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月影の花嫁は銀狼公爵の運命を拒む  作者: 白石マサル


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19/65

第十九話 雨の日の告白未遂

 王立研究所から戻った翌日、王都には朝から雨が降っていた。

 窓を叩く雨音を聞きながら、リリアは図書室で本を開いていた。


 月華。

 黒霧。

 聖女。

 愛するほど命を削る星印。


 セドリックの言葉が、頭から離れない。


 ――彼女は死んだ。愛する男を救うためにね。


「……そんな結末、認めない」


 小さく呟く。

 その時、図書室の扉が開いた。


「休めと言ったはずだ」


 低い声。

 レオンだった。


「読書は短時間なら許可されました」

「誰に」

「私に」

「許可した覚えはない」


 彼は静かに近づいてくる。

 今日は軍服ではなく、黒い上着姿だった。

 雨の日の薄暗い光の中で、銀色の髪だけが淡く浮かび上がって見える。


「何を読んでいる」

「月華についてです」

「……またか」

「またです」


 リリアは本を閉じた。


「でも、今日は無理をしていません」

「本当か」

「本当です」

「顔色は悪くないな」


 レオンはそう言って、当然のようにリリアの額へ手を伸ばした。

 ひやりとした指先が触れる。


 近い。

 近すぎる。


 リリアは固まった。


「……熱はない」

「レオン様」

「なんだ」

「急に触らないでください」

「具合を見るためだ」

「心臓に悪いんです」

「まだ心臓が悪いのか」

「違います!」


 思わず声が大きくなる。

 本当にこの人は、分かっているのか分かっていないのか。

 いや、たぶん分かっていない。

 レオンは少しだけ不思議そうな顔をしたあと、手を引いた。


「悪かった」


 素直に謝られると、それはそれで困る。

 リリアは視線を逸らした。

 雨音が、やけに大きく聞こえた。

 

 ◇


 昼過ぎ。

 雨はさらに強くなった。

 リリアはレオンに連れられて、中庭に面した回廊を歩いていた。


「気分転換だ」


 そう言ったのはレオンだった。

 休ませたいのか、見張りたいのか、たぶん両方だ。

 庭の薔薇は雨に濡れ、白い花弁を重たげに揺らしている。


「綺麗ですね」


 リリアが呟くと、レオンが庭へ視線を向けた。


「ああ」

「雨の日の庭、好きです」

「濡れるぞ」

「見るだけです」

「ならいい」


 過保護な返事に、リリアは小さく笑った。

 その時、遠くで雷が鳴った。

 低い音。

 リリアは少し肩を震わせる。

 レオンがすぐに気づいた。


「怖いのか」

「少しだけです」

「そうか」


 彼は何も言わず、リリアの半歩前を歩いた。

 ただそれだけ。

 けれど、妙に安心した。

 この人はいつもそうだ。

 言葉は少ない。

 けれど、自然に守る位置へ立つ。

 それが当たり前みたいに。


「……レオン様」

「なんだ」

「昔のあなたは、よく笑っていたと聞きました」


 足音が止まった。

 言ってから、少し踏み込みすぎたかもしれないと思った。

 けれどレオンは怒らなかった。

 ただ、雨の庭を見つめた。


「セドリック殿下か」

「はい」

「余計なことを」

「本当ですか?」


 沈黙。

 雨音。


 やがて、レオンは静かに答えた。


「覚えていない」

「覚えていない?」

「ああ」

「笑っていたことを?」

「……笑い方を」


 リリアは言葉を失った。

 レオンは自嘲するように口元を歪める。


「感情が薄れるというのは、そういうことだ」

「怒りも恐怖も悲しみも薄れる」

「そして、嬉しいという感覚も分からなくなる」


 雨が降り続ける。

 リリアは胸が痛くなった。


「でも、最近は」

「最近は?」

「笑います」


 レオンがこちらを見る。

 リリアは少し恥ずかしくなりながらも続けた。


「ほんの少しですけど」

「……そうか」

「はい」

「なら」


 彼は静かに言った。


「お前のおかげだ」


 息が止まりそうになった。

 まただ。

 また、この人は何でもないように心を揺らす。


「……そういうことを」

「言うな?」

「はい」

「なぜ」

「だから、心臓に悪いからです」

「そうか」


 レオンは少し考えた。

 そして――。


「だが、本当のことだ」


 と、低く言った。

 雨音が遠くなる。

 リリアは顔が熱くなるのを感じた。

 どうして。

 どうしてこの人は、こんなにも不器用で、真っ直ぐなのだろう。


 ◇


 その日の夕方。

 レオンは発作を起こした。

 突然だった。

 回廊から戻る途中、彼の足が止まった。


「レオン様?」


 返事がない。

 次の瞬間、彼の身体が壁にもたれた。


「……っ」


 苦しそうな息。

 首筋に浮かぶ黒い侵食。

 リリアの血の気が引く。


「レオン様!」


 駆け寄ろうとした瞬間、彼が手で制した。


「来るな」

「嫌です」

「月華は使うな」

「まだ使ってません!」

「使おうとしている顔だ」


 当たっていた。

 リリアは唇を噛む。

 約束した。

 

