第十三話 帰り道の沈黙
王宮からの帰り道。
馬車の中には、奇妙な沈黙が落ちていた。
向かいに座るレオンは窓の外を見ている。
銀色の髪が夕陽に淡く染まり、長い睫毛が頬に影を落としていた。
絵になる。
悔しいくらいに。
けれどリリアは、その横顔を素直に綺麗だと思えなかった。
気になっていたからだ。
王宮でセドリックが言った言葉。
『それは嫉妬だよ』
嫉妬。
まさか。
レオンが。
自分に?
「……」
ありえない。
そう思う。
でも、今日のレオンは明らかに変だった。
セドリックから本を渡された時。
研究所へ誘われた時。
リリアを背後に隠した時。
あれは、ただの護衛だったのだろうか。
「……レオン様」
「なんだ」
返事は早い。
でもこちらを見ない。
「本当に怒ってませんか?」
「怒っていない」
「じゃあ、どうしてずっと窓の外を見ているんですか」
「景色を見ている」
「嘘が下手ですね」
レオンがようやくこちらを見た。
少しだけ不服そうな顔。
「嘘ではない」
「では、半分本当で半分嘘です」
「……面倒な言い方をする」
「レオン様ほどではありません」
即答すると、彼は黙った。
言い返せないらしい。
リリアは小さく息を吐いた。
「研究所のことなら、勝手に行ったりしません」
「……別に、そういう意味ではない」
「ではどういう意味ですか」
沈黙。
馬車の車輪が石畳を走る音だけが響く。
やがてレオンは、低い声で言った。
「殿下には近づきすぎるな」
「理由は?」
「危険だ」
「何がですか」
「分からない」
リリアは眉を寄せた。
「分からないのに危険なんですか?」
「そうだ」
「随分感覚的ですね」
「俺の勘は外れない」
真顔だった。
それはそれで説得力がある。
けれど――。
「それだけじゃ納得できません」
「……」
「私は子供ではありません」
レオンは僅かに目を伏せた。
「分かっている」
「分かっていません」
「……」
「守ってくださるのはありがたいです。でも、何も知らされずに遠ざけられるのは嫌です」
言いながら、リリアは自分の声が少し硬くなっていることに気づいた。
怒っている。
まただ。
この人はすぐに一人で決める。
相手のためだと思って。
自分だけで背負って。
そして何も言わない。
「私は、あなたの事情に巻き込まれています」
レオンがこちらを見る。
「だったら、知る権利があります」
沈黙。
長い沈黙だった。
夕陽が沈みかけている。
馬車の中は赤く染まっていた。
やがて、レオンが静かに口を開いた。
「……セドリック殿下は、王位を望んでいる」
低い声。
「第一王子がいるのに?」
「ああ」
リリアは息を呑む。
王位争い。
想像以上に重い話だ。
「証拠はない」
レオンは続ける。
「だが、殿下の周囲では不自然な失脚が多い」
「失脚……」
「派閥を変えた貴族、反対意見を述べた官僚、黒霧研究に関わっていた学者」
最後の言葉に、リリアは反応した。
「黒霧研究?」
「三年前からだ」
レオンの表情が険しくなる。
「俺が呪いを受けた討伐の後、研究記録の一部が消えた」
リリアは思わず本のことを思い出した。
切り取られていたページ。
月華の記述。
誰かが隠したような痕跡。
「それって……」
「偶然かもしれない」
レオンは静かに言う。
「だが、俺は偶然を信じていない」
ぞくりとした。
王宮。
第二王子。
黒霧。
月華。
すべてが、少しずつ繋がり始めている。
そしてリリアは、自分が思っていた以上に危険な場所へ足を踏み入れてしまったのだと理解した。
「……じゃあ、殿下が私に近づいたのは」
「月華が目的かもしれない」
レオンははっきり言った。
胸が冷える。
セドリックの微笑みが脳裏に浮かぶ。
優しかった。
穏やかだった。
けれど、確かにどこか底が見えなかった。
「リリア」
名前を呼ばれた。
リリアは顔を上げる。
レオンの瞳は真剣だった。
「お前を脅すつもりはない」
「……はい」
「だが、殿下を簡単に信用するな」
「……分かりました」
素直に頷くと、レオンは少しだけ安心したように見えた。
本当に少しだけ。
◇
公爵邸へ戻る頃には、すっかり夜になっていた。
玄関ではミアとグレイが待っていた。
「お帰りなさいませ」
ミアが駆け寄ってくる。
「お疲れでしょう。すぐにお茶をご用意しますね」
「ありがとう」
リリアが微笑むと、ミアは嬉しそうに頷いた。
だがその直後。
レオンがふらりと揺れた。
ほんの僅か。
