第十四話 月華の代償
翌朝。
リリアはいつもより早く目を覚ました。
まだ空は淡い青色で、屋敷の中も静まり返っている。
小鳥の声。
遠くで鳴る鐘。
朝の冷たい空気。
本来なら穏やかな一日の始まりのはずだった。
けれど、胸の奥は重い。
昨夜の言葉が何度も蘇る。
『お前があの男に笑うのは、気に入らない』
「……思い出すな、私」
枕に顔を埋める。
駄目だ。
今はそれどころではない。
レオンの呪い。
月華の代償。
第二王子セドリック。
考えなければならないことは山ほどある。
それなのに、どうしても銀色の瞳と低い声が頭から離れない。
「……本当に、ずるい人」
ぽつりと呟く。
本人に自覚がないのがなお悪い。
リリアは深く息を吐くと、ベッドから起き上がった。
今日やることは決めている。
王宮で渡された薬学書を読む。
そして、公爵家の図書室にある黒霧関連の本をもう一度調べる。
月華の真実を見つけるために。
◇
朝食室へ向かうと、すでにレオンがいた。
いつものように背筋を伸ばし、静かに茶を飲んでいる。
黒い軍服ではなく、白いシャツに濃紺の上着。
それだけで少し柔らかく見える。
「おはようございます」
「おはよう」
返事が自然になってきた。
最初はあんなに間があったのに。
小さな変化が、少し嬉しい。
リリアは席につく。
パンを取ろうとして、ふとレオンを見る。
顔色は悪くない。
昨夜の熱は下がったようだ。
「体調は?」
「問題ない」
「その言葉、禁止にしたはずです」
「……悪くない」
言い直した。
素直だった。
リリアは少し目を丸くする。
「何だ」
「いえ。成長しましたね」
「子供扱いするな」
「薬を嫌がる方に言われましても」
レオンが黙る。
図星らしい。
その沈黙が少し可笑しくて、リリアは笑った。
すると、レオンがじっとこちらを見る。
「……何ですか」
「いや」
「また変な顔をしています?」
「いや」
少し間を置いて。
レオンは静かに言った。
「そうやって笑っている方がいい」
リリアは固まった。
「……っ」
何気ない言葉。
きっと本人は深い意味などない。
けれど、朝の光の中でそんな顔をして言われると、心臓に悪い。
「……レオン様」
「なんだ」
「そういうことを急に言うの、やめてください」
「なぜ?」
「心臓に悪いからです」
「心臓?」
真顔で心配そうにする。
違う。そうじゃない。
リリアは額を押さえた。
この人は本当に恋愛方面だけ妙に鈍い。
いや、鈍いのは自分もかもしれない。
そもそも、これは恋愛なのだろうか。
違う。まだ違う。
たぶん……きっと……。
「……今日、図書室を使わせてください」
無理やり話題を変えた。
レオンの目が僅かに細くなる。
「月華について調べるのか」
「はい」
「……」
反対されると思った。
隠されると思った。
けれどレオンは少しだけ黙ったあと、静かに頷いた。
「分かった」
意外だった。
「止めないんですか?」
「止めても調べるだろう」
「……否定はしません」
「なら、俺の見える範囲で調べろ」
「それは監視ですか」
「護衛だ」
即答。
少しだけ。
ほんの少しだけ。
昨日の嫉妬の話を思い出してしまう。
顔が熱くなりかけたので、リリアは慌ててスープを口に運んだ。
◇
公爵家の図書室は朝の光に満ちていた。
高い窓から差し込む光が、埃を金色に照らしている。
静かで、少し神聖な場所。
リリアは机に数冊の本を積み上げた。
黒霧関連。
古代星印。
浄化術。
王宮でセドリックから渡された薬学書。
隣には、なぜかレオンが座っている。
本当に監視ではないだろうか。
「……お仕事は?」
「午後からでいい」
「公爵様って暇なんですか?」
「暇ではない」
「では仕事してください」
