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月影の花嫁は銀狼公爵の運命を拒む  作者: 白石マサル


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18/65

第十八話 王立研究所

 王立研究所を訪れる日。

 リリアは朝から落ち着かなかった。

 用意されたドレスは、淡い銀青色。

 派手すぎず、けれど王宮に出ても見劣りしない上質なものだった。

 鏡の中の自分は、どこか知らない令嬢のように見える。


「……薬師には見えないわね」


 ぽつりと呟くと、髪を整えていたミアが首を振った。


「とてもお綺麗です」

「ありがとう。でも落ち着かない」

「閣下もきっとそうおっしゃいます」

「レオン様が?」


 想像できない。

 綺麗だとか、似合うとか。

 あの人が自然に言えるとは思えない。

 せいぜい「問題ない」くらいだろう。

 そう思いながら部屋を出る。

 玄関ホールには、すでにレオンがいた。


 黒い軍服。

 銀の髪。

 剣を帯びた姿は、いつにも増して隙がない。

 

 彼はリリアを見た瞬間、少しだけ動きを止めた。


「……」

「お待たせしました」

「……ああ」


 それだけ。

 やはり。

 リリアは少し肩を落とした。

 だが次の瞬間、レオンが目を逸らしながら、低く言った。


「似合っている」


 心臓が跳ねた。


「……え」

「行くぞ」

「ちょ、ちょっと待ってください」

「何だ」

「今の、もう一回」

「言わない」


 即答だった。

 顔はいつも通りなのに、耳がわずかに赤い。

 リリアはそれに気づいてしまい、胸の奥がふわりと温かくなった。

 この人は本当に不器用だ。

 けれど、だからこそ、たった一言が妙に嬉しい。


 ◇


 王立研究所は、王宮の東棟に隣接する白い建物だった。

 

 高い尖塔。

 幾何学模様の窓。

 入口には王家の紋章と、知識を象徴する開かれた書物の紋が刻まれている。


 馬車から降りた瞬間、リリアは思わず息を呑んだ。


「ここが……」


 薬師なら一度は憧れる場所。

 王国最高峰の学者と研究者が集まる場所。

 胸が高鳴る。

 だが隣のレオンは、まったく楽しそうではなかった。

 むしろ警戒心が剣のように鋭い。


「離れるな」

「分かっています」

「何か渡されても口にするな」

「分かっています」

「怪しい部屋には入るな」

「分かっています」

「セドリック殿下とは」

「二人きりになりません」


 リリアが先に言うと、レオンは黙った。

 言いたいことを取られて少し不満そうだった。


「……分かっているならいい」

「過保護ですね」

「否定しない」

「本当に否定しなくなりましたね」

「事実だからな」


 堂々としている。

 リリアは呆れつつも、少し笑ってしまった。


 ◇


 研究所の入口で二人を迎えたのは、白衣姿の女性だった。

 三十代前半ほど。

 栗色の髪を後ろでまとめ、丸眼鏡をかけている。


「お待ちしておりました。リリア・エヴァレット様、レオン・ヴァルハルト公爵閣下」


 彼女は丁寧に礼を取った。


「私は主任研究員のエステル・ロアンと申します」

「よろしくお願いします」


 リリアが礼を返すと、エステルは柔らかく微笑んだ。


「薬師として働いていらしたと伺いました。本日はぜひ、当研究所の薬学部門をご覧ください」

「ありがとうございます」


 思わず声が弾む。

 本当に見たい。

 すると横から低い視線を感じた。


 レオンだ。


「……はしゃぎすぎるな」


 小声。


「はしゃいでません」

「目が輝いている」

「研究所ですから」

「……そうか」


 少しだけ不機嫌そうだった。

 まただ。

 リリアは気づかないふりをした。


 ◇


 研究所内は、想像以上に広かった。


 薬草標本室。

 古代文字の解析室。

 魔石反応実験室。

 治癒術式研究室。


 どこも興味深く、リリアは何度も足を止めそうになった。

 そのたびにレオンが無言で視線を向けてくる。

 迷子防止らしい。


「こちらが薬学資料室です」


 エステルが扉を開ける。

 中へ入った瞬間、リリアは目を見開いた。


 壁一面の棚。

 瓶詰めの薬草。

 古い薬学書。

 

