草原の向こうに風が吹く(夢の中だけの存在)
俺が「夢渡り」の術を覚えたのは、十五の冬だった。
魔術師の修行には段階がある。
火を操る。
風を読む。
そして、他者の夢に入る。
師匠は「夢渡りができて一人前だ」と言った。
他人の精神に触れることで、治療にも、諜報にも、護衛にも応用が利く。
魔術師としての基礎中の基礎だった。
初めて師匠の夢に入った時のことは、今でも覚えている。
草原だった。
どこまでも続く、緑の草原。
空は淡い水色で、雲ひとつない。
風だけが、穏やかに吹いていた。
そしてそこに、少女がいた。
白い髪。
透き通るような青い瞳。
年は十二、三くらいに見えた。
「あなた、だれ?」
少女は俺を見て、不思議そうに首を傾げた。
俺は咄嗟に答えられなかった。
師匠の夢の中の存在。
つまり、無意識が作り出した幻のはずだ。
でも幻にしては、あまりにもはっきりしていた。
「お師匠の弟子だ。名前はカイ」
「カイ。変な名前」
「お前こそ名前は」
「リーネ」
それが、俺とリーネの最初の会話だった。
修行と称して、俺は毎晩、師匠の夢に入った。
リーネはいつも同じ草原にいた。
花を摘んだり、歌を口ずさんだり、空を眺めたりしていた。
不思議なことに、リーネには記憶があった。
昨日話した内容を覚えている。
先週の約束も忘れない。
夢の中の幻には、あり得ないことだった。
「ねえ、外ってどんなところ?」
リーネはよくそう聞いた。
草原の端には霧があって、どこまで歩いても霧の向こうには出られない。
それがリーネの世界のすべてだった。
「今日は雪が降ったよ」
「雪。冷たいんでしょう?」
「ああ。でも、朝日に照らされると金色に光るんだ」
「見てみたいな」
リーネはいつも、少し寂しそうに笑った。
その笑顔を見るたびに、胸の奥がきゅっと締まる感覚があった。
三年が経った。
師匠が倒れた。
長年にわたる魔力の酷使が、体を蝕んでいた。
魔術師にはよくあることだ。
命を削って術を使い続ければ、いつか体が限界を迎える。
病床で、師匠は俺の手を握った。
「カイ。お前に頼みたいことがある」
「何でも」
「あの子を、守ってやってくれ」
あの子。
その言葉で、すべてを察した。
師匠は知っていたのだ。
俺が毎晩、夢の中でリーネに会っていることを。
いや、「知っていた」どころの話ではなかった。
師匠の部屋を片づけていた時、古い日誌が出てきた。
四十年分の記録。
毎日欠かさず、几帳面な文字で書かれていた。
最初のページを読んで、手が震えた。
リーネは師匠の娘だった。
四十年前、師匠の妻が身ごもった子は、呪いによって肉体を持てなかった。
魂はあるのに、器がない。
このままでは消滅する。
師匠は禁術に手を出した。
自分の夢の中に、娘の魂を繋ぎ止めたのだ。
毎晩眠れば、娘に会える。
起きれば、娘はいない。
その繰り返しを、四十年。
日誌にはこうも書かれていた。
「妻が逝った日も、私は眠った。泣きながら眠った。リーネに会わなければならなかったからだ。あの子に、母の死を伝えなければならなかった。だが結局、言えなかった。リーネはいつものように笑って、花を見せてくれた。その夜、私は夢の中でも泣いた」
師匠がどれほどの思いで、四十年を過ごしたのか。
毎晩眠ることが義務で、毎朝目覚めることが別れで。
その日々の重さを、俺は日誌を通じて初めて知った。
日誌の最後のページには、震える字でこう書かれていた。
「私が死ねば、夢は消える。リーネも消える。だが、もし誰かがあの子の夢を見てくれるなら。あの子の存在を覚えていてくれる者がいれば、あの子は消えない。カイ。お前なら、できる」
師匠が俺に夢渡りを教えた理由。
修行だと言いながら、夢に入ることを一度も咎めなかった理由。
最期に「守ってくれ」と言った理由。
全部、繋がった。
師匠が亡くなった夜、俺は目を閉じた。
もう師匠の夢ではない。
俺自身の夢に、リーネを招いた。
同じ草原だった。
でも、空の色が違った。
俺の夢だから、俺の空になっている。
「あれ。空、変わった」
リーネが見上げた。
その横顔は、いつもと変わらなかった。
「今日から俺の夢だ。だから、俺の空」
「……師匠は?」
黙った。
数秒間、言葉を探した。
でも嘘はつけなかった。
「もう、起きてこない」
リーネは泣かなかった。
ただ静かに空を見上げて、小さく頷いた。
「知ってた。最近、風が冷たくなってたから」
それから俺は、毎晩眠るようになった。
旅の途中でも、仕事が忙しくても、一日も欠かさず。
リーネは今日も草原にいる。
花を摘んで、歌を口ずさんで、たまに空を見上げている。
夢の中だけの命。
触れることもできない。
外の世界に連れ出すこともできない。
でも、そこに確かにいる。
俺が眠る限り、リーネは生きている。
師匠は四十年、それを守り続けた。
だから俺も、守り続ける。
この草原の風が止まらないように。
あの子の歌が途切れないように。




