第十六話 銀狼の決意
リリアが目を覚ましたのは、翌日の昼近くだった。
最初に見えたのは、白い天井。
次に感じたのは、全身の重さ。
まるで鉛を詰め込まれたみたいに、指先ひとつ動かすのも億劫だった。
「……う」
小さく声を漏らす。
すると、すぐ近くで椅子が鳴った。
「リリア様!」
ミアの声だった。
視線を向けると、栗色の髪の侍女が今にも泣きそうな顔で駆け寄ってくる。
「よかった……! 本当に、よかったです……!」
「ミア……」
声が掠れる。
「水を……」
ミアが慌てて水差しを取る。
上体を起こそうとしたリリアを、そっと支えてくれた。
冷たい水が喉を通る。
それだけで少し、生き返った気がした。
「私、どのくらい……」
「一晩と少しです」
「そんなに」
思った以上だった。
月華の力。
やはり代償は軽くない。
黒霧を浄化した瞬間、身体の奥から何かを持っていかれた感覚があった。
あれは、ただの疲労ではない。
もっと根本的なもの。
命に近い何か。
「……レオン様は?」
尋ねると、ミアの表情が少し強張った。
「閣下は……」
その反応に、胸がざわつく。
「何かあったの?」
「お身体は大丈夫です。ただ……」
「ただ?」
「昨夜から、ほとんどお休みになっていません」
リリアは眉を寄せた。
「また無理してる」
「はい……」
ミアも困ったように頷く。
「リリア様が眠られた後、王宮から使者が来たそうです」
「王宮?」
嫌な予感がした。
「第二王子殿下が、王宮医師を派遣したいと」
「……どうして殿下が知っているの」
ミアは首を横に振る。
「私には分かりません。でも閣下は、それからずっと険しいお顔で……」
セドリック。
王宮。
黒霧結晶。
情報が早すぎる。
事故は公爵邸の中で起きたことだ。
外へ漏れるには早すぎる。
つまり、誰かが見ていた。
あるいは――仕組まれていた。
「……レオン様はどこ?」
「執務室です。でも、リリア様はまだお休みに」
「少しだけ」
「駄目です」
珍しくミアが強く言った。
「閣下にも、目を覚ましても絶対に無理をさせるなと申しつけられています」
「……そんな命令だけはしっかり出すのね」
「はい。ものすごく怖い顔で」
リリアは小さく息を吐いた。
心配してくれている。
それは分かる。
嬉しくもある。
でも、寝ているだけでは何も分からない。
「分かったわ。今は休む」
そう言うと、ミアはほっとしたように笑った。
「はい」
ただし。今は、だ。
◇
夕方。
リリアはミアが席を外した隙に、そっとベッドから抜け出した。
まだ身体は重い。
けれど歩けないほどではない。
羽織を肩に掛け、廊下へ出る。
公爵邸はいつもより静かだった。
使用人たちの足音も控えめで、空気そのものが張り詰めている。
原因は分かっている。
レオンだ。
彼が怒っていると、屋敷全体が緊張する。
「……本当に分かりやすい人」
最初は恐ろしいだけだったのに。
今は、その不機嫌の理由まで想像できてしまう。
執務室の前へ行くと、扉の向こうから低い声が聞こえた。
「王宮内に内通者がいる」
レオンの声。
続いて、グレイの声。
「公爵邸内にも疑いを?」
「ないとは言い切れない」
リリアは足を止めた。
聞いてはいけない。
そう思ったのに、身体が動かなかった。
「黒霧結晶の保管場所を知る者は限られています」
「だからこそ問題だ」
レオンの声は冷たかった。
感情を抑え込んでいる。
だが、その奥に怒りがある。
「リリアが月華を使う状況を、誰かが作った可能性がある」
息が止まった。
やはり、偶然ではなかったのかもしれない。
「目的は?」
「月華の力の確認」
「あるいは――」
短い沈黙。
レオンが低く言う。
「リリアの消耗具合を測るためだ」
背筋が冷えた。
自分が倒れたことさえ、誰かの計算のうちだったとしたら。
ぞっとする。
その時、背後から声がした。
「リリア様?」
ミアだった。
小さな声だったが、扉の中へ届いたらしい。
すぐに扉が開く。
銀色の瞳と目が合った。
「……リリア」
低い声。
怒っている。
完全に。
「寝ていろと言ったはずだ」
「言われてません。ミアに言わせたんでしょう」
「同じことだ」
「違います」
「違わない」
互いに睨み合う。
グレイとミアが無言で視線を逸らした。
最近、このやり取りに慣れてきている気がする。
「身体は」
レオンが問う。
声は硬い。
でも視線には明らかな心配があった。
「重いです。でも歩けます」
「戻れ」
「嫌です」
「リリア」
「話を聞かせてください」
「駄目だ」
「またですか」
思わず声が強くなる。
「また一人で抱え込むんですか」
レオンが黙る。
それを見て、リリアは一歩前へ出た。
「私のことですよね」
「……」
「月華のことですよね」
「……」
「なら、私にも聞く権利があります」
長い沈黙。
やがてレオンは、苦しそうに眉を寄せた。
「お前は休むべきだ」
「休みながら聞きます」
「屁理屈だ」
「薬師なので」
「薬師は関係ない」
「あります」
言い切ると、レオンは深く息を吐いた。
そして、グレイへ視線を向ける。
「椅子を」
「かしこまりました」
結局、根負けしたらしい。
リリアは執務室の椅子に座らされた。
しかも膝掛けまで用意された。
過保護が過ぎる。
「……話してください」
レオンは机の向こうへ立ったまま、腕を組んだ。
「黒霧結晶は、封印瓶が劣化していたわけではない」
「では、なぜ割れたんですか」
