷ましの薬草。

 喉を潤す蜜。

 薄めた薬湯を作る。


 少女に少しずつ飲ませる。


「苦い……」


 少女が弱々しく呟く。

 リリアは微笑んだ。


「頑張ったら、あとで蜂蜜を少しあげるわ」

「ほんと?」

「本当」


 少女は小さく頷き、薬を飲んだ。

 その様子を、レオンは部屋の隅から黙って見ていた。

 しばらくして症状が落ち着くと、母親は深々と頭を下げた。


「ありがとうございます……!」

「今夜は温かくして、少しずつ水を飲ませてください」

「はい」


 部屋を出る時、少年がリリアの袖を掴んだ。


「お姉ちゃん、ありがとう」


 その言葉に、リリアの胸が温かくなる。


「妹さん、すぐ良くなるわ」


 少年は何度も頷いた。


 ◇


 宿の廊下へ出ると、レオンが静かに言った。


「手慣れているな」

「診療所でよくありましたから」

「そうか」


 彼は少しだけリリアを見つめる。


「何ですか?」

「いや」

「また変な顔をしています?」

「していない」

「してます」


 レオンは少し黙った。

 そして、低く言う。


「お前は、誰かを安心させるのが上手い」


 予想外の言葉だった。

 リリアは瞬きをする。


「……褒めてます?」

「褒めている」


 真面目な声。

 顔が熱くなる。


「ありがとうございます」


 素直に礼を言うと、レオンは目を逸らした。


「本当のことだ」


 またそういうことを言う。

 リリアは胸を押さえたくなった。


 ◇


 その夜。

 宿の一室。

 リリアは窓辺に立ち、外を見ていた。


 空は暗い。

 遠く北の方角に、うっすらと黒い雲のようなものが見える。

 雲ではない。

 

 黒霧だ。


 まだ遠いのに、胸の奥が冷える。

 指先が微かに銀色に光った。


「……反応してる」


 月華が、黒霧を感じ取っている。

 まるで引き寄せられるように。

 その時、扉が叩かれた。


「リリア」


 レオンの声。


「どうぞ」


 入ってきた彼は、すぐにリリアの手元を見た。


「光っている」

「黒霧に反応しているみたいです」


 レオンの表情が険しくなる。


「近づくほど強くなるかもしれない」

「はい」

「辛ければ言え」

「約束しましたから」


 そう答えると、レオンは少しだけ安心したようだった。

 二人で窓の外を見る。


 遠くの黒い影。

 冷たい空。

 見えない不安。


「怖いか」


 レオンが尋ねる。

 リリアは少し考えてから答えた。


「怖いです」


 正直に。


「でも、逃げたいとは思いません」


 レオンは何も言わない。

 リリアは続けた。


「今日、あの子を診て思いました」

「黒霧じゃなくても、人は簡単に苦しむ」

「でも、助けられるなら助けたい」

「それが薬師としての私です」


 レオンは静かに聞いていた。


「あなたが北方を守る理由が、少し分かった気がします」


 その言葉に、レオンの瞳が揺れた。


「……そうか」


 低い声。

 けれど、少しだけ温かかった。


「リリア」

「はい」

「北方に着いたら、俺の命令には従え」

「内容によります」

「またそれか」

「大事なことです」


 レオンは小さく息を吐いた。

 でも怒ってはいなかった。


「では頼みだ」


 彼は言った。


「危険だと思ったら、俺を信じて下がれ」


 リリアは少し黙った。

 頼み。

 彼がそう言う時の重さを、もう知っている。


「……分かりました」

「本当か」

「本当です」

「ならいい」


 短い会話。

 けれど、二人の間には確かな信頼があった。

 以前なら、ただ命令されて反発していただけだった。

 今は違う。

 相手の怖さも、優しさも、弱さも知っている。

 だからこそ、譲れることがある。

 譲れないこともある。


「レオン様」

「なんだ」

「必ず帰りましょう」


 レオンはこちらを見る。

 銀色の瞳。

 静かで、強い。


「当然だ」


 その言葉が、今夜は祈りのように聞こえた。


 ◇


 同じ夜。


 王宮。

 セドリックは北方から届いた報告書を眺めていた。


 黒霧領域の拡大。

 辺境村の消失。

 銀狼公爵の出陣。


 そして、月華の同行。


「予定より少し早いけれど」


 彼は穏やかに微笑む。


「悪くない」


 机の上には、黒い石の欠片が置かれていた。


 黒霧結晶。


 それは瓶に封じられていない。

 むき出しのまま、薄く黒い靄を放っている。

 普通の人間なら近づくだけで体調を崩す代物。

 だがセドリックは平然と指先で撫でた。


「黒霧は恐れるものではない」


 彼は呟く。


「選ばれた者が扱うべき力だ」


 背後で黒衣の男が跪く。


「北方の準備は整っております」

「そう」

「銀狼公爵が到着する頃には、次の段階へ移れます」


 セドリックは微笑みを深くした。


「レオンは必ず民を守ろうとする」

「リリア嬢は必ず彼を救おうとする」

「二人とも分かりやすい」


 優しい声。

 けれど、その中身は冷たい。


「愛情や正義ほど、扱いやすい鎖はないね」


 黒衣の男は何も答えない。

 セドリックは窓の外を見る。


 北の空。

 そこにあるはずの黒霧。


「さあ」


 彼は静かに言った。


「月華がどこまで耐えられるか、見せてもらおう」


 王宮の夜は穏やかだった。

 しかし北方では、すでに黒い霧が人々の暮らしを飲み込み始めていた。

 そしてその霧の奥で。

 何か巨大なものが、ゆっくりと目を覚まそうとしていた。

読んでいただきありがとうございます。

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