「護衛中だ」
「図書室で?」
「何があるか分からない」
真顔で言う。
過保護。
完全に過保護だ。
昨日セドリックが言った通りかもしれない。
そう思った瞬間、何となく気まずくなって、リリアは本へ視線を落とした。
ページをめくる。
古代星印一覧。
炎星。
癒星。
風星。
月星。
星印は多種多様だ。
けれど、月華の記述はない。
次の本。
なし。
その次。
なし。
「……やっぱり少なすぎる」
「記録が消されている可能性がある」
レオンが言った。
「王宮でも?」
「ああ」
「誰がそんなことを」
「分からない」
だが、その声は重い。
たぶん、彼の中には疑いがある。
セドリック。
そう言いかけて、飲み込んだのだろう。
リリアは王宮の薬学書を開いた。
古代薬草と星印の関係。
薬師としては興味深い内容ばかりだ。
だが今はそこではない。
月華。
月。
浄化。
生命力。
関連しそうな言葉を探す。
しばらくして、指が止まった。
『月属性の星印は、外界の穢れを己が内へ引き受け、清める性質を持つ』
「……己が内へ」
嫌な響きだった。
隣のレオンもその一文を見ていた。
表情が険しい。
リリアは続きを読む。
『ただし、浄化の過程で術者の生命力を消耗する。特に黒霧由来の穢れは深く根を張るため、浄化者への負担が大きい』
指先が冷たくなる。
やはり……本当だった。
月華の力は、ただ呪いを消す力ではない。
呪いを自分の中に引き受けて、清める力。
その代償に、命を削る。
「読むな」
低い声。
レオンが本を閉じようとした。
だがリリアはその手を止めた。
「読みます」
「リリア」
「読みます」
視線がぶつかる。
銀色の瞳は明らかに怒っていた。
いや、違う。
恐れている。
「これ以上知る必要はない」
「あります」
「ない」
「あります」
「命に関わる」
「だから知るんです!」
思わず声が大きくなった。
図書室に響く。
沈黙。
リリアは深く息を吸う。
「知らないまま使う方が危険です」
「……」
「どのくらい使えば危ないのか、どうすれば負担を減らせるのか、代償を避ける方法はないのか」
言葉が止まらない。
「分からないなら調べるしかありません」
レオンは何も言わなかった。
ただ苦しそうにリリアを見ている。
「私、死ぬつもりなんてありません」
静かに言った。
「あなたを助ける。でも私も生きる! その方法を探すんです」
長い沈黙。
窓の外で鳥が鳴いた。
やがてレオンは、閉じかけていた本から手を離した。
「……分かった」
掠れた声だった。
「ただし、無理はするな」
「はい」
「一人で浄化するな」
「はい」
「体調が悪くなったらすぐ言え」
「はい」
「隠すな」
リリアは少しだけ笑った。
「それ、レオン様にもそのまま返します」
レオンは一瞬黙った。
そして。
「……努力する」
と、低く答えた。
◇
昼過ぎまで調べた結果、月華について分かったことは少なかった。
月華は、月属性の中でも極めて特殊な星印。
浄化力は高い。
黒霧に対抗できる可能性がある。
ただし、術者の生命力を消耗する。
そしてもう一つ。
『深い縁を結んだ対象に対して、浄化効率が高まる』
リリアはその一文を見つけた瞬間、固まった。
深い縁。
つまり。
王命による婚約。
結婚。
「……だから、婚約」
呟く。
レオンも同じ部分を見ていた。
表情が暗い。
「王宮の連中は、これを知っていたんですね」
「おそらく」
「でも、代償のことは隠した」
「……ああ」
リリアは拳を握った。
怒りが湧く。
自分の命を使わせるつもりだった。
何も知らせずに。
レオンを救うためという名目で。
「最低ですね」
「同感だ」
珍しく、レオンが即答した。
その声には冷たい怒りが滲んでいた。