他の人なら気づかなかったかもしれない。
でも、リリアは気づいた。
「レオン様」
「問題ない」
「まだ何も言ってません」
「顔が言っていた」
「なら分かっているはずです」
リリアは彼の腕を取った。
熱い。
やはり、また発熱している。
「休んでください」
「報告書がある」
「休んでください」
「急ぎだ」
「休んでください」
「……」
レオンは黙った。
グレイが横で深く頷く。
「閣下、リリア様のおっしゃる通りです」
「グレイまで」
「当然でございます」
ミアまで頷いている。
屋敷の空気が少し変わった気がした。
以前なら、誰もレオンを止めなかった。
止められなかった。
けれど今は違う。
みんなが少しずつ、彼に踏み込もうとしている。
レオンもそれを完全には拒まない。
それが嬉しくて。
リリアは少しだけ胸が温かくなった。
◇
レオンの部屋。
薬を飲ませ、上着を脱がせ、ベッドへ座らせる。
「本当に平気だ」
「その台詞は禁止にします」
「横暴だな」
「患者に対しては横暴です」
レオンは少しだけ口元を緩めた。
「薬師らしい」
「褒め言葉として受け取ります」
「褒めている」
さらりと言われて、リリアは少し言葉に詰まった。
最近のレオンはこうだ。
急に素直なことを言う。
心臓に悪い。
「……とにかく寝てください」
「ああ」
素直に横になる。
目を閉じたレオンの顔は、少し疲れていた。
王宮で気を張っていたのだろう。
呪いだけではない。
セドリックへの警戒。
リリアへの心配。
全部を抱えていた。
「……また一人で無理をして」
ぽつりと呟く。
返事はないと思った。
けれど――。
「……癖だ」
目を閉じたまま、レオンが答えた。
「悪い癖です」
「そうだな」
認めた。
少し驚く。
「直してください」
「努力する」
「本当に?」
「ああ」
リリアは椅子へ座った。
ベッド脇。
以前ならありえなかった距離。
でも今は、少し自然に感じる。
「……リリア」
「はい」
「今日、殿下から本を受け取った時」
「はい」
「嬉しそうだった」
突然の話題に目を瞬く。
「そりゃあ、貴重な薬学書でしたから」
「そうか」
レオンは目を閉じたまま。
けれど声が少し低い。
「公爵家にも本はある」
「それ、昼間も言ってましたね」
「ああ」
「……もしかして、張り合ってます?」
沈黙。
答えない。
つまり、図星。
リリアは思わず笑いそうになった。
「レオン様」
「なんだ」
「セドリック殿下に嫉妬しました?」
目が開いた。
銀色の瞳がこちらを見る。
静かな部屋。
数秒。
完全な沈黙。
そして……。
「……分からない」
低い声で、レオンは言った。
リリアは息を止める。
否定しなかった。
「ただ」
レオンは視線を逸らした。
「お前があの男に笑うのは」
一拍。
「気に入らない」
心臓が跳ねた。
大きく。
「……っ」
何も言えない。
顔が熱い。
レオンは、まるで自分でも困っているような顔をしていた。
「これが嫉妬なら」
低い声。
「そうなのかもしれない」
リリアは俯いた。
無理だ。
顔を見られない。
胸がうるさい。
「……寝てください」
やっと出た言葉がそれだった。
「なぜ怒る」
「怒ってません」
「顔が赤い」
「熱です」
「お前もか」
「違います!」
思わず叫ぶ。
レオンが少しだけ笑った。
本当に、ほんの少し。
でも確かに、その笑みを見て、リリアは胸の奥が温かくなるのを感じた。
けれど同時に、怖くもなった。
近づいている。
確実に。
この人に。
この孤独な銀狼に。
自分の心が。
◇
その夜。
リリアは自室へ戻り、眠ろうとした。
だが眠れなかった。
レオンの言葉が耳から離れない。
『お前があの男に笑うのは、気に入らない』
何度思い出しても顔が熱くなる。
「……ずるい」
布団を頭まで被る。
あんな言い方。
反則だ。
恋愛経験の少ない自分には刺激が強すぎる。
けれど、浮かれてばかりはいられない。
セドリック。
黒霧研究。
消えた記録。
月華の代償。
物語は、確実に危険な方向へ進んでいる。
リリアは布団の中で拳を握った。
守られるだけでは駄目だ。
レオンを助けると決めた。
なら。知らなければならない。
月華の真実を。
黒霧の正体を。
そして、第二王子が何を狙っているのかを。
その決意が形になったかのように。
窓の外、月が静かに光っていた。
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