第十五話 失う恐怖
「リリア!」
遠くで、誰かが呼んでいた。
低くて、掠れていて、必死な声。
普段なら決して取り乱さない人の声。
――レオン様?
そう思ったのに、返事ができなかった。
身体が重い。
水の底へ沈んでいくみたいだった。
寒い。
けれど、どこかだけが温かい。
背中。
肩。
手。
誰かに抱きしめられている。
「目を開けろ、リリア」
命令みたいな声。
けれど震えていた。
リリアは薄く目を開けた。
ぼやけた視界の中に、銀色が見える。
月明かりみたいな髪。
苦しそうに歪んだ顔。
「……レオン、様」
声が掠れた。
自分の声ではないみたいだった。
「喋るな」
「……黒霧は」
「消えた」
「よかっ……」
「よくない!」
怒鳴られた。
びくりとする。
レオンの声が、こんなにも荒くなるのを初めて聞いた。
「何をした」
「……」
「何をした、リリア」
責める声ではなかった。
怖がっている声だった。
失うことを恐れている声。
「……浄化、しました」
「約束しただろう」
「ごめんなさい」
「謝るな」
「でも……」
「謝るな!」
腕に力がこもる。
痛いほどではない。
けれど、逃がさないと言われているみたいだった。
リリアはぼんやりと彼を見上げる。
首筋にはまだ黒い侵食が残っている。
それを見て、胸が痛んだ。
「レオン様も……痛いでしょう」
「今は俺の話ではない」
「でも」
「俺を見るな」
低い声。
「今は自分のことだけ考えろ」
そんなことを言う人だっただろうか。
出会ったばかりの頃の彼なら、きっと自分の痛みなどどうでもいいと言った。
けれど今は違う。
自分よりも、リリアを案じている。
その変化が嬉しくて。
でも、苦しくて。
リリアは小さく笑った。
「……怒ってます?」
「ああ」
即答だった。
「ものすごく怒っている」
「すみません」
「謝るなと言った」
「難しいです」
「黙っていろ」
乱暴な言葉。
でも、その手つきはひどく優しかった。
◇
医師たちが駆けつけたのは、それからすぐだった。
リリアは客室ではなく、レオンの私室に近い療養室へ運ばれた。
ベッドへ寝かされ、脈を取られ、熱を測られ、薬を飲まされる。
その間、レオンは一度も部屋を出なかった。
医師が困ったように言う。
「閣下、診察の間だけでも」
「ここにいる」
「ですが」
「ここにいる」
取りつく島もない。
医師は諦めた。
リリアは布団の中からそっとレオンを見る。
椅子に座っている。
腕を組んでいる。
顔が怖い。
本当に怖い。
けれど、視線はずっとリリアから離れない。
「……あの」
「喋るな」
「まだ何も」
「喋る気だった」
「……はい」
完全に読まれている。
リリアは大人しく口を閉じた。
医師が診察を終え、静かに言った。
「命に別状はありません」
その瞬間。
レオンの肩から、僅かに力が抜けたのが分かった。
「ただし、極度の消耗です」
医師は続ける。
「星印の過剰使用に近い状態かと」
「どれくらいで戻る」
レオンが問う。
「数日安静にすれば」
「本当か?」
「はい。ただ……」
医師が少し言い淀む。
レオンの目が鋭くなる。
「言え」
「月華の力については、我々にも分からないことが多すぎます」
重い沈黙。
「今回のような浄化を繰り返せば、リリア様のお身体にどのような影響が出るかは……」
「分かった」
レオンの声は冷たかった。
けれど、その冷たさは医師へ向けられたものではない。
自分自身へ向けているように聞こえた。
◇
医師たちが出ていくと、部屋には二人だけが残った。
夜は深い。
窓の外には月。
リリアは布団の中で小さく息を吐く。
「……怒ってますよね」
「怒っている」
「ですよね」
「呆れてもいる」
「はい」
「怖かった」
その言葉に、リリアは目を見開いた。
レオンは窓辺に立っていた。
背中を向けている。
だから表情は見えない。
けれど、声はひどく静かだった。
「お前が倒れた瞬間」
一拍。
「何も考えられなくなった」
リリアは何も言えなかった。
「黒霧よりも、呪いよりも、死ぬことよりも」
レオンはゆっくり振り返る。
銀色の瞳が、月明かりの中で揺れていた。