自分のために怒っている。
そう思った瞬間、胸が少し熱くなる。
けれど、甘い気持ちに浸っている場合ではなかった。
「王宮に、もっと詳しい資料があるはずです」
リリアは言う。
「危険だ」
「分かっています」
「セドリック殿下が関わっている可能性もある」
「だからこそです」
レオンの目が鋭くなる。
「一人では行かせない」
「もちろんです」
リリアは真っ直ぐ見返した。
「あなたと行きます」
レオンは少し驚いた顔をした。
「……俺と?」
「はい」
「俺でいいのか?」
その言い方が妙に弱くて、リリアは眉を寄せた。
「レオン様がいいんです」
言ってから、気づく。
自分がとんでもないことを口にした気がする。
案の定、レオンも固まった。
銀色の瞳がこちらを見る。
リリアの顔が一気に熱くなる。
「ち、違います!」
「何が違う」
「そういう意味ではなく!」
「どういう意味だ」
「護衛としてです!」
慌てて言い訳する。
レオンは少し考えたあと、静かに頷いた。
「……そうか」
納得したような。
していないような。
微妙な顔だった。
リリアは本で顔を隠した。
本当に最近、自分までおかしい。
◇
その日の夕方。
リリアは薬草園で一人、月華の実験をしていた。
もちろんレオンには「浄化はしない」と約束している。
だから、今回は力の流れを感じるだけ。
小さな黒霧結晶。
討伐地から採取された、研究用の危険な素材。
厳重に封印された瓶越しに、わずかに反応を見る。
「……冷たい」
瓶に近づくだけで、指先が冷える。
気味が悪い。
黒霧はただの毒ではない。
もっと深いもの。
人の内側に入り込む何か。
そっと月華の力を意識する。
淡い銀色の光が指先に宿る。
その瞬間。
瓶の中の黒霧結晶が、ぴくりと動いた。
「……!」
まるで、生きているみたいに。
次の瞬間。
黒い靄が瓶の内側に広がった。
リリアは息を呑む。
まずい。
そう思った時には遅かった。
ガラスに細い亀裂が入る。
「え――」
割れる。
黒い靄が漏れ出す。
冷たい空気。
視界が揺れる。
身体が重い。
胸が苦しい。
「……っ」
逃げなきゃ。
そう思うのに動けない。
黒い靄が手首に絡みつく。
皮膚に焼けるような痛み。
「リリア!」
叫び声。
次の瞬間、強い腕に引き寄せられた。
レオンだった。
彼はリリアを抱き込むようにして、黒霧から庇う。
「触るな!」
鋭い声。
けれど黒霧は、まるで意思を持つようにレオンへ向かった。
首筋の呪いが反応する。
黒い侵食が一気に浮かび上がる。
「レオン様!」
彼の顔が苦痛に歪む。
まずい。
自分のせいだ。
リリアは考えるより先に手を伸ばしていた。
銀色の光。
月華。
黒霧が揺らぐ。
だが同時に、胸の奥から何かが抜け落ちる感覚がした。
力が抜ける。
息が苦しい。
それでも止められない。
止めなければ、レオンが――。
「やめろ!」
レオンが叫ぶ。
聞いたことのない声だった。
怒りと恐怖が混ざった声。
「リリア、やめろ!」
でも、やめられない。
淡い銀光が広がる。
黒霧が薄れていく。
そして、完全に消えた瞬間――。
リリアの膝から力が抜けた。
「……あ」
倒れる。
床に落ちる前に、レオンが抱き止めた。
腕の中。
彼の体温。
声。
全部が遠い。
「リリア!」
焦った声。
銀狼公爵らしくない、必死な声。
「目を開けろ」
そんな声、出せるんだ。
ぼんやりと思った。
「……大丈夫、です」
言おうとした。
けれど声にならなかった。
視界が暗くなる。
最後に見えたのは、泣きそうなくらい歪んだ、レオンの顔だった。
読んでいただきありがとうございます。
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