 月華を使う時は必ず言う。

 無理をしない。

 犠牲にならない。


 でも、目の前で彼が苦しんでいる。

 見ているだけなんて無理だった。


「薬を取ってきます」

「いらない」

「いります」

「……苦い」

「そんな場合ですか!」


 怒鳴ると、レオンは苦しそうな顔のまま少し黙った。

 この期に及んで薬の苦さを気にするなんて。

 少しだけ呆れて。

 少しだけ泣きそうになる。

 リリアは常備していた鎮痛薬を取り出す。


「飲んでください」

「……」

「飲んでください」

「……分かった」


 レオンは薬を受け取って飲んだ。

 直後、分かりやすく顔をしかめる。

 それでも苦痛は消えない。

 黒い侵食はむしろ濃くなっていく。


「……駄目」


 リリアは手を伸ばしかけた。

 その手を、レオンが掴む。


「使うな」

「でも」

「頼む」


 その言葉に動けなくなった。

 命令ではなく、頼み。

 苦しみながら。

 それでも彼は、リリアを守ろうとしている。


「……どうすれば」


 リリアの声が震える。


「私はどうすればいいんですか」


 レオンは苦しそうに息を吐いた。

 額に汗が滲む。

 それでも、銀色の瞳はリリアを見ていた。


「ここにいろ」

「え?」

「それだけでいい」


 低い声。

 掠れている。


「お前がいると」


 一拍。


「少し、楽になる」


 胸が締めつけられた。

 リリアはゆっくり彼の隣へ座る。

 月華は使わない。

 ただ、手を握る。

 強く。


「ここにいます」


 レオンの指が、リリアの手を握り返した。

 黒い侵食はすぐには消えない。

 けれど彼の呼吸は、少しずつ落ち着いていった。

 雨音が二人を包む。


 薄暗い回廊。

 冷たい空気。

 繋いだ手だけが温かかった。


 ◇


 しばらくして、レオンの発作は落ち着いた。

 グレイと医師が駆けつけた頃には、彼はどうにか立てる状態になっていた。

 もちろん、リリアとグレイに強制的に部屋へ運ばれた。


「自分で歩ける」

「黙ってください」

「……はい」


 最近、レオンはリリアに叱られると素直になる。

 医師が診察を終えると、数時間の安静を告げて退室した。

 部屋にはまた二人だけ。

 雨はまだ降っている。


「……使わなかったな」


 ベッドの上で、レオンが言った。


「約束しましたから」

「そうか」

「でも、怖かったです」


 正直に言う。


「あなたが苦しんでいるのに、何もできないのは」


 レオンは目を伏せた。


「何もしていないわけではない」

「手を握っただけです」

「それで十分だった」


 リリアは何も言えなくなった。

 雨音が静かに響く。

 レオンは手元を見ていた。

 さっきまで繋いでいた手。


「リリア」

「はい」

「お前が倒れた時、俺は怖かった」

「……はい」

「今日、月華を使わずにいてくれて、安心した」

「はい」

「だが」


 彼は顔を上げた。

 銀色の瞳が真っ直ぐ向けられる。


「俺は同時に、ひどく勝手なことを思った」

「勝手なこと?」

「苦しんでいる時」


 低い声。


「お前に触れてほしいと思った」


 リリアの胸が跳ねる。


「月華ではなく」

「力ではなく」

「ただ、お前に」


 言葉が止まる。

 レオン自身も、自分の感情に戸惑っているようだった。

 リリアは息を呑んだ。

 その先を聞きたい。

 でも、聞くのが怖い。

 レオンはゆっくり口を開いた。


「俺は、たぶん――」


 その瞬間。

 扉が叩かれた。

 二人とも固まる。


「閣下」


 グレイの声だった。


「急ぎの報告がございます」


 レオンは目を閉じた。

 ほんの一瞬。

 何かを飲み込むように。


「入れ」


 扉が開く。

 グレイが静かに礼を取る。

 だが、その顔は硬かった。


「北方より早馬が」

「黒霧か」

「はい」


 空気が一変した。

 リリアの胸が冷える。

 グレイは続けた。


「黒霧領域が拡大。辺境の村が一つ、霧に飲まれたとのことです」


 沈黙。

 重い沈黙。

 レオンの表情が、銀狼公爵のものへ戻っていく。


 冷たく。

 鋭く。


 しかし、その瞳の奥にある痛みを、リリアはもう知っている。


「出陣の準備を」


 レオンが言った。

 リリアは思わず立ち上がる。


「待ってください」


 レオンがこちらを見る。


「体調が戻っていません」

「北方の民が危険だ」

「でも」

「俺が行く」


 その声は揺るがなかった。


 公爵として。

 北方を守る者として。

 彼は行く。


 止められない。

 でも――。


「私も行きます」


 部屋の空気が止まった。

 レオンの目が鋭くなる。


「駄目だ」

「行きます」

「危険すぎる」

「黒霧なら、私の力が役に立ちます」

「だから駄目だ!」


 怒声。

 リリアは怯まなかった。


「月華を使いすぎない方法を探すためにも、現地を見る必要があります」

「お前は昨日まで倒れていた」

「今は立てます」

「それで戦場に来るつもりか」

「戦いに行くんじゃありません」


 リリアは真っ直ぐ言った。


「あなたを一人にしないために行くんです」


 レオンの瞳が揺れた。

 言葉が刺さったのが分かった。


「約束しました。一人で無理をしない、隠さない、犠牲にならない」


 リリアは拳を握る。


「それは、あなただけじゃなくて私もです」


 長い沈黙。

 雨が窓を叩く。

 やがてレオンは、苦しそうに目を伏せた。


「……後悔するぞ」

「もう何度も言われました」

「それでも?」

「それでもです」


 レオンは深く息を吐いた。

 そして低く言った。


「俺のそばを離れるな」


 リリアは頷く。


「はい」

「絶対にだ」

「はい」


 それは許可だった。

 同時に、誓いでもあった。


 雨の夜。

 二人は北方へ向かうことを決めた。

 黒霧が待つ地へ。

 呪いの始まりの場所へ。


 そして、二人の運命がさらに大きく動き出す場所へ。

読んでいただきありがとうございます。

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