 星印と薬効の関係を記した巻物。


「……すごい」


 声が漏れた。

 エステルが嬉しそうに笑う。


「お気に召しましたか?」

「はい。とても」


 棚へ近づく。

 見たことのない薬草がある。

 北方特有のもの。

 古代種。

 黒霧汚染地域でしか採れないものもある。


「黒霧領域の薬草まで……」

「危険ですが、研究価値は高いものです」


 エステルの声は落ち着いていた。


「黒霧は毒であり、同時に未知の力ですから」


 その言葉に、レオンの気配が硬くなる。

 リリアも気づいた。

 未知の力。

 その表現が、少し引っかかった。

 黒霧を危険視するだけではない。

 利用価値を見る者の言葉。


「……危険なものを利用するのは、怖くありませんか?」


 リリアが尋ねると、エステルは少し黙った。

 そして答える。


「怖いです」


 意外だった。


「ですが、恐れて目を逸らせば、何も変えられません」


 その瞳には研究者としての誠実さがあった。

 少なくとも、悪意は感じない。


「研究とは、危険を知るためのものでもあります」


 リリアは小さく頷いた。

 少しだけ安心する。

 だがレオンはまだ警戒を解かなかった。


 ◇


 資料室の奥で、リリアは一冊の古い本を見つけた。

 表紙には掠れた文字。


『月属性星印の伝承』


 胸が鳴る。


「これ……」


 手を伸ばそうとした瞬間。

 レオンが先に本を取った。


「俺が見る」

「過保護です」

「約束した」

「怪しい物には触るな、でしたね」

「そうだ」


 レオンは本を確認し、罠がないと判断したのか、リリアへ渡した。

 その動作があまりに自然で、リリアは少し笑いそうになる。

 まるで危険物確認係だ。


 本を開く。

 古い文字。

 読みづらい。


 だが、ところどころ解読できる。


 月華。

 浄化。

 契約。

 魂の縁。


 そして――


『月華は、愛によって力を増す』


 リリアは固まった。


「……愛」


 声に出してしまった。

 隣のレオンもその文字を見ていた。

 空気が妙な沈黙に包まれる。


「これは」


 リリアが慌ててページをめくる。


「きっと古い比喩です。愛というか、信頼とか、縁とか、そういう」

「……そうだろうな」


 レオンの声もわずかに硬い。

 二人とも本を見ている。

 絶対に目を合わせない。

 おかしい。

 とても。


「続きを読みましょう」

「そうだな」


 ページを進める。


『月華の浄化は、対象との結びつきが深いほど効力を増す。だが同時に、術者の心身への負荷も増す』


 やはり、縁が深まるほど、浄化は強くなる。

 だが危険も増す。

 つまり――


 リリアとレオンが近づくほど助けられる可能性も上がる。

 

 同時に、リリアが傷つく危険も増える。

 胸が冷える。


「……最悪ですね」


 ぽつりと言う。

 レオンは何も言わなかった。

 その沈黙が苦しかった。


 ◇


 その時。

 扉の外から拍手の音がした。

 

 ゆっくりと。

 優雅に。

 振り返る。

 金色の髪。

 青い瞳。

 柔らかな微笑み。


 第二王子セドリックが立っていた。


「勉強熱心だね、リリア嬢」


 レオンが一歩前へ出る。

 自然に、リリアを背後へ隠すように。


「殿下」


 声が低い。


「そんなに警戒しないでくれ」


 セドリックは笑った。


「私はただ、招待客を迎えに来ただけだよ」

「案内なら主任研究員がいる」

「私も話がしたかったんだ」


 青い瞳がリリアへ向く。


 穏やか。

 優しい。


 けれど、その奥に冷たい光がある。


「月華について」


 リリアの手が本を握る。


「……ご存じなんですね」

「もちろん」


 セドリックはあっさり認めた。


「王家の古文書に記されている」

「代償のことも?」

「知っているよ」


 空気が凍った。

 レオンの殺気が膨れ上がる。

 資料室の空気が一瞬で冷えた。


「知っていて黙っていたのか」

「私が命じたわけではないよ」


 セドリックは肩を竦める。


「王宮には王宮の判断がある」

「ふざけるな」


 低い声。

 剣のような声だった。

 普通の人間なら震え上がる。

 だがセドリックは笑みを崩さない。


「レオン、君は相変わらず感情的だね」

「……」

「最近は特に」


 視線がリリアへ移る。


「彼女のことになると」


 リリアの胸がざわつく。

 挑発だ。

 分かる。

 レオンも分かっているはずだ。

 それでも、彼の気配は鋭くなる。


「リリア嬢」


 セドリックが呼ぶ。


「君は知りたくないかい?」

「何をですか」

「月華が、なぜ失われたのか」


 息が止まった。

 知りたい。

 それは知りたい。

 だが、セドリックの言葉をそのまま信じていいはずがない。


「殿下はご存じなのですか」

「一部はね」


 セドリックはゆっくり歩み寄る。

 レオンがさらに前へ出る。

 二人の間に見えない火花が散る。


「月華はかつて、王国を救った」


 セドリックは静かに語る。


「黒霧の大災厄から国を守った聖女がいた」

「その聖女が月華だった」


 リリアは夢を思い出した。

 

