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女性恐怖症を克服したおっさん、修行明けに貞操逆転異世界にブチ込まれる  作者: 歩く魚
女王/聖女

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神よりも

 白い奔流の底に沈んでいるような感覚。


 そこには音もなく、際限もない。

 自分という輪郭が少しずつ溶けていく。

 

 指の一本ですら、自分の意思では動かせない。

 それなのに、遠くで手足が勝手に動いている感覚だけはあった。

 

 ソレが私の身体を使って、壁を砕き、人を薙いでいる。

 崩れる石の音と逃げ惑う悲鳴が、水越しに滲んで届いた。


(……ごめんなさい)


 守るべき人たちを、この手で傷つけている。

 聖女である、私自身が。


 ——聖女。

 

 その名を与えられたのは、物心もつかない頃だったと聞いている。

 

 生まれ持った神気が、並の者より遥かに強かったからだ。

 神殿の大人たちは私を見て「奇跡だ」と囁き、うやうやしく頭を垂れた。


 誰もが私を敬った。

 祈りの言葉を捧げ、供物を運び、行く先々で膝をつく。

 

 しかし、誰ひとりとして、人間の私には触れようとしなかった。


 幼い頃、世話係の女性の袖を掴もうと手を伸ばしたことがある。

 彼女は息を呑み、けれど振り払いはせず、ただ恐る恐る、私の手をもとの場所へと戻した。

 

 奇跡を傷つけた罪に、怯えるように。

 それきり、私は自分から手を伸ばすのをやめた。


 年に幾度か、大きな儀式があった。

 数百の信徒が広間を埋め、私が一言告げるたびに、波のように頭を垂れる。

 

 その光景の中心で、私はいつも同じことを思っていた。

 ここには、自分を見ている人は一人もいないのだ。

 見られているのは、聖女という役目と、そこに宿る力だけ。


 祈祷の間の窓から、時折、街の子供たちが見えた。

 手を繋ぎ、名を呼び合い、転んで泣いて、また笑っている。

 自分に許されていない全てが、そこにあるような気がした。

 

 誰かに名を呼び捨てにされることも、肩を並べて笑うこともない。

 与えられたのは、敬意と、供物の甘い菓子だけ。

 果実をこっそり口へ含む時だけ、私はただの少女に戻れた。


 一度だけ、遠くに男性の姿を見たことがある。

 神殿へ運び込まれた、どこかの富豪の「持ち物」だったのだろう。

 

 神官たちは慌てて私の目を覆い、その者をすぐに奥へ隠した。

 近づいてはならない、穢れた、それでいて惜しまれる存在。

 男とは、そういうものだと刷り込まれて育った。


 神託は祈りの中で降りてくる。

 目を閉じると、白い部屋に立っている。


 そこには自分と同じ顔をした「メルン様」がいて、優しく先を告げてくれた。

 

 幼い頃は、それが救いだった。

 独りではないと思えたから。


 だが、いつからだろう。

 メルン様の声が、少しずつ変わっていったのだ。 

 温かさが失せ、抑揚が失せ、言葉が増えすぎて、処理が追いつかない。

 

 ある朝、目を覚ますと、前夜どんな神託を告げたのか、まるで覚えていなかった。

 青ざめた神官たちの顔が、それが恐ろしい言葉だったと教えてくれる。


 自分の口が、自分の知らない未来を語る。

 その感覚が、日ごとに増えていった。


(このままでは、私が私でなくなってしまう……)


 誰にも言えなかった。

 聖女が神を疑うなど、あってはならないのだから。

 

 夜ごと膨れ上がる気配に呑まれまいと、爪が食い込むほど手を握って、朝を待つ。


 怖かった。自分が消えていくのが。

 誰にも気づかれないまま、器だけが残るのが。


 自分が自分でいられる時間は、確かに、少しずつ短くなっていた。

 そんな折に、彼がきた。


 ——バージル様。

 

 初めて会った時、私は思わず身構えた。

 未知の存在に向ける警戒ではない。


 彼は私が聖女だと知っていながら、その目で、ちゃんと私を見てくれた。

 崇めるでも欲するでもなく、困ったように視線を泳がせ、それでも真っ直ぐに。

 

 そんな目を向けられたのは、生まれて初めてだった。


 食卓で甘い物に目がないと打ち明けた時も、彼は笑って果実の皿を寄せてくれた。

 

 男は女に守られたり、飼われたりする生き物だという。

 だが、彼は私を攫おうとした者たちに躊躇いなく立ちはだかってくれた。


 守られる側のはずの男が守る側に回る。

 自分の中の常識が崩れていくのが分かった。


 眠れない夜、私は彼の部屋を訪ねた。

 なぜあんな大胆な真似をしたのか、自分でも分からない。


 ただ、あの温度のない声に押し潰されそうだったのだ。

 彼の胸へ額を預けた時、あれほど大きかった声が、嘘のように鎮まった。

 

 神に祈っても止まらなかったものが、たった一人の人間の温もりで。


 翌朝、祭壇の前で、初めて祈りの言葉が出てこなかった。

 神の顔を思い浮かべるより先に、あの胸の温かさが蘇ってしまうのだ。

 祈りの言葉の代わりに浮かぶのは、困った笑顔ばかり。


(私は、あの時——)


 神より先に、人を信じてしまった。

 聖女として、決して許されないことを。

 

 それでも、バージル様の温もりだけが、私を私のままでいさせてくれる。


 だから、沈んでいく今も、手放せずにいた。

 器の底で、彼の体温を探している。


 そんな時、彼方から声が届いた。


「……エルネスタ、さん?」


 その声だけは、はっきり耳に伝わる。

 沈みかけていた意識がわずかに浮き上がった。

  

『……に、げ……て……』


 このままでは、バージル様まで傷つけてしまう。

 私が心を許すことができる、初めてで、唯一の相手を。


 しかし、彼は止まらなかった。

 その瞳には、メルン様の声よりも強固な意志が、力が込められていたからだ。

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