「外部から術式を仕込まれていた」
リリアは息を呑む。
「つまり、誰かがわざと?」
「ああ」
「誰が?」
「調査中だ」
レオンの瞳が冷える。
「だが王宮が関わっている可能性が高い」
「セドリック殿下ですか」
その名を口にした瞬間、空気が重くなった。
レオンは否定しなかった。
「証拠はまだない」
「でも疑っている」
「疑わない理由がない」
昨日の夜。
王宮医師を派遣したいという申し出。
早すぎる情報。
王宮で渡された薬学書。
すべてが不自然だった。
リリアは膝の上で手を握る。
「私、狙われているんですね」
「……」
レオンは答えない。
でも、その沈黙が答えだった。
怖くないと言えば嘘になる。
でも、不思議と震えはしなかった。
たぶん、目の前にレオンがいるからだ。
彼が守ろうとしてくれているのが分かるから。
「逃げません」
リリアは言った。
「まだ何も言っていない」
「言いそうな顔をしていました」
「……」
図星らしい。
「逃げません」
もう一度言う。
「私はあなたを助けると決めました」
「そのために命を削るな」
「削らずに助ける方法を探すんです」
レオンが目を伏せる。
苦しそうだった。
「……俺は」
低い声。
「お前を助けたい」
「はい」
「守りたい」
「……はい」
「だが、守るためにお前の意思を奪うなら」
一拍。
「王命でお前を巻き込んだ連中と同じになる」
リリアは目を見開いた。
レオンは静かに続ける。
「それはしたくない」
胸の奥が熱くなる。
最初は違った。
彼は全部を一人で決めて、リリアを遠ざけようとした。
でも今は、彼女の意思を尊重しようとしている。
不器用なりに。必死に。
「……ありがとうございます」
小さく言うと、レオンは僅かに目を逸らした。
「礼を言われることではない」
「それでもです」
レオンはしばらく黙っていた。
やがて、静かに言った。
「一つ条件がある」
「何ですか」
「今後、月華を使う時は必ず俺の許可を得ろ」
「それは……」
「命令ではない」
銀色の瞳がまっすぐリリアを見る。
「頼みだ」
心臓が小さく跳ねた。
頼み。
この人が。
誰かに命じることはあっても、頼ることはなかった人が。
今、頼みだと言った。
「……分かりました」
リリアは頷く。
「その代わり、レオン様も発作や痛みを隠さないでください」
「……分かった」
「本当に?」
「本当だ」
「約束です」
リリアが小指を差し出す。
レオンはそれを見て、少し固まった。
「何だ、それは」
「指切りです」
「子供の約束か」
「嫌なら別に」
「嫌とは言っていない」
レオンは真面目な顔で、小指を絡めた。
大きな手。
少し不器用な仕草。
それだけで胸が温かくなる。
「約束です」
「ああ」
短い返事。
けれど確かだった。
◇
その夜。
リリアは早めに部屋へ戻された。
半ば強制だった。
レオン、グレイ、ミアの三人に見送られ、もはや逃げ場はなかった。
「完全に病人扱い……」
ベッドの上でため息を吐く。
でも悪い気はしない。
大事にされている。
そう感じるから。
机の上には、レオンが置いていった本があった。
月華に関する資料。
ただし危険な記述は、彼が先に確認済みらしい。
過保護だ。
けれど、優しい。
リリアは本を開く。
そして、一枚の挟み紙を見つけた。
グレイの字ではない。
レオンの字。
硬く、整った筆跡。
『無理をするな』
それだけ。
思わず笑ってしまった。
「本当に、不器用」
胸が温かい。
その温かさが怖い。
レオンを助けたい。
それは変わらない。
でも最近、それだけではなくなっている。
彼に笑ってほしい。
彼に生きてほしい。
彼に、自分を見てほしい。
そんな感情が芽生え始めている。
名前をつけるのは、まだ怖かった。
◇
同じ頃。
王宮。
第二王子セドリックの私室。
黒衣の男が跪いていた。
「月華の発動を確認しました」
「そう」
セドリックは窓辺で静かに微笑んだ。
「結果は?」
「黒霧結晶は完全に浄化。ただし使用者は意識を失いました」
「やはり代償は大きいか」
楽しそうな声だった。
心配ではない。
興味。
観察。
獲物を見る目。
「銀狼公爵は?」
「激しく動揺しておりました」
セドリックはそこで、初めて声を立てて笑った。
「レオンが?」
「はい」
「そうか。面白いね」
金色の髪が月明かりを受けて輝く。
その微笑みは、王子らしく美しい。
けれど瞳だけが冷たい。
「なら、彼女は使える」
「月華として、ですか」
「それもある」
セドリックはゆっくり振り返った。
「だが、それ以上に」
唇に笑みを浮かべる。
「レオンを動かす鎖になる」
黒衣の男は黙って頭を垂れた。
セドリックは机の上に置かれた古い地図を見る。
北方。
黒霧領域。
王都。
そして王宮。
すべてを繋ぐように、赤い線が引かれている。
「王位など、ただの椅子だ」
静かな声。
「私が欲しいのは、この国そのものを作り替える力」
彼は指先で地図をなぞった。
「黒霧を恐れる時代は終わる。支配する時代が来る」
そして――月の名を持つ少女。
銀狼を揺らす花嫁。
「リリア・エヴァレット」
セドリックは甘く名を呼ぶ。
「君はきっと、私の計画に必要な最後の鍵だ」
王宮の夜は静かだった。
けれどその静寂の奥で、何か大きな歯車が動き始めていた。
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