 銀髪の女。

 月の瞳。


――月華は、愛する者のために滅びる星。


「でも、彼女は死んだ」


 セドリックの声が響く。


「愛する男を救うためにね」


 レオンの手が微かに動いた。

 リリアは胸を押さえる。

 嫌な予感がした。


「以来、月華は不吉な星印とされた」

「愛するほど力を増し」

「愛するほど命を削り」

「最後には消える」


 セドリックは微笑んだ。


「美しくて、残酷な力だ」

「黙れ」


 レオンの声が低く響く。

 本当に怒っている。

 だがリリアは目を伏せなかった。

 聞かなければならない。

 逃げてはいけない。


「……避ける方法は?」


 リリアは尋ねた。


「代償を避ける方法はあるんですか」


 セドリックは目を細めた。


「あるかもしれない」

「本当ですか」

「ただし、それには黒霧そのものを理解する必要がある」


 その言葉に、レオンの表情が険しくなる。


「黒霧を利用する気か」

「支配する、と言ってほしいな」


 セドリックは穏やかに言った。


「人は恐れるものを克服することで進歩する」

「黒霧も同じだ」

「ふざけるな」


 レオンの声には怒りが滲んでいた。


「黒霧でどれだけの人間が死んだと思っている」

「だからこそだよ」


 セドリックは微笑む。


「これ以上、死なせないために」


 言葉だけは正しい。

 けれど、リリアには分かった。

 この人の言葉には温度がない。

 救いたいのではない。

 支配したいのだ。


「リリア嬢」


 セドリックは手を差し出した。


「私と協力しないか? 君の力なら、黒霧を解き明かせる。そしてレオンを救えるかもしれない」


 甘い誘いだった。

 レオンを救える。

 その言葉だけで、心が揺れそうになる。

 けれど、リリアはレオンの背中を見た。

 自分を守るように立つ背中。


 孤独で。

 不器用で。

 怖がりで。


 それでも必死に変わろうとしている人。

 彼なら。

 人を道具にはしない。


「お断りします」


 リリアははっきり言った。

 セドリックの笑みが、ほんの少しだけ深くなる。


「理由を聞いても?」

「あなたは、私を人として見ていません」


 静かに言う。


「月華として見ています。力として見ています。だから、協力できません」


 沈黙。

 資料室の空気が張り詰める。

 やがてセドリックは楽しそうに笑った。


「なるほど。レオンが執着するわけだ」


 レオンの気配が変わる。

 だがリリアは一歩前へ出た。

 レオンの背中の横へ。

 隠されるだけでは嫌だった。


「私は、私の意思でレオン様を助けます」

「誰かの道具にはなりません」


 セドリックは青い瞳でリリアを見つめた。

 その瞳から、初めて柔らかさが消えた。


「残念だ」


 静かな声。


「でも、覚えておいて。君が何を選ぼうと、月華は黒霧に引き寄せられる。そして――」


 セドリックはレオンを見た。


「彼の呪いは、君を必ず追い詰める」


 嫌な言葉だった。

 的確に心の弱い場所を刺してくる。

 それでもリリアは目を逸らさなかった。


「その時は」


 彼女はレオンの袖をそっと掴む。


「一緒に考えます」


 レオンが驚いたようにこちらを見る。

 リリアは小さく笑った。


「約束しましたから」


 一人で無理をしない。

 隠さない。

 犠牲にならない。

 二人で。


 レオンの銀色の瞳が、ほんの少し和らいだ。

 そして彼は、低く言った。


「ああ」


 たった一言。

 けれど確かな答えだった。


 ◇


 研究所を出る頃には、空が曇り始めていた。

 馬車に乗り込むと、リリアは深く息を吐いた。


「……疲れました」

「無理をした」

「してません」

「していた」

「少しだけです」


 レオンは無言で膝掛けを差し出した。

 リリアは大人しく受け取る。

 しばらく馬車は静かに進んだ。

 やがてレオンが口を開く。


「怖かったか」


 リリアは少し考えた。


「少し」


 正直に答える。


「でも、レオン様がいましたから」


 レオンは黙った。

 窓の外を見る。

 耳が少し赤い。

 まただ。

 リリアは気づかないふりをして、膝掛けを握った。

 その時、彼が低く言った。


「俺も怖かった」


 リリアは顔を上げる。


「お前が、あいつの言葉に揺れることが」


 胸が鳴る。


「揺れません」

「……そうか」

「はい」

「ならいい」


 短い言葉。

 でも、どこか安心したようだった。

 リリアはそっと窓の外を見る。


 曇った空。

 遠くに見える王宮。

 そして研究所。


 月華の秘密は、まだ一部しか分かっていない。

 けれど今日、確かなことが一つあった。


 セドリックは敵だ。


 そしてレオンは、もう一人で戦わせてはいけない人だ。

 リリアは膝の上で手を握る。

 怖い。

 でも逃げない。


 この人と一緒に、運命を変える。

 そう決めたのだから。

読んでいただきありがとうございます。

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