「お前を失う方が怖かった」
胸が締めつけられた。
息ができない。
そんな顔で。
そんな声で。
そんなことを言わないでほしい。
「……レオン様」
「俺は……」
彼は言葉を探すように沈黙した。
不器用な人。
感情を失いかけていた人。
誰かを大切にすることすら、忘れかけていた人。
その人が今、自分の気持ちを必死に言葉にしようとしている。
「俺は、お前を助けるためなら何でもする」
低い声。
「だが」
リリアの手を取る。
驚くほど慎重に。
壊れものに触れるみたいに。
「お前が俺を助けるために壊れるのは、耐えられない」
手が温かい。
震えている。
ほんの少し。
「……私も同じです」
リリアは小さく言った。
「あなたが一人で壊れていくのは、見ていられません」
レオンの瞳が揺れる。
「だから、約束しましょう」
「約束?」
「一人で無理をしない」
「……」
「隠さない」
「……」
「自分だけが犠牲になろうとしない」
リリアは弱く笑った。
「お互いに」
長い沈黙。
やがてレオンは、リリアの手を握り返した。
「……分かった」
「本当に?」
「努力する」
「そこは断言してください」
「……断言する」
少しだけ不満そうだった。
その顔が可笑しくて、リリアは笑った。
笑った瞬間、身体がだるくて小さく咳き込む。
レオンの顔色が変わった。
「寝ろ」
「はい」
「今すぐ寝ろ」
「はい」
「目を閉じろ」
「子供扱いですか?」
「患者扱いだ」
どこかで聞いたような言葉だった。
リリアは目を閉じる。
手はまだ握られたまま。
とても安心した。
「……レオン様」
「なんだ」
「行かないでくださいね」
言ってから、少し恥ずかしくなった。
でも眠気が勝って、取り消せなかった。
レオンは静かに答えた。
「行かない」
その声があまりに優しくて。
リリアはそのまま眠りに落ちた。
◇
リリアが眠ったあと。
レオンはしばらく、その手を握っていた。
細い手。
温かい。
生きている。
それを確かめるように。
何度も。
「……馬鹿はどちらだ」
自嘲するように呟く。
彼女に近づくべきではなかった。
巻き込むべきではなかった。
そう思っていた。
今も思っている。
けれどもう、手遅れだった。
リリアが倒れた瞬間に分かった。
失いたくない。
手放せない。
彼女が他の男に笑うのが気に入らない。
彼女が自分のために傷つくのが耐えられない。
それが何という感情なのか。
レオンはまだ、はっきりとは知らない。
けれど――胸の奥に芽生えたものは、呪いよりもずっと厄介だった。
そして、ずっと温かかった。
「……必ず守る」
眠るリリアに向かって、低く誓う。
その時、扉の外で控えめな気配がした。
「閣下」
グレイの声。
「王宮より使者が」
レオンの目が冷える。
「この時間に?」
「はい」
「用件は」
グレイは一拍置いて答えた。
「第二王子殿下より、リリア様のお身体を案じて、王宮医師を派遣したいとのことです」
静寂。
レオンの手に力がこもる。
リリアを起こさないよう、すぐに力を緩める。
だが瞳だけは鋭くなっていた。
早すぎる。
黒霧結晶の事故は、まだ屋敷の外に知らせていない。
なぜセドリックが知っている。
「断れ」
短く命じる。
「かしこまりました」
グレイが去る。
レオンは眠るリリアを見下ろした。
その顔は穏やかだ。
何も知らずに眠っている。
守らなければならない。
呪いから。
王宮から。
第二王子から。
そして何より。
彼女自身の無茶から。
レオンはそっと手を離し、窓の外を見た。
月が出ている。
静かで、美しい月。
その光が、まるでリリアの力のように見えた。
「セドリック……」
低く呟く。
その声には、明確な敵意が宿っていた。
もう、誰にも渡さない。
たとえ王子であろうと。
王命であろうと。
彼女を利用させはしない。
銀狼公爵の中で、何かが静かに変わった夜だった。
読んでいただきありがとうございます。
評価や感想を貰えると執筆のモチベーションがアップするので
どんどん評価や感想をください!
ブクマもお願いします!
お待ちしております(*^-^*)




